王兆 (元)

From Wikipedia, the free encyclopedia

王 兆(おう ちょう、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯の一人。堅州の出身。

元史』には立伝されていないが、『山右石刻叢編』巻30に所収される「王氏世徳碑」にその事蹟が記されており、『新元史』には王氏世徳碑を元にした列伝が立てられている。

王兆は王明・王兆・王昇・王斌という4兄弟の次男であったが、長兄の王明が早世したことにより家主となった人物であった。王兆は若くして軍吏となったものの、軍務を嫌って軍を離れ、各地の豪俠たちと交流を持った。その過程で難題を解決したり、強者に立ち向かったため、人々の信望を得たという[1]

1217年興定元年/丁丑)、モンゴル軍による雁門の包囲が始まると、モンゴル兵の一部が県境にまで及ぶようになったため、金朝の官吏は城を放棄して逃れてしまった[1]。そこで城内の人々は王兆と劉会を推戴して首領とし、当初は南方に逃れようとした[1]。しかし、王兆は闇雲に逃れるよりもモンゴルに投降すべきであると論じ、劉会ら十数人とともにモンゴル軍の陣営を訪れ、牛酒を持参し「攻取の策」を献じることで投降を認められた[1]。投降を受け容れたモンゴル軍の指揮官は王兆の言動と風貌を偉とし、左監軍の地位を授けた[1][2]

王兆の投降によって捕虜となった人々は帰還することができ、更にその後監国公主アラカイ・ベキの教えを受け、昭武将軍・堅州左副元帥の地位に移った。この頃、華北一帯ではモンゴル軍の侵攻によって向背が進んでいたが、王兆は離散した人々を集め、耕作を勧めたため、在職20年あまりの内にその威名は広がった。1241年辛丑)、官制の改革があったが王兆は既に高齢であることを理由に引退し、80歳にして死去した[3]

一族

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI