日本とインドネシアの関係
日本とインドネシアの二国間関係
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日本とインドネシアの関係(にほんとインドネシアのかんけい、インドネシア語: Hubungan Indonesia dengan Jepang、英語: Indonesia–Japan relations)は、第二次世界大戦後、歴史的、経済的、政治的つながりは特に緊密なものに成長した。また、国際協力機構(JICA)を通じて、インドネシアへの開発援助の主要な供与国である。
日本にとって、インドネシアは液化天然ガスなどの天然資源の死活的に重要な供給国である。両国はともにG20とAPECの加盟国である。
今日、インドネシアで働く日本人は11000人にのぼる一方、日本では約24000人のインドネシア人が働いたり訓練を受けたりしている。
インドネシアは東京に大使館を、大阪に領事館を設置している。日本はジャカルタに大使館を、メダン、デンパサール、スラバヤに総領事館を、マカッサルに領事事務所を設けている。
両国の比較
| 人口 | 2億7636万2000人 (2021)[1] | 1億2316万5000人 (2025)[2] |
| 面積 | 191万6907km2 (740,122 sq mi )[3] | 37万7973.89km2 (145,936.5 sq mi)[4] |
| 人口密度 | 144.2人/km2 (373.4人/sq mi) | 325.8人/km2 (843.9人/sq mi) |
| 可住地面積当たり | 281.8人/km2 (729.6人/sq mi) | 1217人/km2 (3152人/sq mi) |
| 首都 | ジャカルタ→ヌサンタラ (都市) (2024予定) | 東京 (事実上) |
| 最大都市 | ジャカルタ - 1056万人[3] | 東京都区部 – 973万3000人[5] |
| 政府 | 単一国家、大統領制、立憲共和制 | 単一国家、議会内閣制、立憲君主制[注釈 1] |
| 公用語 | インドネシア語 | 日本語 (事実上) |
| 主な宗教 | イスラム教86.1%、キリスト教8.7%、ヒンドゥー教1.8%、仏教1%、その他2.4% | 神道83.9%、仏教71.4%、キリスト教2%、その他0.6% (日本では神道と仏教を両方信仰することが広く行われているため、合計した数字は100%を超える) [6] |
| 民族 | ジャワ人40%、スンダ族16%等。詳しくは英語版記事参照。 | 日本人98.5%、中国人0.5%、韓国人0.4%、その他0.6% |
| 名目GDP (2020) | 1兆1790億米ドル (1人当たり4,784米ドル) | 5兆0486億9000万米ドル (1人当たり40,146米ドル)[7] |
| 実質GDP (2020) | 3兆3024億1000万米ドル (1人当たり12,222米ドル)[8] | 5兆3130億2000万米ドル (1人当たり42,248米ドル)[9] |
| 軍事費 | 93億9600万米ドル (2020) [10] | 491億4900万米ドル (2020) [11] |
| 最大の都市圏 | ジャカルタ (ジャワ島) 3536万人 - 3541km2 (4751人/km2)[12] | 東京=横浜 3911万人 - 8231km2 (9988人/km2)[13] |
| 第2の都市圏 | バンドゥン (ジャワ島) 693.2万人 - 487km2 (14236人/km2)[12] | 大阪=神戸=京都 1549万人 - 3020km2 (5129人/km2)[13] |
| 第3の都市圏 | スラバヤ (ジャワ島) 649.4万人 - 912km2 (7123人/km2)[12] | 名古屋 952.2万人 - 3704km2 (2571人/km2)[13] |
| 第4の都市圏 | メダン (スマトラ島) 343.6万人 - 479km2 (7171人/km2)[12] | 福岡 228.0万人 - 505km2 (4514人/km2)[13] |
| 第5の都市圏 | スマラン (ジャワ島) 202.2万人 - 259km2 (7807人/km2)[12] | 札幌 216.2万人 - 552km2 (3919人/km2)[13] |
歴史
植民地時代の関係


日本と現在のインドネシアにあたる地域との人的交流は、江戸時代にさかのぼる。17世紀には朱印船による東南アジアとの交易が行われ、日本人が現在のインドネシア各地に居住していたことが記録されている。また、1764年からボルネオ島南部のバンジャルマシンで暮らした日本人漂流民の孫太郎は、1771年にオランダ船で日本へ帰国した[14]。
明治維新後、日本人の居住者は増加した。1898年のオランダ領東インドの記録では614人の日本人が居住していたとされる[15]。1909年には日本政府がバタヴィアに領事館を設置した[16]。1920年代には沖縄出身の漁業者が北スラウェシに定住するようになり、マナドには日本人向けの小学校が設置され、1939年には18人の生徒が在籍していた[17]。1938年の日本人居住者数は6,349人とされる[18]。
日本政府はインドネシアからの留学生も受け入れており、帰国する学生に教育上の証明書を発行していた[19]。一方、オランダ領東インドでは民族運動や日本との関係をめぐる政治的緊張も存在した。民族運動家のムハマド・フスニ・タムリンは、日本側との関係をめぐるスパイ容疑で拘束され、その後1941年に死亡した[20]。
日本軍政期
1942年、日本軍はオランダ領東インドを占領し、オランダに代わって軍政を開始した。日本軍はジャワ島、スマトラ島、カリマンタン島などの主要地域を占領し、資源の確保や軍事上の拠点整備を進めた。
日本軍政下では、インドネシア人の政治・社会組織が再編され、日本側は現地の政治指導者や民族主義者を利用した統治政策を進めた。1943年には3A運動が組織され、その後、人民の力センター(プートラ)やジャワ奉公会などの組織が設置された。これらの組織にはスカルノ、モハマッド・ハッタらインドネシアの政治指導者も関与した。
日本軍政期には、軍事・労務面でインドネシア人が動員された。多数の住民がロームシャ(労務者)として日本軍や軍政当局の管理下で労働に従事し、その中には日本軍の軍事施設や交通施設などの建設に動員された者もいた。
また、日本軍はインドネシア人を軍事組織に編入する政策を進め、1943年には郷土防衛義勇軍(PETA)がジャワ島で組織された。PETAなどで軍事訓練を受けたインドネシア人の一部は、後のインドネシア独立戦争において共和国側の軍事組織に加わった。
1944年9月、日本の戦局が悪化する中、小磯国昭首相は将来のインドネシア独立を認める方針を表明した。ただし、この方針は日本軍政下における政策転換の一環として示されたものであり、実際の独立時期や手続きについては具体的な合意が成立していたわけではなかった[21]。
1945年4月、日本軍政当局はインドネシア独立準備調査会(BPUPKI)を設置した。同組織では、独立後の国家体制や憲法などについて議論が行われた。その後、インドネシア独立準備委員会(PPKI)が設置され、独立に向けた政治的準備が進められた。
1945年8月15日に日本が連合国に対する降伏を受け入れた。
8月17日、スカルノとハッタがインドネシア独立宣言を発表した。
独立戦争期の日本人
日本の敗戦後、インドネシアに残留した日本軍人の一部は、インドネシア独立戦争において共和国側の武装組織に加わった[22][23]。その参加形態は一様ではなく、また日本軍として組織的に独立戦争へ参加したものではなかった。林英一によれば、独立戦争に参加した残留日本兵は903人とされ、主にジャワ島西部とスマトラ島北部で活動した[24]。
代表的な人物として、東ジャワで活動した市来龍夫(アブドゥル・ラフマン)と吉住留五郎(アリフ)が挙げられる[23][25]。市来は軍事教本の翻訳などに携わり、吉住はタン・マラカの活動に加わった[23][25]。東ジャワでは日本人参加者によるパスカン・ゲリリャ・イスティメワ(PGI)が組織され、両者もその活動に参加した[23]。市来は1949年、吉住は1948年に死亡した。
日本人が共和国側の武装組織に参加することは、敗戦後の日本軍の武装解除・引き揚げという方針とは一致しておらず、独立戦争への参加はあくまで個々の日本人による行動として捉える必要がある[26]。
国交樹立と賠償問題
第二次世界大戦後、日本とインドネシアの関係正常化に向けた交渉が進められた。サンフランシスコ平和条約締結後、両国間では国交樹立と戦争賠償をめぐる交渉が行われた。
1951年から1952年にかけて日本とインドネシアの間で賠償会議が開かれたが、賠償総額や賠償の方法などをめぐって双方の主張が一致せず、交渉は進展しなかった。その後、1953年に成立したインドネシアのアリ内閣が二国間平和条約の締結を目指す方針を示したことから、交渉は二国間での平和条約および賠償問題の解決を軸として進められた[27]。
1954年以降、両国間で賠償額やインドネシアの対日貿易債務などをめぐる交渉が続いた。1957年11月、岸信介首相とスカルノ大統領の会談を経て、賠償と貿易債務の処理について基本的な合意が成立した[28]。
1958年1月20日、ジャカルタで日本国とインドネシア共和国との間の平和条約および日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定が署名された。平和条約は両国間の戦争状態を終了させ、外交関係を正常化するとともに、経済関係の緊密化を図ることを定めた。賠償協定では、日本が12年間にわたり総額2億2,308万ドル相当の生産物および役務を賠償としてインドネシアに供与することが定められた[29][30]。
両条約・協定は1958年4月15日に批准書が交換され、同日に発効した[31]。これにより、両国間の戦争状態が法的に終了し、外交関係が正式に樹立された[32]。
1960年代
1964年、アジアで初めて開催となる東京オリンピックへのインドネシア選手団の参加をめぐり、国際オリンピック委員会 (IOC) を巻き込んだ大きな問題となった。
1962年、ジャカルタで開催されたアジア競技大会と翌年の新興国競技大会をめぐりIOCと対立、この結果、同国選手団は来日したものの開催前日の10月9日にボイコットを表明、帰国した[33]。
1970年代
1970年代、日本の製造業者、そのなかでも特に電機部門、はインドネシアに工場の建設を開始し、このことは新しい日本人移民、主に日本企業の管理者や技術者、の波を奨励した[34]。
日本の自動車業界もまた、インドネシア市場への展開を開始し、現在、日本の自動車業界はインドネシア市場で最大の割合を占めている。同時に、日本の消費者製品もインドネシア市場への展開を始めた。

しかしながら、日本経済のインドネシア支配は反対運動の盛り上がりにつながり、1974年1月14日から17日までの日程で田中角栄首相がジャカルタを訪問していた最中の1974年1月15日、大規模な反日暴動(マラリ事件)が発生した[35]。
この事件によって、日本は、インドネシアとの関係を経済的観点からのみ見る外交方針を改める事となった。
日本は、相互理解の欠如が暴動が起きた原因と理解し、以後、外務省などは日本文化とインドネシア文化を相互に学ぶ文化交流に積極的となっていった。この流れは、福田ドクトリンとして結実し、後のインドネシアの良好な対日感情にも繋がることとなった[35][36]。
1980年代以降
1980年代から21世紀にかけて、日本企業のインドネシアに対する投資は増加し、両国の経済関係は拡大した。
この時期、日本の軍政については、オランダによる植民地支配とは区別し、日本の占領がインドネシアの独立につながる政治的・社会的変化をもたらしたとする肯定的な見方も日本・インドネシア双方でみられた。一方で、こうした見方には、インドネシア独立運動や日本軍政下における現地住民の抵抗・被害を十分に評価していないとの指摘もある。
21世紀に入ると、インドネシアにおける歴史研究や歴史教育では、日本軍政をオランダ領東インド期の植民地支配と連続するものとして捉える見方が強まり、近年の教科書改訂では日本軍政を「植民地支配」と位置づける記述がみられるようになった[37]。
インドネシア人の対日・対日本人感情
| 調査対象国 | 肯定 | 否定 | どちらでもない | 肯定-否定 |
|---|---|---|---|---|
18% | 71% | 11 | -53 | |
24% | 34% | 42 | -10 | |
34% | 15% | 51 | 19 | |
41% | 17% | 42 | 24 | |
39% | 13% | 48 | 26 | |
55% | 29% | 16 | 26 | |
43% | 13% | 44 | 30 | |
58% | 26% | 16 | 32 | |
58% | 25% | 17 | 33 | |
55% | 11% | 34 | 34 | |
60% | 26% | 14 | 34 | |
57% | 19% | 24 | 38 | |
52% | 14% | 34 | 38 | |
61% | 20% | 19 | 41 | |
64% | 21% | 15 | 43 | |
68% | 20% | 12 | 48 | |
66% | 18% | 16 | 48 | |
66% | 16% | 18 | 50 | |
65% | 14% | 21 | 51 | |
67% | 16% | 17 | 51 | |
69% | 18% | 13 | 51 | |
66% | 14% | 20 | 52 | |
64% | 10% | 26 | 54 | |
65% | 7% | 28 | 58 | |
84% | 12% | 4 | 72 | |
85% | 7% | 8 | 78 | |
BBCワールドサービスやピュー・リサーチ・センターが定期的に実施している世界各国を対象とした対他国感情に関する調査によれば、インドネシアにおける対日・対日本人感情は好意的な回答を示しており、BBCワールドサービスが実施した2011年度調査では、対日・対日本人感情の好意的な回答が全調査対象国のなかでトップであり、インドネシア人の85%が日本の影響力を肯定的に見て、7%が否定的な見解を示し、インドネシアは世界で最も親日的な国となっている[39]。2016年に外務省が東南アジア各国に対日世論調査(一カ国約300名、Ipsos香港社に調査依頼)をしたところ、全般的に、東南アジア各国のなかでもインドネシア、フィリピン、ベトナム、マレーシア、タイの5か国の国民は、自国と日本との関係について、かなり好意的であることがわかった[40]。
経済的関係
日本はインドネシアへの投資を、特に自動車、電機部品、エネルギーと採掘部門において、何十年も続けてきた。インドネシア共和国の建国以前から、日本はインドネシアを天然資源の重要な供給源としてみていた。日本は天然資源を必要としていたことは、第二次世界大戦に至ることになる南進をせざるを得なかった理由のひとつでもあった。現在、日本にとってインドネシアは、天然ゴム、液化天然ガス、石炭、鉱物、紙パルプ、エビやマグロなどの海産物とコーヒー豆の主な供給国である。伝統的に、インドネシアは日本の自動車と電機機器の主要な市場とみなされていた。日本企業にとって、インドネシアは様々な天然資源の源であるとともに、人件費を低く抑えながら製造するための人材の源でもあった。1200社以上[41][42]の日本企業がインドネシアで活動しており、約30万人の現地人が雇用されている[43]。主な日本企業の工場はジャカルタ市東部に集中しており、そのなかでもブカシ、シカラング、カラワングと西ジャワ州に特に集中している。
インドネシアに対する日本企業の直接投資の新しい傾向は、収入、人口、消費者製品の消費の増加となって表れている。日本企業の直接投資はもはや伝統的な分野だけでなく、小売やメディア、日用品の分野にも及んでいる。近年、日本の大戸屋、吉野家、えびすカレーなどのレストランチェーン、セブンイレブン、ファミリーマート[44]などのコンビニエンスストア、そごうや無印良品、ユニクロ[45]などのファッション、小売、百貨店および紀伊國屋書店などが次々とインドネシアに出店した。大正製薬は最近、ブリストル・マイヤーズ・スクイブのインドネシア法人を買収した。より多くの日本企業がインドネシア市場に参入するための投資を準備している。これらの企業による新たな投資によっていくつかの日本企業は成功を収めている。味の素は5000万ドルをかけてインドネシアに新しい工場を建設することを計画している。
インドネシアは東南アジア全体でも有数の好景気に沸いており、日本からの投資も2010年には7億1260万ドル(約712億6000万円)であったのが、2012年には25億ドル(約2500億円)へと急増している[46]。
| 年 | 日本の輸出(A) | 日本の輸入(B) | 収支(A-B) |
|---|---|---|---|
| 2006 | 7,376 | 24,123 | ▲16,747 |
| 2007 | 9,065 | 26,480 | ▲17,415 |
| 2008 | 12,607 | 32,555 | ▲19,948 |
| 2009 | 9,334 | 21,825 | ▲12,491 |
| 2010 | 15,859 | 28,149 | ▲12,290 |
| 2011 | 17,731 | 33,970 | ▲16,239 |
文化交流と観光
マラリ事件を契機に、日本は友好関係を維持するためには、互いの文化を知る文化交流が重要との認識を持つに至り、経済のみならず文化面での交流も加速していった[36]。
インドネシアにおける日本文化
そのユニークさのため、日本文化はインドネシアで人気を博している。日本の伝統的な文化である着物、生花、折り紙、侍などを始め、若者たちの間ではJ-POP、漫画、アニメ、ビデオゲームなどのサブカルチャー、家族や子供にはドラえもんなどが広く楽しまれている。一方、日本人はインドネシアの伝統的な文化であるバティック、ガムラン、ダンスなどに興味を持っており、バリ島、ボロブドゥール遺跡は日本人の人気の観光地である[47]。
インドネシアでは2009年現在71.6万人が日本語を学んでおり、日本語教育機関は1,988機関ある[48][49]。これは韓国、中国に次いで3位の規模である。このきっかけとなったのは1980年代の日本企業の進出、日本人観光客の増加によるものであり、インドネシア人労働者にとって日本語の理解は大きな価値を持つようになった。
インドネシアでは日本文化が流行しており、日本企業の投資や、日本語を学ぶインドネシア人は年々増えている。大相撲やアニメなど、日本文化のイベントも開催されている[46]。
ジャカルタのGrand Wijaya CenterとBlok Mは日本食レストランや日本の輸入食材を扱うスーパーマーケットがあり、特にBlok Mは居酒屋も多く[50]、周辺にも日本色の強い店舗が集結しておりリトル・トーキョーとして知られている[51]。
インドネシアの経済発展とともに、日本を旅行するインドネシア人も急増しつつある。インドネシア人はムスリムが主なため、日本では彼らをもてなすため、イスラム教のハラールや礼拝のためのセミナーが各地で開かれるようになっている[52]。
在日インドネシア人留学生
2022年5月1日時点での在日インドネシア人留学生は5,763人で、在日留学生総数の2.4%を占めており、留学生の国・地域別では第5位となっている[53]。
2013年にマレーシア人留学生を追い抜いて以来[54][55]、インドネシア人留学生がイスラーム諸国のうちトップを占めている[56][57][58][59][60]。
日本からの開発支援

日本はインドネシアに対して多額の開発支援を行なっている。開発支援は国際協力機構(JICA)を通して行われ、東南アジア諸国連合(ASEAN)の中では最大の支援を受けている[61]。
| 年 | 有償資金協力 | 無償資金協力 | 技術協力 | 合計 |
|---|---|---|---|---|
| 2000 | 945.66 | 52.07 | 144.60 | 1,142.33 |
| 2001 | 702.83 | 45.16 | 117.27 | 865.26 |
| 2002 | 441.59 | 63.54 | 126.46 | 631.59 |
| 2003 | 946.77 | 82.36 | 120.66 | 1,149.79 |
| 2004 | 452.52 | 25.47 | 105.96 | 583.95 |
| 2005 | 1,072.18 | 172.21 | 98.40 | 1,342.79 |
| 2006 | 882.83 | 60.67 | 91.11 | 1,034.61 |
| 累積 | 24,690.06 | 1,939.16 | 2,907.49 | 29,597.35 |
近年は防衛関係の交流も増えており、自衛隊はインドネシア軍に対して能力構築支援事業を実施している[63]。スマトラ島沖地震では、インドネシア側からの要請に基づき、2005年と2006年に自衛隊が派遣された。
海上保安庁も、インドネシアの沿岸警備隊に対して定期的な協力・指導を行っている他、2007年には武器輸出三原則の例外扱いで、海上保安庁の巡視船3隻を提供している[64]。
これまでの開発支援の例としてはアサハン川の開発事業(アサハン・プロジェクト)などがある。
外交使節
在インドネシア日本大使
在日インドネシア大使
- ルドルフ・アレクサンダー・アスマウン(1959~1960年)
- バンバン・スゲン(1960~1964年)
- ハルソノ・レクソアトモジョ(1964~1966年)
- ルクミト・ヘンドラニングラト(1966~1968年)
- アスハリ・ダヌディルジョ(1969~1972年)
- ユスフ・ラムリ准将(1972~1975年、信任状捧呈は4月4日[65])
- A・J・ウィトノ(1975~1979年)
- サイディマン・スルヨハディプロジョ(1979~1983年)
- ウィヨゴ・ アトモダルミント(1983~1987年)
- ヨギ・スパルディ(1987~1991年)
- プジ・クンタルソ(1991~1995年、信任状捧呈は7月4日[66])[67]
- ウィスバー・ルイス(1995~1998年、信任状捧呈は5月18日[68])
- スマディ・ジョコ・ムルジョノ・ブロトディニンラット(1998~2002年、信任状捧呈は12月24日[69])
- アブドゥル・イルサン(2002~2006年、信任状捧呈は2003年4月10日[70])
- ユスフ・アンワル(2006~2010年、信任状捧呈は11月16日[71])
- ムハマド・ルトフィ(2010~2013年、信任状捧呈は11月22日[72])
- ユスロン・イザ・マヘンドラ(2013~2016年、信任状捧呈は2014年2月24日[73])
- (臨時代理大使)ベン・ペーカサ・ドラジャト(2016~2017年)
- アリフィン・タスリフ(2017~2019年、信任状捧呈は6月22日[74])
- (臨時代理大使)トリ・プルナジャヤ(2019~2020年)
- ヘリ・アフマディ(2020年~、信任状捧呈は12月17日[75])
関連項目
- 在インドネシア日本国大使館、在スラバヤ日本国総領事館、在デンパサール日本国総領事館、在メダン日本国総領事館、在マカッサル領事事務所
- 駐日インドネシア共和国大使館、在大阪インドネシア共和国総領事館
- 日本の国際関係
- インドネシアの国際関係