橋本圭三郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年(明治17年)に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年(明治23年)、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。
その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年(明治38年)に横浜税関長、1907年(明治40年)に主計局長、1911年(明治41年)には大蔵次官となる。さらに、1912年(明治42年)12月5日に貴族院議員に勅選され[1]、1946年(昭和21年)まで努めた。1913年には農商務次官に就任した。
1916年(大正5年)、山田又七に代わって宝田石油の社長に就任すると、日本の石油業界の国際競争力を高めるため、ライバルであった日本石油との合併を画策する。1921年(大正10年)、日本石油の内藤久寛を社長に据え、宝田の橋本が副社長となることで、この大合併は成就した。橋本は1926年(大正15年)から1944年(昭和19年)まで社長を務める。
1926年(大正15年)6月7日には北樺太石油の取締役に就任[2]。また、同年8月16日には、北樺太鉱業の取締役に就任[3]。さらに、この年、内藤の引退に伴い、日本石油の第二代社長に就任(1944年まで在任)。
この間、1931年(昭和6年)に設立された帝国飛行協会の会長梨本宮のもとで副会長となり、日本に飛来した米国人飛行家のリンドバーグ夫妻の滞在を取り仕切った[4][注釈 1]。1934年(昭和9年)には満州石油会社法て設立された大連の満州石油の理事長となり、1939年(昭和14年)には東亜燃料工業を設立し初代会長となった[5]。
1941年(昭和16年)には帝国石油株式会社の総裁となった。また、1945年(昭和20年)から1948年(昭和23年)まで、社団法人燃料協会の会長を務めた。
著述
- 橋本圭三郎『液体燃料問題解決の第二歩として液体燃料局創設の必要を力説す』1935年。
- 橋本圭三郎『我が回顧録』石油文化社、1958年。

