稷山の戦い

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稷山の戦い
戦争:慶長の役
年月日慶長2年9月7日1597年10月17日
場所朝鮮国忠清道天安郡稷山県
結果:決着つかず、日暮れになって両軍引き上げ。
交戦勢力
豊臣政権
指導者・指揮官
解生 黒田長政
毛利秀元
戦力
当初2,000
援軍2,000[1]
黒田軍5,000
援軍25,000
損害
85[2]〜200余 戦死 戦死500~600(朝鮮側記録)
文禄・慶長の役

稷山の戦い(しょくさんのたたかい)は慶長の役において日本軍と明軍との間で戦われた戦闘。文禄・慶長の役を通じて両軍が予断を行わずに、正面切って戦った唯一の野戦である。

文禄の役の後続いていた講和交渉は決裂し慶長の役が始まった。慶長2年(1597年)の作戦目標は全羅道を成敗し、忠清道その他にも出動することで[3]、目標の達成後は城塞(倭城)を築城し、城の在番担当を定め、それ以外の軍は帰国する計画が定められていた[4]

釜山周辺に布陣していた日本軍は7月16日漆川梁海戦朝鮮水軍朝鮮語版英語版を殲滅すると陸上でも全羅道を目指して進撃を開始する。このとき明・朝鮮軍では全羅道と慶尚道との道境付近にある南原城黄石山城で守りを固めていた。

日本軍は左軍と右軍の2隊に分かれ西進し、左軍は8月15日南原城を攻め落とし(南原城の戦い)、右軍は8月16日黄石山城を攻め落とし(黄石山城の戦い)、両軍は全羅道の中核都市全州に向かって併進した。するとここを守る明将陳愚衷は恐れをなして逃走したため戦うことなく8月19日全州を占領した。ここで諸将は軍議を開き全羅道及び忠清道を平定するため各地へ分進していった。

戦闘経過

戦闘後の経緯

脚注

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