成立した同盟ではあったが、遼に対して挟撃作戦を開始しようとした矢先、北宋では方臘の乱が発生し、その鎮圧に北伐軍を転用せざるを得ず、北宋は作戦に出遅れてしまった。
方臘の乱鎮圧後、ようやく童貫を指揮官に北宋軍は出征したが、耶律大石・耶律淳らの率いる遼の残党(北遼)の抵抗は予想以上に激しく、首都である燕京攻略に手こずるばかりか逆襲を受け、白溝河にまで退却を余儀なくされるほどの大打撃を受けた。耶律淳の死後にそれに乗じて劉延慶の指揮の下、燕京奇襲が実行され、耶律大石を市街戦にまで追い詰めたが、結局この攻撃も耶律大石の強固な防戦により失敗した。童貫は北遼の李処温と内通し、これに謀反を起こさせたが、この謀略は耶律大石に露呈し、李処温は処刑された。
万策尽き、独力での燕京攻略は不可能と判断した童貫は、金に燕京攻略を依頼した。これを受理した阿骨打は、北方より三路から燕京を攻撃し、耶律大石は居庸関においてこれを迎撃したが、敗北して金軍に捕らえられ、燕京は陥落した。このとき金の群臣は阿骨打に、北宋が燕京攻略の役に立たなかった事実により、燕京の譲渡を拒否してはどうかと進言した。しかし、阿骨打は海上の盟を理由にその進言を退け、住民・財産の略奪を行った後、事実上の空城を譲渡し、更に北宋に必要経費の数倍にあたる戦費(銅銭百万緡・兵糧二十万石)を請求するという実利重視の方針を取った。