玉山 (台湾)
台湾の最高峰
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歴史
台湾原住民のツォウ族の言語ツォウ語では「パトゥンクオヌ(patungkuonʉ)[1]」 、ブヌン語では「Saviah, Savih[2]」、カナカナブ語では「Tanungu'incu[3]」と呼んでいた。「玉山」の呼称は17世紀の郁永河による『裨海紀遊』が初出であり、他にも清代の『彰化県志』では「雪山」、『雲林県採訪冊』では「八通関山」と称されていた。欧米では、商船主・モリソン(W. Morrison)が報告したことから「モリソン山」と呼ばれた。
1895年(明治28年)に日本統治下となっても暫くはモリソン山と呼ばれたが、1897年(明治30年)6月28日、富士山よりも高い「新しい日本最高峰」の意味で、明治天皇により
1934年には、東方の楽楽渓上流部で、日本人警察官が殺害された(玉里事件)。また1941年には、遥か南方の北絲鬮渓畔の駐在所が襲われ、日本人警察官ら3名が殺害された「内本鹿事件」が発生するなど、新高山周辺では終戦に至るまで、日本人側からは「蕃害」と呼ばれたブヌン族による抵抗運動が多発した。
富士山の標高3,776 mよりも高いことから、大日本帝国の台湾領有期には日本一標高の高い山として知られ、大日本帝国の学校でも「日本一の山」として教えられていた。また1937年には「新高阿里山国立公園」として、大日本帝国の国立公園に指定されていた。
1941年(昭和16年)12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる、大日本帝国海軍の暗号電文『新高山登レ一二〇八』の「新高山」は、当山のことである。
第二次世界大戦に日本が敗戦し、台湾の領有権が中華民国に移る際に、現在の名前に戻された。その後は「重要な軍事拠点」とされ、入山には中華民国政府の許可が必要であった。なお民主化以降も、一部の観光地を除いた地区の入山には許可が必要である。しかしこれは自然保護の観点からであり、事前に申請を行えば、民主化以前に比べれば容易に入山することができ、観光ツアーもある。この入山制限は1999年から現在まで変わらず1日200人程度である。
入山規制
入山規制は以下の通り。
- 登山日の1か月前までに事前申請が必要。
- 山小屋宿泊の予約が必須で抽選となる(抽選倍率は平均約8倍)。
- 登山当日は、登山口にある派出所に入山証の提出が必要。
- 登山口の管理事務所でも本人確認が求められる。
事前申請なしで入山した場合、罰金および1年間の域内立ち入り禁止の懲罰が課せられる。

