池田裁定

From Wikipedia, the free encyclopedia

池田裁定(いけださいてい)は、1964年(昭和39年)11月9日に行われた日本自由民主党党首である総裁選出において、現総裁(内閣総理大臣)の池田勇人が、前北海道開発庁長官科学技術庁長官佐藤栄作を次期総裁に指名したことである。

1964年7月に実施された自由民主党総裁選挙では、現職の池田が、最大ライバルである佐藤栄作との激戦を制して三選を果たしたが、同選挙には主要派閥の多くの支持を得て優位に立つ池田に対し、佐藤陣営は金銭による買収を仕掛け、池田に肉薄する票を得るという、自民党結党以来となる乱戦となった。

しかし直後の9月、池田が喉頭がんに罹患していることが明らかとなり(本人への告知および公表は行われず)、10月に開催された第18回夏季オリンピック東京大会(10月10日 - 24日)閉幕の翌日の10月25日、池田は入院先の国立がんセンターの病室に河野一郎国務大臣川島正次郎自民党副総裁三木武夫自民党幹事長鈴木善幸内閣官房長官など政府・与党の幹部を招いて退陣の意向を伝えると共に、池田は自身が入院治療中という状況を考慮して公の場での記者会見の開催を見送り、その代替として退陣を決意した経緯などを綴った声明文を三木と鈴木に託して発表させた[1]

後継を巡っては、前回に続き佐藤と、独自の戦いを毎回繰り広げる藤山愛一郎、池田後継を自認する河野一郎の三名が名乗りを上げたが、前回の金銭が飛び交った総裁選をわずか3か月で繰り返すのは禍根を残しかねないことから、党首脳部は話し合い選出による後継一本化に動く。主要候補の三名は執行部より自重を求められ、川島副総裁、三木幹事長が三候補への面談や党内各機関への意見聴取、調整を重ねる。11月4日に自民党両院議員総会を開催して「後継首相候補は両院議員総会で選び、新総裁は12月1日の臨時党大会で決定する」ことが確認された[2]

11月9日、後継は佐藤に固まり、党幹部うち揃って池田の病室を訪れ、「党内の大勢は佐藤支持である」と報告[1]。池田は「佐藤君が後継者として妥当だ」と述べ、あらかじめ用意されていた裁定文にて空欄としていた後継総裁の氏名欄に池田自らが佐藤の名前を書いた[3]。同日行われた自民党両院議員総会上で、川島は「後継首班候補に佐藤栄作君を指名する」との池田の総裁裁定文を読み上げ、了承された[4]。同日に第47回臨時国会が召集され、第3次池田内閣[注 1]総辞職すると共に衆議院参議院本会議で実施された首班指名選挙にて自民党が候補とした佐藤栄作を第61代内閣総理大臣に指名し[4]第1次佐藤内閣が発足する。その後、自民党は12月1日に臨時党大会を開催し、正式に佐藤を第5代党総裁に選出、これを以て佐藤総裁体制が正式にスタートした[4]

1964年12月自由民主党総裁選挙

1964年12月自由民主党総裁選挙

1964年 
1964年12月1日
 1966年

選挙制度 決選投票制
有権者数 党所属衆議院議員:(不明)
党所属参議院議員:(不明)
地方代議員票  :46
合計      :(不明)

 


候補者 佐藤栄作
投票 無投票




選挙前総裁

池田勇人

選出総裁

佐藤栄作

選挙データ

総裁

投票日

  • 1964年(昭和39年)12月1日
第15回臨時党大会で実施(無投票)。

選挙制度

総裁公選規程に基づく公選
投票方法
秘密投票、単記投票、1票制
選挙権
党所属国会議員、党都道府県支部連合会地方代議員[注 2][注 3][5]
被選挙権
党所属国会議員
有権者
(不明)
  • 党所属衆議院議員:(不明)
  • 党所属参議院議員:(不明)
  • 地方代議員   :46

選挙活動

候補者

立候補制ではなかったものの、池田総裁から後継指名を受けた。

佐藤栄作
衆議院議員
(7期・山口2区
北海道開発庁長官(1963-現職)
党政務調査会長(1957-1958)
周山会
(佐藤派)
山口県

選挙結果

無投票。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI