携王
周の王
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『竹書紀年』の携王
『清華簡』繋年の携恵王
2008年に清華大学が入手した『清華簡』繋年に見える新たな記述によって、従来の通説は書き換えを迫られている。紀元前771年、周の幽王と太子伯盤が犬戎や繒人の攻撃を受けて滅び、周が潰滅すると、周の邦君諸侯たちは幽王の弟である余臣を虢で擁立した。これが携恵王である。「立二十又一年」(携恵王の21年、つまり紀元前750年)、恵王は晋の文侯によって殺害された。周が王を失って9年(紀元前741年)、邦君諸侯たちは周に朝見しなくなった。晋の文侯は少鄂に平王を迎え、これを京師に擁立した。3年(紀元前738年)、平王は東遷して成周にとどまった[2]。繋年の記述は平王と携王の二王並立があったとする『竹書紀年』の記述と食い違っているが、どちらが正しいかは判明していない[3]。水野卓によると、紀元前771年に幽王と伯盤が殺害されると直後に携王が擁立され、9年目の紀元前762年に平王が擁立され、晋の文侯の21年となる紀元前760年に携王が文侯に殺害されたとされる[4]。