聖パウロ (ベラスケス)

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製作年1619年ごろ
寸法99.5 cm × 80 cm (39.2 in × 31 in)
『聖パウロ』
スペイン語: San Pablo
英語: Saint Paul
作者ディエゴ・ベラスケス
製作年1619年ごろ
種類キャンバス上に油彩
寸法99.5 cm × 80 cm (39.2 in × 31 in)
所蔵カタルーニャ美術館バルセロナ

聖パウロ』(せいパウロ、西: San Pablo: Saint Paul)は、バロック期のスペインの画家ディエゴ・ベラスケスが制作したキャンバス上の油彩画である。現在、バルセロナカタルーニャ美術館に所蔵されている。作品は、ベラスケスがセビーリャからマドリードに移る前の画業初期にあたる1619年ごろに描かれた[1]。当時、ベラスケスの芸術は、イタリア・バロック絵画の巨匠カラヴァッジョから大きな影響を受けていた。画中の聖パウロは、一般に大きな福音書と見なされている本を持った姿で表されている[2]

ベラスケスは、本作で肖像画を描く術を習得していることを示している。モデルの人物は直接写生されており、ほとんど彫刻的な襞のある幅広の衣服を纏っている。人物像を暗い背景の中にレリーフのように表す劇的な照明はテネブリスムから受け継いだ様式であり、ベラスケスにより一般に用いられる土色の色調も同様である[3]。そうした技法で、人物像の自然主義的で真実の表現が生み出されている。聖パウロは、背景に溶け込む石の台座の上に腰かけている。左手の指は厚い本を掴んでいるが、おそらく自身の限界を表さないようにベラスケスは両脚と手の大部分を服の襞の下に隠している。

ホセ・ロペス=レイスペイン語版によれば、聖パウロの頭部は「鋭く描かれ」、図像そのものは「いくらか擦られ、暗くされている」が、それはベラスケスの初期の作品に典型的な様式である[4]

新約聖書」によれば、パウロはダマスカスへ赴く途中に光線を受け、出会ったイエス・キリストにより盲目にされた[5]。三日後、パウロは視力を回復し、人々にキリスト教を伝道し始めた[6]。この絵画でパウロは大きな茶色の衣服を身に着けているが、それはエルサレムからダマスカスへの巡礼象徴する。緩い厚手の服には多くの襞があり、それが赤茶色のチュニックの上に掛かる布地の重さを示唆している[1]。パウロは通常、偉大な知恵と学識を象徴するために先細りの顎髭、茶色の髪、そして禿げあがった額とともに表される[1]。しかし、ベラスケスの図像は灰色がかった黒髪でパウロを描いており、彼のアトリビュート (人物を特定する事物) としては非常に異例である[7]。また、パウロは視点の定まらない眼差しをしており、それはおそらく伝説にもとづく彼の視力の喪失を示すものとなっている。

画面上部左側の言葉は人物を「S. PAVLVS」 (ラテン語で「聖パウロ」を意味する) として特定している[1][7]が、パウロの唯一のアトリビュートであるとともに描かれてはいない (本を持っていない場合、パウロは、彼の殉教を示す、切断された頭部および彼を刺し殺した剣とともにもっと厳めしく描かれる)[2]。頭部の周りの輝くオーラ、あるいは光輪は彼が聖性を持ち、聖人として列聖されたことを象徴する[1]。聖性のオーラは主題にふさわしいが、作品はまたホセ・デ・リベーラにより描かれた知的な哲学者像も想起させる。ベラスケスはパウロを本とともに描くことで、伝統的なパウロ像からは逸脱している[7]。パウロが持っている福音書は彼が使徒であり、キリスト教を広めるのに大きな影響力を持ったことを象徴する[1]

歴史

ベラスケス『聖トマス』(1619-1620年)、オルレアン美術館

本作は1619年ごろに描かれた[1]が、それはベラスケスがフェリペ4世の宮廷画家となる1623年にセビーリャを発つ前のことである。1921年に、研究者アウグスト・マイヤー (August Mayer) は、本作をベラスケスの作品であると特定した[7]。本作と『聖トマス』 (オルレアン美術館) は本来、セビーリャのカルトジオ会のラス・クエバス (Las Cuevas) 修道院に所蔵されていたと考えられている[7]美術史家ザヴィエ・ブライ (Xavier Bray) は、大きさで類似している両作品はベラスケスがセビーリャに居住していた時に描いた12人の使徒を表す連作を構成していた可能性があり、残りの作品は失われていると述べている[8]

ベラスケスは、画家としての初期にカラヴァッジョに多大な影響を受けており[7][9]、本作は「スペインにおけるカラヴァッジョの絵画的リアリズムの影響を理解する上でカギとなる作品であると考えられている」[1]

様式

若かったベラスケスは制作に際し、『エル・ラサリリョ・デ・トルメス (El Lazarillo de Tormes)』 などの当時の古典文学の影響ならびに故国の美しさを利用した[10]。画業を進めながらも、彼は自然界に見出した色彩や事物を用い続けている[11]。ベラスケスは人々が彼の選んだ主題を彼自身に見えたように見てもらうことを望み、人物をリアルに、そして「不死の生々しい特質」とともに提示した[12]

ベラスケスはずっと写実主義者であり、若い時期にはカラヴァッジョとイタリア・ルネサンスの画家たちに影響を受けた[13]。ロペス=レイによれば、ベラスケスの粗いと同時に滑らかな筆致は「カラヴァッジョよりもティツィアーノに近い」[14]。ベラスケスは、あらかじめ構図を注意深く計画せず、スケッチを描かなかった点において当時の画家たちの間では異色の存在であった[15][16]。代わりに、彼はモデルの人物を分析し、完全に目に頼って描いた[15]。ベラスケスは30歳になるまでにリアリズムに通暁し、自身の絵画作品の様式を変えることはなかった[17]

画業初期において、ベラスケスはボデゴン (スペインの厨房画、静物画) と人物画を描いた[18]。ボデゴンは、「食べ物、飲み物、食卓の事物」に関連する用語である[18]。人物画は1618-1622年に描かれ、人間の表情を強調したものとなっている[14]。本作はそうした人物画の1つで、人間の陰鬱な感情をはっきりと表現している[19]。ベラスケスの初期の作品は20点ばかりしか発見されていないが、彼が「肖像を描くことを好んだ」のは明らかである[19]。ベラスケスの初期作品の大部分に「統一的な宗教的含意」が見られ、それは彼の生涯にわたるカトリック信仰を表している[19]

他の作品との関連

ベラスケス『セビーリャの水売り』(1620年ごろ)、アプスリー・ハウス、ロンドン

1618年にベラスケスはセビーリャに家を借りたが、そこでは水売りが通りを渡り歩いていた[20]。1618から1620年にかけて、ベラスケスは『セビーリャの水売り』 (アプスリー・ハウスロンドン) を描いた。美術史家のピーター・チェリー (Peter Cherry) は、「慎ましい主題」に惹かれていたベラスケスがそのためにモデルを用いたと考えている[20]。チェリーは水売りの人物が「初期の聖パウロ像に類似している」と述べ、ベラスケスが『セビーリャの水売り』と1619年の本作『聖パウロ』に同じモデルを用いたと考えている[20]

脚注

参考文献

外部リンク

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