末光鉄之助
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山口県豊浦郡赤間関(現下関市)[4]で同県人・末光貞右衛門の長男として生まれ、1929年に家督を相続する。住所は山口県下関市阿弥陀寺町(赤間神宮の所在地)、山口県在籍[1]。
山口県内の新聞社である馬関物価日報、下関実業日報、関門日日新聞社などの複数の新聞社及び東京等複数の支社の社長等を務める[1]。
中でも、関門日日新聞社は、当時の山口県下では、発行部数トップの新聞社であった[8]。
関門日日新聞は、当時としては鉄之助の進取的な経営感覚かつ先んじてユニークな視点を以て、朝日新聞、毎日新聞(東京日日新聞)等の中央紙の進出に対抗し、地方紙としての実績は中央でも高く評価された[4]。
新聞社法人としては、1940年(昭和15年)6月29日に閑院参謀総長宮殿下報道陣の活躍御嘉賞(参謀総長 閑院宮載仁親王)を受賞[7]。
鉄之助個人としては、1942年(昭和17年)にジャーナリスト徳富蘇峰らと共に日本新聞協会総裁から表彰を受け、東京においてもその存在感、評価の高い人物であった[4]。
また、書簡を思想家、評論家でもあった徳富蘇峰に宛てるなど思想家、言論人の一面もあった[9]。
なお、末光家の祖先は代々上級藩士だったが、長州藩毛利家の藩主が四面楚歌の危機にあった際に、豪火の中を馬で跳び越え救ったことにより、子孫が末長く繁栄するようにと藩主の想いから、「末(すえ)光(ひかる)」という縁起のものの氏を授かり、末光家一族は毛利家の次席家老に取り立てられ子孫は江戸時代が終焉を迎えるまで藩の要職に就いた[10]。
なお、末光家の祖先は代々上級藩士だったが、長州藩毛利家の藩主が四面楚歌の危機にあった際に、豪火の中を馬で跳び越え救ったことにより、子孫が末長く繁栄するようにと藩主の想いから、「末(すえ)光(ひかる)」という縁起のものの氏を授かり、末光家一族は毛利家の次席家老に取り立てられ子孫は江戸時代が終焉を迎えるまで藩の要職に就いた[10]。
江戸時代の末光家邸宅の所有地は、下関市を代表する文化財であり壇ノ浦の合戦で敗北した安徳天皇を祀る赤間神社(阿弥陀寺)や天照皇大神・明治天皇などを主祭神とする大連神社(「現赤間神宮」)と江戸時代に朝鮮通信使の宿泊所となった「引接寺」の間に所在していた。その末光家邸宅の敷地内(現在の春帆楼(ふぐ料理公許第一号店)本店(初代内閣総理大臣伊藤博文御用達)の西側)には、末光家が守護するようにと命ぜられた御神体及び御本尊が祭られた神社仏閣(天神社、西福院)の双方があり、末光家の監督下に置かれていた[10]。なお、明治維新の功労者である高杉晋作を隊長とする奇兵隊の本拠地として阿弥陀寺(赤間神宮)が使用されたことはつとに有名である。
また、末光家邸宅の崖の下(北側)には、毛利藩(長府藩)赤間関の各式の高い家柄にあり大年寄であった伊藤家邸宅(伊藤家本陣)が所在していたが、伊藤家は藩によって一時拘束逮捕及び牢屋処分をされた。その伊藤家を崖の上から監視することになった末光家は、毛利藩の武家階級の中でも更に高い地位となる[10]。なお、伊藤家本陣の伊藤助太夫は、幕末に坂本龍馬と親交を深かめ長州藩内部の派閥に係る一次暴動事件を未然に防ぎ大規模暴行事件を止めたなど多くの功績を残している 。なお、その後、明治時代を経て昭和時代に入り、関門日日新聞社長時代の末光家邸宅の所有地( 山口県下関市阿弥陀寺町104( 山口県下関市阿弥陀寺町104[1])) は、日清講和条約の際、清国全権大使の李鴻章が宿泊していた引接寺から日清講和会場まで使われたという李鴻章道沿いに現存し街道名(李鴻章道)から、江戸時代の敷地と同一であることが判明する[10]。
さらに、末光家の当該所有地や東京都西麻布及び南麻布(一部広尾)は、戦後、末光家が指揮を執った全ての新聞社が大日本帝国が引き起こした大東亜戦争に加担牽引したことから当時の全新聞社の社長であった末光正人は、戦犯とされ、金融資産等に係る動産及びその他の土地建物等に係る不動産とともに凍結され、GHQ(連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー)の所有下(指揮下)におかれた[10]。