孟浩然の『臨洞庭』(洞庭に臨む)、杜甫の『登岳陽樓』(岳陽楼に登る)、范仲淹の『岳陽樓記』(岳陽楼の記)など、岳陽楼とその情景を詠じた詩文は数多い[8]。
杜甫が最晩年、戦乱で荒廃した長江流域をさすらう中で岳陽を訪れ、768年(大暦3年)の暮れに詠んだのが[4]、この極めて精錬度の高い五言律詩[9]『登岳陽樓』(岳陽楼に登る)である。
| 登岳陽樓 |
| 昔聞洞庭水 |
昔聞く 洞庭の水 |
昔から洞庭湖の素晴らしい景色を話には聞いていたが |
| 今上岳陽樓 |
今上る 岳陽楼 |
いままさに岳陽楼に登っている |
| 呉楚東南坼 |
呉楚(ごそ) 東南に坼(さ)け |
呉と楚は、この湖によって東と南に引き裂かれ |
| 乾坤日夜浮 |
乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ |
天と地が、果て無く広がる水面に日夜浮かんでいる |
| 親朋無一字 |
親朋(しんほう) 一字無く |
家族や友人から一通の便りも無く |
| 老病有孤舟 |
老病 孤舟(こしゅう)有り |
老いて病気がちな我が身には、一艘の舟だけが頼りだ |
| 戎馬關山北 |
戎馬(じゅうば) 関山の北 |
関山の北では、戦乱が続いている |
| 憑軒涕泗流 |
軒(けん)に憑(よ)って涕泗(ていし)流る |
軒にもたれて故郷を思うと、涙が流れてくるばかりだ |
『唐詩選』にも収められた[4]この詩に対する賞賛は数多く、かねてより古今の絶唱と称される[3]。例えば宋の唐庚(中国語版)は『唐子西文録』で「子美の詩は四十字のみ。気象閎放、涵蓄深遠にして、殆ど洞庭と雄を争ふ。いはゆる富めるかな言や、といふ者なり。〔李〕太白、〔韓〕退之の輩、率(おおむ)ね大篇を為(つく)るも、終に逮(およ)ばざるなり」と絶賛している[3]。
范仲淹の『岳陽樓記』(岳陽楼の記)は、1044年(慶暦4年)に中央から岳州太守へ左遷された滕宗諒(中国語版)が、岳陽楼を修復した際、同年の進士だった范仲淹に作らせた文章である[8]。『古文真宝』に収められ、名文として広く知られる[10]。特に、末尾の一節から「先憂後楽」という語が生まれたことで著名[10]。
居廟堂之高、則憂其民。處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。然則何時而樂耶。其必曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂乎。噫、微斯人、吾誰與歸。
…朝廷の高い位にあるときは、おのれの民を憂え、人里離れた所に隠れ住むときは、わが主君のために憂える。進んで仕えていても憂え、退いて民間にいても憂えるのだ。とすればいつになれば楽しむのか。その人は必ず「天下の人の憂えに先立って憂え、天下の人の楽しみに後れて楽しむ」というであろう。ああ、そうした人がいなければ、私はいったい誰に帰依すればよいのか。[8]
— 范仲淹『岳陽樓記』