青山景通
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嘉永5年(1852年)、34歳で平田銕胤(平田篤胤養子)の塾気吹舎に入門した[2]。
苗木藩主遠山友詳が奏者番・若年寄の要職にあったことから江戸幕府の情報を得やすく、坂下門外の変やその後の幕府人事についての情報を銕胤に伝えている[2]。文久3年(1863年)、奸吏と通謀して正義を害したとして銕胤より破門されていた国学者鈴木重胤を暗殺した[2][注釈 1]。
明治維新後は神祇事務局、神祇官権判事、神祇少祐を務めた[3]。
平田国学を奉じた他の青山一門とともに、儒教教育の否定や、藩内の寺院(藩公の菩提寺を含む)、位牌の破却を特に率先して行ったため、強い反発を買い、元筆頭家老の千葉権右衛門、東侑之進、千葉武男、千葉鐐五郎、神山健之進、中原央、八尾伊織らが蜂起を画策するに至ったが、これを察知した景道は、明治3年(1870年)1月12日に一連の共謀者を逮捕し流罪、投獄した。
同年5月6日、荻原嚴雄、三輪田元綱らとともに国学四大人の霊祭をおこなっている。
明治2年(1869年)には、三男の青山胤通を平田信胤(平田鐵胤の子)の養子に出して平田胤道と改名したが、1871年に養父の信胤が亡くなったため青山家へ戻した。