長春駅
中国吉林省長春市の鉄道駅
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歴史
1896年6月、ロシア帝国は清との露清密約締結によって、中国東北部における東清鉄道の敷設に関する権益を獲得する。1898年5月、東清鉄道の駅として長春の旧市街地から西へ約10kmの二道溝地区に寬城子駅を建設し、同時に駅周辺の約1平方キロメートルの付属地内に、貨物取扱所、鉄道警察の宿舎、給水塔、教会、学校、クラブ、商店、兵舎などの施設を建設された[1]。なおこの駅は長春で初めての駅であった。
1905年に日露戦争が終結後、日露間で締結されたポーツマス条約により、東清鉄道の経営権は日本へと移ったが、駅はロシアが日本に56万ルーブルの額を支払うことでロシア側に所有権が維持された。 その後の1907年に日本は、従来の駅から2km離れた位置に、ロシアから得た資金による暫定的な駅として長春停車場を建設した[2]。駅は同年8月に完成し、9月1日から東清鉄道南満洲支線の北側区間と接続して旅客営業を開始。同時に、現在の長春駅の敷地にあたる場所に土地を購入して、正式な駅および南満洲鉄道附属地の建設が開始された。正式な駅は11月3日に貨物輸送業務を、12月1日に正式な旅客輸送業務を開始した[2]。当時の駅は頭端式ホームを有する路線の起終点駅であった。また、元の臨時駅は西寛城子停車場へと改称された[3]。
1909年2月23日、南満洲鉄道の長春駅と東清鉄道の寛城子駅を結ぶ連絡線が開通したことで、西寛城子停車場は廃止された。1912年10月22日に吉林と長春を結ぶ吉長線(現在の長図線)が開通すると、現在の長春東駅にあたる中国資本による長春駅[注 1]へ通じる連絡線も建設された。なお、吉長線の長春駅と当駅で駅名が同じでありながら違う位置にあったため、混同を避けるために当時の地元住民の多くは日本資本により運営される当駅を日本駅と呼んでいた[3]。
1913年3月、南満洲鉄道は32万円を投資して面積4000平方メートルの新駅舎の建設を着工し[2]、1914年5月に竣工した。設計者は青木菊治郎と平澤儀平である。駅前には直径100間(182m)規模の円形の駅前広場が整備された。1914年までに駅の敷地面積は90.82万平方メートルの規模に達し、構内には15本の専用線が敷設されていた。1919年6月には1番ホームと2番ホームを結ぶ長さ43.2mの地下通路が完成[3]。1921年には駅は正式に長春停車場から長春駅へと改称された[4]。
満洲国の成立後の1932年11月1日に、駅はそれまでの長春駅から新京駅(しんきょうえき)へと改称された。1935年3月にロシア帝国を継いでロシアを統治したソビエト連邦は、東清鉄道における全ての権益を南満洲鉄道に売却し、長春においても3月23日にそれまでロシア資本により運営された寛城子駅が南満洲鉄道によって接収された。同年8月31日、南満洲鉄道は当駅からハルビン駅の区間において軌間をそれまでの広軌から標準軌へと改軌し、これによってハルビン駅から大連駅までの列車は当駅でスイッチバックを行うのみで直通可能となった。
1935年10月末に駅の3番ホームおよび4番ホームを結ぶ地下通路が完成、同年11月1日には白城駅へ至る京白線(現在の長白線)が開通し、当駅は4つの方面へ鉄道が交差する拠点駅となった。同時に、当駅からハルビン駅方面への線路が駅東側から発着する形に改められたが、列車が方向転換をすることなくハルビン駅へ至る京浜線へ乗り入れられるようになったことで、寛城子駅は存在価値を失って閉鎖された。同年12月、駅の西側に立体交差をする橋が完成した[4][3]。
1945年、日本の降伏により満洲国が崩壊すると、駅は再び長春駅へと改称された。この当時、駅には着発線3本、操車線5本、貨物線1本が設けられていた[5]。国共内戦期、路線は戦闘によって深刻な損害を被った。1951年、中ソ共同管理の中長鉄路管理局によって路線の復旧が組織され、小南駅から寛城子までの旧線は全廃された[6]:162:163。
1958年から1960年にかけて、駅の拡張改修を伴う工事が行われた[7]。上下線の運転場に操車線が増設されて着発線の有効長が延長されたほか、上り線路の操車場東端の分岐器配置が改められ、1961年に完成した[5]。1975年から1976年には下り線操車場も改修工事が実施され、線路の延長、信号場の新設、列車の入換線の拡張が実施された[5]。1981年にはホームへ至る2本目の地下通路が新設され、1985年には2・3番ホーム、および駅手前の6・8・9番の旅客列車が発着する着発線3本が延長された[7]。
駅の需要増加により既存施設では対応し切れなくなったことから、1992年5月26日に駅舎の建て替えに伴う事業として、85年の歴史を持つそれまでの駅舎は爆破解体された[7]。同年7月1日に新駅舎の建設工事が着工され、1994年1月に駅舎本屋と一部の高架待合室が供用開始となり[8]、残りの部分は1995年9月に供用が開始された[4]。また1999年8月には長春北駅の開業によって、操車場設備を始めとした機能が同駅へ分散された[9]。
新駅の供用後まもなく、地下通路の浸水、ホームでは上屋からの雨漏り、消防システムや中央空調の不具合など多くの問題が発生した。 鉄道部と地方政府は改善のため、2003年8月に駅への共同投資を開始、駅舎の改修と北駅舎の拡張を実施した。工事は同年9月18日に始まり、2004年6月30日に全面竣工した[7][4]。2007年には駅舎外壁の改装によって、外観がそれまでのタイル張りから石材によるものへ変更された。
2008年には高速鉄道路線である哈大旅客専用線の建設着工による同線の列車乗り入れに備えて、高速鉄道ホームや北広場の新設を含む駅改修工事を開始した[7]。2012年9月20日、北出入口の工事が完了して供用開始され、長白路に置かれた待合室とともに旅客輸送業務を取り扱うこととなった。同時に従来の南出入口も改修すべく工事を開始し、一時的に閉鎖された[10]。同年2013年11月25日に南広場の工事は竣工して供用が開始され、駅の南北が地下で繋がるようになった[7][4]。
駅構造
駅は南北2つの駅舎によって構成されており、総建築面積は58000平方メートルである[7]。 南駅舎は本駅舎と業務施設を併設した駅ビル(综合服务楼)で構成されている。大鵬が翼を広げたような形状をしており、建物の頂点にあたる位置には時計塔が付いている[7]。
本駅舎部分は一部中二階を設けた地上2階建てで、駅前広場側は幅282m、線路側には幅309m、奥行き27mの規模を有している。駅ビル施設は最大11階建て、建物の両端部分が主に8階建てで構成される、幅140m、奥行き12mの規模である[11]。
駅構内には乗車券発売所(售票厅)3か所、高架待合室のほか、運行管理を行う業務施設などがある[12]。高架待合室はコンコースによって南北の駅舎が繋がった構造となっており、長さ224メートル、幅108メートル規模の合計4000席の座席によって、同時に15000人の待合客を収容できるようになっている。 待合コンコース内には「春之約」との愛称のついたサービスカウンターや車椅子利用者を始めとした優先旅客へのサービスを行う施設が設置されている[7]。高架待合室と各ホームは、1A〜16Aおよび2B〜15Bの改札口を通って連絡している[13]。
構内には9面16線のホーム規模を有し、各ホームは構内全体を囲う上屋により覆われている。ホームは在来線ホームと高速鉄道ホームが並列して配置されており、1-8の番線が哈大線、長図線、長白線を始めとした在来線ホーム、9-16の番線が高速鉄道路線である長琿都市間鉄道(長吉都市間鉄道)および京哈旅客専用線の列車が発着するホームとなっている。2018年4月時点での統計では、一日あたり127.5往復の動車組列車と96往復の在来線列車、56往復の貨物列車が発着し、主に北京、大連、瀋陽、ハルビンに向かう旅客列車が行き交っていた[14]。
駅周辺
隣の駅
ギャラリー
- 東清鉄道の寬城子駅
- 満洲国時代の新京駅駅舎
- 満洲国時代、新京駅のホーム
- 満州国時代の駅名標
- 西側の分岐部を通る列車(1995年3月)
- 2007年頃の2番ホーム
- 北駅舎(2022年8月)
- 高架待合室内部(2022年8月)
- ホーム(2019年5月)
- 駅前広場
