趙子龍祠墓
後漢三国時代の将軍・趙雲の墓
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趙子龍祠墓(ちょうしりゅうしぼ)は、中華人民共和国四川省成都市大邑県銀屛山麓に位置する、三国時代の蜀漢の将軍・趙雲の墓所および廟。
趙雲が晩年にこの地に駐屯し、異民族である青羌(羌族)の反乱を鎮圧し、その功績によって同地に埋葬されたという伝承や関連遺跡が残されている。中国国内に複数存在する趙雲墓の中で、学界から広く実在を認められている唯一の墓とされる(→#大邑の伝承/#墓の真実性)。
歴史的に戦乱や文化大革命、自然災害により興廃を繰り返してきたが、政府主導により2023年から大規模な修復事業が開始され、2024年8月に主要工事が完工した。2026年には一般開放が予定されている。1996年、四川省級文物保護単位指定(→#歴史と沿革)。
本項目では、大邑の墓を中心に、各地(南陽・臨城など)に点在する趙雲墓や、それらにまつわる民間伝承についても記述する(→#他の趙雲墓)。
歴史と沿革
明代・墓祠の登場

大邑の趙雲墓に関する最古の記録は、明末の曹学佺による『蜀中広記』巻13に確認できる。同書には「『本志』に曰く、静恵山(一名:東山)に趙雲の墓がある」と記されている[1]。
ここで言及されている『本志』について、地元の学者・衛復華は明版の『大邑県志』を指すと説いている。また、当時は大邑県が邛州に属していたことから、楊慎が編纂した『邛州志』にも趙雲墓に関する詳細が含まれていたと推測される。しかし、これらの貴重な史料は明末清初の戦乱や流賊(諸地方を渡り歩く盗賊)による破壊によって失われ、清代には現存していない。他の現存史料である『大明一統志』には南陽の趙雲墓(後節)については記されているが、大邑に関する記述はない[2]。
このことから、大邑の趙雲墓は明代中期以降に発見されたか、あるいはこの時期に形成されたものと考えられている[3]。なお、明末の戦争によって当時の廟は一度破壊されている[4]。
清代・信仰と山名
清代の康熙4年(1665年)、知県の李徳耀によって趙雲墓のために子龍廟と碑が建立された[5]。その後、同治年間(1862年 - 1874年)にかけて数回の改修・拡張工事が行われた。光緒17年(1891年)5月には、劉秉璋の奏請により趙雲が国の祀典に列せられ、以降は地方官によって春秋の祭祀が執り行われるようになった[6]。毎年春には子龍廟の近辺で盛大な廟会(縁日)が開かれ、近隣の町村から多くの商人と住民が集まり、歌や踊りが披露されるなど大変な賑わいを見せたと伝えられている[4]。
また、清代の文献では墓の所在地が「静恵山」(東山)ではなく、「銀屛山(ぎんぺいざん[7])」の名が初めて登場する[8][9]。一方、元末明初に成立した歴史小説『三国志演義』では、趙雲の葬地を「錦屛山(きんぺいざん[7])」としている。しかし、大邑のいかなる地方志にも「錦」屛山の名は見当たらない。このことから、「銀屛山」という名称は、清代になって『演義』の「錦屛山」に影響を受け名付けられたものと推測される[10]。『演義』の作者・羅貫中が何らかの史料に基づいて命名した可能性もあるが、作中で「錦屛山」は趙雲の葬地以外にも二度登場しており、いずれも蜀漢に関わる人物の死や政権の滅亡を象徴する場所として描かれている[11]。そのため、錦屛山は羅貫中の創作、あるいは当時の民間伝承に基づく独自の命名であった可能性が高い[12][注 1]。
山名の変遷と地理的関係について、衛復華は次のように整理している。
- 大邑を流れる斜江東岸の諸峰は総称して「東山」と呼ばれており、そこに連なる個別の山々に「静恵山」「勝利山」「銀屛山」といった名称が与えられている。したがって、これらの呼称はいずれも「広義の東山」という同一の範囲内を指しており、文献ごとの表記の差異に矛盾はない[13]。
- その上で、なぜ「銀屛山」という名が定着したのかについては、南宋の地理書『方輿勝覧』には、淮西路の無為軍(現:安徽省無為市)に、その山容から名付けられた「銀瓶山」という山があったことが記されていることから、東山一帯の形状が銀色の屏風に似ていることが「銀屛山」の命名根拠になったと考えられる[14]。
こうした既存の地名知識に加え、「明代以来の趙雲墓の伝承」や「『三国志演義』に登場する葬地・錦屛山の記述」といった要因が重なり合った結果、それまで「静恵山下」とされていた墓の所在地が、清代初期にかけて「銀屛山」という固有の名称で独立して呼ばれるようになったと推測される[15]。
現代・興廃と再興
1930年、大邑県長・解汝襄が県民と共に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などを備えた壮観な建築群が整えられた[16]。しかし、その後の文化大革命により建物は破壊され、一時は学校として転用された。改革開放政策が始まると、学校の移転を経て文化財保護部門による大規模な修復事業が開始された。2011年の修復作業中には、誤って墓道が掘り当てられたものの、最終的には発掘を行わず、現状のまま保存する決定が下された[17]。その後、四川大地震の影響による工事の中断を挟み、2023年3月より政府主導による本格的な修復が再開された。2024年8月に完工し[18]、2026年に一般開放が予定されている[19]。
1961年に県級、1985年に市級、1996年には省級文物保護単位にそれぞれ指定された。2005年には「大邑趙子龍文化研究会」が発足[17]。趙雲の故郷である河北省正定県の趙雲廟内にある「河北省趙子龍文化研究会」や、台湾で趙雲を祀る「佳里子龍廟永昌宮」などと積極的な交流が行われており、地域を越えた信仰・研究のネットワークが形成されている[20]。
主な特色
かつて(破壊前)の廟墓は、平原と山地が交わる土地が肥沃で風光明媚な場所に位置していた。墓所は山に寄り添うように築かれ、その形状は小丘のようであった。墓の前には、静謐な雰囲気を湛えた木造の四角い中庭があり、その中央には清の康熙年間(1662年 - 1722年)に建立された墓碑が立っていた。碑には「漢順平侯趙雲墓」と大きな文字が篆書体で刻まれていた。子龍廟は、この地方独特の建築様式である六角形の亭を備え、因山閣、蓮池、廊橋亭、小滄州、本殿、および左右の配殿といった庭園建築が見事に調和を保っていた[4]。
現在進められている再建整備計画においても、これらの伝統的な建築群の復元に重点が置かれている[18]。
大邑の伝承
大邑には、趙雲が晩年に羌族(チベット系異民族)の反乱を鎮圧するためにこの地に駐屯したという逸話が伝わっており、墓所以外にも趙雲にまつわる多数の口伝が存在する。これらは総じて「子龍文化」と呼ばれている[21]。なお、当時の四川にいた羌族は服飾に青色を好んだことから「青羌(せいきょう)」とも呼ばれる。静恵山には、趙雲が築いたとされる土城や、羌族を監視するための「望羌台」、侵入を防いだとされる「防羌台」、および「平雲亭」などの遺跡が残る[22][1]。専門家の考証によれば、当時の趙雲の官位と職掌に照らしても、この地に駐屯し防衛体制を敷いたという話に矛盾はなく、また、当時の大邑が蜀漢の西辺を守る軍事上の要衝であったことも、研究者から墓の真実性を支持する強力な論拠として挙げられている[21][23]。
大邑に趙雲が葬られた理由については、明清時代の地方志においてわずかながら言及がある。
現在の静恵山公園内には、復元された「望羌台」をはじめ、趙雲を祀る「子龍祠」、および「漢順平侯趙公子龍神位」の石碑、石像などが整備・展示されており、地域の歴史を今に伝えている[4]。
墓の真実性
他の趙雲墓
大邑趙雲墓のほかに、以下の趙雲墓が存在する。
南陽趙雲墓


南陽県(現・河南省南陽市:諸葛亮の隠遁地とされる臥龍崗などの史跡で知られる)にかつて存在した趙雲墓。衣冠塚(遺品の衣冠を納めた供養塚)と考えられている[25]。
現存する最古の文献記録は、明代の天順5年(1461年)の『大明一統志』であり、「南陽県の南三十里」に所在すると明記されている[26]。しかし、清代の学者・趙一清が『三国志注補』に引用した『城塚記』には「南十五里」とあり[27]、記述に乖離が見られる[28]。『城塚記』という同名の書物は二つ存在する。一つは『宋史』「芸文志」に記録された三国時代(222年頃)の作(作者不明)[29]。もう一つは唐の皇甫鑒が撰したとされる『古城塚記』である。222年当時は趙雲が存命中であったため、後者の可能性が高い。北宋の『太平寰宇記』にはこの『古城塚記』が頻繁に引用されているが[30][31]、現行の『太平寰宇記』には南陽趙雲墓の記録が存在せず、趙一清が参照した版の詳細は不明である。また皇甫鑒という人物についても史料が乏しく、詳細は判明していない[32]。仮に『城塚記』が後世の偽作でないとすれば、南陽趙雲墓は唐代以前から存在し、記録されていた可能性も考えられる。しかし、明・清代の地方志は『大明一統志』を基準としており[33]、『城塚記』は当時すでに散逸していたか、断片的な記録となったために言及されなくなったと推測される[31]。
康熙32年(1693年)の『(康熙)南陽県志』には、祠廟に関する記述が初めて現れ[34]、趙雲墓の近傍に祠が存在したことが示唆されている。同年に建立された『重修子龍祠碑記』の拓本によれば、趙雲の墓と祠は共に南陽県南の中雷鎮周辺に位置していた。老朽化した子龍祠(趙雲廟)が再建された際、地元住民や知識人が趙雲の忠義を崇拝し、教化の場として機能していたことが記されている[35]。しかし、当時の地方官僚や文人が南陽の趙雲墓や祠に関心を示すことは少なく、修復の記録もほとんど残っていない。また、『(康熙)南陽県志』の記述から、祠の創建は少なくとも明代まで遡る可能性があるが、建立の正確な時期については当時の関係者も把握していなかったことが碑文から読み取れる[36]。
清代に入ると、南陽趙雲墓は実在の埋葬地ではないという認識が広まった。趙一清は「子龍は蜀で卒し、南陽に葬られることはなかった」と断じ、『城塚記』の記述に疑義を呈した。張嘉謀も「雲の葬地は史に明らかな証拠なし」と述べ、文献記録を史実の証明とは見なさず、墓の真実性そのものを疑問視した。こうした清代以降の学者による議論、地方官僚や文人の関心の低さに加え、四川省大邑の趙雲墓が官民双方から重視され評価を高めたことなど、複数の要因が重なり、南陽趙雲墓は次第に歴史の表舞台から消えていった[37]。
民間伝承
南陽趙雲墓には以下の民間伝承が存在する。
この物語は、南陽趙雲墓が史実の埋葬地ではないことを民間伝承の形で説明するものである。その内容には、皇帝が迷信を利用して民衆を翻弄し、罪のない農民が犠牲になるという結末が含まれており、反封建主義的な思想や民主主義的な視点が反映されていると指摘される。また、京劇などの戯曲的要素や漢字の音韻を利用した言葉遊びなど、近代的な文化要素が盛り込まれている点も特徴である[39]。
臨城趙雲墓


河南省の北に隣接する河北省邢台市臨城県に位置する、もっとも発見が新しい墓。
2005年5月19日、臨城県麒麟崗から光緒・戊戌(24年:1898年)の「漢順平侯趙雲故里碑」が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[40]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争と対立を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした[41][42]。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされる[43]。
墓は1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際、臨城県澄底村の西1.3キロで発見されている[44]。民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、廟も建っていない。 以下はその理由とされる[45]。
しかし、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が明代に遡る『大明一統志』や、現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や史書には見つかっていない。そのため、研究者らは趙雲の墓である可能性は低いとみている[47]。
その他の墓
大邑県内の東門紅光地区に位置する兔児墩には、「趙雲夫婦の合葬墓」であるという伝承が残されている。そこにある左右二つの小さな土盛りは、古くから「趙雲の目」であると言い伝えられてきた[48]。2007年9月から11月にかけて実施された発掘調査により、前漢の土坑墓2基および後漢の磚室墓(レンガ積み墓)4基が検出された。しかし、出土品の分析結果から、これらは趙雲夫婦の墓ではないことが科学的に確認された[49]。
大邑県内には、他にも趙雲にまつわる伝承地が複数存在している。一部には、これらを根拠として現存する大邑の趙雲墓の真実性を疑い、趙雲は県内の別の場所に葬られたと主張する者もいるが、しかし、それらの説を裏付ける歴史的な証拠は乏しく、その主張の多くは地元の口伝(民間伝承)に基づいたものに留まっているため、学術的には議論の余地がある[50]。
