忠清道平定を担当する日本の右軍の主力毛利秀元(兵約25000)、加藤清正(兵約1万)、黒田長政(兵約5万)及び軍監太田一吉、竹中重利の五将は兵4万余人を率い8月29日に全州を出発して北進し、9月初旬公州に至る。初め明将陳愚衷が全州を捨てて逃走すると、提督麻貴は漢城より遊撃牛伯英を遣わし赴援させた。牛伯英は陳愚衷と兵を合わせ公州に駐屯していたが、日本軍が全州を発して大挙北進するのを聞くと蒼黄となり漢城に退却した。この結果日本軍は明軍の抵抗を受けることなく公州を占領する。
日本軍は公州において路を分かち加藤・太田の2隊は右方に進み燕岐を経て9月6日清州に到り、秀元は黒田隊を以って先鋒と為し全義を経て同日天安に到った。
漢城において明の経理楊鎬が9月朔日平壌より来た麻貴を促し、出でて日本軍の前進を阻止しようとした。麻貴は乃ち水原に到り副総兵解生、遊撃牛伯英、楊登山、頗貴の4将をして精騎2千を率い6日稷山に向かわせた。朝鮮の朝廷もまた李元翼をして兵を率い竹山方向に下り清州路を扼し以て明軍の左翼を警戒させた。
9月7日未明、黒田長政は部将黒田直之、栗山利安ら先鋒の若干の兵をまず前進させた。直之らは稷山へ一里ほどまで前進し、日の出と共に敵兵が山野に充満し近迫する様を見る。諸将は軍議を開いて進退を議論した。毛屋武久が「敵は多く我は少なし。我若し一歩を退かば彼必ず追撃し我兵殲きん死は一なり寧ろ進んで死するに若かず且つ我兵一致団結して奮進すれば必ず敵の一部を突破せん。我その機に乗じて退却すれば或は軍を全うするを得ん。是れ武田勝頼が長篠の敗後に攻勢に出て敵の追撃を遅緩ならしめたる故智なり」と発言すると、諸将もこれを然りと為し乃ち歩率をして斉しく銃射せしめ士卒硝煙中より喊声を発して突撃する。明軍は大いに驚き防戦短時間で破れ退く。直之等これを機とし兵を収めて退く。時に長政は遥かに銃声を先鋒の方向に聞き麾下3000を率いてこれに馳せる。先鋒の兵敵に追躡せられ其勢は甚だ危うし。黒田一成曰く「先鋒がもし敗れたならば我が本軍もまた恐らくは支え難からん是れ吾が死所なり。」と手兵を以て敵を側撃した。後藤基次は一高地を占領し其部兵を馳駆せしめ、以て敵をして我衆寡を測らさしめ、且つ先鋒兵に声援する。一成遂に先鋒の兵を収容して還る。
長政は戦場に到着すると直ぐに東方の高地に上がって自ら敵情を偵察し、乃ちその隊の部署を改め右備一番隊は母里友信、栗山利安、黒田利高をこれに任じ、井上九郎兵衛、野村市右衛門を二番隊としてこれに次き、左備一番隊は後藤基次、黒田一成がこれに当り、黒田直之、桐山孫兵衛が二番隊としてこれに次いた。長政は自ら爾餘の兵2000人を率いて本隊たり。この時、明将解生等が水原より到来する。遊撃擺寨、千総李盆喬、把総劉遇節等2000人の援軍を得て再び兵気を回復して攻め寄せた。両軍末院の野に戦い奮闘数合にして勝敗はなかなか決まらなかった。
毛利秀元は天安に在り稷山の戦急を聞き、直ちにその兵を率いてこれに赴援し先鋒の将宍戸元続、吉見広行等に先ず進ませた。元続等は急駆してこれに赴き、黒田隊を助けて敵の側背に突撃する。これにより明軍は遂に大いに敗れて水原方向に退いた[5]。午後3時を過ぎた頃、日本軍は敢えて追撃せず兵を収めて天安に還った。この日の戦闘で日本軍の黒田兵29人が戦死、明軍は約200余人が戦死した[1]。朝鮮王朝実録には日本軍の戦死500~600、明軍も戦死者が多い、との記事がある。
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朝鮮王朝実録においては明軍は自軍の勝利と報告している[7]。