李牧
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北方の名将
以下は『史記』廉頗藺相如列伝の記述に基づく[3]。
元々は趙の北部に位置する雁門の地に駐屯する辺境軍の将軍で、匈奴に対して備える任に就いていた。状況に応じて役人を配置し、市場の租税収入は全て幕府に納めさせ、これを軍備に充てた。兵士たちに毎日牛肉を饗応するなど厚遇し、射撃や騎馬の訓練を怠らず、烽火による連絡体制を厳格に維持し、また多くの間諜を放つなど軍務に力を注いだ。
李牧は「匈奴が侵入した際には速やかに堡塁に退避し、あえて打って出た者は斬刑に処す」という規定を設け、そのため、匈奴の侵入時にも兵士たちは烽火の合図に従って退避し、交戦することはなかった。この方針により数年間にわたり兵士の損耗はほとんど生じなかったが、匈奴は李牧を臆病者とみなし、趙の兵士の中にも同様の考えを抱く者がいた。趙王[注 1]もこれを理由に李牧を叱責したが、李牧は従来の方針を変えず、やがて趙王は李牧を罷免した。
その後一年余りの間、匈奴が攻めてくるたびに趙軍は出撃するようになったが、連敗して被害が増大し、現地では耕作も牧畜も不可能となった。そこで趙王は再び李牧に任せようとしたが、李牧は門を閉じて病を理由に固辞した。趙王は強いて李牧に軍の指揮を任せようとすると、李牧は「王がどうしても私を用いるのであれば、以前と同じ方針を貫かせていただきます。それが認められた場合のみ命令を拝します」と求め、趙王はこれを承諾した。
李牧が到着すると、兵にかつてと同じ規定を守らせたため、匈奴は数年間にわたり多大な戦果は挙げられなかった。兵士たちは日々賞賜を受けながらも戦う機会がなく、皆一様に士気が高まっていた。頃合いと見た李牧は、精鋭の戦車1,300両、騎兵13,000騎、百金の褒賞に値する勇士5万、弓を引ける兵士10万を揃え、徹底的に練兵を行った。そして放牧を大規模に行わせ、民衆を野に溢れさせるなどして敵を誘う準備を整えた。やがて匈奴が小規模に侵入してくると、李牧はわざと数千人を匈奴に捨て与え、略奪を許した。単于(匈奴の君主)はこの状況を聞き、大軍を率いて趙に侵攻した。李牧は迎え撃ち、多くの奇策の布陣を敷き、左右の両翼を展開して攻撃を仕掛け、匈奴の騎兵10万余りを討ち取る大勝を収めた。李牧は勢いに乗じて襜襤(胡の名称)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降伏させた。単于は敗走し、その後十数年にわたり、匈奴が趙の北部に近づくことはなかった。
中央へ
時期は不明ながら相に任命され、秦への使節として遣わされた。両国で盟約を締結し、結果、秦は趙の人質を返還した[4][5]。
紀元前243年、悼襄王の命で燕を攻め、武遂と方城を落とした[3][6]。
斜陽の趙を守る
閼与の戦いで秦を破った名将趙奢は既に亡く、政治外交で秦に対抗し得た藺相如が病で伏せていた趙は、紀元前260年に長平の戦いで秦に大敗し、後に藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前236年に鄴が秦に奪われ[4]、紀元前234年には趙将扈輒が指揮を執る軍勢が平陽で敗れて、10万人が犠牲になった(平陽の戦い)[3]。そのため、幽繆王は李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。
紀元前233年、幽繆王により大将軍に任じられた[3][6]。
同年、秦が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを大いに破り、退けた[3][6]。その際、宜安を攻めた秦将桓齮を戦国策に拠れば肥下の戦いで討っている[7](史記に拠れば敗走させた[3])。この功績により、李牧は武安君に封じられた[6]。
紀元前232年、秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破し(番吾の戦い)[6]、その勢力を南の韓・魏の国境まで押し返した[3]。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。
最期
紀元前229年、秦は王翦を将とし、羌瘣や楊端和と共に大軍を趙に侵攻させた[5]。そのため、趙は李牧と司馬尚に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、奸臣の郭開に賄賂を送って幽繆王と李牧との離間を画策し、郭開に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言させた[3]。また、王母の悼倡后も秦から賄賂を受け取り、幽繆王に讒言をした[8]。
趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、讒言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は命令を拒んだため、密かに捕らえられて斬首された。また、司馬尚も罷免された[3][7]。『戦国策』の司空馬に関する記述では、韓倉という奸臣の讒言により解任された上に自死したとされている(後述参照)[9]。
紀元前228年、李牧の死後、趙葱と斉将顔聚が指揮を執ることになったが、3か月後に趙軍は王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害された[3]。幽繆王は降伏し、趙は滅亡した[6][10]。『戦国策』によると李牧の死の5か月後に趙は滅亡したとある[9]。
人物
『戦国策』秦策五によると、李牧は体格は良かったがくる病を患っていたため、右腕が短く、木製の継ぎ手で補っていた。これは王の御前で不敬を犯さないよう誂えたものだった。しかし後に、賢者を憎み功臣を妬む性格の寵臣・韓倉は、李牧の義手を匕首であると幽繆王に誤認させ、「王の御前で李牧は凶器を隠し持っていた」として李牧誅殺の口実に利用した。賜死を命じられた李牧は、「人臣は宮中で自死してはならない」として宮門から出て、右手で剣を掴んで自害しようとしたが、喉元に届かなかったため、刃先を口に咥え、柱で柄を押し込んで自害した。
この『戦国策』の死因は、同書の趙策四や『史記』の記述とは矛盾するものであり、どちらがより正しいかは判然としない。