方広寺鐘銘事件
1614年に日本で発生した、大坂の陣の端緒となった事件
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方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、豊臣秀頼による方広寺大仏(京の大仏)・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、大坂の陣の契機の一つとなった事件である。

なお、「方広寺」という寺号は江戸時代中期以降に自然発生的に生じたもので、江戸時代初期の文献には見られず[1][2]、大仏を発願した豊臣秀吉も寺号を命名していない。当時は単に大仏(殿)、もしくは新大仏(殿)・京大仏(殿)・東山大仏(殿)・京東大仏(殿)・洛東大仏(殿)などと呼称されていた。しかし本稿では便宜的に、一般に定着している「方広寺」の寺号で記述する。上記の歴史的背景を踏まえて、「方広寺鐘銘事件」は「京都大仏鐘銘事件」と表記されることもある[3]。
方広寺鐘銘事件の経緯
豊臣家と江戸幕府
豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍の指揮を執り三成ら西軍を撃破する。家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)を東軍への恩賞という形で全国にあった220万石の内ほぼ4分の3を削減してしまった。これにより、 豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた。慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸城を始め普請事業を行うなど、政権作りを始める。
方広寺鐘銘事件の発端


大坂の陣の契機となった方広寺鐘銘事件は、秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)の再建にあたり発生したものだが、方広寺大仏・大仏殿が何故滅失していたかは以下の通りである。
秀吉は焼損した東大寺に代わる新たな大仏として、京都に大仏・大仏殿を造立した(京の大仏)。大仏は当初銅造で計画されていたが、工期短縮のため木造に変更した。「国土安全万民快楽」をスローガンに、刀狩で民衆から奪取した刀剣類を、木造の大仏造立のための釘・鎹(かすがい)に利用した。この大仏は一応完成したが、開眼供養前に文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)の慶長伏見地震で大破し、その後秀吉の命令で破却された[5]。大仏殿は地震での倒壊を免れたので、慶長2年(1597)には当時甲斐国にあった善光寺如来が、大仏に代わる新たな本尊とするため方広寺大仏殿に遷座させられ、大仏殿は「善光寺如来堂」と称されるようになった。その後秀吉は病に臥せるようになり、これは善光寺如来の祟りではないかと噂されたので、翌慶長3年には善光寺如来が本国(信濃善光寺)に還されたが、秀吉は死去した[5]。方広寺は本尊がなくなってしまったので、秀吉没後の豊臣政権は、耐震性のある銅造で大仏の再建に取り掛かったが、慶長7年12月(1603年1月)に大仏鋳造中の失火で火災が発生し、大仏のみならず大仏殿も滅失してしまった[6]。
豊臣氏は秀吉の死後、秀吉の追善供養として、戦乱で荒廃した多数の寺社に寄進を行い、伽藍・社殿の整備を図った(豊臣秀頼の寺社造立も参照)。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、多数にのぼった。慶長12年(1607年)には、豊臣秀頼により、豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図されるようになった。通説では、家康が秀頼に方広寺大仏・大仏殿の再建を勧め、それを豊臣方が受け入れて再建工事の運びとなったとされるが、それは豊臣家の財力を蕩尽させるための家康の謀略とされてきた[7]。しかし歴史学者の河内将芳は、豊臣氏に大仏・大仏殿再建工事費を負担させたのは事実だが、「大仏再建は秀頼と徳川の共同事業で、徳川もかなりの労力を注いだ。幕府は大仏を豊臣一色とは認識せず、東大寺の代わりになるものとして重視したのではないか。[8]」とし、豊臣と徳川の共同事業であったとしている。河内は『新大仏殿地鎮自記』に以下の記述があることをその証左としている。慶長15年(1610年)6月12日に義演を導師として大仏殿の地鎮祭が行われたが[9]、この時のことを義演が著した書が『新大仏殿地鎮自記』である。その書では、工事の大檀那(発注者)について「前将軍昨年(慶長14年)当堂御再興を御下知す、造作料においては、右大臣豊臣朝臣秀頼御下行なり」とあり、先将軍の徳川家康が大仏殿再建の命令を発し、工事費は豊臣秀頼が負担することになっていた[10]。また工事の棟梁については「番匠大和守(中井正清) 前将軍御大工なり、ことごとくみなこの大工がままなり」とあり、家康お抱えの大工中井正清が工事の全てを取り仕切ることになっていた[10]。上記の記述より河内は、大仏再建にかかる費用は豊臣氏が負担するが、大仏・大仏殿再建工事そのものについては徳川氏が主導権を握ったとしている[11]。
大仏の再建工事については史料に乏しく、いつ行われたか詳細は不明である。大仏殿再建工事については史料が多く残っており、それらによれば、大仏殿の立柱工事は慶長15年(1610年)8月22日から行われ[12]、慶長17年(1612年)1月29日から大仏殿に屋根瓦を葺く作業が始まった[13]。慶長17年中に大仏殿はほぼ完成し、工事着工から2年足らずという異例の速さで大仏殿の再建が完了したことが分かる[13]。
方広寺大仏・大仏殿の再建が完了したため、落慶供養の段取りを進めることになった。段取りは片桐且元が進め、武家間では京都所司代の板倉勝重や、徳川家康との協議がなされた。しかし落慶供養は武家側だけで決定できるものではなく、朝廷や公家・寺社勢力との協議も必要であった[14]。方広寺は、上述のように正式な寺号を持たず、朝儀を経て創立された寺院ではなかったため(悪く言えば豊臣氏の私的な建造物であった)、正式な寺院となるよう、朝廷との協議がなされた。寺号については「東大寺」とするか、もしくは新たに定めるかなどが候補として挙がっていたが、方広寺の寺号を「東大寺」と定め、方広寺を東大寺の継承寺院とする案も検討されていた[15]。
方広寺再建落慶供養の出席者について、各種史料の記述から、家康が落慶供養に出席するため、上洛する計画であったことが窺える[16]。また『本光国師日記』には、「秀頼公供養に御上洛」については「いかようにも心次第と」と家康が仰せ出したとあり(慶長19年7月18日条)、秀頼と家康の双方が落慶供養に参加する可能性もあった[16]。また落慶供養には武家だけでなく、各種供養を務める高僧(各門跡の法親王等)のほか、主だった公家も出席する計画であった。
慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、片桐且元は、銘文の筆者として南禅寺の文英清韓を選定し、清韓は以下のような鐘銘文を書いた[17][18][19]。
欽惟 豊国神君 昔年 掌普天之下
前文 外施仁政 前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公 天子万歳 台齢千秋
銘曰 洛陽東麓 舎那道場 聳空瓊殿 横虹画梁 参差萬瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方 境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 商音永煌 響応遠近 律中宮商 十八声縵 百八声忙 夜禅昼誦 夕燈晨香 上界聞竺 遠寺知湘 東迎素月 西送斜陽 玉筍堀池 豊山降霜 告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量 所庶幾者 国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽 子孫殷昌 佛門柱礎 法社金湯 英檀之徳 山高水長
慶長十九年甲寅歳孟夏十六日 大檀那正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公 奉行片桐東市正豊臣且元 冶工名護屋越前少掾菅原三昌
前住東福後住南禅文英叟清韓謹書
方広寺鐘銘事件の発生
且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、7月頃から様々な問題が発生した。7月7日には天海が8月の大仏殿供養の着座順に異議を唱えた。さらに7月17日には大仏殿再建工事に助力するため徳川氏が派遣した大工頭の中井正清の名が棟札に記されていないことについて、家康が問題であるとした[20]。翌日には大仏開眼供養と大仏殿供養を別に行う案を提示した。7月26日、家康は鐘銘文が不快であるとして大仏殿供養の延期を命じた[17]。この段階では銘文の問題は、東大寺の簡素な鐘銘を踏襲することを求めたのに対して、前例に反して長々と文言を連ねた上に金で文字を入れたことを難じている。棟札に関しては当初、且元が家康に報告した際には、檀家の名を入れる程度なので誰が書いても問題無しとしたが、写しを確認した際には、鐘銘と同じく色々と書いてあること及び、先述の中井正清の名がないことを非難した。この棟札は黒漆塗で3間余(約5.45m)あった。家康は銘文・棟札共に末代まで残るものであり、そしるものになれば将来天下持の法度に悪影響を及ぼすとした。
8月に家康は五山の僧や林羅山に、豊臣方の選定した梵鐘の銘文を解読させた[17][18]。特に問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたとされるが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった[17]。また、銘文を選定した清韓自身は、家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している[17]。それに加えて、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では「実名」を書くことが尊敬の念を示すものとして扱われていた[21]。なお、方広寺と同じく秀頼の寄進で、且元を奉行として造立された東寺金堂の棟札には、鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載がなされた[22](方広寺の鐘銘文中の「家康」「豊臣」の文字は、偶然その文言が入ってしまった訳ではなく、前述のように意図的に入れられたことが分かる)。
江戸中期の宝暦2年(1752年)に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)では、諮問された五山の僧の見解を、次のように伝えている[23]。
- 東福寺
- 御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄)
- (名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。)
- 国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨、(守藤)
- (国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。)
- 天龍寺
- 御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰)
- (家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。)
- 南禅寺
- 銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最)
- (銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない[注釈 1]。)
- 第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪)
- (何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。)
- 相国寺
- 銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)
- (銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。)
- 建仁寺
- 銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)
- (銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。)
- 林羅山の見解と清韓の弁明
- 「右僕射源朝臣家康」
- 右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)
- (右僕射源朝臣は「源を射る」と読む意図と考えられる。)
- 右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)
- (右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。)
- 「国家安康」
- 国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山)
- (国家安康は、諱を侵している。無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。)
- 鐘ト申ス物ハ、奇特不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後ノ大幸也、(清韓)
- (鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。)
- 「君臣豊楽」
- 君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事、(林羅山)
- (君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。)
- 是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓)
- (これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)
なお、家康は徳川氏も工事に協力した方広寺大仏・大仏殿の再建が完成した暁には、大仏の開眼供養に出席するため上洛する予定であり、またこの際に後の禁中並公家諸法度・寺社法度を発布する計画で、そのための資料収集を命じていた。また、武家の法度への資料収集も命じていた(『駿府記』『本光国師日記』)。しかしながら鐘銘事件によりこの計画は修正を余儀なくされ、結果として大坂の陣による豊臣家滅亡後に発布された。
大坂の陣の開戦まで
『片桐秘記』[24]によると、慶長十九年(1614)8月1日に予定されていた大仏堂供養は、前日に駿府の徳川家康から板倉勝重へ指示があり、急遽中止となった。理由は、方広寺鐘銘に家康を呪い、滅ぼすことを目的として作られたものではないか、という疑いに加え、大仏供養の日に京都へ放火する計画があるという噂が家康に届いていたためであった。この件の申し開きのため、片桐且元、大蔵卿局(大野治長の母)、正永(渡辺糺の母)らが駿府へ向かった。
しかし、且元らはすぐには駿府城下へ入ることを許されず、丸子の誓願寺に留め置かれた。且元は関与を否定し事情を説明した結果、家康に許され、且元のみ駿府へ呼び入れられた。
本多正純と金地院崇伝は、家康の意向を伝える上使として且元と対面し、「鐘銘について且元に責任はない」とした上で、江戸の将軍秀忠と秀頼との関係を保つための使者となるよう伝えた。
これに対し且元は、以前に家康・秀忠から秀頼を粗略に扱わないとの御内証(約束書)を、また秀頼や淀殿からも徳川家へ背く意思がないことを書状で示していることを説明した。その上で、さらに確かな証しとして秀頼から誓紙を差し出すよう取り計らえばよいかと尋ねた。
しかし正純と崇伝は、それだけでは解決には至らないとし、具体的な方法は且元自身が考えて取り計らうよう求めた。また、家康側から条件を提示することはないと伝えた。
且元はすぐに決められる問題ではないため、一度大坂へ戻って相談するとして、9月10日に駿府を出発した。帰路、大蔵卿局と正永は家康の意向を何度も尋ねたが、且元は詳しい内容を語らなかった。
9月16日、近江国土山の宿で再び問われた且元は、家康から具体的な条件は出されなかったことを説明した上で、豊臣家と徳川家が親密な関係になれば、大閤様(秀吉)の遺言も守られるだろう、家康に受け入れてもらうには、秀頼の江戸参勤か、淀殿を証人(人質)として江戸へ送るか、大坂城を明け渡して他国へ移るか、の三案しかないだろう、と自身の考えを述べた。
大蔵卿局と正永はその場では「もっともである」と同意する様子を見せたが、先に夜通しで大坂へ戻り、三箇条の話までの経緯を色々と偽りを伝えて報告した。これを聞いた淀殿と秀頼は、この三箇条のうち一つも同意する気持ちはなかった。恐らく家康と且元が一味となってこのような条件を言ってきているのだと疑い、且元への対応を協議することになった。
9月22日の夜、大岡泰重の屋敷において、大野治長・木村重成・渡辺糺らが激しく協議し、且元兄弟と家族の暗殺計画が決定した。淀殿が談合のためと偽り、且元を呼び出し、廊下で切腹させ、貞隆を殺した後、妻子や家来を皆殺しにするという計画だった。この内容を織田信雄の家臣である生駒長兵衛と梅心が聞き知った[25]。
9月23日、織田信雄は片桐且元の家臣・小島庄兵衛を通じて且元へ、前夜の協議において、淀殿との談合を名目に且元を本丸へ呼び出し、城内で且元を切腹させること、さらに主膳を殺害した後、両名の屋敷を攻撃し、妻子や家臣を討ち果たして籠城に備える計画が決定されたと知らせた。
その後、淀殿から且元へ数通の書状や誓詞が届けられたが、9月23日の夜から織田有楽斎(織田長益)の屋敷や政所(高台院)の屋敷、城内の櫓などに、具足を着け弓・鉄砲などで武装した兵が配置された。このため且元は、届けられた誓紙は真意によるものではないと判断し、弟の貞隆や家臣らとともに屋敷へ立て籠もり、一戦に備えた。
しかし且元と主膳正は家臣たちに対し、大坂城へ向けて矢一本、鉄砲一発でも放てば処罰すると命じ、塀を越えて来る者があっても槍の柄で叩き落とすよう指示し、こちらから攻撃しないよう厳命した。
城内外が警戒態勢となる中、貞隆は七組衆を通じて、自身には秀頼や淀殿から咎めはなかったものの、兄・且元が秀頼の意向に背いたとされた以上、そのことについて弁明の余地はないとした。しかし、理不尽な対応を受けるのであれば奉公を続けることはできず、どのような結果になっても兄と行動を共にすると伝え、9月25日に大坂城から退出した後、勤務に出ることを取りやめた。
その後、七組の頭である伊藤丹後守・速水甲斐守・青木民部少輔・堀田図書・真野蔵人・野々村伊予守・中島式部大輔らが仲介に入った。且元は、秀頼に対して反逆の意思はなく、理不尽に疑いをかけられ困惑していると説明し、城内に配置された兵を引き上げるならば、こちらも兵を退かせると申し入れた。その結果、双方は兵を引き退かせた。
淀殿は且元に山林へ退いて隠居するよう求めたが、七組衆はそのような処分を受ける道理はないとして揃って反対した。9月26日、且元・貞隆兄弟は大坂城下の屋敷を退去することを決め、両名が務めていた大坂城の城番所を七組衆へ引き渡した。
10月1日早朝、且元は貞隆とともに大坂の屋敷を退去した。家臣たちには、急な事情により茨木へ向かうことを伝え、且元自身は羽織姿で駕籠に乗って出発した。一方で、貞隆をはじめ供の者たちは具足を着け、武器を抜き身にし、火縄に火をつけた状態で警戒しながら同行した。
弟の妻子や家中の者たちも共に退去したが、大掛かりな行列とはしないよう配慮された。見送りには七組衆が大坂から一里ほど同行した。
また、大野治長の子・信濃、織田有楽斎の子・武蔵を人質として伴っていたが、河内国荒川からそのまま送り返した。その後、且元・貞隆兄弟は夕刻に茨木へ到着した。
10月2日、且元は駿府および江戸へ使者を派遣した。6日の夜、駿府に到着した使者が本多正純へ事情を伝えると、家康は直接使者を呼び出して経緯を確認した。家康は、内々に聞いていた内容と相違なく、且元・貞隆兄弟が見事に立ち退いたとして、その対応を高く評価し、大いに満足した様子であったという。[26]。
江戸・大坂方共に既に戦になることは明白であると受け止められるようになり、大坂城からは織田信雄・織田信則・石川貞政などの親族衆や重臣も退去していった[27]。豊臣方による且元殺害の企ての報を10月1日に受けた家康は、同日諸大名に出兵を命じた[18]。豊臣方は且元退去は家康に敵対する意図ではないと弁明した書状を家康や諸大名に送ったが、家康はこれを長益や治長の策謀であるとして受け入れなかった[28]。こうして大坂の陣の開戦の運びとなった。
駿府城を出発した家康は大坂に向かう途中で京都の二条城に入っているが、11月1日に五摂家の当主から挨拶を受けた際に現任の関白であった鷹司信尚だけは会見を拒絶されている。これは、信尚が方広寺大仏の開眼式に出席する意向を示していたことを家康が知ったからだと言われている。会見拒絶によって家康からの不信任を突きつけられる形となった信尚は大坂の陣終結後に関白辞任へと追い込まれている[29]。
銘文を作成した清韓は、事件後南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま元和7年(1621年)に没している[30]。
方広寺鐘銘事件に対する評価
先述のように秀頼は戦乱で荒廃した多数の寺社に寄進を行い、伽藍・社殿の整備を図った(豊臣秀頼の寺社造立も参照)。これにより寺社勢力は宗勢を回復したが、鐘銘事件で豊臣氏が苦境に陥った時、寺社勢力で豊臣氏の弁護・助力に積極的にまわったものはなかった。歴史学者の村山修一は「(鐘銘文の作者)清韓は国家安康君臣豊楽と徳川豊臣の融和繁栄を裏に偶したつもりであったが、逆用曲解される始末になった。」「(鐘銘事件に類似した阿衡事件では)基経を諫止ないし批判した菅原道真のごとき人物が出たことは痛快というべく、これに対し鐘銘事件では誰一人正面から家康に反対意見を開陳した者はなく、作者清韓を支持したのはわずかに妙心寺の海山和尚ただ一人であった。」「鐘銘事件にみる(家康に加担・迎合した)僧侶の暗躍ないし幇間的行動は、古代中世にわたる日本仏教の権威に汚点を遺した。」としている[31]。
以上のような鐘銘事件に対する僧侶の幕府への阿諛追従の批判や、この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの説が一般に広く知られており、上記が通説とされてきた。
一方で宮本義己は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない[32]」とする見解を提唱した。当時の時代背景から考えて、豊臣方の手落ちでもあったとするこの学説は、以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えた。(ただし、前述のように実名を書くことは豊臣政権下では尊称とされてもいる)
同時代の五山僧の鐘銘への批評も、上記のように、いずれも家康の諱を割ったことについては、「良くないこと」「前代未聞」と回答し[17][18]、批判的見解を示したものの、呪詛までは認めなかった[17]。歴史学者の笠谷和比古と渡邊大門は、たとえ銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても[17][18]、当時の諱に関する常識から鑑みれば[17][18]、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく[17]、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり[17][18]、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった[17]としている。また、銘文に「君臣豊楽」と姓が用いられた豊臣と、「国家安康」と諱が用いられた家康の扱いの差についても、問題化の原因とする指摘もある[17]。家康のこの件に対する追求は執拗であったが[17][18]、両氏の説によれば、家康の強引なこじつけや捏造とは言い切れない側面があるとする[17][18]。
通説では、崇伝が鐘銘事件へ深く関与したとされるが、当時の一次史料からはそれは窺えない[17][18]。ただし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている[18]。
歴史学者の河内将芳は、『本光国師日記』に以下のような通説とは逆の記述があることを指摘している。8月22日条に以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状が掲載されているが、「市殿(片桐且元)不届きの儀はこれあるまじきとの上意」「文言以下の善悪、市存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」とあり、鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている[33]。9月8日条には、同じく以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状が掲載されているが、「おのおの談合そうらいて、江戸様(徳川秀忠)と秀頼公以来疎意なきように、江戸様へ御意を得られそうろうようにと仰せ出」「市殿も安堵」とあり、徳川秀忠と豊臣秀頼の両者が疎遠にならないよう、大坂で会見する案も存在していたとしている[33]。