谷晃
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大阪市立東商業学校(現・大阪市立東商業高等学校)を卒業後、様々な仕事をこなして貯金を作り、1934年に新響劇場を設立、1936年に大阪協同劇団に加わり[1]舞台俳優として活躍した。1940年に同劇団が解散すると上京し[6]、浅草で軽演劇に出演[4]。1941年に東宝に入社し[4]、同社の劇団部では演出家としても活躍した。芸苑プロダクション、松竹京都撮影所を経て、再び東宝と契約[4]。
1940年には映画『船出は楽し』で念願の初主演を果たし、その後も亡くなるまでの26年間に様々なテレビドラマや東宝を中心とした映画で活躍した。かの黒澤明監督の『七人の侍』にも出演している。主役よりも脇役が多かったが、個性的な演技で名脇役として名を馳せた。その出演数は映画だけでも110本以上に及ぶほどの活躍ぶりで、当時は知名度も抜群の俳優であった。書籍『ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』では、「腹にいちもつある小悪党が得意」と評している[2]。
1966年、東映との専属契約を解消してテレビ俳優として本格的な俳優活動を開始した。しかし、その直後に持病の高血圧による言語障害を発症してしまう[5]。入院や治療を行いながら活動を続けたものの同年8月11日に東京市北多摩郡狛江町覚東[注釈 1]の自宅で首吊り自殺を遂げた[5]。55歳没。同年公開の映画『クレージーの無責任清水港』と同年に放送されたテレビ特撮ドラマ『ウルトラQ』などが遺作となってしまった。
自殺の原因は、前述の持病や後遺症による俳優業の伸び悩み、高額な治療費などの借金などが挙げられているが、遺書を遺さなかったため詳しいことは分かっていない[注釈 2]。谷は亡くなる前日まで元気に振舞っていたと言い、谷を慕う親友たちは突然の訃報に絶句したと言う。