新潟中央銀行

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市場情報
東証1部 8538
1999年12月30日上場廃止
新証 8538
1999年12月30日上場廃止
本社所在地 日本の旗 日本
951-8068
新潟県新潟市上大川前通七番町1176番地
北緯37度55分18秒 東経139度2分52秒 / 北緯37.92167度 東経139.04778度 / 37.92167; 139.04778座標: 北緯37度55分18秒 東経139度2分52秒 / 北緯37.92167度 東経139.04778度 / 37.92167; 139.04778
株式会社 新潟中央銀行
The Niigata Chuo Bank,Limited
ATMコーナー(五泉市)
ATMコーナー(五泉市
種類 株式会社
市場情報
東証1部 8538
1999年12月30日上場廃止
新証 8538
1999年12月30日上場廃止
本社所在地 日本の旗 日本
951-8068
新潟県新潟市上大川前通七番町1176番地
北緯37度55分18秒 東経139度2分52秒 / 北緯37.92167度 東経139.04778度 / 37.92167; 139.04778座標: 北緯37度55分18秒 東経139度2分52秒 / 北緯37.92167度 東経139.04778度 / 37.92167; 139.04778
設立 1942年10月
業種 金融業
代表者 取締役頭取 大森龍太郎
資本金 111億4千万円
従業員数 1429人 (男子1025人・女子404人)
支店舗 78
外部リンク niigatabank.co.jp
インターネットアーカイブ
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株式会社 新潟中央銀行(にいがたちゅうおうぎんこう、英称The Niigata Chuo Bank,Limited)は、かつて新潟県に存在した第二地方銀行である。1999年(平成11年)10月2日に経営破綻した[1]

新潟相互銀行の普通銀行転換に伴い、1989年2月1日に発足。本店は新潟県新潟市(現・中央区上大川前通七番町1176番地にあった。1999年10月2日に経営破綻[1]。経営破綻と同時に、新潟県警による経営責任の追及が始まり、同県警は2001年2月7日、大森龍太郎・元頭取ら旧経営陣4人を商法特別背任の容疑で逮捕している[2]

破綻処理に2500億円の公的資金が注入された新潟中央銀行は、2001年5月、営業を第四銀行(現・第四北越銀行)、大光銀行八十二銀行(現・八十二長野銀行)、東日本銀行群馬銀行東和銀行の6行へ譲渡して解散した[3]

相互銀行時代は、行章に「ゆきつばき」を用いており、コマーシャルでは「ゆきつばきの銀行」としてアピール。マスコットキャラクターはトムとジェリーを採用していた。

普銀転換時には商号を「新潟銀行」としたかったとされているが、第四銀行も新潟県外の顧客からは「新潟銀行」と呼ばれているなどしたため、県外の顧客が混同することを避けるために、相互銀行からの転換時に「新潟中央銀行」という名称にした。なお、当時の公式サイトのドメインは「niigatabank.co.jp」としていた。福岡中央銀行静岡中央銀行山梨中央銀行と共に、民営の銀行の中で「中央」の名称が使用されている、日本国内では数少ない銀行のうちの1行であった。

沿革

1942 10 新潟無尽株式会社として設立される。
1951 相互銀行法の制定により、株式会社新潟相互銀行に商号を変更する。
1959 8 新潟相互銀行本社屋を新築移転する。
1967 3 新潟県内の金融機関にさきがけて電子計算機を導入する。
1973 10 第一次オンライン化が完了する。
1974 2 東京証券取引所市場第1部に指定替えする。
1981 5 KDC(関東データセンター)オンラインシステムへ移行する。
1989 2 普通銀行へ転換し、新潟相互銀行から「新潟中央銀行」に商号を変更する。相互銀行から転換したことを記念してCIを制定。
12 転換社債として1億スイスフランを発行する。
1990 8 地上10階建て、地下1階建ての本店新社屋が完成する。
1999 10 金融整理管財人による、業務及び財産の管理を命ずる処分を受ける。

バブル崩壊と経営破綻

新潟中央銀行は、大森龍太郎の祖父である大森新太郎が1916年に創業した大森無尽商行をルーツとし、合併を重ね、戦時統制下の1942年に大森無尽商行、相互信用無尽、第一共栄無尽の3社が合併して新潟無尽が発足[4]1951年に「新潟相互銀行」に商号を改め、1989年の普銀転換で「新潟中央銀行」の行名となった[5]

新潟無尽の設立3年後の1945年、大森新太郎が副社長から2代目の社長に昇格する[6]。その後は大森一族が歴代の社長・頭取の地位を引き継ぎ「大森商店」と呼ばれた[6]。新太郎の後継者になったのは、長女の女婿の大森健治。健治の長男で5代目のトップに就いたのが大森龍太郎である[6]。龍太郎は1952年東京大学法学部を卒業すると王子製紙に入社[6]1964年に新潟相互銀行に転じ、取締役に就任し、常務、専務、副頭取と敷かれた路線を進み、バブル末期の1989年5月、頭取に就任した[6]

不動産バブル期

相銀時代は、バブル景気に踊ることもなく、県下のニット産地への、地道な小口融資がほとんどで、不良債権も少なかった[6]。だが、相銀から普銀に転換した時期を境に、龍太郎率いる上層部の同族経営かつワンマン経営による乱脈融資が行内で深刻化した[1]

龍太郎は、頭取に就任すると佐渡島新潟市を橋で結んで、その真ん中に空港を建設するという破天荒な大型プロジェクトに取り憑かれた[7]ロシアに対する投資事業でも、ソ連崩壊で大手商社さえ投資を手控えているいまこそ、絶好のビジネスチャンスだと言い張った[7]1991年3月、ソ連投資環境整備を設立。自ら会長に就任している[7]。 しかし、大森プロジェクトはことごとく失敗に終わる。ロシア向けの投融資と貿易は頓挫した[8]。ロシア政府は外資を集めるために露日大学を設立して、ソ連投資環境整備から商号変更したユーラシア投資環境整備に同大学への投資を求めた[8]。この露日大学に入り込んだのが、あのオウム真理教である。パソコン注射器などを大量に提供したうえに、段ボール2箱分、10億円といわれる資金を供与した[8]。露日大学でつまずき、ウラジオストク空港ターミナル向けの融資は焦げ付き、ロシアとの貿易を目的としたユーラシア交易も、商社としての活動をしないまま休止に追い込まれている[8]。また同時期に笹神ケイマンゴルフ場、東軽井沢ゴルフクラブ、富士中央ゴルフ倶楽部のほか、ゴールデンリング構想と言われた遊園地の新潟ロシア村柏崎トルコ文化村富士ガリバー王国を開業して行くが[1][9][10]、いずれの施設もファミリー企業のように実質支配下としていた各デベロッパー会社へ、多額の融資を行い開業させたものであった。これらのほかにも、建設業やリゾート開発など不動産関連業種の融資に偏重して不良債権を急増させている[1]

経営破綻

1999年6月、金融再生委員会は新潟中央銀行が自己資本不足に陥ると判断、早期是正措置を発動するに至った[11][12][13]。これを受け、新潟中銀は9月までに約200億円の第三者割当増資を計画[14]。6700に上る取引先に増資を要請した。ところが、取引先からは、この期に及んでもまだ頭取の座にしがみついている龍太郎の経営責任を追求する声が高まり[14]、このままでは増資はできないと判断した支店長たちが決起。「大森頭取が辞めなければ、オレたちが辞める」と血判状を突きつけた[14]。支店長の叛乱で、龍太郎は渋々頭取の座を明け渡した。6月15日、大森龍太郎は経営責任をとって頭取を辞任。同時に、龍太郎の長男で専務の大森信太郎も連座して辞めた[14]。これで200億円の増資計画は暗礁に乗り上げた[15]。このあと、新潟中銀は英会話教室チェーンNOVAのグループ2社が「上期に40億円の出資を内諾し、下期に150億円の追加融資に応じると発表した[15]。NOVAのオーナー猿橋望と龍太郎は関係が深かった[15]。猿橋は、新潟中銀に出資する見返りに、それの数倍の融資を引き出すことを狙っていたが、結局、増資は破談となった[15][16]

1999年9月下旬以降預金流出が加速した。10月1日には自己資金不足による債務超過から、銀行間内国為替業務における為替決済取引上の債務不履行が発生[17][18]日銀は債務不履行分を立替払いして処置し結了するが、これにより経営陣は自主経営を断念することになった[19][20]。10月2日、経営陣が金融再生法に基づく破綻処理を申請、金融再生委員会は破綻処理を認めて経営破綻した[1]。日本において預金取扱金融機関が銀行間の内国為替決済システムで決済資金に支障を発生させたのは、新潟中央銀行のケースが平成では最初であった。日銀が立替払いした金銭は後に日銀特融へ振替えとなっている。この年は第二地方銀行の経営破綻が相次ぎ、新潟中銀で5行目で、新潟中銀、国民銀行幸福銀行東京相和銀行は同族経営だった[21][22][23][24]

破綻後、発表された新潟中銀の1999年9月中間期の不良債権額は3011億円。貸出債権1兆26億円に占める不良債権比率は30.0%に達していた[2]。経営破綻の直接の原因となったのはテーマパークとゴルフ場向けの融資の焦げ付きだった[2]

破綻処理

2000年12月21日までに金融整理管財人は第四銀行・大光銀行・群馬銀行・東和銀行・八十二銀行・東日本銀行の間で営業譲渡契約を締結、2001年5月11日までに新潟中央銀行としての営業を終了させ、5月14日付けで店舗網と預金・正常債権が分離された上で各受皿銀行へ譲渡・承継された[25][26]。店舗は、新潟県内の79店舗のうち13店は大光銀行へ、直江津支店と長野県内は八十二銀行に、群馬県内は群馬銀行、埼玉の大宮と与野、都内の新宿と上野は東日本銀行がそれぞれ経営譲渡となり、県外の店舗は殆どが受皿行の既存店へ吸収された[注釈 1][26]。旧本店ビルは、新潟国際情報大学が新潟中央キャンパスとして転用された。もともと本店は旧来からあった表通りに面した本店営業部部分と増築部分があり、営業部部分を取り壊して前庭とし、増築部分を改修の上でキャンパスへリニューアルしている[26]

破綻の一因となった融資先のテーマパークは、同行破綻後程無くして閉園され、一部は短期間地域で活用されたものの再利用の目処が立たず廃墟状態となった。ゴルフ場については同行解散までに破産管財人が経営権を売却のうえ、存続した施設がある。

2001年6月30日付で会社は解散したが、その後も清算事務は続き、2006年10月26日の清算臨時株主総会にて清算が決議された。翌11月閉鎖登記手続が行われ、法人格が消滅。結了時の代表清算人は吉川輝夫が務めた。

旧経営陣は、親密先企業に対して複数の不正融資を行い銀行に損害を与えており、1998年から1999年5月頃にかけては富士中央ゴルフ倶楽部の運営会社に行った約30億円の融資案件について迂回融資の手法で杜撰な審査に基づき損害を与えたとして管財人から旧商法の特別背任容疑で告発・立件、2001年1月に逮捕・起訴された[27]。その内、大森龍太郎については、一審の判決を不服として控訴。2004年6月、東京高裁から懲役2年2月の実刑判決を受け、刑務所に収監された[2]。同年11月29日、龍太郎は刑務所内で体調を崩し、搬送先の病院で腸閉塞のため死去した[28]。また、同時に整理回収機構(RCC)が行った旧経営陣への、31億6000万円の損害賠償の訴訟については、龍太郎ら一部とは和解が成立している[29]

脚注

参考文献

関連項目

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