謝琰
東晋の武将、謝安の次子
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生涯
弱冠(二十歳)の頃には既にその貞潔なることと優れた器量をもって名声があり、風采も美しかったという。従兄の護軍将軍謝淡は隣人であったが往来せず、一族の中でも特に優れた才徳を備えると見た数人を選んで交際した[4]。
官ははじめ著作郎、のち秘書丞に転じ、やがて散騎常侍・侍中と累進した[5]。
洛澗の戦い
太元8年(383年)、華北を統一した前秦の苻堅が王猛の遺命と群臣の反対とに背いて大軍を南下させると、父の謝安に見込まれて輔国将軍となり、八千の精兵を統率して迎撃に当たるよう命ぜられた[6]。
同年10月18日(383年11月28日)[2]、前秦の苻融が寿陽(県名、并州楽平郡[7])を陥落させ、東晋の平虜将軍徐元喜らを虜として前秦の参軍郭褒を淮南太守に任じ、これと同時期に前秦の慕容垂(のちに後燕の成武帝)が鄖城を攻略した。東晋の竜驤将軍胡彬は寿陽への援軍として水軍五千を統率していたが、寿陽が陥落したと知るや硤石に駐屯した。謝琰は謝石に従って洛澗から二十五里離れた地点に布陣したものの、前秦の衛将軍梁成が五万の兵をもって晋軍と対峙し、淮水に柵を設けてこれを牽制していたため、謝琰らは進軍を阻まれた[8][9]。
他方、胡彬は兵糧が尽き、密使を派遣して謝琰らの部隊に「今、賊(前秦)は盛んで、我が軍の兵糧は尽きました。もはや大軍にお目にかかることはできないかもしれません」と伝えんとしたが、密使は前秦の斥候のため拘束され、苻融のもとへ送られた。苻融は胡彬の文書を読むや直ちに使者を走らせ、苻堅に「敵は少なく虜にしやすい状態ですが、ただ逃げ去られることだけが気掛かりです。速やかにお越しください」と上奏した。このため苻堅は謝琰らを親征すべく、大軍を項(県名、豫州梁郡[7])に留め、軽騎兵八千を率いて昼夜兼行で寿陽へと疾走した。加えて、尚書の朱序を謝琰らのもとへ降伏勧告の使者として赴かせた[10]。
しかし朱序が謝琰らのもとに到着するや、朱序は密かに「若し前秦の百万の軍勢がすべて到着してしまえば、これに対抗するのは困難を極めます。今、諸軍が集結していないことに乗じて急襲を敢行すべきです。斯くしてその先鋒を破れば、彼らの気勢を削ぐことができ、そのまま打ち破ることができるでしょう」と説いた。謝石は苻堅自らが寿陽に駐屯していることを恐れ、戦わずして秦軍を疲弊させる策を採らんとしたが、謝琰は朱序の助言に従うよう謝石を諫止した[11]。
11月、謝玄は広陵相劉牢之に精兵五千を率いさせて洛澗へ派遣した。劉牢之は洛澗の手前十里のところで、梁成が背水の陣を敷いて迎撃態勢を整えているのを確認したため、川を渡るまで軍を直進させて梁成と戦い、梁成および弋陽太守王詠を斬った。更に兵を分散させて彼らの退路を断ち、揚州刺史王顕を捕縛して兵器や軍需を鹵獲した。ここに至って謝琰らは水陸両軍を動かし、苻堅に「これもまた強敵ではないか。誰が弱いなどと言ったのだ!」と言わしめた。その実、苻堅と苻融は寿陽の城壁に登って晋軍を望見し、軍陣の厳整なることと、寿陽を囲む八公山の草木までをも晋軍の兵だと錯覚したためであった[12]。
淝水の戦い
前秦の軍勢は淝水に逃れてその岸に布陣し、晋軍の渡河を警戒した。謝玄は苻融に使者を派遣して「貴殿は軍を遥か深くに進めながら、水際に迫って陣を敷いておられる。これは長期戦の構えであり、速戦即決を望む者の為すことではない。陣を少し退け、晋軍に川を渡らせ、雌雄を決しようではないか。それもまた良いことではないか」と伝えた。前秦の諸将は皆「晋軍にとって我が軍とは多勢に無勢、川岸で渡河を阻み、上陸させぬのが万全の策です」と述べた。しかし苻堅は「兵を少しだけ後退させ、敵が半分ほど渡河したところで我が軍の鉄騎に蹂躙させれば勝てぬはずがない」と言い、苻融もまたこれに同調して、遂には旗を振って兵を後退させた[13]。
ところが前秦の兵は一度退くと混乱して止まろうとしなかった。秦軍が後退を始めた直後、陣の後方で待機していた朱序が「秦は敗れたぞ!」と叫んだためである。これを機を見た謝玄は謝琰・桓伊らを伴って淝水を渡河し、混乱する秦軍を攻撃した。苻融は馬を駆って陣中を駆け巡り、退却を続ける者を呼び戻そうとしたが、馬が転倒したところを晋軍に殺された。急襲の成功に乗じた謝玄らは逃げる秦軍を追って青岡に至り、朱序は徐元喜・張天錫(のちに前涼の悼公)らと共に東晋へ亡命した。前秦の兵は互いに踏みつけ合って殺し合い、その死体は野を覆い川を塞いだ。命辛々生き延びた者たちも、風声鶴唳を聞くたびに晋軍の追撃かと恐れて多くの犠牲者を出した。苻堅が乗っていた雲母車や儀礼に用いる衣服・兵器・軍資金・珍宝・家畜などは数え切れないほどに鹵獲された。東晋の別動隊は寿陽を奪還すべくこれを攻撃し、淮南太守郭褒を虜として寿陽の攻略に成功した[14]。
戦後、謝琰は軍功により望蔡公の爵位を得たものの、程無くして父の謝安が死んだため職を辞した。服喪を全うすると征虜将軍・会稽内史、のち尚書右僕射・太子詹事に任ぜられ、散騎常侍を加えられたが、今度は母が死んだため又もや服喪に追われた[6]。その葬礼については朝廷で議論が起こり、「潘岳が賈充の妻のために作った『宜城宣君誄』には、『昔、武侯の時には葬礼が特別に厚く行われた。伉儷(夫婦)とは一体であり、朝廷の礼も同等である』とある。ゆえに葬儀の費用を支給し、全て謝太傅(謝安)の前例に従うべきだ」とされた[15]。
しかし僕射の王珣はかつての私怨から葬儀を意図的に遅延させた。これは王珣は謝万の娘を娶り、その弟の王瑉は謝安の娘を娶っていたものの、いずれも添い遂げず、それが両家の間に軋轢が生じさせていたためである。謝琰はこれを恥とし、自ら轀輬車を作って葬儀を遂行した[16]。当時の中国における「轀輬車」(おんりょうしゃ[17])とは、主として皇帝の葬儀に用いられた霊柩車を指し、臣下が用いるのは基本的に皇帝が下賜した場合に限る[18]。すなわち、謝琰は世間から批難を浴びることをも恐れず、父の葬儀に倣って母の轀輬車を用意していたものと推定され、この故事は当時の中国において霊柩車(轀輬車)が最も重視された葬儀の一環であったことを示すものとされる[18]。
王恭の乱
太元年間(376年 - 396年)の末には護軍将軍に任ぜられ、右将軍を加えられた。のち、会稽王司馬道子のため右将軍司馬に転じた[19]。
太元21年9月20日(396年11月6日)[2][20]、孝武帝が崩ずると、司馬道子が執政するに及んで政務を委ねられた寵臣王国宝を除くという名目で王恭が桓玄(のちに桓楚の武悼帝)らと結んで挙兵した。司馬道子はこれを知るや直ちに王国宝を誅殺し自らの過失を謝罪したため王恭は兵を退け、突如の蜂起中止に怒って挙兵を敢行した王廞は王恭の命を得た輔国将軍劉牢之に討たれた[21]。時に、譙王司馬尚之は司馬道子に「地方の藩伯(諸侯[22])が強大で、宰相の権力が弱い。勢力を樹置(扶植[23])して自衛すべきだ」と進言した。司馬道子はこれに従い、庾楷(東晋の征西将軍庾亮の孫[24])の豫州四郡を削って自身の司馬である王愉を江州刺史に任じた。このため庾楷は怒り、王恭に子の庾鴻を介して「(司馬)尚之兄弟は朝権を専弄(独占[25])し、藩伯を貶削(削減[26][27])せんとしている。事を懲警(警戒[28])し、今のうちに動くべきだ」と説いた。王恭はこれに同意し、再び殷仲堪・桓玄と結んで蜂起を決めた[29]。
しかし朝廷の内外は疑沮[30][31]の態勢にあったため、殷仲堪の密書は庾楷を通じて絹に記され、矢の筒に入れられて王恭のもとへ届けられた。ところが王恭はその筒を開封するや、歪んだ絹の文字を読めず、庾楷の偽書と思い込んだ。またかつて殷仲堪が盟約を反故にしたことがあったため彼を猜疑し、今回は動かぬだろうと判断、予定よりも早くに挙兵した。これを知るや、劉牢之は「将軍は外戚として重きを成し、忠貞の節を守っておられます。相王(司馬道子)もまた姫旦(周公旦)のように尊ばれ、昨年既に王国宝らを戮し、王廞も深く屈服した書簡を送ってきたではありませんか。この頃の人事も適正ではなかったでしょうが、大いなる過失があった訳でもないでしょう。庾楷の管轄していた四郡を王愉に配したとて、将軍(王恭)に何の損があるのでしょうか。晋陽の師[注釈 1]を繰り返しても良いのでしょうか」と諫言したが、王恭は従わなかった[33]。
隆安2年9月2日(398年9月28日)[2]、安帝は司馬道子に太傅を加えると共に、右将軍謝琰・会稽王世子司馬元顕・前将軍王珣らに王恭の討伐を命じた。同年9月10日(398年10月6日)には謝琰ら官軍は牛渚(現・安徽省馬鞍山市当塗県[34])で庾楷を破った。9月17日(398年10月13日)、司馬道子は自ら中堂に駐屯し、司馬元顕は石頭に鎮戍、その三日後となる9月20日(398年10月16日)になって王珣は北郊、謝琰は宣陽(門名、司州河南郡洛陽県[7])にそれぞれ鎮戍した[35]。この頃、王恭は劉牢之が自分の席に座る夢を見、翌朝「成功すれば、お前を北府の主にしよう」[注釈 2]と語って竹裏へ劉牢之と帳下都督顔延を派遣し拠らせたが、司馬元顕が大金をもって劉牢之を煽動し、顔延を斬って官軍に降伏させた。劉牢之は同日のうちに女婿の高雅之と子の劉敬宣とを遣わして王恭の軍を偵察させると、新亭に進駐し、反軍を軽騎で急襲した。王恭は敗れて帰還を図ったが、高雅之が既に城門を閉ざしていたため、弟の王履とともに単騎で逃走した[37]。
王恭は久しく騎乗しておらず、髀肉に瘡(そう[注釈 3])を患ったこともあって遠くには逃げられなかった。曲阿(県名、揚州毗陵郡[39])の長塘湖へ逃れたとき、かつての参軍殷確と遭遇した。彼は王恭らを船に乗せて葦で作った席の下に隠し、桓玄のもとへ逃がそうとしたが、一行は道中で商人の銭強に遭遇した。銭強は殷確に対して宿怨を抱えており、ゆえに殷確が王恭らを匿っている旨を湖浦尉に密告、王恭は捕らえられて京師(すなわち建康)へ押送された。その到着前、司馬道子は「面会して恥を搔かせてやろう」と考えるのみであったが、桓玄らが石頭に進軍してくるや変事を恐れ、倪塘に至って王恭を斬った。王恭の五人の子、四弟の王爽、甥(王恭の長兄王華の子)の秘書郎王和、及びその党与である孟璞・張恪らは皆殺しにされた。直後、朝廷は太常の殷茂を派遣、桓玄および殷仲堪を諭したため、桓玄らは尋陽へ逃走した[40][41]。
孫恩の乱
隆安3年11月2日(399年12月15日)[2]、孫恩が五斗米道の信徒を糾合して蜂起、王凝之(王羲之の子、謝琰の従姉謝道韞の夫)を殺して会稽を陥れ、呉興太守謝邈(謝琰の従弟)・永嘉太守司馬逸らをも殺害すると、謝琰は都督呉興義興二郡軍事に任ぜられ、孫恩の討伐を命ぜられた[43][44]。
まず義興に至って反軍の領袖許允之を斬殺、太守の魏鄢[注釈 4]を郡へ帰還させると共に、呉興に疾走して丘尪を討った。直後、勅命のため劉牢之と協力して孫恩を海島に敗走させ、これを憂慮した朝廷より会稽内史・都督五郡軍事を拝命[注釈 5]、本官は据え置きとされた[47]。
謝琰はその資望をもって越(現・浙江省[48])の地を鎮撫したため、世の論者はみな「もはや東方を憂える必要はない」と考えたという。しかし、謝琰は郡に赴任しても慰撫の才を示さず、疎か軍備をも怠った。麾下の将は「強賊は海に在り、こちらの隙を窺っております。どうか仁徳を広め、彼らを改心(帰順)させる道を開いてください」と諫めたが、謝琰は「苻堅は百万の兵を率いていながら、なお淮南で葬送を遂げられた。況して孫恩のような敗残の賊が海へ逃げ帰ったところで、如何して再び出て来られようか。よしんば本当に来襲するとしても、それは天が国賊を養わず、早く就戮(殺害[49])せんとしているだけだ」として諫言を撥ね除けた[50]。
果たして孫恩は浹口に侵攻し、余姚(県名、揚州会稽郡[39])・上虞(県名、揚州会稽郡[39])を経て山陰(県名、揚州会稽郡[39])の北三十五里に位置する邢浦に軍を進めた。ここに至って謝琰は参軍劉宣之を派遣、反軍を撃退したが、まもなく上党太守張虔碩が敗れ、これにより反軍は昂揚して鋭進し、人々は震駭した。官軍の者は皆、「今は慎重に堅守すべきであり、南湖に水軍を並べ、伏兵を設けて敵を待つべきだ」と進言したが、謝琰は聞き入れなかった[51]。
孫恩率いる反軍が謝琰率いる官軍のもとへ到着した時、将兵はまだ食事も摂っていなかったが、謝琰は「まずこの賊を滅ぼしてからで良い」と言い、馬に跨って出陣した。広武将軍桓宝が先鋒を務め、陥陣[52]して多くの反軍を斬殺したが、堤の道は狭く、魚貫の隊列で行軍していた謝琰はその前後を反軍に断絶されると共に、船中から軍の側面を射撃され、ついに千秋亭で敗北を喫した。あまつさえ、謝琰は反軍の帳下都督張猛に背後から馬を斬り付けられたため落馬し、長子の驃騎参軍謝肇・次子の建昌侯謝峻ともども戦死し、桓宝もまた反軍に討たれた。のち劉裕(のちに南朝宋の武帝)が左裏で反軍に勝利した際、謝琰らを殺した張猛を虜として謝琰の末子謝混のもとへ送った。謝混は張猛の肝臓を抉り出し、そのまま彼を踊り食ったという[53]。
朝廷は詔して「謝琰の父子は君主と父母への忠孝のために命を落とし、忠と孝とは一門に集まっていた」と称し、謝琰に侍中・司空を追贈、忠粛と諡した。謝琰は謝肇・謝峻・謝混の三子を儲けており、そのうち年長の二人が反軍に殺されると、詔によって謝肇に散騎常侍、謝峻に散騎侍郎がそれぞれ追贈された。末子の謝混は官を尚書左僕射に進めたが、劉裕の政敵劉毅に左袒したことが仇となり、劉裕が劉毅の一派を掃蕩するに及んで死を賜った[54]。