春日若宮おん祭
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春日若宮おん祭(かすがわかみやおんまつり)は、奈良県奈良市の春日大社の摂社若宮神社の祭祀として、奈良公園周辺で毎年12月17日を中心に数日にわたって行われる祭礼である[1]。大和一国を挙げて盛大に執り行われ、1136年(保延2年)に関白藤原忠通によって始められたと伝えられる。870有余年にわたり、延期や中止を経ながらも再開・継続されてきた[2]。おん祭で奉納される猿楽(能)、雅楽、神楽、舞楽などの芸能は、中世以前の芸能の継承・保存に大きな役割を果たしている。これらの奉納芸能は「春日若宮おん祭の神事芸能」として1979年(昭和54年)に国の重要無形民俗文化財に指定されている[3]。

概要

春日若宮おん祭は、若宮神を若宮神社本殿から御旅所へ迎える「遷幸の儀」から、若宮神を本殿へ還す「還幸の儀」までを中心とする祭礼である。中心神事は12月17日午前零時に始まり、12月18日午前零時までに若宮神が還御する。遷幸の儀・還幸の儀では一切の照明および写真・動画の撮影が禁じられている。
祭礼は、若宮神への神事を中心に、御旅所祭、お渡り式、松の下式、田楽、細男、猿楽、舞楽、競馬、流鏑馬などの諸行事・奉納芸能を含む複合的な構成をもつ。永島福太郎は、若宮祭を春日社の社頭祭礼にとどまらず、興福寺・春日社を中心とする中世大和の宗教的・社会的秩序を反映した大祭として位置づけている[4]。また、笠置侃一は、御旅所祭における舞楽奉納を、南都雅楽の継承を考えるうえで重要な場として説明している[5]。
由緒

春日若宮神は、1003年(長保5年)3月3日に出現したとされる。1135年(保延元年)には若宮が別社に鎮座し、翌1136年(保延2年)9月17日に初めて若宮祭が行われた。永島福太郎は、古い神社の祭礼のうち創始の祭日が明確に知られる例は多くないとして、若宮祭の成立時期が比較的明瞭である点を指摘している[6]。
若宮祭の成立は、春日若宮社の創建と密接に関わる。春日若宮社は長承4年、すなわち保延元年(1135年)3月27日に創建され、その翌年の保延2年(1136年)9月17日に若宮祭が始められた[7]。若宮社の創建と祭礼の開始は連続した出来事として理解され、若宮祭は若宮神への信仰を背景として成立した祭礼であった。
現行の由緒では、若宮神は長保5年3月3日に出現したとされ、保延元年2月27日に若宮を初めて別社に鎮座したこと、同年に藤原頼長が参拝し、若宮に平胡籙・蒔絵弓矢などを奉納したことが伝えられる。関白藤原忠通によって若宮の社殿が改築され、1136年(保延2年)3月4日に春日に詣でて若宮に社参し、同年9月17日に初めて若宮祭を行い、以後永式としたとされる。
1135年(保延元年)に若宮社が創建され、当初は中臣祐房が若宮神主職を兼任したが、1156年(保元元年)から、その三男の祐重が専任の若宮神主に任命された。若宮神主は神主や正預と異なり、若宮一社限りの惣官職で、権官は置かれなかったため、若宮神主家のみは世襲制であった。
歴史
創始と中世大和における展開
興福寺の僧集団は、保延2年(1136年)9月17日に、朝廷による大和国の国司支配の復活を意図して関白・藤原忠通が大和国検地を実施しようとしたことを阻止し、興福寺の大和国支配の継続を朝廷に訴訟して、その勝訴を願い、おん祭を始めたとされる(『大乗院日記目録』)[8]。
中世には、若宮祭は興福寺の僧徒らによって「御祭」と称された[6]。寺人・社人らを通じて祭礼の名は広まり、若宮祭は大和国の大祭として執行されるようになった[4]。祭礼の普及には興福寺別会の僧や大和国内寺院の僧侶など、興福寺・春日社を取り巻く宗教的ネットワークが関与した[9]。
祭礼の運営では頭役が重要な役割を担い、上臈・中臈・下臈などの区分により、供物・奉仕・祭礼に必要な諸役が分担された[9]。鎌倉時代には、興福寺が南都七大寺の筆頭として、春日社が大和国一宮として位置づけられ、両者は大和国内の国民・衆徒らと結びついていた[9]。若宮祭は、こうした寺社勢力と在地社会の関係のなかで継承・拡大され、中世大和の宗教的・社会的秩序を反映する祭礼となった。
若宮祭には、日使、巫女、神子などの神事奉仕者のほか、国民・衆徒など中世大和の在地勢力も関与した[10]。祭礼は春日社・興福寺を中心とする宗教秩序のもとで執行され、社寺関係者だけでなく、大和国内の諸集団が奉仕する行事として展開した。
流鏑馬と大和武士
お渡り第8番の 流鏑馬は、開始当初から行われており、武士との関係で重要である。初期には、大和国内の興福寺荘園の武士だけでなく、山城国や摂津国の荘園に関わる大和国外の武士も参加していた。しかし13世紀後半に興福寺が大和士(やまとざむらい)を編成・組織する体制が徐々に整うと、他国の武士は参加できなくなり、代わりに物納で流鏑馬米を負担する形になった[11]。流鏑馬の務めを命じられた家は願主人として祭礼への準備を行った[12]。
若宮祭では、学侶側の田楽頭役に対し、衆徒・国民側が流鏑馬願主として祭礼に関与したとされる[13]。流鏑馬願主は、流鏑馬という武芸的奉仕に関わるだけでなく、若宮祭の施主的役割や奉仕の統率とも結びついていた[13]。この点から、若宮祭の運営は、春日社・興福寺内部の祭礼職制だけではなく、大和の在地武士層を含む複数の主体の協力によって成り立っていたことが分かる。
お渡り第11番の大和士は、鎌倉時代13世紀後半に興福寺領荘園内の荘官を衆徒とし、春日社領荘園内の荘官を国民としてそれぞれ荘園の管理をさせたことに由来する。大和国の興福寺支配が確立していくと、荘園だけでなくおん祭も大和四家中の国人などが「願主人」として助力した[14]。筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏は「大和四家」と呼ばれる勢力に成長した[15]。
室町時代には、最大の筒井氏を刀禰とする戌亥脇党は5年に1回願主人として流鏑馬を勤仕した[16]。さらに十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党、一乗院門跡、後に本供目代(竹坊・喜多院)[注釈 1]を刀禰とする平田党の六党の国人たちがあった。これらは刀禰に従い、戌亥脇党・南党の両党は5年ごとに1度、長川党・長谷川党・平田党の3党は隔年ごとに、散在党は毎年流鏑馬を勤仕した[19]。
しかし、豊臣秀吉の天下統一による兵農分離と、武家への奉公人以外の惣村の雑兵浪人を追放する浪人追放令などの武家編成政策により、大和武士は消滅し、従来の形での奉仕は終焉した。越智氏・箸尾氏・福住氏は天正13年(1585年)9月に大和守護となった豊臣秀長の家臣となった。他には伊賀国転封の筒井氏家臣として移住した十市氏・中坊氏・嶋氏・布施氏・井戸氏・松蔵氏・大方氏らがいる[20]。
願主大宿所
祭礼に参仕する大和武士、衆徒、国民の願主は、大宿所に精進参籠した[21]。大宿所は、若宮祭に参仕する願主が祭礼前に精進し、祭礼奉仕に備える場所であり、準備・打合せ・宿泊の拠点でもあった[21]。願主、流鏑馬衆、田楽衆などは、社寺の奉仕者であると同時に、大和国内の在地勢力とも密接に関わっており、大宿所はこうした人びとが祭礼に先立って集まり、奉仕の準備を行う場として機能した。
近世から近代にかけて、大宿所をめぐる制度や機能は変化した。明治維新後の神仏分離と寺社制度の再編により、興福寺・春日社をめぐる旧来の祭礼秩序は大きく変化したが、若宮祭は関係者や地域社会の協力を通じて継承・再興された[22]。
中世後期から近世への変化
室町時代後期から戦国時代にかけて、若宮祭は大和国内の争乱や武家勢力の動向の影響を受けた。応仁の乱以後、大和国では国民・衆徒など在地勢力の抗争が続き、祭礼の執行も従来の秩序のまま維持されにくくなった[23]。鎌倉時代末から南北朝期にかけて、若宮祭は大和一国の大祭として盛大に行われたが、南北朝の動乱は祭礼の衰退をもたらした[24]。
室町時代から戦国時代にかけて、大和国内の政治的混乱は若宮祭の運営にも影響を及ぼした。応仁の乱後、祭礼の執行は不安定化し、15世紀から16世紀にかけて中断・衰退を経験した[25]。一方で、願主や関係者によって再興・再編も図られ、若宮祭は社会情勢に応じて形を変えながら継承された。
その後は、豊臣秀長が祭りを取り仕切る施主として願主人を丸抱えし、祭礼を事実上先導する形になった。秀長は影向松(ようごうのまつ)付近の松の下に仮屋を建ててお渡りを見分し、従者を行列に加え、馬乗100騎や多数の槍持ちを華美にした。増田長盛が跡を継いだ。江戸時代にも武家権力側の主導は続き、奈良奉行所が差配して、槍持ちや馬の費用を畿内大名や幕僚に振り分け、奉行所も大宿所費用として200両を負担した。松の下には奈良奉行が座り見分した[26]。
近代
明治時代になると、主催者であった興福寺が廃寺扱いとなり、奈良奉行所も消滅したため、おん祭は以後、春日大社の主催となった。明治維新後、神仏分離により興福寺と春日社をめぐる旧来の関係は大きく変化した。近世まで若宮祭を支えてきた興福寺・春日社一体の祭礼秩序は解体され、祭礼の執行主体や経済的基盤も再編を迫られた[27]。
明治初期には祭礼の維持が困難となったが、旧神領村など関係地域の協力を得て再興が図られ、明治22年(1889年)に若宮祭は復興された[27]。祭礼の日程も近代に改められた。若宮祭は本来、旧暦11月17日に行われていたが、明治以後の暦制の変化を経て、新暦12月17日を中心とする祭礼として定着した[27]。
明治4年には費用問題で一時的に大幅に縮小された。明治6年から民間からの大幅な寄付を集めることが許可され、信者組織の講社制度も改訂されて助力し、明治17年に春日保存会が結成され、おん祭の運営に大きな役割を果たした[28]。明治33年からは奈良市の市祭となり、市の援助を受けた。大正3年には、大阪との間の私鉄大阪電気軌道が開通し、にぎわいに努力した[29]。
1932年(昭和7年)からは大阪高島屋百貨店でも観光行事として展覧会が開催され、観光行事としての色彩が大きくなった[30]。1930年(昭和5年)に満州事変が起こり、昭和12年に日中戦争になると、武運長久の幟や旗がお渡りに掲げられ、戦時色が強くなった。昭和16年に太平洋戦争が始まると、以後徐々に縮小された[31]。
現代
1945年(昭和20年)、敗戦。同年にGHQから発せられた神道指令などによって、翌1946年(昭和21年)から奈良市をはじめとする行政の援助は停止した。奈良市の観光事業者の谷井友三郎は占領軍奈良機関と交渉し、自分の私費拠出を認めさせて1946年に開催し、継続させた。祭祀は春日大社、お渡りと後宴能は奈良市文化協会開催と分離し、以後も続いた。翌1947年も谷井が10万円を拠出して開催した。翌1948年にはおん祭特別興行を開催し、収益14万円を寄付して開催した。1949年からは谷井が尽力して奈良市観光協会を結成し、奉賛会、奈良県商工会議所と連携して開催した。
1979年(昭和54年)におん祭の芸能が「春日若宮おん祭の神事芸能」として重要無形民俗文化財に指定された[32]。これをきっかけに、1980年(昭和55年)に春日若宮おん祭保存会が保持団体として結成され、現代も継続している[33]。
行事
大宿所祭(おおしゅくしょさい)
12月15日に大宿所で行われる、おん祭を中心的に進行する大和士(やまとざむらい)らの身を清める祭。現代は奉仕者と参拝者の健康と祭りの無事を祈る。大宿所は近鉄奈良駅南の奈良もちいどの商店街の中にあり、お渡り式で使う装束などはここで準備される。大宿所では大和士、大宿所詣行列、一般参拝者らの清めのために御湯立神事(みゆたてしんじ)が行われ、おん祭の名物料理であるのっぺ汁が振る舞われる[34]。
宵宮祭・宵宮詣(よいみやさい・よいみやもうで)
宵宮祭は16日、若宮神社の神前に御戸開(みとびらき)の神饌を捧げて祭の無事を祈る行事である。宵宮祭に先立ち、大和士が流鏑馬児を伴って若宮神社の神前に御幣を捧げて拝礼を行うのが宵宮詣である。
遷幸の儀(せんこうのぎ)
17日午前0時より始まる、若宮を若宮神社本殿から御旅所のお仮殿へ遷す儀式。若宮の神霊は榊を持った神職が十重二十重に守り、お囲みして遷す。この遷幸の間は、奉仕者が絶え間なく「ヲーヲーヲー」と先払いの警蹕の声を上げながら進む。また、奉仕者に囲まれた若宮に先立ち、松明や香を持った人が進み、若宮の渡りになる道を清める。楽人は道楽の慶雲楽を奏でて供をする。この間、一般客が見学することはできるが、光の出るデジタル機器を含め照明器具の使用や写真・動画の撮影は禁じられている。遷幸の儀は「身も毛もよだつ」(二条良基『さかき葉の日記』)と形容した中世人の神への畏敬を感じさせるともされる。
暁祭(あかつきさい)
遷幸の儀のあと、午前1時頃から御旅所で行われる祭。若宮に朝の食事が供えられる。
お渡り式

12月17日正午より始まる、御旅所祭で芸能を奉納する芸能者および祭礼に関わる一行が奈良公園周辺を練り歩く行事。古来、行列は興福寺を出発していたが、現在では奈良県庁前から登大路を西に下り、近鉄奈良駅前、油坂を経由して、JR奈良駅前から東へ三条通を上り、春日大社参道にある御旅所に入る。途中、興福寺南大門跡地では南大門交名の儀が行われる。一の鳥居そばの影向の松では松の下式が行われ、猿楽座、田楽座による舞が披露される。また、大名行列は道中、奴振りの妙技を披露する。往古は奈良市中の旧村落の地元住民らにより奉仕されていたが、現在は一般公募で結成された春日若宮おん祭保存会有志によって守られている。
祭礼行列の様子は『春日若宮祭礼図』などにも描かれている。行列には稚児、馬長児、細男などが登場し、神事・芸能・行列が一体となった祭礼空間を構成した[10]。
お渡り式の順序は次の通り。
- 鼓笛隊とブラスバンドが先行。
- お渡り式に先立って先頭に藤の紋所で紅白の幟が立つ。
- 「梅白枝(うめのずばえ)」と「祝御幣(いわいのごへい)」:赤衣(あかえ)に千早(ちはや)という長い白布を肩から地面に垂らしている。
- 「十列児(とおつらのちご)」:巻纓冠(けんえいかん)に造花の桜を挿し、青摺りの袍(わたいれ)を着た騎馬の少年。
第一番 日使(ひのつかい) 第二番 神子(みこ) 第三番 細男・相撲(せいのお・すもう) 第四番 猿楽(さるがく) 第五番 田楽(でんがく) 第六番 馬長児(ばちょうのちご) 第七番 競馬(けいば) 第八番 流鏑馬(やぶさめ) 第九番 将馬(いさせうま)[注釈 2] 第十番 野太刀(のだち)他 第十一番 大和士(やまとざむらい) 第十二番 大名行列(だいみょうぎょうれつ)
南大門交名の儀
12月17日午後0時50分頃に南大門交名の儀が開始される。これは、おん祭の祭礼の元の主催者であった興福寺への敬意を表し[36]、出席する芸能者を確認する儀式である。旧南大門跡の明治時代に付けられた階段で行われている[37]。
松の下式
お渡り式の後、12月17日午後1時頃から影向の松の前の儀式となる。細男(せいのお)・田楽・猿楽が芸能の一節や所定の舞を披露する松の下式(まつのしたしき)が執り行われる[36]。松の下式は、お渡り式の途中で行われる、春日若宮おん祭を特徴づける儀礼の一つである[38]。
特に猿楽は弓矢立合を演じるが、古くは金春流・金剛流は弓矢立合、宝生流は船立合を演じることが定められていた[39]。中世には、開かれた場所で貴人・権力者が見物の民衆に威勢を示す場でもあり、馬乗り込みや槍などの行列も行われた[40]。
この松の下を通り御旅所へ参入すると、十列児は馬より降り、装束の長い裾を曳きつつ馬を曳いて芝舞台を三度廻り、馬長児は馬上のまま三度舞台を廻って退出する[36]。この時、ひで笠に付けた小さな五色の紙垂を、大童子(だいどうじ)が神前へ投ずる[36]。
金春太夫が柴の垣に結びつけた白紙を御旅所前で解いてから祭場へ入る所作は「金春の埒(らち)あけ」と呼ばれ、「埒があく」という言葉もこれから起こったと伝わる[36]。その後、興福寺ゆかりの宝蔵院流槍術家元による型奉納なども、影向の松の下で行われる[36]。
競馬(けいば)
お渡り式が御旅所に入り拝礼の儀式を行う中、参道で2馬を走らせる競馬を若宮に奉納する。
稚児流鏑馬
続いて、3人の稚児流鏑馬役の少年が、赤の水干にツヅラフジで編んだ網代笠の葛笠(つづらがさ)をかぶり、箙(えびら)を背負って弓を持ち、先頭の揚児(あげのちご)、次に射手児(いてのちご)2人が、参道の的3つを「謹上再拝」と神を拝礼しつつ唱えながら射る[41]。
御旅所祭(おたびしょさい)

17日午後2時半頃から夜遅くまで行われる、若宮に芸能を奉納するおん祭の中心となる神事。御旅所は一の鳥居と二の鳥居の間、春日大社参道沿いの奈良国立博物館の南側に設置される。お渡り式の行列が御旅所に到着した後、南面して設置されたお仮殿の南に作られた芝舞台で、社伝神楽や東遊、田楽や細男(せいのお)、三方楽所南都方の伝統を受け継ぐ南都楽所による舞楽、和舞など、日本古来の芸能が奉納される。
御旅所祭で奉納される舞楽は、南都雅楽の伝承と密接に結びついている。笠置侃一は、おん祭の御旅所祭で舞楽が奉納されることを、南都雅楽の継承を考えるうえで重要な場として位置づけている[5]。若宮神は御旅所へ遷幸し、そこで神事とともに芸能が奉納される。舞楽は、祭礼に付随する余興ではなく、若宮神への奉納として祭礼の中心的要素の一つをなしている[5]。
芝舞台の前には3メートルを越える鼉太鼓(だだいこ)が東西に一対置かれ、おん祭のシンボル的存在となっている。芸能を奉納する一行が神域である御旅所に入る前には、1メートル四方程度に柴で作られた垣根に結ばれた白紙を猿楽座の金春太夫がほどく「金春の埒あけ」が行われる。御旅所祭の間、御旅所への一般客の立ち入りは制限されるが、春日大社参道などから無料で、または桟敷席が設置された場合はそこから有料で観覧することができる。
御旅所祭で奉納される芸能は以下のとおり。
神楽(かぐら) 東遊(あずまあそび) 田楽(でんがく) 細男(せいのお) 神楽式(かぐらしき) 和舞(やまとまい) 舞楽(ぶがく)
還幸の儀(かんこうのぎ)
御旅所から若宮神社本殿へ若宮が帰るまでの儀式。17日午後11時に御旅所を発ち、18日午前0時までに若宮は若宮神社本殿へ帰る。遷幸の儀と同じく、この間の照明や撮影は禁じられている。
奉納相撲
18日午後1時より御旅所南側の特設土俵で行われる。
後宴能
奉納芸能
祭礼芸能の性格
春日若宮おん祭は、神事と芸能・武芸が組み合わされた複合的な祭礼である。祭礼には、日使、御巫、細男、田楽、猿楽、競馬、流鏑馬などの諸役・諸芸能が含まれ、若宮神への奉仕として行われた[38]。これらの奉納芸能は祭礼に付随する余興ではなく、神事の一部として位置づけられた。
一つ物
お渡り式に登場する「一つ物」は、春日若宮おん祭を特徴づける役の一つである。一つ物は馬上の稚児として行列に加わり、馬長児や供奉者を伴って進む[43]。永島福太郎は、一つ物について、祭礼行列のなかで特異な位置を占める存在であり、神の依りましとして理解されることもあると説明している[43]。
一つ物は、装束や馬上の形式、供奉者を伴う点などから、若宮祭の行列が神事・芸能・象徴的所作を組み合わせたものであることを示す。こうした要素は、春日若宮おん祭が中世祭礼芸能の構成を伝える行事として注目される理由の一つである。
永島は、とくに一つ物について、春日若宮祭に採用されたことにより伝播力を増したとし、四国、九州、中国地方、奥州などへの広がりにも触れている[44]。こうした記述は、春日若宮おん祭が中世祭礼芸能の展開において重要な場であったことを示している。
田楽・神楽・猿楽
春日若宮祭には田楽や宇治神楽などの芸能も関与し、田楽法師をはじめとする芸能者が祭礼に参仕した[45]。これらの芸能は、若宮神への奉納として行われると同時に、春日社・興福寺を中心とする中世大和の芸能環境のなかで展開した。
若宮祭では、一つ物とともに田楽も重要な芸能奉仕であった。永島は、春日若宮祭の田楽については研究が進んでいる一方、一つ物との関係にはなお検討すべき点があるとしている[44]。
春日若宮祭において行われた芸能は、祭礼内部にとどまらず、周辺社寺の祭礼にも影響を与えた。永島は、宇治神楽、田楽、一つ物などが若宮祭のなかで行われ、これらの芸能が大和国内外の祭礼へ流布したことを指摘している[46]。東大寺、石上神宮、吉野水分神社などにも、若宮祭と関連する芸能の影響が見られるとされる[46]。
このように、春日若宮おん祭は若宮神への奉納祭礼であると同時に、中世大和における祭礼芸能の展開と伝播に関わる重要な場であった。神楽、田楽、一つ物などが祭礼のなかで組み合わされ、さらに他地域の社寺祭礼へ広がったことは、おん祭の芸能史上の位置づけを示している。
競馬・流鏑馬
若宮祭には流鏑馬も含まれた。流鏑馬頭役や流鏑馬衆は、祭礼における武芸的要素を担い、国民・衆徒など中世大和の在地勢力の参仕と関わった[47]。これにより、若宮祭は神事・芸能・武芸が組み合わされた複合的な祭礼として展開した。
南都雅楽との関係
春日若宮おん祭における舞楽は、奈良における古代以来の楽舞伝承の上に位置づけられる。笠置侃一は、南都雅楽の歴史を、東大寺大仏開眼供養会を頂点とする古代以来の展開、明治3年(1870年)の南都楽所廃止以後の変遷、大正13年(1924年)の南都楽所復興以後の三期に分けて整理している[48]。
南都雅楽の前史として、笠置は、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養会における伎楽・舞楽を挙げている。この法会には聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が参列し、『東大寺要録』には伎楽、久米舞、楯伏舞、漢舞、唐古楽、唐散楽、高麗楽などの演目が記される[49]。
笠置は、朝鮮半島の三国や渤海、中国から伝えられた楽舞が、国家儀礼や仏教寺院の法会と結びつきながら受容され、数百年の変遷を経て雅楽のもとになったと説明している[50]。春日若宮おん祭の舞楽も、こうした南都雅楽の系譜のなかで理解される。
また、奈良は平安遷都後も雅楽伝承の重要な拠点であり続け、南都の楽人たちは春日社・興福寺・東大寺などの大寺社祭礼に関与した[51]。春日若宮おん祭は、そうした南都の楽舞伝承が中世以後も具体的に生き続けた場の一つである。
明治3年(1870年)の楽制再編により南都楽所の楽人が東京へ移った後も、春日大社における舞楽奉納は奈良に残った関係者によって継続された[52]。笠置は、明治9年(1876年)に楽人名簿が確認され、明治10年(1877年)には春日の神官が西京雅楽局へ派遣されたことを挙げ、南都雅楽の継承が断絶を避けるために模索されたことを説明している[52]。
明治以後、南都雅楽の担い手は大きく再編されたが、春日若宮おん祭は舞楽継承の重要な場であり続けた。明治33年(1900年)には奈良雅楽会が成立し、のち奈良楽家保存会・春日古楽保存会などの保存組織が現れ、春日社、東大寺、法隆寺などで舞楽奉仕が行われた[53]。こうした保存団体の活動により、おん祭における雅楽・舞楽の奉納は近代以後も継続された。
保存と文化財指定
明治期の奈良では、雅楽・舞楽は祭礼や法会の奉納だけでなく、博覧会など近代的な公開空間でも上演された。明治6年の奈良博覧会とその後の奈良博覧会社の活動は、南都雅楽を「見せる芸能」として公開する契機となり、観光・公開・保存という新たな文脈のなかで継承を支えた[54]。
昭和初期には雅楽の公開・放送も行われ、NHK大阪放送局による放送を通じて、おん祭や南都雅楽はより広い聴衆に知られるようになった[55]。
戦後、春日若宮おん祭は文化財保護制度のもとでも保存の対象となった。昭和25年(1950年)に文化財保護法が成立すると、昭和27年(1952年)3月におん祭は国の芸能関係の選定を受け、昭和28年(1953年)3月には舞楽を含めた指定も受けた[55]。昭和43年(1968年)2月には社団法人南都楽所が結成され、春日若宮おん祭における舞楽奉納を含む南都雅楽の保存・継承を担うことになった[55]。
昭和44年(1969年)、春日大社は財団法人春日顕彰会を設立し、南都楽所への助成、保護育成、調査研究を行った[56]。昭和51年(1976年)12月8日には、春日若宮おん祭の芸能が、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定され、映画・ビデオ撮影や記録作成が進められた[56]。さらに昭和54年(1979年)2月3日には、春日若宮おん祭が重要無形民俗文化財に指定された[56]。
昭和60年(1985年)には春日若宮おん祭が850年を迎え、テレビ放映や舞楽公演などを通じて広く紹介された[56]。
21世紀の変更
- 2013年福知山花火大会露店爆発事故を受けて、2014年1月、消防庁が自治体の火災予防条例を改正するよう通知し[57]、奈良市もおん祭を主とする大規模な催しでは主催者らに消防署に防火計画の提出を義務化し、2014年から春日大社に露店での自家発電機の禁止とガードマンなどによる見回りが義務付けられた。
- 20世紀末に、温暖化の影響でそれまでの降雪が雨となり、1996年にお渡り式の装備や衣装に被害が出たため、天候が強い降雨時は対処するように「雨儀要項」が定められた。2019年にはお渡り式を縮小し、松の下式の猿楽や田楽も軽易とした[58]。2022年にもお渡り式を縮小し、約20人、距離も参道300メートルのみにした[59]。以後も天候に応じて同様の対応が行われる。
- 2020年・2021年は新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、お渡り式の規模を縮小して行われた[60][61]。