村上孝太郎
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| 村上 孝太郎 | |
|---|---|
| 生年月日 | 1916年6月29日 |
| 出生地 | 東京府(本籍地:愛媛県[1]越智郡宮窪村(現・今治市)[2] |
| 没年月日 | 1971年9月8日(55歳没) |
| 出身校 |
広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校) 旧制第一高等学校 東京帝国大学法学部政治学科[1] |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 従三位・勲二等瑞宝章 |
| 親族 |
祖父・村上紋四郎 父・村上常太郎 弟・村上信二郎 弟・村上清 甥(信二郎の長男)・村上誠一郎 義甥(誠一郎の妹の夫)・岡田克也 |
| 在任期間 | 1971年7月8日 - 1971年9月8日 |
| 在任期間 | 1968年6月7日 - 1969年8月6日 |
| 在任期間 | 1967年1月10日 - 1968年6月7日 |
村上 孝太郎(むらかみ こうたろう、1916年(大正5年)6月29日[3] - 1971年(昭和46年)9月8日[1])は、日本の大蔵官僚、政治家。
本籍地は愛媛県越智郡宮窪村(宮窪町を経て現・今治市)[4]。東京で村上常太郎の長男として生まれる[5]。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、1939年(昭和14年)東京帝国大学法学部政治学科卒業[1]。
東京帝大在学中の1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格[5]。卒業後は大蔵省に入省[6]。配属先は専売局長官官房書記兼大臣官房文書課[7][8]。神戸税関総務部長[8]、神戸税関業務部長兼税関長官房主事[8]を経て1942年(昭和17年)1月、大蔵事務官・理財局勤務となり第四艦隊司令部付が発令されラバウルに赴任[5]。同年7月、第八艦隊司令部付・ニューブリテン民政部勤務に転じ、1943年(昭和18年)6月まで在任して同年7月に帰国した[5][9]。その後、主計局主計官(商工、労働、連絡調整担当)、主計局主計官兼主計局総務課[8]、主計局主計官(総理府担当)、主計局主計官(保安担当)、主計局法規課長[10]、主計局総務課長、経済企画庁長官官房長[11]などを経て、1965年(昭和40年)4月23日、大蔵省官房長。
官房長在任中に証券不況が発生、歳入不足を補う目的の下、大蔵省は戦後初めてとなる赤字国債の発行を余儀なくされる。この時は不況は短期間で回復し、赤字国債の発行はこの一年のみであったが、当時は戦時中の無尽蔵な国債発行による悪性インフレの記憶が生々しく、省内では、高度経済成長が終焉した後、福祉予算の拡大による赤字国債発行の常態化と健全財政の破綻を危ぶむ見解が広がる[12]。村上以下大蔵省中枢部の研究が行われ、予算の計上する無駄な出費を減額する方向で調整がなされる。省内研究会は、単年度予算という予算編成方針を問題視した。すなわち、従来は年度内に国債消化を完了させるべく、不必要な出費が年度末に行われていた。これに対し大蔵省は、年度内に消化の終わる見込みのない国債は翌年へ繰り越すことを可能にすることで、臨機応変な経済政策をできるようになり、国庫が赤字になる事態が避けられる、とした[13][14]。ところが、これに対して内閣法制局(高辻正己長官)は、複数年度予算を前提としたこの制度を、会計年度独立の原則を定めた憲法86条違反であると指摘。健全財政の維持に向けた取り組みを鶴の一声で潰した[15]。法制局の意見により健全財政の維持策を潰された村上らは次善の策として、1968年より「財政硬直化打破キャンペーン」を開始。歳出削減により健全財政を維持すべく、国会議員の説得に回った。しかし当時の議員らは村上らの真意をいぶかしみ、さしたる効果を上げることはなかった[16][17]。
1967年、主計局長[1]。1968年、事務次官[1]。退官後、1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党の公認を受け、『走れコウタロー』をキャンペーンソングに初当選したが、登院は1日のみで癌で倒れ、わずか3か月後の同年9月8日に、参議院議員在任のまま肝硬変のため死去、55歳[6][18]。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈、従六位から従三位に叙され[19]。なお、選挙に当たっては全農、九州酒造杜氏組合、キリンビール名古屋支店などから支援を受けたが、支援者の中から法定外文書違反、買収で22人の逮捕者を出している[20]。