福田赳夫内閣
日本の内閣
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内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 福田赳夫 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
自由民主党総裁 | ||
| 法務大臣 | 福田一 | 衆議院 自由民主党 (船田派) |
再入閣 1977年(昭和52年)10月4日辞任 | ||
| 瀬戸山三男 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
再入閣 1977年(昭和52年)10月5日任 | |||
| 外務大臣 | 鳩山威一郎 | 参議院 自由民主党 (中曽根派) |
初入閣 | ||
| 大蔵大臣 | 坊秀男 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
再入閣 | ||
| 文部大臣 | 海部俊樹 | 衆議院 自由民主党 (三木派) |
初入閣 | ||
| 厚生大臣 | 渡辺美智雄 | 衆議院 自由民主党 (中曽根派) |
初入閣 | ||
| 農林大臣 | 鈴木善幸 | 衆議院 自由民主党 (大平派) |
再入閣 | ||
| 通商産業大臣 | 田中龍夫 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
再入閣 | ||
| 運輸大臣 | 田村元 | 衆議院 自由民主党 (田中派) |
再入閣 | ||
| 郵政大臣 | 小宮山重四郎 | 衆議院 自由民主党 (田中派) |
初入閣 | ||
| 労働大臣 | 石田博英 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
再入閣 | ||
| 建設大臣 | 長谷川四郎 | 衆議院 自由民主党 (椎名派) |
再入閣 | ||
| 自治大臣 国家公安委員会委員長 北海道開発庁長官 |
小川平二 | 衆議院 自由民主党 (大平派) |
再入閣 | ||
| 内閣官房長官 | 園田直 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
再入閣 | ||
| 総理府総務庁長官 沖縄開発庁長官 |
藤田正明 | 参議院 自由民主党 (大平派) |
初入閣 | ||
| 行政管理庁長官 | 西村英一 | 衆議院 自由民主党 (田中派) |
再入閣 | ||
| 国土庁長官 | 田沢吉郎 | 衆議院 自由民主党 (大平派) |
初入閣 | ||
| 防衛庁長官 | 三原朝雄 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
再入閣 | ||
| 経済企画庁長官 | 倉成正 | 衆議院 自由民主党 (中曽根派) |
再入閣 | ||
| 科学技術庁長官 | 宇野宗佑 | 衆議院 自由民主党 (中曽根派) |
再入閣 | ||
| 環境庁長官 | 石原慎太郎 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
初入閣 | ||
内閣官房副長官・内閣法制局長官・総理府総務副長官
政務次官
前内閣の政務次官が一部留任し、新任の政務次官は1976年(昭和51年)12月27日に発令された。
- 法務政務次官 - 塩崎潤(新任)/青木正久:1977年(昭和52年)10月5日 -
- 外務政務次官 - 奥田敬和(新任)
- 大蔵政務次官 - 高鳥修(留任)・斎藤十朗(留任)
- 文部政務次官 - 唐沢俊二郎(新任)
- 厚生政務次官 - 石本茂(新任)
- 農林政務次官 - 片山正英(留任)・羽田孜(新任)
- 通商産業政務次官 - 河本嘉久蔵(留任)・松永光(新任)
- 運輸政務次官 - 石井一(新任)
- 郵政政務次官 - 綿貫民輔(新任)
- 労働政務次官 - 越智伊平(新任)
- 建設政務次官 – 小沢一郎(新任)
- 自治政務次官 - 中山利生(新任)
- 行政管理政務次官 - 増田盛(留任)
- 北海道開発政務次官 - 高橋雄之助(新任)/高橋誉冨:1977年(昭和52年)7月29日 -
- 防衛政務次官 - 浜田幸一(新任)
- 経済企画政務次官 - 森美秀(新任)
- 科学技術政務次官 - 矢野登(留任) /大島友治:1977年(昭和52年)7月29日 -
- 環境政務次官 – 今泉正二(留任) /森下泰:1977年(昭和52年)7月29日 -
- 沖縄開発政務次官 - 國場幸昌(留任)
- 国土政務次官 - 佐藤守良(新任)
内閣の動き
第34回衆議院議員総選挙における与党自民党の敗北を受けて、三木内閣は退陣。これを受けて、後任の福田赳夫が組閣した。
1974年から1976年にかけて、自民党内は、七日会(田中角栄派)と宏池会(大平正芳派)の連合と、福田率いる清和政策研究会との間で、二分されていた(角福戦争)。田中内閣が田中金脈問題で倒れた時は、禅譲を狙う大平と反主流派の福田の間で激しく対立した結果、第三陣営の三木が妥協の産物として立てられて両者痛み分けとなる[1]。しかし三木はワンポイントリリーフとの想定を超えて本格政権化を企図。ロッキード事件で田中を逮捕に追い込み、「灰色高官名簿」の存在をほのめかす等、検察権力をバックに反対派を恫喝したため反主流派は反発、倒閣に至る(三木おろし)[2]。この時福田派は、田中・大平両派の仕切る倒閣陣営に加わるか、外交スタンスの近い三木政権を引き続き支えるかで揺れており[注釈 1]、前者を訴えた園田直の意見が採用、福田派は三木から離れる[3]。三木の退陣が秒読みになる中、福田と大平の間で密約(大福密約)が結ばれ、福田が先に一期二年だけ政権をつとめ、そのあと大平に譲る、という取り決めが成立したとされる(ただし、誓約書には二年で譲ることは明記されておらず、後年福田サイドは禅譲の内容が密約に含まれることを否定している)[4]。田中・福田・大平の三大派閥の間の合意ということで表向きは波風立たず、ポスト三木の座は福田の下に収まり、福田内閣が発足した。
福田内閣は、田中・大平両派の協力を得る形で成立したため、人事・政策ともに両派に配慮したものとならざるを得なかった。主要人事は、ロッキード事件で離党中の田中から田中派を預かる西村英一が副総理、大平派からは大平本人が党幹事長として党務一切を差配しつつ、右腕の鈴木善幸が農相として入閣。福田派では、大福密約への道を誘導した園田が、政権の要である官房長官となった。また、「清新にして強力」「老壮青体制」という触れ込みの下、石原慎太郎と海部俊樹を初めて昭和生まれの大臣として抜擢して新味を出し、福田自身は「さあ、働こう内閣」と命名。三木おろしのマイナスイメージからの脱却を図ったが、おおむね行政課題を片付けてゆくにとどまることになった[5][6]。
1977年7月10日、第11回参議院議員通常選挙投開票。大福連合による政局の安定に助けられて、自民党は過半数を維持する。自信を深めた福田は、総裁任期中の解散総選挙でも勝利を収めて権力を強化、二年限りで降板するという密約の無効化と政権長期化を企図し、11月28日に内閣改造。田中・大平両派は福田の約束違反を警戒し、翌年の総裁選に向けた政局へと繋がってゆく[7]。