項燕
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項氏は代々楚の将軍を務めており、楚において名家として知られていた。
負芻3年(紀元前225年)、秦の李信・蒙恬が20万の軍で楚を攻めた。楚は序盤は劣勢であったが後に反攻に転じ、秦軍を覆没させる大勝を収めた[1]。中国史学者の楊寛は 『史記』陳渉世家の「 項燕爲楚将、數有功、愛士卒(項燕は楚の将となり、幾度も戦功を立て、士卒を愛した)」という記述を取り上げて、 このとき楚軍の指揮を執って李信の軍を破ったのは項燕であると推測している[2]。しかし、李信の軍を破った楚軍の指揮官が項燕であるという記述は史書や一次資料などには見当たらない。
負芻4年(紀元前224年)、王翦と蒙武が60万の大軍を率いて再び楚を攻めた。王翦は堅守して楚軍と交戦しないよう命じ、ついに楚軍が東へ退却すると、王翦はこれを追撃して楚軍を大いに破り、楚王負芻を捕虜とした。項燕は楚の公子にして秦の重臣の昌平君を楚王として擁立し[3]、淮南(淮河以南)で抗戦を続けた[4]。
負芻5年(紀元前223年)、王翦と蒙武に攻められ、昌平君は戦死し、項燕も自害し、ついに楚は滅亡した[4]。
上記は『史記』秦始皇本紀による。同書、楚世家、王翦列伝、蒙恬列伝等では、項燕は負芻4年(紀元前224年)に蘄南で討ち取られ、翌年に負芻が捕らえられ楚は滅亡したとなっている[1][5]。