紀藤真琴

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1965-05-12) 1965年5月12日(60歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
紀藤 真琴
統一セブンイレブン・ライオンズでのコーチ時代
(2012年9月7日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市緑区[1][2]
生年月日 (1965-05-12) 1965年5月12日(60歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト3位
初出場 1987年5月28日
最終出場 2005年8月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

紀藤 真琴(きとう まこと、1965年5月12日 - )は、愛知県名古屋市緑区出身の元プロ野球選手投手[1][2]コーチ。右投右打。

NPBにおける現役時代は主にセントラル・リーグ広島東洋カープ1984年から2000年まで在籍)でプレーし、1990年代序盤は中継ぎエースとして[3]、同年代中ごろの1994年から1997年ごろにかけては先発のエースとしてそれぞれ活躍した[4][5][6][7]。またセ・リーグの中日ドラゴンズパシフィック・リーグ東北楽天ゴールデンイーグルスでもプレーし、2005年限りで現役を引退するまでの通算22年間で474試合に登板[8]、787316セーブ[9]防御率4.07を記録した[8]

愛称マコトキトちゃん[10]。高校時代はキトチャと呼ばれていた[11]

中学時代まで

出身地は名古屋市緑区だが[1][2]、出身小中学校は名古屋市天白区市立高坂小学校市立久方中学校である[12][13]。プロ入り後の1986年時点では実家は名古屋市緑区にあると報じられている[14]

子供のころから中日ドラゴンズファンだった[13]。父親はかつて増田清商店に勤務[15]高校大学社会人野球をしており、中京大学硬式野球部時代に立教大学時代の長嶋茂雄と対戦し[16]三振を奪った経験があったという[17]。また社会人野球では日鉱日立愛知マツダで投手経験があった[8]。小中学校の2年先輩に工藤公康がおり[18][12]、互いの実家も道路を挟んだ近所同士だった[16][17]。工藤と知り合ったきっかけは小学校入学時、父から「近所に野球のうまい子がいる。お前も一緒にやれ」と命じられたことがきっかけだという[17]

小学5年生の時から元プロ野球選手の河村保彦が運営する野球チーム「平針HBC少年野球クラブ」に入っていた[16]。中学時代は工藤とともに夜間のランニングに励み[17]、中学野球部時代からその実力は噂になり、中学3年時には愛知県内の野球強豪校の監督たちが軒並み自宅までスカウトに訪れたほどだった[19]

中京高校時代

高校進学にあたっては様々な野球強豪校から勧誘を受け、名古屋電気高校に進学していた工藤からも「名電に来い」と勧誘されていたが、中京高校を進学先に選択した[17]。理由は、中京のユニフォームへの憧れがあったからだという[17][19]

高校時代は控え投手兼外野手として1982年第54回選抜第64回全国選手権1983年第65回全国選手権に出場した。エース野中徹博に次ぐ2番手投手であり[20][21]、ここ一番の試合では登板させられず[20]、外野手を守るケースが多かったが、甲子園では3試合に登板した[22]。同期には3番手投手の森昌彦[23]鈴木俊雄[24]伊藤準規の父親がいた[25]。また2年後輩には山口貴光がいた[26]。当時の野球部監督だった杉浦藤文は、野中・紀藤・森の3人の中で一番体ができていたのは野中であると語っており、紀藤本人も高校時代は野中は制球力が良く、カーブストライクも取れたが、自分と森は制球力は二の次で直球をどんどん投げ込んでいたと語っている[27]

2年生だった1982年の夏の甲子園では準決勝で広島商業高校に敗退した[24]。3年生になった1983年の夏の地区予選では7試合を野中と交互に投げ合い、22イニングを投げて4被安打だった一方、野中は31イニングを投げて15被安打だった[20][8]。甲子園ではエースを担った野中の控え投手として右翼手を守り、五番打者を担った[28]。また同年秋の国体では決勝の対横浜商業高校戦で先発登板し、4対3で完投勝利[28]、優勝投手になった[8]。同年は公式戦で5本塁打を記録した[8]。一方で高校時代には7回にわたって左足首の靭帯を痛めていた[29]

ドラフト3位で広島入団

1983年11月22日に開催されたNPBドラフト会議では、三浦将明中日ドラゴンズ横浜大洋ホエールズ広島東洋カープの3球団が競合、中日が交渉権獲得)の抽選に敗れた広島から3位指名を受けた[15]。ドラフト会議前には社会人野球日本石油に入団することが内定していたため、入団交渉が遅れていたが、同年12月17日に契約金2800万年俸360万円の契約条件で広島と仮契約したと報じられ[28]、同月24日に入団発表を行った[30]。しかし、後年に本人は契約金3000万円だったと語っている[31]。本人はプロ入りの際、父親から「社会人で腕を磨いてからでもプロ入りは遅くない」と説得されていたが、「プロ入りが小さいころから夢」と意思を貫き通したという[8]背番号55[32]

担当スカウトは球団スカウト部長を務めていた木庭教で、木庭は当時、紀藤の体のバネの良さや球速は高校生でもトップクラスであり、将来性は野中以上と高く評価していた[28]。また、木庭は紀藤の野球センスの良さ、球速やボールのキレ[注 1]、負けん気の強さを高く評価したとも報じられている[33]。また当時広島球団のスカウトだった宮本洋二郎も、野中に注目する他球団のスカウトを尻目に紀藤に注目していたという[34]。投手としての指名だったが、パンチ力のある打撃から外野手もできると評されており[35]、ドラフト会議前には外野手として指名候補に挙げる新聞もあった[36]

紀藤本人は中日が第1希望だったといい[37]、中日も1位を藤王康晴、2位を野中と決めていた一方、抽選で彼らの交渉権獲得に失敗した場合の外れ指名候補の一人として紀藤をリストアップしていたが[38]、最終的には藤王の単独1位指名に成功、2位で仁村徹を単独指名、そして3位で広島や大洋との競合の末に三浦の交渉権獲得に成功した[39]。このため、紀藤は中日からは指名されなかった[37][31]。野中は阪急ブレーブスに1位指名されたが、紀藤とは互いに「日本シリーズで対戦しよう」と約束したという[40]

広島時代

1984年から2000年まで17シーズンにわたり広島でプレーし、先発中継ぎ抑えの全てで起用された[13]。広島時代の通算成績は380試合登板、655515セーブ防御率3.98[41]

1993年まで

プロ入り1年目の1984年は卒業試験の都合上[20]、1月10日から大野屋内総合練習場で行われた合同自主トレーニング[42]には年明けの3日間のみの参加となった[20]。このころから合宿所「三省寮」での生活が始まったが、本人曰く寮生活は人生初で緊張していたという[43]。2月1日からの沖縄春季キャンプでは監督古葉竹識から「早くピッチングを見たい」と目をかけられ、高卒新人としては唯一主力組に抜擢された[20]。しかしキャンプ初日に右手中指に血豆を作り、3日目には左足首を痛め[20]、同キャンプ初の離脱者となった[29]。このため、その後は2、3日間個別メニューで練習することになった[29]。本人も「一、二年目は体づくりに専念する」と語っており[20]、同年からシーズンから3年目の1986年は一軍(セントラル・リーグ)公式戦では登板機会はなく、二軍ウエスタン・リーグ)でのみプレーしていた[22]。1984年はウエスタン・リーグで020セーブ防御率4.24の成績であった[44]。2年目の1985年にはジュニアオールスターゲームに出場し、21試合に登板して9勝4敗1セーブ、防御率2.96の成績を残したが、オフには右腕血行障害の手術を受けた[14]。若手時代は速球も変化球も一級品と評され[22]、気の強さを高く評価されていた[3]。しかし故障がちで素質を生かせず[3]先発ローテーションの谷間や中継ぎで投げることが多く[22]、一時は右手指の血行障害で野手転向するか、引退するかも考えていたという[3][45]

1987年5月28日の対ヤクルトスワローズ7回戦(広島市民球場)で5番手投手として登板[46]、一軍初登板を果たす[13]。この試合では8回から登板し、ボブ・ホーナーらから2イニングで5奪三振を記録したが[46]、それ以降も首脳陣はなかなか先発として起用しなかった[47]。この試合では8回の三振はすべてフォークボールで奪ったという[46]。この年は0勝3敗に終わったが、18試合に登板し[13]、頭角を現す[48]。14試合目の登板となった8月14日を最後にしばらく一軍では登板機会がなかったが、15試合目の登板となった同年10月4日の対中日ドラゴンズ25回戦(広島市民球場)でプロ初先発を果たすと、速球をベースにカーブとフォークを織り交ぜ、ピンチを得意のフォークで切り抜ける投球で6イニング2/3を投げて自責点1と好投したものの、打線の援護がなく、プロ入り後初の敗戦投手になった[49]。またこの試合ではバッテリーを組んだ達川光男ミットを構えていた位置になかなかボールが来ず、6回表には大島康徳に投げた初球を達川が右手親指の爪に当てて退場、山中潔が代わってマスクを被った[49]。同月10日の対読売ジャイアンツ(巨人)23回戦(広島市民球場)で16試合目の登板(2度目の先発登板)を果たすと、桑田真澄と延長11回途中まで投げ合い、10イニング1/3を投げて自責点1に抑えたが、1対1の同点で迎えた延長11回表の巨人の攻撃で駒田徳広岡崎郁に連打を浴びて降板、2番手投手として登板した津田恒美松本匡史を一塁左へのゴロに打ち取るも、この打球を一塁手小早川毅彦がファンブルした末に悪送球し、二塁走者の駒田が生還、さらに犠飛で計2点を失い、紀藤は敗戦投手になった[47]。そして同月15日の対ヤクルト24回戦(広島市民球場、ダブルヘッダー第2試合)で先発として17試合目の登板を果たしたが、球のキレがなく、1回表にレオン・リーから3点本塁打を被弾、3回表にも秦真司から3点本塁打を被弾するなど、3イニングを投げて7失点と振るわず、3敗目を喫した[50]。同年オフには前年比40%増額となる年俸500万円で契約更改[51]、背番号を入団時から着用していた55から12に変更した[52]。『中国新聞』記者の山田精三は同年から紀藤に注目しており[49]、もし紀藤を早くから先発で起用していれば巨人ではなく広島が同年のセントラル・リーグを優勝できていたかもしれないと評していた[47]

1988年シーズン開幕前には、監督の阿南準郎から北別府学大野豊川口和久長冨浩志白武佳久とともに先発投手6人のうちの1人[注 2]として期待を受け、「期待以上によくなっている投手」として名前を挙げられており[55]、2桁勝利を期待された[56]。しかし「2年目のジンクス」の前に伸び悩み[48]、好不調の波が極端だったものの[53]、プロ初勝利を含む4勝3防御率3.66の成績を残した。シーズン初登板となった同年4月17日の対ヤクルト2回戦(広島市民球場)で先発登板するも、速球が走らず、変化球も甘く入ったところを痛打され、初回に1点、3回に4点を失い、3イニング5失点で降板して敗戦投手になった[57]。しかし試合後、投手コーチの安仁屋宗八から「もう一度チャンスを与える」と言われ、同月21日の対巨人3回戦(東京ドーム)では先発として5回0/3を投げ、5回まではスピード、変化球のキレのよい投球で相手打線を長打なしに抑えるものの、2対0とリードしていた6回無死に岡崎郁から中前打を打たれ、ウォーレン・クロマティとの対戦途中で山本和男に交代させられ、その山本がクロマティに安打を許して続く原辰徳に逆転3点本塁打を打たれ、初勝利を逃した[58]。3試合目の登板となった同月27日の対中日ドラゴンズ2回戦(広島市民球場)で先発し、完璧な調子ではなかったものの、阿南からは「相手に的を絞らせなかったのでなんとかいけると思ったから」と8回1死まで続投させられ、相手打線を4安打、3失点に抑え、プロ初勝利を挙げた[59]。阿南曰く、前回の巨人戦で勝利投手になり損ねた紀藤にこの試合ではどうしても勝たせたかったという[59]。6月以降は敗戦処理先発ローテーションの谷間で起用されることが多かったが[53]、同年8月12日の対横浜大洋ホエールズ17回戦(広島市民球場)では3回表1死二、三塁のピンチから3番手投手として登板、四番打者カルロス・ポンセや五番打者のジム・パチョレックを速球で打ち取った[48]。4回以降は速球主体の投球で、最終的に試合終了まで6イニング2/3を投げて10奪三振を記録、2勝目を挙げたが、この試合では4回表から6回表にかけ、7打者連続奪三振を記録[48]、当時の球団タイ記録となった[60]。この記録はセ・リーグ記録にあと1つと迫るものでもあった[48]。また同年10月12日の対大洋25回戦(広島市民球場、ダブルヘッダー第1試合)で9回を投げて4被安打、3回表の1失点に抑え、プロ初完投勝利を記録した[61]。同年オフには背番号を11に変更した[62]。これはそれまで11を着用していた高木宣宏との間で、高木の背番号12と自身の背番号11を交換したものであり、そのきっかけはかつて12を着用していた高木が12時代の1985年に9勝を挙げた一方、11に変更した1986年以降は左肩を痛めて低迷していたことから、12に変更しながらあまり期待通りの活躍ができなかった紀藤に対し、背番号の交換を持ちかけたことであった[56]

1989年シーズンは中継ぎとしてセ・リーグ最多の61試合に登板し[63]、4勝1敗7セーブ、防御率2.68を記録した[64]。同年は先発登板は1試合もなかった[64]

1990年シーズンは2度の出場選手登録抹消を経験し、登板数は前年より少ない36試合にとどまったが[65]、3勝1敗1セーブ、防御率2.58の成績を記録した[64]。同年はシーズン途中で先発に転向したが、先発登板2試合目となる8月19日の対ヤクルトスワローズ18回戦(広島市民球場)では制球難から、2イニングを投げて6被安打、1奪三振、4四球、自責点5で降板した[66]。同シーズンオフには結婚し[3][67]、媒酌人は当時の監督である山本浩二夫婦が務めた[68]。妻とは右手人さし指と中指の血行障害の手術を受けた際、当時同僚だった永田利則の紹介で知り合ったという[68]。また前年比200万円増額の年俸1500万円で契約更改した[65]

1991年は監督の山本から先発ローテーション入りを期待されており[3]、オープン戦で先発転向が見込まれていたが、球威不足を露呈していた[69]。同シーズンは4度の二軍降格を経験したが、中継ぎを中心に36試合に登板し[70]、3勝3敗0セーブ、防御率4.44の成績だった[71]。チームは7年ぶりのセ・リーグ優勝を達成したが、西武ライオンズとの日本シリーズでは第1戦、第6戦に中継ぎとして登板したものの第1戦(西武ライオンズ球場)では4回裏に石毛宏典から満塁本塁打[72]、第6戦(西武ライオンズ球場)では6回裏に秋山幸二から3点本塁打を打たれた[73]。同年オフには前年比22%増額となる年俸1850万円で契約更改した[70]

1992年シーズンは21試合に登板したが、0勝0敗1セーブの成績に終わる[74]。投球回は27イニング2/3、防御率は4.55で[75]、数字以上に好不調の波が激しかったと評されている[76]。またシーズン半ばから右肘痛に悩まされており、検査により軟骨遊離体が見つかったため[74]、シーズンオフの10月30日には右肘軟骨切除手術を受けた[77]。またシーズンオフには前年比10%減額となる年俸1650万円で契約更改した[78][79]

1993年7月7日の対阪神タイガース戦では1イニングだけで2年ぶりに勝利投手になった[80]。同シーズンは春季キャンプではキャッチボールを再開する段階だったが、驚異的な回復力を見せ、後半戦だけで20試合に登板[81]、1勝1敗、防御率3.43の成績を残したが、投球回は21イニングであり、ショートリリーフのみでの登板だった[80]。同シーズンまでの通算成績は15勝12敗9セーブだった[82]。同年オフには年俸2000万円で契約更改し[83]、右肘を手術した[84]。同年までに左足首靭帯断裂、右手中指や人差し指の血行障害、右肘の軟骨除去と3度の手術を経験しており[85]、オフには新監督に就任した三村敏之や投手コーチの山本和行の戦力構想の下、先発ローテーション入りを目指し、肘を耳から離れないようにうまく抜き、球を離す瞬間に力を集中させるように投球フォームの改造や、肘の強化も含めたハードトレーニングに取り組んだ[86]。また故障前より球速が速くなっており、日南秋季キャンプでは首脳陣から高く評価されていた[81]

1990年からヤクルトの監督を務めていた野村克也は、敗戦処理をしていたころの紀藤をトレードで獲得したいと申し出たことがあると語っている[87]

1994年 - 1996年

1993年までは春季キャンプで毎年投げ込みをしていたが、1994年の春季キャンプでは山本和行からの指示を受け、無理な投げ込みを控えた[88]。その春季キャンプでは前年の秋季キャンプに続いて首脳陣から高評価を得ていたが、オープン戦では今一つの成績だった[89]。4月9日の読売ジャイアンツ(巨人)との開幕戦(東京ドーム)では開幕投手北別府学が1回裏に松井秀喜に1号2点本塁打を打たれるなど、1死を取っただけで7被安打を喫して降板した(自責点5)ため、2番手投手として登板して3イニング2/3を投げたが、2回裏に落合博満に1号2点本塁打を、4回裏には松井にこの日2本目となる2号2点本塁打をそれぞれ打たれ、自責点4(防御率9.82)で降板した[90]。しかし同月24日の対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)から先発に転向し[87]、その試合で4年ぶりの先発勝利を記録すると[89]、同年5月8日の対ヤクルト5回戦(明治神宮野球場)で6年ぶり2度目の完投勝利を挙げるまで3連勝を記録した[87]。その間の同年5月1日には対中日6回戦(ナゴヤ球場)で先発登板したが、中日の先発は中京高校の同級生である野中であり、結果は紀藤が勝利投手、野中が敗戦投手となった[91]。当時の監督である三村敏之は速球、落差の大きなカーブやフォーク、切れ味の鋭いスライダーに着目していたが、紀藤本人はそれまでは「投手は打者を力でねじふせてなんぼ」と速球へのこだわりが強すぎて打者が2巡、3巡すると体力が持たなかったところ、丁寧に内野ゴロを打たせるような投球をするようになったことで開花したという[22]。それまでプロ入り10年で一度も2桁勝利がなかったが、このシーズンは投手コーチの山本和行からの指導で能力が一気に開花し[92]、同年8月11日の対阪神20回戦(広島市民球場)では初の10勝目に到達、広島の新エースと称されるようになった[4]。8月には4勝1敗の好成績を挙げ、17年ぶりに最下位ターンしていたチームが一気に2位に浮上、優勝争いに加わる原動力になったとして、自身初の月間MVPを受賞した[93]。また8月11日の対阪神戦から同月30日の対横浜戦まで[1]、セ・リーグタイ記録の4試合連続2桁奪三振も記録した[93]。9月4日の対ヤクルト23回戦(広島市民球場)ではセ・リーグ新記録となる5試合連続2桁奪三振は逃したものの、中4日で登板して9回を投げ、8被安打、2四球、4奪三振、無失点に抑え、4連続完投の5連勝をプロ初完封で飾った[94]。またこの勝利で25試合登板、14勝4敗とし、最多勝争いの単独トップに立つ[94]。同月15日の対中日ドラゴンズ23回戦(広島市民球場)では最多勝争いのトップに並ぶ15勝目を挙げた[5]。シーズン最後の勝利となる16勝目を挙げたのは同年10月1日の対阪神26回戦(阪神甲子園球場)で、4回途中から近藤芳久に次ぐ2番手投手として中継ぎ登板、2イニング2/3を投げて1失点だったが、この時点で広島は残り1試合のみとなっていた一方、山本昌広が同日の対横浜25回戦(ナゴヤ球場)で18勝目を挙げたため、紀藤は最多勝のタイトルを逃した[95]。しかし、16勝はセ・リーグ2位の数字だった[96]。最終的には30試合に登板し、プロ入り後11年目で初の規定投球回に到達[1]、防御率はセ・リーグ規定投球回到達者18人中16位の3.97だったが、16勝5敗、1完封、勝率.762の成績を残し[97]最高勝率を記録する[1]。また投球回181イニング1/3は自己最多であった[98]。一方で防御率が良くなかったことから、強力打線の援護から勝ち星を増やしたと評されており、また被本塁打もリーグワーストの28本(2位は伊東昭光の20本)であり、走者をためて内角の甘いボールを打たれ、本塁打を浴びるケースが多かったと評されている[88]。同年は子供の時から憧れていた中日相手に6勝0敗の好成績を残したが、一方で名古屋に来る度に中日ファンから「裏切り者」と野次を浴びせられており、「悪いのはおれじゃない、指名しなかった中日」と反発しながら闘志を込めて試合に臨んでいたという[37]。一方で中日移籍後には、「よく、地元で活躍すると〝裏切り者〟とヤジが飛ぶじゃないですか。ここ(名古屋)はそうじゃない」と語り、ナゴヤ球場のマウンドに上がった際には心地よい声援を受けていたと語っている[2]。本人曰く、ナゴヤ球場のマウンドは傾斜がなだらかで相性が良かったという[99]。同年オフには前年比3200万円増額となる年俸5200万円で契約更改した[85][100]

1995年は北別府・川口和久長冨浩志が抜けたことから、近藤・佐々岡真司とともに先発3本柱を担うことになったが[101]、キャンプで下半身を故障し、その影響で投球フォームのフィニッシュが崩れ、打球をうまく避けることができなくなった[102]。また、同年は右肘痛を抱えていた[103]。開幕2戦目で5回降板し敗戦投手となるが、同年4月14日の対ヤクルト1回戦(広島市民球場)では8回2/3イニングを投げて3失点に抑え、シーズン初勝利を挙げた[104]。9月17日には広島市民球場で開催された対巨人25回戦で、先頭打者として打席に立った3回表に槙原寛己からプロ初本塁打となるソロ本塁打(推定飛距離118 m)を放った[105]。10月8日の対巨人27回戦(東京ドーム)では7回裏、この試合が引退試合となった原辰徳に引退の花道を飾る6号1点本塁打(原にとって通算382本目)を打たれたが、紀藤は7回を投げてその1失点のみに抑え、シーズン10勝目を挙げた[106]。同年は最終的に27試合に登板して10勝9敗1セーブ、防御率3.87の成績を残した[107]。しかしキャンプから故障が続き、また開幕後は投球フォームのバランスの悪さが原因で何度も右足に打球が直撃し、勝ち星に恵まれない苦しいシーズンであったと評されており[102]、本人も「恥ずかしい成績」と振り返っている[103]。同年は春季キャンプ中から右肘の状態が良くなく、4月26日の対巨人戦で登板した際に右肘痛が再発、翌27日に出場選手登録を抹消されている[108]。それでも2年連続2桁勝利を達成した実績を評価され、同年オフには前年比1000万円増額の年俸6200万円で契約更改した[109][110]。特に同年セ・リーグ優勝したヤクルト相手には4勝2敗と勝ち越し、同カードでは2試合連続完封も記録したが、横浜・中日相手には防御率が悪かった[107]

1996年はキャンプ中、投手陣の夜間練習とは別にシャドーピッチングをしたり、シーズン開幕後も内野の守備練習に加わったりしていた[102]。シーズンの開幕戦となった4月5日の対中日1回戦(広島市民球場)では、プロ13年目で初の開幕投手を務める見込みと報じられていたが[111]、実際には大野豊が開幕投手を務め[112]、紀藤は開幕3戦目の同月7日、第3戦で先発登板するも、7回で130球を投げて4四球、2被本塁打(アロンゾ・パウエル愛甲猛に各1本塁打を被弾)、2失点で敗戦投手になった[113]。5月1日の対ヤクルト戦から7月3日の対横浜戦まで7連勝を記録した[114]。シーズン7試合目の登板となった5月15日の対ヤクルト8回戦(明治神宮野球場)では、1回裏に1死二、三塁、2回裏に2死一、二塁と相次いでピンチを作るもいずれも切り抜け、3回以降は橋上秀樹に二塁打1本を打たれたのみで、5回表に自ら先制適時打を放って5勝目となる完封勝利を記録した[115]。また同月21日の対中日戦(長良川球場)では1回表に五番打者の愛甲猛に球速140 km/hの速球を打たれ、右翼席への3点本塁打を喫したが、3回表の中日の攻撃終了後、激しい雨のためにゲームは中断、最終的にノーゲームになっており、本人は帰りのバスに乗る際「やっぱり、今年の僕はツイてるのかなあ」と語っていた[102]。最終的に5月には4勝0敗、防御率2.24を記録して月間MVPを受賞した[114]。6月2日までに6勝2敗、防御率2.24と、セ・リーグ首位にいた「広島のエース格として十分な働きをしている」と評されていたが、本人曰く、上半身と下半身のバランスの乱れから、本来は切れ味が良いはずの速球にばらつきがあり、またフォークボールが良くないため三振が取れなかったという[99]。同年7月3日の対横浜14回戦(広島市民球場)では1失点に抑える完投勝利でハーラートップの9勝目を挙げ、チームにとって約1年ぶりの8連勝をもたらした[116]。これで13試合に登板して9勝2敗としたが[117]、続く14試合目の登板となった同月9日の対巨人16回戦(札幌市円山球場)では2回裏、2死から川相昌弘満塁本塁打を含む8打者連続安打を浴びて7失点を喫してノックアウトされ、2番手投手として登板した前間卓清水隆行に安打を浴びたため、チームは1イニングNPBタイ記録となる9連続被安打を喫した[118]。このように7月から不振に陥った理由は、それまで右肩に感じていた違和感をだましだまし投げていた中で後半戦になって腰痛を発症したためであり、当時の広島投手陣はこのように故障を抱えていた紀藤を軸として使わざるを得ないような状況だったと評されている[119]。それ以降はチームも負けが込み、さらに8月に主砲の江藤智が打球を顔に受けて骨折したこともあり、最終的には巨人の逆転優勝「メークドラマ」を許すこととなった[119][120]。同年最後の勝利は8月21日[6]の対中日19回戦(ナゴヤ球場)で挙げた12勝目で、この試合では相手打線を11被安打2失点に抑えており、この試合までに20試合に登板して12勝4敗としたが[121]、同月27日の対巨人21回戦(広島市民球場)では3回表に松井秀喜の2点適時打などで3失点を喫し、4回表に仁志敏久に2点本塁打、松井に右翼方向への1点場外本塁打、続く落合博満にも2打者連続となる1点本塁打を打たれ、3回2/3を投げて7失点で降板した[122]。松井に打たれた本塁打は推定飛距離150 mであった[123]。24試合目の登板となる同年9月15日の対中日22回戦(広島市民球場)で敗戦投手になって5敗目[124]、続く25試合目の登板となった同月21日の対阪神26回戦(阪神甲子園球場)では2回途中で降板して6敗目[125]、26試合目の登板(シーズン最終登板)となった同月28日の対横浜24回戦(広島市民球場)では1回表途中で23球を投げただけで4失点を喫して降板、7敗目を喫した[126]。結果、シーズン終盤では6試合連続でノックアウトされた[119]。シーズンでは最終的に26試合に登板して投球回164.1、自責点78、6完投[127]、12勝7敗、1完封、勝率.632[128]、防御率4.27を記録した[127]。同年のチームの規定投球回到達者は紀藤と加藤伸一山﨑健の3人で、投球回と勝利数は紀藤がチームトップであったが[119]、防御率4.27はセ・リーグ全体では規定投球回到達者16人中14位だった[128]。同シーズンはヤクルト戦に強く、4勝1敗、防御率2.39を記録した[114]。同年オフには前年比1300万円増額の年俸7500万円で契約更改した[129]。当初の提示額は7000万円弱だったが、約30分の交渉で7500万円になったという[130]。本人は当時、疲れと腰痛に苦しみながらマウンドに立ち続けた理由について、1993年に死去した先輩投手の津田恒実が病に倒れながら投げることを諦めなかったことが影響していると語っている[84]

1997年以降

1997年シーズンは開幕直後の4月11日に持病の腰痛が再発し、翌12日に出場選手登録を抹消される[131]。5月に一軍へ復帰し、3試合目の登板となった同月23日の対ヤクルト9回戦(明治神宮野球場)では1996年5月以来1年ぶりの完封でシーズン初勝利を挙げたが[132][7]、同年は右肩痛や腰痛から2度の二軍降格を経験[133]、戦線離脱する期間も長く、1勝5敗、防御率5.66と不本意な成績に終わった[134]。本人は同年、肘に水が溜まるなどの症状が出るようになったと話している[135]。このため、翌1998年には「元エース」と称されるようになる[136]。なお1997年シーズン中にはフリーエージェント (FA) の権利を取得し[137]、その際には中日への移籍を考えていたという[37]。同年オフの契約更改ではFA移籍を示唆したが[138]、前年比500万円減額ながら自身の予想を上回る年俸7000万円を提示され、FA権を行使することなく提示額を受け入れて契約更改している[134]。本人曰く1000万円の減額は覚悟したという[133]

1998年シーズンもシーズン終盤に二軍降格を経験、3勝8敗の成績で終わった[139]。同シーズンは開幕から5試合に登板して2敗を喫し[140]、4月はチームが快進撃を繰り広げる中、同い年の加藤伸一とともに未勝利に終わっていたことから、投手コーチの川端順から「二人が勝っていないから満足できない」と評されていた[141]。2敗目となった4月30日の対横浜戦(横浜スタジアム)では7失点して2敗目となり、首脳陣からは「勝とうという気持ちが全然伝わってこない」と評され、中継ぎへの配置転換の可能性も高まっていた[141]。しかし6試合目の登板となった同年5月7日の対ヤクルト6回戦(呉市二河野球場)では3回表に度会博文からソロ本塁打を打たれながらも6回をその1失点のみに抑え、シーズン初勝利を挙げた[140]。本人は当時について、「本当に悪かったのは横浜戦だけなのに、すべてがダメかのように落ち込んだ」と振り返っている[141]。同年6月28日の対中日13回戦(ナゴヤドーム)では同シーズン初完投を1年ぶりの完封勝利(6被安打)で飾り、打撃でも2安打2打点の活躍を果たした[136]。しかし同シーズンの勝利は11試合目の登板となった7月4日の対阪神12回戦(広島市民球場)で挙げた3勝目が最後で、この試合では1回表、先頭打者の坪井智哉にNPB史上3人目となる初回先頭打者ランニング本塁打を許している[142]。この試合の時点では3勝4敗だったが[142]、それ以降は勝ち星を挙げられず、8月2日の対中日19回戦(広島市民球場)では1回裏、川上憲伸から通算2号(現役最後)となるソロ本塁打を放ったが[143]、3対2とリードしていた5回表、関川浩一の強襲打を左足に受けてこの回限りで降板、チームは6回以降に4点を返され、最終的に4対6で敗れた[144]。同シーズンの先発登板は同月27日の対ヤクルト戦が最後となった[145]。その試合はシーズン18試合目の登板となった対ヤクルト24回戦(明治神宮野球場)で、3回までは完璧に抑えていたものの、0対0の4回裏に1失点を喫し、チームが3点を返して3対1と逆転した直後の6回裏に辻発彦池山隆寛に連打を浴びて1点を返され、2死からエリック・アンソニーに四球を与えた後、副島孔太に8号3点本塁打を打たれて計4失点を喫し、8敗目となっている[146]。3年連続で2桁勝利を挙げ、エース格として活躍した1994年から1996年までとは一転、前年からの2年間ではわずか4勝に終わっていた[147]。同年オフには前年比700万円減額の年俸6300万円で契約更改した[139]。これは江藤と並ぶ最大減額であり[148]、当初は1000万円の減額を提示されたが、球団部付部長の宮脇いわく「来季への期待料」で300万円増額したという[139]

新監督として達川晃豊が就任した1999年シーズンは中継ぎへの転向を命じられ[145]、5試合目の登板となった4月14日の対巨人2回戦(東京ドーム)では3対4の同点で迎えた8回裏無死二、三塁の場面で5番手投手として登板、敬遠で満塁とした上で凌ぎ、チームは直後の9回表に1点を追加して同点とすると、延長10回表に4得点したことで逆転勝ちし、紀藤はシーズン初勝利を挙げた[149]。しかし同月27日の対横浜2回戦(横浜スタジアム)では3対2とリードして迎えた7回裏に先発・横山竜士に次ぐ2番手として登板したものの、6対2とリードしていた8回裏、無死一、二塁から鈴木尚典に4号3点本塁打を打たれて1点差にされ、続くロバート・ローズにも安打を打たれて1死も取れないまま降板、チームはこの回に5失点を喫して逆転負けを喫した[150]。その後、同月29日の対横浜4回戦(横浜スタジアム)[151]、翌30日の対阪神4回戦(阪神甲子園球場)と2日続けて救援に失敗し[152]、開幕から9試合の登板で防御率8点台と不振に終わったことから、同年5月11日に二軍へ降格した[145]。その後、同月25日に一軍に再昇格し、加藤の退団、開幕から先発ローテーションを担っていた黒田博樹菊地原毅らの不振を受け、11試合目の登板となった翌26日の対巨人9回戦(福岡ドーム)で初先発すると、相手打者たちに二塁も踏ませず2安打に抑え、前述の1998年6月28日の対中日戦以来11か月ぶりとなる完封勝利を挙げた[145]。続く12試合目の登板となった同年6月2日の対ヤクルト8回戦(宮城球場)でも8被安打を喫しながら11奪三振、無四球の投球で2試合連続完封勝利を挙げたが[153]、後者の試合は結果的にNPBで最後の完封勝利となった。その後は佐々岡真司とともに先発の2本柱を担い[154]、3勝2敗として迎えた同年7月15日の対中日16回戦(ナゴヤドーム)ではシーズン18回目の登板を先発で果たし、1失点完投勝利を挙げて4勝目を記録した[155]。4勝2敗としていた7月21日に対阪神18回戦(阪神甲子園球場)でシーズン19試合目の登板を迎え、9回1失点の好投の末、チームは延長10回表に勝ち越して5勝目を挙げたが、これが同シーズン最後の勝利となった[156]。しかし同年8月24日の試合に先発したところ、試合中に右足アキレス腱炎を起こし、翌25日に出場選手登録を抹消された[157]。同年10月4日の対ヤクルト戦で約1か月半ぶりの登板を果たし、5回に岩村明憲に適時打を打たれたものの、8回まで投げてそのイニング以外は走者を許さなかった[158]。最終的には24試合に登板したが、シーズン終盤は右肘痛で二軍落ちしており、5勝6敗、防御率3.96の成績に終わった[159]。一方で投球回は100イニングに達し、1996年以来3年ぶりの3桁となった[160]。同年オフには現状維持となる年俸6300万円で契約更改した[159]

2000年シーズンは右肘痛などから[37]、15試合の登板で3勝3敗5セーブ、防御率4.19の成績だった[41]。先発登板は4試合のみであった[161]。オープン戦では初登板となった3月20日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で3イニングを投げたが、速球が球速130 km/h台にとどまり、1回裏に石井浩郎から2点本塁打を打たれるなど、73球を投げて4被安打、6失点と乱調だった[162]。オープン戦は2試合に登板して防御率7.71と振るわなかったが、開幕2試合目となる4月1日の対巨人2回戦(東京ドーム)で先発投手として起用され、5回1失点で勝利投手になった[163]。しかし、これが広島時代最後の先発勝利となった[2]。2度目の先発機会となった同月8日の対阪神2回戦(広島市民球場)では、かねてから苦手としていた大豊泰昭に本塁打を被弾するなど[164]、4回5失点で敗戦投手になり、以降は右肘痛から二軍に降格した[165]。しかし二軍生活が続く中、登板間隔を空けると球速150 km/h以上を記録するようになった[165]。一方でこのころ、複数の他球団から自宅に調査の電話がかかってきており、特に中日の二軍監督を務めていた仁村徹からは直接勧誘の声をかけられていた[165]。当時は冗談半分で受け取っていたが、後日広島球団から電話があり、中日一軍監督の星野仙一から紀藤の獲得を希望する声があったと知らされたという[165]。8月に再度一軍昇格を果たし[165]、同月18日の対ヤクルト19回戦(明治神宮野球場)で先発した際、4回までは4被安打、無失点に抑えていたが、1対0とリードしていた5回裏、先頭打者である投手の伊藤智仁に中前打を許してから4失点して降板、敗戦投手になった[166]。結果的に、これが広島時代最後の先発登板となった[167]。9月からは本来の抑え投手だった小林幹英の不調を受けて抑えを務めるようになり[165]、最高球速150 km/hの速球を武器に抑えとして活躍した[37]。この紀藤の抑えとしての起用は、シーズンを通して達川が小山田保裕山崎慎太郎高橋建河野昌人山﨑健と、その時々で好調な投手を抑えとして起用していたことから、その流れを受けたものだった[168]。9月8日の対横浜22回戦(横浜スタジアム)で7回から登板して3イニングを無失点に抑え、5年ぶりとなるセーブを記録した[169]。同月17日の対阪神27回戦(広島市民球場)でチームは浅井樹の2点本塁打によりサヨナラ勝ちを決め、紀藤はこの試合で3勝目を挙げたが[170]、これが広島時代最後の勝利となった。同年は最終的に5セーブを記録したが、そのうち中日からは3セーブを記録しており[165]、本人はこれについて、中日に活躍をアピールしたかったと語っている[165]。10月5日の対中日24回戦(ナゴヤドーム)では3点リードの10回裏に抑えとして登板、3打者連続で空振り三振を奪い、4セーブ目を記録した[171]。同月7日の対中日戦(広島市民球場)が広島時代の最終登板となり[172]、この試合では最後の5セーブ目を挙げている[165]

中日時代

中日にトレード移籍

2000年までの数年間は故障でシーズンを通して働けなかったことに加え、若返りを進めていた当時の広島球団の事情もあって[173]、シーズンオフの10月10日には広島から翌2001年戦力構想に入っていない旨を通達された[174]。本人は現役続行を希望してトレード要員通告を了承[174]、同年10月13日、鶴田泰との交換トレードで子供のころからファンだった地元球団の中日へ移籍することが発表された[37][175]。中日は当時、実績のある右投手の補強を目指しており、投手陣の若返りや救援陣の強化を狙っていた広島と利害が一致した結果、成立したトレードであった[41]。同年12月6日、前年比800万円減額となる年俸5500万円で中日と正式に選手契約を締結した[176]。移籍の場合は年俸据え置きが球界の恒例だが、「発奮材料にしようと思って」自ら年俸減額を申し出たという[177]。背番号は1984年から1987年まで着用していた55を自ら希望し[178]、再び着用することとなった[179]。悩んだが、移籍を承諾したのには「親父やお袋に最後くらいは中日のユニホーム姿を見せたい」という考えがあったからと話している[180]。このため、過去の中日時代に55を着用し、少し遅れて阪神タイガースからの復帰が決まった大豊泰昭60を着用した[181]

中日移籍直後の2000年オフシーズンは、自ら志願して若手中心の伊良湖で開催されていた秋季キャンプに参加した[182]

2001年 - 2004年

2001年シーズンは開幕一軍に名を連ね[183]、中継ぎで起用されたが、6試合目の登板となった4月19日の対広島戦(福山市民球場)で3番手投手として登板した際、2イニングで4失点を喫し、また右肘痛を発症したことから[180]、4月末には二軍に降格した[183]。8月に一軍へ復帰し、同月4日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で復帰登板を0果たすと、その次の登板からは8試合連続無自責点を記録[180]、頼れる中継ぎとして復活した[184]。その間の9月5日には対阪神戦(ナゴヤドーム)で延長10回表に登板して1イニングを無失点に抑え、その裏にチームがサヨナラ勝ちしたため、移籍後初勝利を挙げた[180]。同月13日の対広島戦(ナゴヤドーム)でも4番手として登板して2勝目を挙げ、同月16日の対巨人戦(ナゴヤドーム)では久しぶりに自責点をつけたものの、清原和博から三振を奪い、通算1000奪三振を達成した[180]。同シーズンの成績は21試合登板、2勝0敗、投球回25イニング1/3、自責点9、防御率3.20で、奪三振は投球回を上回る28を記録した[160]。同年は先発登板は1試合もなかった[161]。オフの12月5日に年俸5000万円(前年比500万円減)で契約更改[185]。また、同年のドラフト会議で1巡目指名された前田章宏(高校の後輩)に背番号55を譲り[186]、自身は背番号を17に変更した[187]。これは同年限りで退団した同い年の武田一浩が着用していた背番号で、武田に電話で連絡を入れ、受け継ぐことを報告したという[188]

星野に代わって山田久志が新監督に就任した2002年は春季キャンプから好調をアピールし[161]、シーズン開幕後はチーム事情に応じて先発と中継ぎの双方で起用され、30試合に登板して4勝4敗1セーブ、投球回72イニング1/3、自責点23、防御率2.85を記録した[189]。防御率2点台は広島時代の1990年以来12年ぶりだった[189]。同年は同い年の山本昌が開幕から4連敗を喫して二軍調整になり、中継ぎから先発への配置転換が予定されていた正津英志が右太腿への打球直撃を受けて故障離脱するなど、先発投手の駒が不足していた事情から、2週連続の6連戦で必要となった6人目の先発投手の候補に挙がり[161]、5月1日の対阪神6回戦(阪神甲子園球場)で2000年8月18日以来の先発登板を果たす[167]。この試合は中日移籍後、29試合目で初の先発登板であり[2]、また前年まで中日監督を務めていた星野の率いる阪神相手の登板でもあった[180]。4回まで毎回、計7被安打を許すも、要所を切り札のフォークボールでしのぎ、5イニング1/3を投げて無失点に抑え、シーズン初勝利、そして先発としては広島時代の2000年4月1日以来、中日移籍後では初となる勝利を記録した[167]。同月7日の対巨人7回戦(ナゴヤドーム)では巨人に移籍した武田と投げ合うが、1回表に松井秀喜から適時打を打たれて1失点を喫すると、1点ビハインドの1対2で迎えた5回に4失点を喫し、6失点で降板、敗戦投手になった[188]。同月31日の対横浜8回戦(ナゴヤドーム)では9対3とリードした7回表から3イニングを投げ、走者を1人も出さず、移籍後初、広島時代の2000年以来となるセーブを記録した[190]。オフの12月5日に年俸5500万円(500万円増)で契約更改[12]

2003年シーズンは、開幕当初こそリリーフで起用されていたものの[180]川上憲伸朝倉健太といった先発ローテーションを担っていた投手たちが故障離脱したというチーム事情から[191]、5月からは先発で起用されるようになる[180]。5月8日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でシーズン初先発[192][193]。打線の大量得点に恵まれ[192][193]、5回3失点(自責点2)で勝利投手になった[192]。同月は4試合に先発し、打線の援護にも恵まれ3勝を挙げた[194]。その後、6月末に登録抹消された[195]ものの、一軍復帰登板となった7月23日の対横浜戦(ナゴヤドーム)では6回1失点の好投で5勝目を挙げた[196][197]。同年は最終的に23試合に登板し、7勝8敗を記録、投球回は中日移籍後で最多の88を記録した[160]。一方で自責点48、防御率4.91と安定感を欠いた[160]。7勝のうち5勝が本拠地であるナゴヤドームで挙げたもので、同年8月21日の対阪神戦(大阪ドーム)で記録したシーズン7勝目、通算78勝目の勝利が現役時代最後の勝利となった[180]。オフの12月11日に年俸6200万円(700万円増)で契約更改[191]

新監督として落合博満が就任した2004年シーズンは中継ぎ転向を構想されていたが[198]、12試合に登板したのみで、0勝1敗、投球回18イニング2/3、自責点17、防御率8.20の成績に終わった[199]。同年10月14日に球団から戦力外通告を言い渡される[200]。同シーズンは8月13日の対ヤクルト18回戦(明治神宮野球場)で先発ローテーションの谷間として初先発したが、5回裏に岩村明憲から勝ち越し3点本塁打を、さらに古田敦也からも1点本塁打を被弾するなど、4イニング1/3を投げて22打数、8被安打、5失点という成績だった[201]

楽天時代

2004年12月11日に無償トレードで中日から同年オフに創設されたばかりの東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍することが発表された[202]。年俸2400万円、背番号は30[202]。2005年5月に40歳の誕生日を迎えたが、創設当時の楽天ではチーム最年長だった[203]

2005年シーズンの楽天は創設1年目で、分配や戦力供出で集まった選手は全盛期を過ぎたベテラン選手が多かった[204]。そのため、紀藤はチーム最年長ながら8試合で先発投手として起用され、手薄な投手陣の力になったが、登板8試合で0勝5敗[204]、防御率6.25と[205]、不本意な成績に終わった[206]。本人は開幕前の同年3月にインフルエンザにかかって出遅れ、その後も帯状疱疹が出て「これは無理だな」と感じていたという。楽天は同シーズンオフ、多数のベテラン選手や新外国人選手に戦力外通告を行ったが、紀藤も同年9月15日に戦力外通告を受け[207]、同年限りで現役を引退した[208][209]。5月末にシーズン初先発した対阪神戦で6回を投げて2失点だったのが楽天時代で最高の投球だった[204]。同年6月26日の西武戦では、後に通算最多満塁本塁打の記録を樹立した中村剛也からプロ初の満塁本塁打を打たれている[210]

引退後

2006年シーズンには楽天の二軍投手コーチに就任した[211]。背番号は71[212]

2007年シーズンからは一軍投手コーチに昇格し[213]2008年シーズンまで務め[214]田中将大を育てた[215]。2008年は楽天球団初のチーム防御率3点台だった[216]。また同シーズン開幕前、楽天監督の野村克也オープン戦中盤まで不調だった岩隈久志ではなく、2年目の田中を開幕投手として起用する方向だったが、紀藤は「1年間軸になるのは岩隈」と言い続けることで岩隈のプライドやモチベーションを慮った一方、開幕後は登板間隔を一定に維持することで先発投手としての責任を持たせるべく、中6日の先発ローテーションを維持させた。結果、岩隈はシーズン20勝を挙げて復活を遂げ、チーム防御率も前年(パシフィック・リーグ最下位)の4.31からリーグ3位の3.89へと改善させたが、紀藤は同シーズン終了後に解任を通告された[217]

2009年茨城県水戸市にあるパーソナル電電株式会社の執行役員となり、市内の少年野球チームの監督を務めた。

2010年シーズンは興農ブルズの投手コーチを1年間務め、2011年シーズンから2013年シーズンまで統一セブンイレブン・ライオンズの投手コーチを務めた。統一時代は鎌田祐哉を指導し、チェンジアップなどを習得させ、鎌田は2012年に16勝を挙げて最多勝を獲得、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞した[218]

2014年には再びパーソナル電電株式会社へ戻り、同時に野球教室「紀藤塾」を開校、小学生から社会人まで幅広く指導。なお、同社には同じく楽天で1年間チームメイトだった一場靖弘がいた。2015年1月30日には学生野球指導資格を回復させた[219]

2019年1月に茨城県にある私立水戸啓明高等学校の硬式野球部の監督に就任[215][220]。これは紀藤が水戸市で野球教室を開いていたことなどをきっかけに、高校側が監督就任を打診したものであり[221]、紀藤は野球部監督を務めながら、同校の職員となった[220]。しかし2022年7月で辞任し、後任の監督には前任者の春田剛がコーチより復帰した。

茨城県での活動中は単身赴任だったが、「自分は広島の人間」との思いが募り、2022年内に自宅のある広島県に戻った。広島に戻ってからは広島市西区の物流企業に勤め、オフタイムはほぼ毎週、趣味の海釣りを楽しむ日々を過ごしている。その物流企業では釣りを通じて意気投合した知人男性と共に「広島発の逸品を作ろう」とタイ釣りとカワハギ釣りに適した2種類の釣り竿を開発しており、自身の名から取った「マコトに恐縮です。」を商品のシリーズ名とし、インターネットでも販売を始めている[222]。後に広島市西区内の企業「株式会社EJフィールド」の代表取締役を務める[16]

選手としての特徴

投球フォームは右からのオーバースローだった[223]本格派投手の典型と評され[127]速球で真っ向勝負をする投手だった[145]。若手時代は速球の球速が150 km/h台を記録していたが、1996年シーズンの球速は140 km/h台中盤だった[127]。プロ入り時は柔らかい投球フォームが特徴で、広島投手コーチであった龍憲一は、紀藤について「高校生の体だが、手元にきて重い球がぐっと伸びる」と評していた[20]。一方で1988年時点で広島の投手コーチを務めていた池谷公二郎は紀藤の弱点について、球離れが早いため、球種を見破られて痛打されるケースが多かったと指摘しており、その課題を克服するため、同年秋季キャンプではフォームにためを作ることで球離れをコンマ数秒遅らせることを課題としていた[53]。1994年時点でヤクルトの打撃コーチを務めていた伊勢孝夫曰く、1993年までの紀藤は「逃げの投球」という印象があったというが、そのヤクルト相手に完投勝利を記録した1994年5月8日の試合では球速140 km/hの速球で鋭く打者の内角を突いていた[87]

変化球はボールカウントを取るカーブにキレのあるスライダーフォークボールを投げていた[127]。また得意な球はスライダーとフォーク、その他の持ち球はカーブ、シュートチェンジアップとする文献もあるが[223]、持ち球や球質にこれといった特徴はないと評されていた[127]。絶好調の際は「踊るようなマウンドさばき」をすると評され[155]、2試合連続完封勝利を挙げた1999年6月2日の対ヤクルト8回戦(宮城球場)では、スライダーを軸に速球とフォークを決め球に使う投球をしており、前日の試合で2本塁打を記録したロベルト・ペタジーニを2ストライク3ボールから外角いっぱいの速球で見逃し三振に仕留めていた[153]谷沢健一は、フォークやスライダーを低めに集めることが活躍の鍵であると評していた[223]

江川卓 (2000) は紀藤について、Speed(スピード)、Control(コントロール)、Technique(投球術)のいずれも10段階評価で7であると評していた[224]。江川・二宮清純 (1997) は、調子を落とすと制球力が甘くなり、投球が単調になる悪癖があると評していた[127]。また江川は紀藤について、プロ野球の一軍で先発できる標準的なレベルではあるが、北別府学の引退、川口和久読売ジャイアンツ(巨人)移籍をきっかけに、大野豊に次ぐエースとして祭り上げられたと評し[225]、抜けるボールが多く、勝負所で被本塁打を喫することも多いなど、本来の実力から見ればエースと言える投手ではないと評していた[226]完投数は1994年が8、1995年が7、1996年が6と、同年代のエース級投手にしては少なめだった[127]。中日移籍後初の先発勝利を挙げた2002年5月1日の対阪神戦について、今中慎二はピンチでも相手打者を歩かせて投手と勝負しようとするのではなく、有利なカウントに打者を追い込み、最後はフォークで三振を奪う攻めの投球が打線の援護を呼んだと評している[227]

バント処理などの守備は安定していたが、1996年は西山秀二とのバッテリー盗塁阻止率.200(盗塁企図5、盗塁刺1)と牽制に課題があった[123]

広島時代に右手血行障害や右肘手術など数度にわたって投手生命の危機に見舞われたが、それらを乗り越えて20年以上にわたり現役生活を続けた[189]。本人は右肩痛のリハビリ中だった黒木知宏から長寿の秘訣を聞かれ、体の丈夫さと技術の確かさを挙げていた[189]。また投球時には相手打者をどうすればゲッツーに仕留められるか、どこへ投げればゴロを打たせられるかなどを考えながら投げていたという[160]

人物

中京高校時代の同期である野中のことを「難しい性格。あまり口をきいたことがない」と語っており、プロ入り時には野中に強いライバル意識を燃やしていた[20]。また頑固な性格であり、プロ入り時の速球にこだわる投球スタイルにもそれが現れていると評されていた[20]。高校卒業後も母校が甲子園に出場した際にはジュースなどを差し入れており、高校の後輩である前田章宏は中日入団時点までに紀藤と直接会ったことはなかったものの、彼からの差し入れが嬉しかったと語っている[187]

小早川毅彦川口和久によれば、紀藤と木本茂美霊感が強く(紀藤は望月一も霊感が強かったと話す)、カープの独身寮「三篠寮(三省寮)」時代は夜中によく飛び起きたという[228][229][230]

広島時代の先輩である津田恒実から「給料は自分の成績が反映されて決まるものだ」と言われていたことから、契約更改では2001年オフまで1度も保留したことはなかった[231]

1991年時点では「甘いマスクで若い女性ファンに人気」であると評されていた[3]

現役時代はやんちゃで奔放な性格だった[232]。中日時代には同い年である山本昌フェラーリラジコンが欲しくなったことから、山本昌に頼んで球場に持ってきてもらい、それを試合中に球場の選手ロッカー前の通路で走らせていたところ、当時監督だった星野仙一に見つかって激怒されたと語っている[232]

家族は妻(長女を出産した当時29歳)と、1993年7月7日に誕生した長女[233](2002年5月当時8歳)で、中日時代は妻子を広島に残して名古屋へ単身赴任していた[2]。中日時代、愛車としては移籍直後の2001年は「ベンツ[13]、2002年は「名鉄タクシー[234]、2003年は「東山線2両目」[189]、2004年は「青か緑かわからないボルボの後部座席(高橋三千丈コーチの愛車)」を挙げていた[160]。趣味はゴルフ[234][189][160]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1987 広島 184000030--.00020848.05091910471123193.561.44
1988 3110100430--.57139693.18393613711040383.661.28
1989 610000417--.80037190.271112734896028272.681.08
1990 362000311--.75026366.14772221531021192.581.04
1991 362000330--.50032175.07982454591039374.441.37
1992 210000001------12327.22821621271014144.551.59
1993 200000110--.5009621.0241100126301083.431.62
1994 30258101650--.762758181.11782856121495082803.971.29
1995 27257211091--.526699169.21562047231335075733.871.20
1996 26266101270--.632719164.11762156251143085784.271.41
1997 178110150--.16722549.163112022380033315.661.68
1998 1817110380--.27341494.2110163011641156535.041.48
1999 2414421560--.455415100.095122126794045443.961.16
2000 154000335--.50014534.13841111290017164.191.43
2001 中日 210000200--1.00010425.12445002820993.201.14
2002 307000441--.50030172.27661212531024232.851.21
2003 2317000780--.46738188.097202105570054484.911.34
2004 121000010--.0008918.2285801100017178.201.93
2005 楽天 880000500.00016836.04991002201028256.251.64
通算:19年 47417028827873160.51761961456.11472203451264411463627006594.071.32
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最高勝率 :1回 (1994年) ※ (当時連盟表彰なし)。セントラル・リーグでは、1972年までと2013年以降表彰

表彰

記録

初記録
  • 初登板:1987年5月28日、対ヤクルトスワローズ7回戦(広島市民球場)、8回表に5番手で救援登板・完了、2回無失点
  • 初奪三振:同上、8回表に八重樫幸雄から
  • 初先発:1987年10月4日、対中日ドラゴンズ25回戦(広島市民球場)、6回2/3を2失点(自責点1)で敗戦投手
  • 初勝利・初先発勝利:1988年4月27日、対中日ドラゴンズ2回戦(広島市民球場)、7回3失点
  • 初完投勝利:1988年10月12日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(広島市民球場)、9回1失点
  • 初セーブ:1989年4月15日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、8回裏に2番手で救援登板・完了、2回無失点
  • 初完封勝利:1994年9月4日、対ヤクルトスワローズ23回戦(広島市民球場)
節目の記録
  • 1000投球回:1998年4月17日、対ヤクルトスワローズ1回戦(福岡ドーム)、2回裏3死目に度会博文を三直で達成 ※史上275人目 
  • 1000奪三振:2001年9月16日、対読売ジャイアンツ28回戦(ナゴヤドーム)、7回表に清原和博から ※史上106人目
その他の記録

背番号

  • 55 (1984年 - 1987年、2001年)
  • 12 (1988年)
  • 11 (1989年 - 2000年)
  • 17 (2002年 - 2004年)
  • 30 (2005年)
  • 71 (2006年 - 2008年)
  • 91 (2010年 - 2013年)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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