福島町 (広島市)
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歴史
町名由来
昔は川田村と称した[3]。沿川の地を拓いて耕田となしたことに起因する[3]。その後沿川地であるゆえに1871年に川添村と改称し、1906年中、もと国守福島正則の三男八助を祀った小祠を同村木村氏の庭内に発見し、村民これを追慕し福島を以って町名としようと願い求め、翌年3月23日ついに福島町となった[3]。
近世
文化年中(1804年-1818年)の頃、川田村の穢多は513人、非人は376人であった[4]。革田は昔から広島城下の東西両端に部落をなして住居し、東部落(尾長町岩鼻の西方付近)にある者を東革田と呼び、西部落(もと川田村、今の福島町)にある者を西革田と呼んだ[5][6]。
1619年、浅野氏入封のとき伍家平三郎に西革田頭を命じて切米12石3人扶持を給し、その子孫は代々革田の頭領を勤めた[6]。東西の革田は共に町廻り役の手先となって、犯罪者の探偵・捕縛に従事し、年頭・中元・歳暮・五節句・祭礼・葬式等の吉凶・式祭に際し若干の施与を受け、服飾は享保11年の倹約令によって男は茶筅髷、女は笄なき島田髷を結ばしめた[6]。平常良民より侮辱嫌厭されていたので良民と革田との間は相互に疾視し、時々闘争紛擾が起きた[6]。
近代
- 米騒動
半鐘を乱打しつゝ米屋を襲ひ米俵を川中に投込み警官も手の付け様なし広島市福島町の一揆は十二日夕七時頃再び蜂起し、米商を襲ひ一升二十銭乃至二十五銭の安売を強要しつゝ、西本川に軒を列(つら)ぬる米穀大問屋を襲ひ同所にては一升二十銭の安売りを要求し、これに応ぜざりし米店は忽(たちま)ち襲撃を受け米俵数十俵を担ぎ出して前の大川に投り込むの騒ぎを演ず — (『大阪毎日新聞広島版』1918年8月13日)
これらの記事で、福島町民の暴虐ぶりが強調された。
交通
鉄道
- 広島電鉄本線
- JRの最寄りは西広島駅
路線バス
西区役所前バス停(平和大通り沿い)と福島町バス停(広島県道265号伴広島線沿い)があり、広電バス[7]・広島バス[8]・ボンバス[9]が停車する。
- 25号 草津線(広島バス)
- 52,53号 西広島バイパス線(広電バス)
- ボン・バス(エイチ・ディー西広島) 広電己斐団地線 / 大迫団地線 / 共立ハイツ線(高須台経由) / 五月が丘・ジアウトレット線
- (己斐 西広島駅方面) - 西区役所前バス停 - (紙屋町・八丁堀方面)
- ボン・バス(エイチ・ディー西広島) 広電己斐団地線 / 大迫団地線
- (己斐 西広島駅方面 - 己斐橋) - 福島町バス停 - (都町 - 紙屋町・八丁堀方面)
道路
人口
行政
- 広島市西区役所
- 広島市役所市民局 西地域交流センター
経済
産業
- 店・企業
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地域
教育
- 広島酔心調理製菓専門学校
- 広島工業大学専門学校
- ふくしま第二保育園
- みどりの森 みらい保育園
健康
- 医療機関
施設
- 宗教
- 妙蓮寺(浄土真宗本願寺派)
- ビル、マンション、アパート等
- 1丁目
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- 公共
- 広島市福島ポンプ場
- その他
- 中森辰一事務所 - 政治後援会
- 西広島朝鮮会館
- 日本共産党広島市西地区委員会
- 広島県地域人権運動連合会
- 老人ホームくすの木苑
出身・ゆかりのある人物
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