野村貴洋子

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 1954年11月17日
没年月日 (2016-02-17) 2016年2月17日(61歳没)
野村貴洋子
Kiyoko Nomura
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市
生年月日 1954年11月17日
没年月日 (2016-02-17) 2016年2月17日(61歳没)
利き手[1]
バックハンド 片手打ち[1]
4大大会最高成績・シングルス
全豪オープン 2回戦(1975)
全仏オープン 予選2回戦(1980)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪オープン 1回戦(1974–1975)
獲得メダル
女子 テニス
アジア競技大会
1978 バンコク女子団体
1978 バンコク女子ダブルス
1978 バンコク女子シングルス
2026年4月2日現在

野村 貴洋子(のむら きよこ、1954年11月17日 - 2016年2月17日)は、大阪府大阪市出身の元女子プロテニス選手[2]園田学園高等学校[2]園田学園女子大学文学部中退[3]。1980年前後の日本女子を代表する選手の一人であり、全日本テニス選手権のシングルスを2回制している[4]

学生時代

小学校時代はソフトボールに打ち込み、その活躍から「女長嶋」などと呼ばれていたが、進学した中学校にソフトボール部がなかったためテニス部に入部して競技生活をスタートさせた[2]。中学時代に関西ジュニア選手権で優勝し頭角を現すと[2]、1970年にはテニスの強豪校である福岡県柳川商業高等学校に入学して夏の全国大会に出場した[2][5]。しかし2学期からは地元大阪に近い園田学園高等学校へと転校している[6]

1971年7月に第8回原田杯全国選抜ジュニア選手権でシングルスを制すると[7]、9月には韓国ソウルで開催されたアジアジュニア選手権に日本代表として派遣された[8]。翌1972年8月には全国高校庭球選手権のシングルスで優勝した[9]。園田学園は後年インターハイを制する選手を多く輩出するが、全国で大きな結果を出した選手は野村が最初であった[10]。12月には全豪オープングランドスラム初出場(初戦敗退)を果たし[11]、翌週シドニーで開催されたニューサウスウェールズオープンにも参加した[12]。この遠征中に現地オーストラリアで元デンマークデビスカップ監督を務めたドン・トレゴニン英語版の指導を受け、豪州テニス留学への想いを募らせた[2]。同年の18歳以下全日本女子ランキングで1位を獲得[13]

1973年、園田学園女子大学に進学[2]。同年3月の全日本室内庭球選手権でダブルス優勝[14]、7月の全日本学生庭球選手権でシングルス優勝を飾った[15]。10月には第2回ジャパンオープンの女子リーグ戦に出場し、ヘルガ・マストホフハイデ・オース英語版ら海外のトップ選手と対戦して全敗を喫したものの貴重な対戦経験を積んだ[15]。12月の第10回全日本学生室内庭球選手権で単複優勝を達成した後に大学を中退[3][15]。オーストラリアのメルボルンへ渡り、ドン・トレゴニンやジャン・レヘインの指導のもと1年間のテニス留学を行った[3]

国内外での活躍

1974年より日本楽器所属となり[16]、同年11月の全日本庭球選手権にて飯田藍と組んだダブルスで初優勝を飾る[17]。12月の全豪オープンでは、1回戦でオーストラリアのサリー・アーバインを7–6, 3–6, 6–3で破りグランドスラム本戦初勝利を挙げた[18]。その後も1975年の全日本庭球混合ダブルスや1978年の全日本室内庭球女子ダブルスなど[14][19]、国内室内大会を中心に次々とタイトルを獲得した[20][21][22]。1978年10月のジャパンオープンでは女子シングルスベスト4に進出して、ツアー公式戦昇格前ながらも海外選手も招聘した国際大会で成果を出した。また11月、メルボルン開催のフェデレーションカップに初選出されて佐藤直子米沢そのえと共にオセアニアに遠征[23]ニュージーランドで1979年度WTAツアー初戦のクライストチャーチ国際英語版に出場後[12]、1回戦の対イスラエルで単複ともに勝利を挙げてチームの勝ち上がりに貢献した[24]

1979年、ヨネックスと契約しプロへ転向[注 1]。2年連続でフェデレーションカップ代表に選出されて4月からのヨーロッパ遠征に参加し[27][28]スペインマドリード開催の本大会に出場後はチームメイトの古橋富美子と共にイギリス南部のサテライトサーキットを回った[12]。同サーキットではダブルスの2大会で優勝を記録したほか[29]、リーオンソレント大会のシングルスでベスト8に入り、ボーンマスのマスターズ大会にも出場した[12]。帰国後の10月には、全日本庭球選手権のシングルスで初優勝を果たし[4]、WTAツアー大会のボーデンクラシック英語版でシングルスベスト8[30]、この年から女子部門が公式戦昇格となったジャパンオープンでは小林陽子と組んだダブルスでベスト4に進出した[31]

1980年2月、アメリカ東海岸のエイボン・フューチャーズサーキット英語版に遠征[12]。4月からはフェデレーションカップ(西ドイツ西ベルリン開催)代表としてシングルス2勝、ダブルス1勝を挙げる活躍を見せたほか[32][33]、イギリスのサテライトサーキットと全仏オープンを転戦した[28]。帰国後の11月に開催された東京スタイルオープンでは、東京大会のダブルスで佐藤直子と組んで優勝し、京都大会ではシングルスベスト8、ダブルス準優勝を記録した[34]。1981年、全日本テニス選手権で2度目のシングルス優勝を果たし[4]、同年の全日本女子ランキングで1位に輝いた[13]

現役終盤以降

1982年からデサントに所属。同年4月のRKB杯女子プロテニスダブルス優勝や[35]、1982年・1983年の関東オープンダブルス連覇など[22][36]、ダブルスを中心に実績を残した。1983年10月のボーデンクラシック予選を最後に国際大会には出場しなくなったが[12]、翌1984年の全日本テニス選手権でも単複ベスト4に入るなど国内で息の長い活躍を見せた。2016年2月17日に逝去。享年61歳[1]

主な戦績

  • フェデレーションカップ[23][37]
    • 出場: 4回(1978–81年)
    • シングルス4勝4敗、ダブルス3勝3敗
  • 全日本テニス選手権[4][17][19]
    • シングルス優勝: 2回(1979、81年)
    • ダブルス優勝: 2回(1974、82年)
    • 混合ダブルス優勝: 3回(1975、78–79年)
  • 全日本室内テニス選手権[14]
    • シングルス優勝: 1回(1978年)
    • ダブルス優勝: 3回(1973、78–79年)
  • 毎日テニス選手権[38]
    • シングルス優勝: 2回(1979、82年)
    • ダブルス優勝: 5回(1974、77–78、82–83年)

脚注

参考文献

外部リンク

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