第6期本因坊戦
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制度変更の波紋(関西棋院独立)
本因坊戦を時代の趨勢にならって1期1年制にすべきという議論は以前から行われていたが、1950年5月に行われた第5期の継承式(就位式)にて津島寿一日本棋院理事長が祝辞の中で「次期から1期1年に改めたい」と発言し、これに橋本宇太郎が本因坊である自分に諒解を得ていないと反発した。1期1年は橋本自身の持論でもあったが、唐突に当期からの実施として発表されたことを問題視した。その波紋の中で、6月に主催紙毎日新聞、及び日本棋院と関西棋院の委員が出席して行われた東西連絡運営委員会にて、全員一致でこれが決定となった。しかし当時の関西棋院は1948年に日本棋院から法人としては独立したものの、経営的には日本棋院内組織となっており、いっそうの独立を進めようとする独立派と、改善は徐々に進めようとする協調派の2派が存在しており、運営委員会に出席していたのが協調派の棋士のみだったため、関西棋院内での対立が表面化し、理事の改選か行われて協調派は一掃された。関西棋院は9月、免状発行権を得て経営的に完全に独立した上で本因坊戦と大手合に参加することを日本棋院に要求し、また光原伊太郎、細川千仞ら協調派の棋士は関西棋院を離脱して日本棋院関西総本部を組織した。
軋轢の中の進行
本因坊戦自体は毎日新聞と日本棋院の契約によって成立していることから、日本棋院から離脱した関西棋院の棋士には参加資格もないことになり、橋本から本因坊を剥奪すべきという意見も出た。しかし毎日新聞としては「全日本棋士選手権戦」を建前とする以上は全棋士参加であることが望ましく、また日本棋院としては本因坊位は実力で奪還すべしということが総意となり、予選はそのまま進められた。また橋本はこの間にも呉清源との十番碁、及び本因坊対呉三番碁の対局も進めていた。
1950年12月に、リーグ戦を勝ち抜いた坂田栄男が挑戦者に決定した。ここで橋本から、自分が本因坊位を失っても次期から関西棋院の高段者が参加できるようにならなければ挑戦手合に応じない、という条件が出され、これが間組社長神部満之助らによる調停の末に1951年3月になって受け入れられて、挑戦手合七盤勝負は1月予定だったところ4月になって開始された。
