佐藤守良

From Wikipedia, the free encyclopedia

生年月日 1922年3月28日
没年月日 (1996-03-07) 1996年3月7日(73歳没)
出身校 尾道商業学校(現・尾道商業高等学校
中央大学法学部
佐藤 守良
さとう もりよし
生年月日 1922年3月28日
出生地 日本の旗 日本 広島県御調郡向島町(現・尾道市
没年月日 (1996-03-07) 1996年3月7日(73歳没)
出身校 尾道商業学校(現・尾道商業高等学校
中央大学法学部
前職 永野護秘書
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
親族 次男・佐藤公治(元衆議院議員)
内閣 羽田内閣
在任期間 1994年4月28日 - 1994年6月30日
日本の旗 第20代 国土庁長官
内閣 第2次海部内閣
在任期間 1990年2月28日 - 1990年12月29日
内閣 第2次中曽根内閣第1次改造内閣
在任期間 1984年11月1日 - 1985年12月28日
選挙区 旧広島3区
当選回数 9回
在任期間 1969年12月27日 - 1996年3月7日
テンプレートを表示

佐藤 守良(さとう もりよし、1922年3月28日1996年3月7日)は、日本の政治家衆議院議員参議院議員を歴任した佐藤公治の父親[1]

衆議院議員(9期)、農林水産大臣第8代[2]国土庁長官第20代[3]北海道開発庁長官第60代[4]沖縄開発庁長官第29代[4]を歴任。

広島県御調郡向島町(現尾道市)出身。尾道商業学校1947年中央大学法学部英法科卒業[5]

運輸大臣を務めた永野護の秘書を長く務め[6]1960年第29回衆議院議員総選挙に無所属で立候補するが落選[7]1969年第32回衆議院議員総選挙自由民主党公認を得て、再び広島3区から立候補し初当選(当選同期に小沢一郎羽田孜梶山静六奥田敬和渡部恒三綿貫民輔塩崎潤森喜朗村田敬次郎松永光江藤隆美中山正暉浜田幸一など)。

自民党内では佐藤派田中派竹下派に所属し、運輸政務次官、国土政務次官、衆議院逓信常任委員長、第2次中曽根内閣第1次改造内閣農林水産大臣第2次海部内閣国土庁長官、竹下派事務総長[8]などを歴任。また、同期当選の小沢一郎の盟友として知られ、「小沢総理」実現を生涯の目標とした。

1992年の竹下派分裂に伴い、羽田・小沢派に参加。翌年、自民党を離党し新生党結成に参画、新生党常任幹事に就任した。羽田内閣では北海道開発庁長官沖縄開発庁長官を務めた。

1995年勲一等旭日大綬章受章[9]

議員在職中の1996年3月7日未明、体調不良を訴えて搬送されたが、同日、気管支動脈瘻による出血のため、死去した。73歳没。死没日付をもって正三位に叙された。追悼演説は同年4月12日の衆議院本会議で、宮澤喜一により行われた[10]

人物

愛称は「ごもっとも守良」。何を聞いても「ごもっとも」と受け答えをすることから名づけられたという。

佐藤が1年生議員の時、田中角栄に依頼して永野重雄(当時・日本商工会議所会頭)と会食することになったが、その会食の席に佐藤自身が時間ギリギリに駆けつけ、親分である田中角栄を待たせてしまったことがあった。その際に佐藤は田中から『若いお前が先に来て、(招いた)お客さんを待つのが当然だろう』と大目玉を食らった。佐藤は後に「(永野さんとの会食の一件で)世の中の筋というものを思い知らされた。その後、時間に対する厳しさを持つことは自分の人生哲学になったのだ」と述懐している[11]

選挙歴

脚注

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI