王徽
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大中11年(857年)、進士に及第し、秘書省校書郎を初任とした。戸部侍郎の沈詢が判度支となると、王徽は召し出されて度支巡官となった。宰相の徐商が諸道塩鉄転運使を領知すると、王徽はその下で塩鉄転運巡官をつとめた。宣武軍節度使・淮南節度使の令狐綯の下で掌書記をつとめ、大理寺評事を加えられた。長安に召還されて右拾遺に任じられ、前後23回上疏し、人が言いにくいことを諫争したので、当時の人士に重んじられた[3][2]。
咸通6年(865年)、徐商が宰相を退任して荊南節度使として下向することになると、王徽は随従を申し出て、殿中侍御史に任じられ、荊南節度判官をつとめた[3][2]。
御史中丞の高湜の推薦を受けて、王徽は侍御史・知御史台雑事となった。職方員外郎を兼ね、考功員外郎に転じた。ときに考査簿は上・中・下の字が朱書されていたが、よこしまな官吏が書き換えることが多くあった。王徽はこれを墨書することにして文書改竄の弊害を除くよう僕射に提案した。宰相の蕭倣は王徽が官吏の仕事に明るいことから、かれを重んじた。乾符2年(875年)、王徽は司封郎中・長安県令に転じた。学士に欠員が出ると、王徽は蕭倣に任用されて翰林学士となった。職方郎中・知制誥に転じ、中書舎人に任じられた。戸部侍郎・翰林学士承旨に進み、翰林学士承旨のまま兵部侍郎・尚書左丞に転じた[3][2]。
広明元年12月3日(881年1月6日)、王徽は戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。この日、黄巣が潼関に侵入し、その夜に僖宗が長安を脱出した。王徽は翌日の明け方になって同僚の崔沆・豆盧瑑・于琮らとともに僖宗の脱出を知り、行在に駆けつけようとした。王徽は夜にいばらとハシバミの中に踏み込み、崖から転落して、黄巣の兵に捕らえられた。長安に帰るよう強迫され、足が折れていたため、輿に乗って邸に帰った。中和元年(同年)、監視がゆるむと、王徽は河中府に逃亡し、人を派遣して間道から成都府に向かわせ、僖宗に上表した。王徽は光禄大夫の位を加えられ、兵部尚書に任じられた。ほどなく本官のまま京城東面宣撫催陣使をつとめた[4][2]。
潞州で兵乱が起こり、潞州の将の成麟が昭義軍節度使の高潯を殺し、成麟も孟方立に殺害されると、兵部侍郎の鄭昌図が権知昭義軍事となった。ときに孟方立が山東3州をもって割拠しており、昭義軍の多くは孟方立に従って、鄭昌図の統制に従わなかった。朝廷は重臣をもって潞州に駐屯させようと図って、王徽は検校尚書左僕射・同平章事・潞州大都督府長史・沢潞邢洺磁観察等使に任じられた。河東節度使の李克用が孟方立と潞州をめぐって争ったが、朝廷の増援はなかった。王徽は上表して窮状を訴えた。僖宗により鄭昌図が潞州に駐屯することとされ、王徽は諸道租庸供軍等使となった[5][6]。
ときに王鐸が諸道行営都統として河中府にいたが、連年にわたって黄巣軍に勝つことができないでいた。中和2年(882年)、王徽は行営都監の楊復光と謀って、沙陀の3部落に赦令を下し、黄巣討伐に向かわせた。中和3年(883年)、李克用が長安を奪回した。王徽は功により尚書右僕射を加えられた[7][8]。
僖宗が黄巣の乱で荒廃した長安に帰ろうとしなかったため、王徽は大明宮留守・京畿宣撫制置・修奉園陵使となった。そこで僖宗に長安に帰るよう上表した。王徽は検校司空・御史大夫に進み、権知京兆尹事をつとめた。長安では権貴による民衆の財産の侵犯が相次いだが、王徽は権貴の嫉視もはばからず、法にのっとって公平に裁いた。また権貴の仲間である薛杞を服喪の義務を理由にその入府を許さなかった。王徽は権貴に憎まれて、使務から解任され、本官のまま行在の成都府に召還された。ほどなく太子少師に任じられたが、病を理由に河中府に退居し、100日に満たず、退任を願い出た[9][8]。
光啓元年(885年)、僖宗が長安に帰ると、王徽はまた太子少師に任じられたが、病のため任命の謁見を受けなかった。宰相は王徽を恨んでいたため、上奏して集州刺史に左遷させた。王徽は病身を輿に乗せて集州に赴いた。まもなく李克用が長安に迫り、僖宗は宝鶏県に避難し、田令孜の罪が数えられた。王徽は僖宗により無罪とされ、召還されて吏部尚書となり、琅邪郡侯に封じられた。王徽が宝鶏県に赴こうとすると、襄王李熅が朱玫により皇帝に擁立された。僖宗が興元府に避難すると、王徽は李熅に召し出されたが、中風の病にかこつけて歩こうとせず、李熅即位の宣誓状にも署名しなかった[10][8]。
朱玫が殺害され、僖宗が褒城県から帰って、鳳翔府にいたると、王徽は召し出されて御史大夫に任じられた。僖宗が長安に帰ると、王徽は病のため散官を求め、またも太子少師に任じられた。昭宗により吏部尚書に任じられた。検校司空・尚書右僕射となった。大順元年12月(891年1月)、死去した。太尉の位を追贈された。諡は貞といった[10][8]。