高安城

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城郭構造 古代山城
築城主 大和朝廷
築城年 天智天皇6年(667年
廃城年 大宝元年(701年
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高安城
大阪府
高安城 第2号倉庫跡
高安城 第2号倉庫跡
城郭構造 古代山城
築城主 大和朝廷
築城年 天智天皇6年(667年
廃城年 大宝元年(701年
遺構 建物跡
指定文化財 史跡指定なし
位置 北緯34度36分48.27秒 東経135度39分12.46秒 / 北緯34.6134083度 東経135.6534611度 / 34.6134083; 135.6534611座標: 北緯34度36分48.27秒 東経135度39分12.46秒 / 北緯34.6134083度 東経135.6534611度 / 34.6134083; 135.6534611
高安城の位置(奈良県内)
高安城
高安城
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高安城の位置(日本内)
高安城
高安城

高安城(たかやすじょう/たかやすのき)は、奈良県生駒郡平群町大阪府八尾市にまたがる、高安山[1]の山頂部にあったとされる日本古代山城

日本書紀』に、「大和国高安城(たかやすのき)、讃岐国山田郡の屋嶋城対馬国金田城を築く」と、記載されたである[注 1]

白村江の戦い新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、(日本)の防衛のため、対馬畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。古代山城の高安城は、667年天智天皇6年)、金田城・屋嶋城とともに築かれた[2][3]。また、高安城は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった[4]

高安城が築かれた標高487メートルの高安山は、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する。山の南の大阪湾に注ぐ大和川は、奈良盆地を遡り、支流の飛鳥川は宮都の飛鳥京に至る[1]

山頂周辺は、大阪平野側の西斜面は急峻で、東斜面は標高400メートルほどの多数の尾根が谷を抱える地形である[1]。また、山頂部の眺望は良好で、大阪平野・明石海峡ほかの大阪湾と、飛鳥京ほかの奈良盆地が視野に入る。

高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。1978年(昭和53年)、「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見し、一躍注目される存在となる。発見された礎石建物跡6棟のうちの、2号と3号の礎石建物の発掘調査は、8世紀前期の建物と推定される。その後も、大阪府や奈良県が推定地内で発掘調査を実施しているが、明確な遺構は確認されていない。また、高安城の外周城壁ラインの推定範囲を最初に提示した関野貞の他、城の範囲に諸学説があり、古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない[5]

2007年、神籠石系山城を有する自治体が光市石城山城)に参集し、「第一回 神籠石サミット」が開催された。「第4回 神籠石サミット」が開催された後、他の古代山城を有する自治体が加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている[6]

山頂の西側の大阪管区気象台 高安山気象レーダー観測所は、四国中国紀伊半島など、半径約300キロメートルの気象を観測する。

関連の歴史

『日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

『日本書紀』と『続日本紀』に記載された、高安城の関連記事は下記の通り。

  • 天智天皇8年(669年)8月:天皇 高安嶺に登り、城の修理を試みるが、人民の疲労を思いやり中止す。
  • 天智天皇9年(670年)2月:高安城を修理し、穀と塩を積み入れる。
  • 天武天皇元年(672年)7月:壬申の乱の際、高安城の近江朝廷軍は、大海人皇子軍の来襲により、税倉を焼き払って逃亡する。
  • 天武天皇4年(676年)2月:天皇 高安城に行幸す。
  • 持統天皇3年(689年)10月:天皇 高安城に行幸す。
  • 文武天皇2年(698年)8月:高安城を修理する。
  • 文武天皇3年(698年)9月:高安城を修理する。
  • 大宝元年(701年)8月:高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国河内国の二国に移し貯える。
  • 和銅5年(712年)正月:河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大和国の春日烽を置き、もって平城(なら)に通せしむ。
  • 和銅5年(712年)8月:天皇 高安城へ行幸す。

調査・研究

遺構に関する内容は、概要に記述の通り。

  • 1922年(大正11年)、関野貞三郷町を中心とする想定ラインを発表したが、考古学的調査は進まなかった[7]。また、1999年(平成11年)、高安山の西斜面の誤認遺構が新聞で報道され話題となった[8][9]
  • 河内国大和国の国境に位置する高安城は、倭国最後の防衛線と言われることが多い。しかし倭京の逃げ込み城ならば、飛鳥東方の細川山や多武峰の方がふさわしい。高安城の立地は畿内全体で捉えるべきで、両国から動員して築城する適地は高安山しかなかったといえる[9]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[10]
  • 1898年(明治31年)、高良山列石遺構が用語の混乱により本来は磐座を指す「神籠石」の呼称で学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 2]。そして、その後おつぼ山城の発掘調査などによりこれらの遺跡が城郭遺構であることが判明し、「神籠石系山城」と呼ばれるようになった[12]。一方、文献に記載のある高安城などは、「朝鮮式山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 3]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[13]

脚注

参考文献

外部リンク

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