貫井遺跡
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| 別名 | 小金井市No.1遺跡 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都小金井市貫井南町 |
| 座標 | 北緯35度41分59.5秒 東経139度29分38.6秒 / 北緯35.699861度 東経139.494056度座標: 北緯35度41分59.5秒 東経139度29分38.6秒 / 北緯35.699861度 東経139.494056度 |
| 標高 | 70–71 m (230–233 ft) |
| 種類 | 遺跡(集落跡) |
| 歴史 | |
| 時代 | 後期旧石器時代・縄文時代・中世(室町時代) |
貫井遺跡(ぬくいいせき)は、東京都小金井市貫井南町三丁目にある旧石器時代から縄文時代にかけての複合遺跡である[1][2]。なお本項では貫井南町4丁目出土蔵骨器[1][3]についてもあわせて記述する。
旧石器時代の生活痕跡と、縄文時代の環状集落からなる遺跡である。これまで24次にわたる発掘調査が行なわれ、縄文時代中期前半~末葉の竪穴建物跡が55棟検出された。
武蔵野台地の南端、国分寺崖線に面して立地し、湧水が形成したノッチ状地形を囲む∩字状の範囲に広がる。ノッチ部分には現在では貫井神社が立地、本殿の西側には現在でも湧水があり、境内には池が形成されている[4]。遺跡の本体は神社東側の道路を上った、台地上の標高70~71mの範囲に立地する。
近隣には、国分寺崖線に面して西側に国分寺市東京経済大学構内遺跡、東側に小金井市はけうえ遺跡、南側の斜面下位の立川面には荒牧遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
調査の歴史
発見と初期の調査
1907年(明治40年)刊行の『日本石器時代人民遺物発見地名表』が初出とされる[5](国立国会図書館デジタルコレクションでは増訂4版で確認できる[6])。1923年(大正12年)に首藤岩泉が打製石斧などを採集している。大正から昭和初期にかけて前田家の別荘(三楽荘)の建築時に多数の遺物が掘り出され、『小金井村郷土誌』に報告された[7]。
最初の発掘調査は1939年(昭和14年)に藤原音松らにより行なわれ[8]、1946年(昭和21年)には甲野勇・G.グロート・塩野半十郎・後藤守一ら[9]、1952年(昭和27年)には甲野勇・松井新一が[10][11]発掘調査を行なった。1957年(昭和32年)から武蔵野郷土館の吉田格の指導による東京学芸大学考古学研究室による発掘調査が断続的に8回行なわれた[12][13][14][15][16][17][18]ほか、1965~1967年(昭和40~42年)には小金井市誌編さんのための発掘調査も行なわれた[19]。これらは建物跡1~2棟を対象とする小規模なものであった[5]。
貫井遺跡保存問題
1972年(昭和47年)、小金井市立小金井第四小学校の学童保育所建設工事の際に、多数の土器・石器が出土し、工事は中止となった。遺跡保護か学校建設かの議論が起こり、1974年(昭和49年)には同小学校校庭で遺跡の広がりを確認する調査が行なわれ[20]、続く1975~1978年(昭和50~53年)には校舎増築・道路建設部分の発掘調査が行なわれ、縄文時代中期の建物跡などが発掘された[21][22][23][24]。
その後の発掘調査
1989年(平成元年)には個人住宅[25]および小金井市の施設建設[26]、1996年(平成8年)には小金井警察署官舎[27]、2002年(平成14年)には宅地造成[28]、2009年(平成21年)には市道拡幅[29]による発掘調査が行なわれている[24]。
主な遺構
主な出土品
遺跡の変遷
後期旧石器時代
ローム層まで掘削した範囲が限られているため全体像は不明である。校舎増築部の調査区で立川ロームⅣ下層よりナイフ形石器、石刃などが出土している。また縄文時代の遺構や包含層からも後期旧石器時代のものと考えられる石器が出土している[22][1]。近隣の遺跡の状況からみて、未調査範囲に後期旧石器時代の遺跡が広がっていることが予想される[1]。
縄文時代
早期
遺跡北西部の1977~1978年調査区で撚糸文土器が出土している。
中期
遺跡東部で多数の建物跡が検出されている。
- 勝坂式期:検出された建物跡の数が最も多く、遺跡東部に環状に配置されていた。
- 加曾利E式期:勝坂式期より少ないが遺跡東部に建物跡が検出されている。
後期
遺跡東部で称名寺式期の建物跡が1件検出されている。
貫井南町4丁目出土蔵骨器
国分寺崖線の下位、貫井神社の南側の道路付近の工事現場で発見された。小金井市立小金井第四小学校東側のはけを下る道と、はけ下を東西に走る道の交差点付近にあたる。残存部高さ75cm、胴部最大径83cmの大型の常滑焼の甕で、口縁部は欠けている。器形の特徴から14世紀後半頃の所産と考えられる。