稲田堤
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20世紀前半、当地(橘樹郡稲田村大字
当地は近世(江戸時代)には武蔵国橘樹郡
稲田村は1932年(昭和7年)に町制を施行して稲田町となるが、1938年(昭和13年)に川崎市と合併した。同地域周辺は大字菅のままであったが、1984年(昭和59年)、住居表示実施により菅から分離し独立し、稲田堤駅を一丁目1-1として菅稲田堤の町名が誕生した。1971年(昭和46年)に開業した京王電鉄相模原線京王稲田堤駅は旧来の大字名を継承した菅四丁目1-1とされた。
地域
- 旧橘樹郡稲田村大字菅の区域に含まれる現行町名は次のとおり。
- 多摩川梨とも呼ばれる長十郎種のナシと、のらぼう菜と呼ばれるセイヨウアブラナの産地である。
- 菅仙谷には多摩丘陵の南山から続く里山が残っている。
「桜の名所」の歴史
1898年(明治31年)、日清戦争戦勝記念として、稲田村が多摩川右岸堤防に桜を植えたのが、桜の名所としての「稲田堤」の始まりである。大正から昭和の初めにかけて、「稲田堤」は桜の名所として名高く、最盛期には2000本を越える桜の木が植えられていた[6][7]。1922年(大正11年)に建立された「多摩川稲田堤桜之碑」が現存する[8]。稲田堤駅前の「観光道踏切」は、当地が観光地として賑わった時代の名残りである[9]。
1931年(昭和6年)にレコード化された歌謡曲『丘を越えて』の曲は、古賀政男が稲田堤の桜見物に来たことをきっかけに生まれた[10][注釈 2]。
多摩川土手の桜の木は、第二次世界大戦中には燃料不足から伐採されるようになり[8]、戦後になると護岸工事や道路整備の進行とともに伐採が進んだため[6][10]、昭和40年代(1965年 - 1979年)には姿を消した[8]。なお、1971年(昭和46年)に開園した稲田公園には100本の桜が植樹され、地元の人々に親しまれている[12]。
多摩川土手では、桜の名所時代に設けられた茶店が常設店舗化し、戦後も居酒屋などに業態を転じて営業を続けた例もあった[6]。しかし桜の消滅とともにそれらも閉店していき、1973年以降は「たぬきや」1軒のみとなった[6]。「たぬきや」は河川敷という開放的な立地も相まって居酒屋愛好者の間で「天国にもっとも近い酒場」などと評される名店であったが[13]、2018年に閉店した[6][14]。
地価
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、菅稲田堤三丁目5-35の地点で22万9000円/m2となっている。[15]
施設
- 川崎市多摩区役所菅連絡所(菅三丁目)
- 稲田公園(菅稲田堤二丁目)
- 小沢城址(菅仙谷一丁目)
- 生田スタジオ(菅仙谷三丁目)
- 川崎市農業技術支援センター(旧:川崎市フルーツパーク)(菅仙谷三丁目)
- 川崎市多摩スポーツセンター(菅北浦四丁目)
- 神奈川県立菅高等学校(菅馬場四丁目)
- 川崎市立菅中学校(菅城下)
- 川崎市立南菅中学校(菅馬場四丁目)
- 川崎市立菅小学校(菅二丁目)
- 川崎市立東菅小学校(菅馬場二丁目)
- 川崎市立南菅小学校(菅馬場三丁目)
- 川崎市立西菅小学校(菅北浦四丁目)
- 多摩川稲田堤桜之碑(菅野戸呂)
- 稲田堤郵便局(菅一丁目)
主な店舗
- fuji稲田堤店(菅三丁目)
- 京王ストア稲田堤店(菅二丁目)
- ゆりストア星ヶ丘店(菅北浦四丁目)
- コープかながわ菅店(菅五丁目)
- 横浜銀行稲田堤支店(菅稲田堤一丁目)
- 川崎信用金庫稲田堤支店(菅一丁目)
- おかしのまちおか稲田堤店(菅一丁目)
神社・仏閣
菅地区は古い寺社が多数ある。
- 寿福寺
- 薬師堂(9月の第2日曜日の「菅の獅子舞」は、神奈川県無形民俗文化財に指定されている)
- 子之神社
- 八雲神社
- 玉林寺
- 菅の六地蔵
交通
- 鉄道
- 道路
- 神奈川県道・東京都道9号川崎府中線 (府中街道)
- 川崎市主要地方道幸多摩線(多摩沿線道路)