桃花坊文庫
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本文庫は、大内裏一条坊門邸(桃華御殿)に設けられた。兼良がここに住して「桃華坊」と称し、自らも桃華老人、桃華野人などと号したことから、文庫も「桃華坊文庫」と呼ばれるようになった。
設立者・一条兼良について
一条家第八代当主である兼良は、関白・経嗣の二男として生まれ(一条禅閣とも称す)、応永28年(1421年)の内大臣就任以降、左大臣、摂政、関白へと昇り詰めた人物である。彼はこうした政治的地位のみならず、学問においても「当代第一」と称賛されるほどの博識を誇り、神典・儒教・仏教に精通していた。著書も『新玉集』、『筆椛』、『公事根源』、『文明一統記』、『樵談治要』など多岐にわたる。
蔵書の内容
桃華坊文庫の名声が高まった背景には、この兼良の学識がある。文庫には、摂関家累代の公私記録文書に加え、兼良自身が収集した膨大な和漢の図書が大集蔵され、当代屈指の文庫となった。 兼良の著書『桃華蘂葉』には、以下の「当家相伝十二合文書」や「当家相伝正記事」などの目録が記されており、当時の収蔵内容の一部を伺い知ることができる。
当家相伝十二合文書事、
太宰、即位灌頂印明事、大甞会神膳、玉林抄等納之、
今三合、大司徒、大司馬、小司馬、応仁之乱於毘沙門谷焼失畢、此中一合者、自以前於二条家門被借失了、
小宰、恒例臨時公事次第、并節会笏紙等納之、此中後京極殿三節次第、峯殿大甞会次第六帖、卯日神膳次第一巻等秘書也、
大司空、節会抄也、松殿口伝物召音、円明寺殿三節会御抄等在之、
小司空、官奏抄也、荒奏和奏等屈行膝行作法、進退口伝故実等在之、但近代中絶公事也、不可立用者歟、
大司寇、叙位執筆抄也、旧次第新抄等加入之、
小司寇、女位執筆抄也、法性寺殿以来執筆事、殊執之可懇見也、
小司徒、除目抄也、大間成文抄、後京御抄、魚秘抄写本、後京御筆、納之、
大宗伯、又除目抄也、記録抄等并魚秘抄、月輪御筆、納之、
小宗伯、又除目抄也、直廬叙位除目抄等加納之、
焼失説と罹災説
焼失説
桃華坊は、一条家の祖実経の代に始まり、第八代兼良のときに応仁の乱に過った。通説による、この文庫が焼失したと記しているが、あの時文庫も焼失したという記事と、罹災したという記事が、両説が今日まで引き継がれている。『大乗院日記目録』応仁元年9月18日の条に
数代の記録は焼失したが、その一部百合ばかりは取り出して光明峯寺に納めたというのである。『宗賢卿記』同日条には「日野内府亭、一条殿兼良関白以下炎上」とあり、『後法興院記』同19日の条に「昨日焼亡一条家門、幷日野内府亭云々」と記されている。光明峯寺は毘沙門堂谷に在り、九条道家の終焉の地であり、一条家の管理する寺院の一つでった。『大乗院日記目録』の記事は文庫は焼失したので急遽百合ばかりを集めて光明峯寺に取り出したと云う意味と解される。
罹災説
一方罹炎説を記するものには『続本朝通鑑』がある。第171巻の応仁2年8月の条に、
この『続本朝通鑑』の記事について大森金五郎氏は昭和三年に『日本中世史論考』の中の「応仁の乱と一条家の蔵書」という論文の中で、『続本朝通鑑』の記事の出典が不明であると述べ、桃華坊が災を免れという様な記事は一向に見えないのは如何なものかと疑問を提出し、更に『続本朝通鑑』の記事が『竹林抄』の記事と符号しないように感じがあるとし、結論として「兎に一条家の第邸を焼けて記録文書の大部は焼失したものと見える」。
盗賊が文庫を壊す
失われた和漢の典籍
『竹林抄』は連歌師宗祇が編集した連歌集で、一条兼良が序を付したものである。その序文の中で、兼良は二条良基が『莬玖波集』を撰び勅撰となってから、連歌も勅撰の和歌と肩をならべ天下にもてはやされるように、次のように述べている。
かゝりけれはおろかなる翁、かうはしき跡をしたひ、のこれる言の葉をひろひて一万句をゑらひ、二十巻となして新玉集となつけ、つくはの跡にまかせて、綸命を申うくへきはかりになして、しはらく桃の花の坊の文庫におさめをきし、折ふしはからさるに応仁の大なるみたれいてきて、蓬か宿は焼野の原となりぬるのみならす、そのあたりのしらなみたちこそりて、七百合はかりのしみの栖をひきちらし、おほちをほくとなせるとそきこえし、かゝりけれは新玉のひかりもいつちへか消えうせけん、あさちか原の露のみそふかゝりける、爰に宗祇といへるひとりの世捨人ありけり、七人の連歌をあつめて十巻となして、竹林抄と名つけけり、おもひよれる処なさけあるに似たれは、則かれかのそむにまかせて、いさゝか筆の跡にあらはせり、
この序文によれば、兼良自身が一万句を撰び、『新玉集』二十巻の編集も終わり、勅撰の連歌集にと願い、桃華坊に納めておいたが、図らずも大乱に遇い、白浪どもが七百合もあった諸本を引きちらしてしまい、都大路を反故にしてしまったと聞いた。そのために『続莬玖波集』はどこにかに消えうせてしまった。自分も今しばらく存命するならば、『続莬玖波集』を集めたいと述べている。兼良75歳、文明8年5月のことである。
『筆のすさび』の叙述
『竹林抄』の序文よく一致される史料は『筆のすさび』があった、『筆のすさび』は、興福寺の僧坊で連歌に関する随筆を書いたもので、序文の外に斯道の先進、救済、良阿、周阿、頓阿、順覚らの名句をあげ、多少の批判を加えている。成立は応仁2年9月あるという(福井久蔵氏説)。桃華坊文庫罹炎上してから一年後のことである。兼良はこの『筆のすさび』の序の中で、桃華坊について次のように記している。
蓬が門をうかれ出でゝしばしは九條のほとりに宿りを借り、こし方を顧み侍れば幾程もなく一片の煙とたち上りて燒野が原となりにけり。一宇の文庫は瓦を葺き土を塗りしるしにや、餘焔にはのがれ侍りしかどもそのあたりの白波どもたちこぞりて錢帛をおさめ置きたるとや思ひけん。時の程にうち破て數百合のしみのすみかを引き散らして十餘代家に傳へし和漢の書籍ども一卷殘らずなりにけり。老鶴の巣をはなれ盲目の杖を失へるに異ならず。
兼良自身が書いた『竹林抄』『筆のすさび』記事を総括すると、一条累代の貴重な記録や和漢の書籍およそ七百合ばかりあり、それは瓦葺きの土蔵に格納されていたので、幸い本邸の火災にも類焼を免れることできた。しかし土 蔵は盗賊どもに破壊され、貴重な記録などが都大路に散乱してしまい、一巻も残らなかった、と兼良は嘆くのである。百合ばかりは光明峯寺に取り出されたとあるのは、一条家邸が兵火で焼失する以前に、特に貴重なものを搬運し終わっており、それが百合ばかりであったのか、それとも都大路に散乱したものを集めて光明峯寺に運んでだのか、おそらく前者であったと思われる。東西両陣営の戦闘が近づき、危険を迫ってくるのを察知し、万一の場合を想定し、早くから最も貴重なもの百合ばかりを疎開したのであろう。一条の本邸が焼け落ちた時は、兼良は桃華坊に居なかった。その頃、兼良は九条の東寺随心院に妻と共に避難している。随心院は兼良自筆の『桃華蘂葉』の「家門末子入室門跡寺事」の条に見えており、「随心院、代々当家由緒、不及子細、故門主祐厳准后、今門主厳宝僧正、為愚息之上者、不可有不審者也」と記しているように、随心院の門主は息子であった。『竹林抄』に「そのあたりのしらなみたちこぞりて、七百合ばかりのしみの栖をひきちらし、おほづをほぐとなせるとぞきこえし」と書いたように、自ら直接出かけて行って破毀された文庫を目の辺りに見て、百合ばかりを集めたとは考えられない。
残りの百合記録
こうして、はじめ七百合もあったものが百合ばかりになってしまった。やがて年は改まり、ほぼ一年がすぎた。戦禍は次第に拡大し、光明峯寺も安泰ではなくなった。応仁2年8月14日の『大乗院日記目録』に、
峰殿悉以焼失了、関白家記録三十余合焼了、其餘召下南郡、御影御座禅定院、
と記しているが、百合あまりあったものが、また三十余合はなくなってしまったごとが分かる。残ったものは六十余合ということになる。これらの経過から、一条家の蔵書は90パーセント以上が損亡してしまったことになる。
「合」の意味
本居宣長は『玉勝間』の中で、「桃華坊のふみぐらのふみの事」として次のように述べている。
応仁のまだれに、一条兼良おとゞの、桃華坊の文庫やけて、野原となり、そのあたりの盗賊ども、たちこぞりて、七百余合のしみのすみかを引きちらし、大路を反古となしたりしよし、此おゞの、竹林抄の序にかゝせ給へり。まだれ世のしわざ、あさましなどもようのつね也。そもそも七百余合の書は、合ごとに五十巻とはかりて、三万五千余巻のふみ也。
六十余合ともなると、宣長の言から計算しても三千巻以上の大部なものとなる、『経覚私要鈔』の応仁2年4月16日の条に、
一自一条大閤殿下社家ヘ人夫事卅人可進之由、被仰遣之処、十四五人進之云々、其夫今日少々上之、是記録等為被下置云々、
とあるから、光明峯寺が焼失する半年前から遂次搬出しはじめたのである。しかし、三十余合は取り出されないうちに兵火にかかって焼失してしまった。光明峯寺について、兼良自身が次のように書いている。