李左車
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紀元前209年の陳勝・呉広の乱に端を発する秦末の動乱において、李左車は趙王趙歇に仕え、広武君に封じられていた。清代の『山西通志』によるとその封地は現在の山西省山陰県であった。
高祖3年(紀元前204年)10月、漢王劉邦は大将軍韓信と張耳に項羽に臣従する趙への攻撃を命じた。漢軍は太行山脈を越えて東進し、趙は20万と号する大軍を井陘口に集結させ、有利な地形を占拠して漢軍との戦いに備えた。
戦いに臨んで李左車は、宰相及び総指揮官の陳余に、「井陘の道は車が並んで進むこともできず、騎兵が列をなすこともできません。数百里を行軍すれば、漢軍の糧食は必ず後方に取り残されます。私が奇兵三万を用いてその輜重を絶ち切ります。深い堀と高い塁を築き、堅固に陣を構えて防戦すれば、漢軍は前進することも退却することもできません。我が奇兵がその背後を断てば、野に略奪するものもなく、十日とも経たぬうちに両将の首を届けることができます。私の計略を用いなければ必ずや敗れることになります」と進言した。しかし、陳余は儒者的な性質の人物であり、詐謀や奇計の類を用いることを良しとしなかったため、「兵法によるところでは、十倍なら包囲し、倍なら戦うという。韓信の兵は数万と号しているが、実際は数千に過ぎない。千里も遠征して既に疲れ果てているはずだ。そんなことで後に大軍が来たとき、どう対処するというのか。諸侯は私を臆病者と笑い、軽んじることだろう」と言って李左車の策を退けた。
趙に内偵を送っていた韓信は李左車の策が容れられなかったことを知って大いに喜び、敢然と攻め入った。結果、趙軍は背水の陣を布いた韓信の戦術を前に大敗した。漢軍によって陳余は討ち取られ、趙歇は捕虜となり、趙は滅亡した(井陘の戦い)。
戦後、韓信は千金の懸賞をかけて李左車の生け捕りを命じた。まもなく李左車が縛られた状態で韓信の前に送り届けられると、韓信は直ちに李左車の縄を解き、東向きの上座に座らせ、師と仰いで遇した。そして燕と斉を攻略し平定する方策を請うたところ、李左車は恥じ入って、「私はこう聞いております。『敗軍の将、兵を語らず』(敗軍之将、不可以言勇=敗れた将軍は武勇を語るべきではない)と。私は負けて滅びた立場ですから、どうしてそのような国家の大事をあなたと図ることができましょうか」と答えた。
韓信は「百里奚 は虞で用いられずに虞は滅び、秦で用いられて秦は覇者となりました。もし成安君(陳余)があなたの策を用いていたならば、私のようなものは既に捕虜になっていたでしょう。あなたを用いなかったからこそ、私はこうしてあなたと向き合えています。心を尽くしてあなたの計略に従いますゆえ、どうかご辞退する事のなきよう」と返してなおも方策を請うと、李左車は「私はまた、『智者も千慮に一失あり。愚者も千慮に必ず一得あり (優れた知者も多くの考えの中には誤りもあり、愚者も多くの考えの中では必ず優れたものもある)』という言葉を存じております。私の計略が必ずしも役に立つとは限りませんが」と前置きした上で、「将軍(韓信)は魏王(魏豹)と夏説を捕らえ、半日も経たずに趙の二十万の大軍を破り、成安君(陳余)を誅しました。その名と威光は天下を震わせ、農夫でさえ耕作を止め、美しい衣服を着て美食を楽しみ、耳を傾けて命令を待つばかりです[2]。これは将軍の長所です。しかし、兵は疲弊し、実用には堪えません。疲弊した兵を率いて燕の堅牢な城を攻めれば、戦いは長引いて形勢は不利になり、弱国の燕ですら降伏させられないことが露わになると、斉は国境を固めて兵を増強するでしょう。これが将軍の短所です。僭越ながら、これは誤った計略であると存じます。ゆえに兵を上手く用いる者は短所で長所に挑まず、長所で短所を攻めるのです」 と答えた。
「ではどうすればよいのですか」と韓信が尋ねると、李左車は「今は甲冑を置き、趙の民を鎮めてその遺族を慰撫し、士大夫を饗宴し、兵に酒を振舞って労うことです。そして北の燕に兵を向け、その後に優れた弁士を使者として燕に遣わし、自らの長所を示して降伏を促せば、燕は必ずや服従するでしょう。燕が服従すれば、その事を流言によって東の斉に知らしめれば、斉もまた風になびくように服従するでしょう。このようにすれば、天下の事は計略通りにいきます。『兵は固より声を先にして実を後にする者有り(戦いにおいてはまず心理的・戦略的優位性を構築し、その後で実際の武力を行使する)』という言葉はまさにこの事です」と献策した。
李左車は、韓信の「短所」である補給難の上に疲弊している軍事力を用いるのではなく、「長所」である人心を支配する圧倒的な威勢を以てすれば戦わずして燕を降伏させることができると説いたのである。韓信は李左車の策に従い、使者を燕に送ると、果たして燕王臧荼は漢に降伏した。