オジエ・ル・ダノワ
シャルルマーニュ配下の伝説上の騎士(パラディン)
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オジエ・ル・ダノワ[注 2]、あるいはデンマルクのオジエ[注 3]、デンマルク人〔びと〕オジエ[注 4](フランス語:Ogier le Danois, Ogier de Danemarche)は、中世フランスのシャルルマーニュ伝説の武勲詩に登場するパラディンの一人で伝説上の英雄。
「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた剣コルタン[注 5]を持つ。
オジエを主人公とした武勲詩、『オジエの騎士道』は、「ドーン・ド・マイヤンスの武勲」の詩群(別称「叛臣の物語群」)[注 6]の一つに数えられ[16][17]、シャルル王に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている。家系図上は[18]、ドーンの長子がデンマルク公ゴーフロワ(ジョフロワ)であり[注 7]、ゴーフロワの息子がオジエである[17][19][注 8]。
特にデンマークでは「ホルガー・ダンスク」[注 9](ホルガ・ダンスケとも[注 10])の名で親しまれ、地元の英雄とされている。
オジエはフランス王の配下にもかかわらず、文学上はアーサー王伝説との関わりが深いキャラクターである。中世ロマンスでは、オジエの出産に6人の妖精が祝福を与え、やがてその一人のモルガン・ル・フェの愛人となりアヴァロンで暮らす運びとなっている。オジエはアーサーやケイが戦ったとされる化け猫シャパリュ(キャスパリーグ)とも対峙したと伝わる。『散文トリスタン』(1210-1230年頃)には、アーサー王の有名騎士の名剣の幾振りかが、のちシャルルマーニュのパラディンたちに引き継がれたという創作があり、トリスタンが持つ刃こぼれの剣をオジエが受け継ぎコルタンと命名したことになっている(コルト (剣) § 英国王室の剣との関連も参照)[21][22]。
名称
古くは武勲詩『ロランの歌』(1060年頃成立)の登場人物であるが、邦文では、上記以外にもデンマルクのオージエ[注 11]、デンマルク人オージエ[注 12]、オジェ・ル・ダノワ[注 13]など幾通りかの表記がみられる。以前はオージエ·ル·ダノアや[24][注 14]、デーン人オジエ[27]などの表記も見えた。
各言語の表記は以下のとおりである。
- アングロノルマン語: Oger 〔オジェ〕(『ロランの歌』)
- 古ノルド語:Oddgeir danski 〔オッドゲイル・ダンスキ〕(『カルル大王のサガ』)
- フランコ=イタリア語: Uggeri il Danese 〔ウッジェーリ・イル・ダネーセ〕
- 近世のイタリア語:Uggieri, Uggiero, Ugier 〔ウッジェーリ、ウッジェーロ〕等。
「短い剣のオジエ」という二つ名を持っていた伝承もみつかるが、これは相当古く、中世スペイン語(中世カスティーリャ語)で書かれた『サン・ミリャン注解』(今では1065–1075頃成立とされる[28])に、「短い剣のオジェーロ(オジェーロ・スパタ・クルタ)」[注 15]という二つ名だったことが記されている[29]。
総覧
この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは武勲詩『オジエの騎士道』(12世紀成立、現存型は13世紀初頭)の編者バロワが、オジエの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなくアルデンヌの所領に由来すると仮説を立てた[30]。これに対し、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親ゴーフロワを、サクソ・グラマティクス著の史書にもある歴史上のデンマーク王グードリグに比定し、英雄自身は、その王子オルフであると断定している[31][注 16][32][33]。
オジエはドーン・ド・マイヤンスの長子ゴーフレ/ゴーフロワ/ジョフロワの長子とされる。親子三代の武勲詩が書かれているが、『ゴーフレ』によれば、オジエの母親パッスローズはオジエを産み落として死に、ゴーフレは性悪の後添えと再婚する。『オジエの騎士道』の出だしでは、人質にだされたオジエの安否は、邪険になった父親や継母ベリサンのせいで脅かされることになる。
『オジエの騎士道』の主な部分としては、礼節の異教徒カラユーから「短き」名剣コルト[注 17]を譲り受け、敵将ブリュナモンを一騎打ちで倒し、その名馬( § ブロアフォール)を手に入れる段が、佳境のひとつである。第2枝篇では、シャルロ王子がチェス将棋でもめてオジエの息子ボードワンを殴り殺す名場面があり[注 18][注 19][注 20][注 21]、これを機にオジエが逆臣に転じ、長年の戦闘が続く。
『オジエの騎士道』は以後に14世紀に拡張版(改作版 remaniement)があらわれたが、十音綴詩文体ロマンス、アレクサンドラン韻律(十二音綴)詩文体ロマンスの2種類があり、これがのち散文化されて15世紀末に版本で刊行された。ロマンスではオジエの父親がデンマークを攻めて征服し、その姫ダヌモンドと結婚し、ふたりの間にオジエが生まれたとする。また、継母のあいだに弟ギヨンがおり、デンマークの跡目を継ぐが、この拡張(続編)ではギヨンよりむしろその子のゴーティエのほうが、オジエを大いに助けて活躍する( § ロマンス作品の内容参照)。

フランスで発見の伝オジエの石像頭部については § モー市とサン・ファロン修道院、デンマークの石膏像については § スカンジナビアの各節を参照)。
歴史背景
オジエのキャラクターは、一般的には史実上のアウトカリウスをモデルにされたものとされる[注 22]。アウトカリウスは、フランク王国の武人で、シャルルマーニュの カールマンの未亡人と子に随従してロンバルディア王デシデリウスの庇護を受けたが、最終的にはシャルルマーニュに屈服した[37][39][注 23]。また、オジエのキャラクターの一部は、史実上のデシデリウスの子アダルギス[注 24]を基に形成された可能性があり、二人の人物の行動などは似通っている[注 25][43][42][44]。武勲詩もこれらの人物の行動をなぞっていて、『オジエの騎士道』でも逆臣となったオジエがディディエ王/デジエ王[注 26](デシデリウスのフランス読み)に身を寄せる[45]。
まったく無関係の人物として、聖オトゲル(オトゲリウス)という者が、モー市のサン・ファロン修道院に在籍しており[注 27]、これを伝説のオジエと結ぶつけたのが、同修道院の僧たちが著作した『Conversio Othgeri militis』(騎士オトゲリウスの改宗、1070–1080年頃)という伝説だった[37][46]。武勲詩のなかでも、オジエがこの修道院と関わっており、その墓の居場所であるとする[47]( § モー市とサン・ファロン修道院を参照)。
デンマーク中世史上、オジエという名の知れた人物は現れず、サクソ・グラマティクスの『デーン人の事蹟』にもすぐに同名人物とわかるような人物は記述されない[48][32]。しかし、デンマーク人クリスチャン・ペーザーセンによるオジエ物語翻案、『オルガー・ダンスゲの年代記』(1534年)では、オジエをゴートレク王[仮カナ表記](ゴズフレズ王)の息子[48][33][32] 、すなわちオールフ王子に同定した[52][注 28][32]。
また、デンマークの戦隊長オルゲルス(ラテン語: Olgerus, dux Daniæ)というシャルルマーニュ帝の補佐がおり、この人物がケルンの聖マルティン修道院(聖マルティン大教会の前身)に多額の寄付をして、778年にサクソン人の略奪を受けた寺院の復興に貢献した、とその寺院の縁起物(『Chronicon Sancti Martini Coloniensis』 、1050年頃)にみえる。ただし事後記録なので創作の可能性も否めない[48][53][38]。
モー市とサン・ファロン修道院
モー市にかつてあった聖ファロン僧院(サン・ファロン修道院)には、霊廟があり、聖オトゲル(オトゲリウス)と聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジエとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があった[54]。
この霊廟の挿絵は、ジャン・マビヨン著の『聖ベネディクト修道会聖人伝』に、折り畳みページとして差し込まれている(右の図参照)[55][56][54]。
僧院は1751年に取り壊しにあったが[注 29]、1874年に霊廟のものと思われる伝・オジエの頭部が発見された(トップ画像参照)[58]。これは、頭部と、上掲の『聖ベネディクト修道会聖人伝』の横臥像の容貌を比較してその結論に至ったとされる[58]。頭部は現在はボシュエ美術館が所蔵[59]。
馬や装備
ブロアフォール

敵将ブリューナモン[注 30]の名馬ブロアフォール[注 31][注 32][注 33] の獲得の背景については[62]、後述の武勲詩( § オジエの騎士道)にくわしい[69][注 34]。額に星(流星)のある黒馬(右図参照)と描写され[70][71]、歯が4度も生え変わった若駒だとする[72][74][注 33]。
ブリューナモンとの戦いの際、オジエは騎士道的なサラセン人カラユー[注 35]/カラユート[注 36](→カラヒュー)から名剣コルト/コルタン[注 17]/コルタナ[注 37]という剣をもらいうける[81]。後年、オジエ幽閉の年間、テュルパンが剣など装備を密かに保存していたが、ブロアフォールの行方は知っていなかった[82]。そこでシャルルマーニュがバランより贈られた馬[84](≈ブランシャール[92] )や、ディディエ王の馬ペネヴェール[仮カナ表記] に試乗したが重さに耐えられなかった[94][82][95]。ブロアフォールは、サン・ファロン修道院で飼われていたと判明し、馬主と馬は再会を果たす[96]。
ブリューナモンは、『オジエの騎士道』異本によればネブカドネザル(古フランス語: Nabugodonosor)の剣(か兜)を所持していた[97][98][注 38]。
ボーサン

ボーサンは、オジエが『オジエの騎士道』後半の第10枝篇で、アフリカの王ブレイエ[注 41]/ブレユス[仮カナ表記]/Bréhus of Africa[注 42]との戦いでブロアフォールを失うが、相手を倒して代わりに得た馬[101]( § オジエの反乱・投獄・復帰参照)。名前は、「白黒」(の馬)[103]、あるいはピーボルド(斑 ぶち)の毛並み、またはバルザン(balzan、足が白い「四白」)の意[注 43][注 44]。
続編(散文体ロマンス)によると、オジエがブレイエの兄弟ジュスタモンとの対決は壮絶なものであったが[108]、軍馬同士も戦った。まず、あいさつで、オジエの持ち駒ボーサンが、対決相手の兄から奪った戦利品だと確認される。オジエが相手を落馬させたので、徒歩での剣での応酬になり、まずオジエが相手の剣を落とさせて一本取るが、オジエもクルタンを叩き落されて絡み合いになった後、双方が剣をふるい、オジエが相手の腕を切り落とした。その間、馬たちも争い、ボーサン[注 45]は相手の駒であるブラン・ド・シュリー[仮カナ表記](Brun de Surie「シリアの茶色」を後ろ足で蹴り、心臓を打ち抜いた。オジエは、ブランに乗れなくなったろう、と嘲ると、ジュスタモンは、乗るつもりはない、兄の馬を受け継ぐつもりだから、と強がったが、すぐさま首を刎ねられた(デンマーク訳の右図を参照)[109][110]。
マルシュヴァレー
マルシュヴァレー[注 46](Marchevalée[111][112], marceualee[113])は、もとバビロン(カイロ)のスルターン、ノラダン[113][注 47]の馬だが、オジエの甥のゴーティエが戦利品とし、オジエに贈呈した( § ロマンス作品の内容を参照)[117][注 48]。
パピヨン

パピヨンは、オジエがアヴァロンで入手する不思議の馬。元はリュタン(精霊の一種)の王子だったが、アーサーに克服され、罰として300年間、人語をしゃべらずに馬として暮らす使役を課されたが、経過後は元の妖精の王冠を戴ける約束になっている[120]。
妖精国から俗界まで従属したパピヨンは、馬自身がフランス軍を大いに援ける戦力となった。その「口は大きく開き、喉がまるで炉のごとくとなり、喉から2匹のドラゴンを発すると、皆は逃げまどった」[注 49][121]。また、オジエが敵の総大将フロリオンに、小規模の代表戦で決着をつけようと持ち掛けると、敵方はもうひとりヌビアの総督もつけ、凶器すぎる馬パピヨンには乗らないという条件で承諾した。ところがオジエが王の白馬ブランシャールで戦うとすると、パピヨンは我慢ならず、毛色を黒から白に変え、ブランシャールを縊り殺して、かわりに白馬に成りすました[注 50][122]。
ロンデロ
イタリア文学ではではウッジェーロはウッジェーリ(=オジエ)は、名剣コルタナと名馬ロンデル/ロンデロを所持する( § イタリア参照)。
フランス文学
オジエの騎士道
伝ランベール・ド・パリ作『オジエの騎士道』[注 51](Chevalerie Ogier de Danemarche; 原型は12世紀だが、伝わる作品は13世紀初頭[16])は、約13,058行におよぶ[注 52]類韻を踏んだ十音綴詩文体の武勲詩で[125]、全12枝篇に分けられている[126]。底本はB本で、A本も使われる[127][注 53]。
オジエの若き日の活躍、シャルルへの反逆、そしてのちの和解を物語る[129]。現存の詩は、原作のままではなく改作であろうとの考察がジョセフ・ベディエによってなされている[注 54]。これは歴史的背景を鑑みた考察で、失われた「原初オジエの騎士道」[注 55]は、おそらくロンバルディア王デシデリウス(デジエ)の側について、ローマ教皇の勅で襲撃してきたシャルルマーニュと戦った設定になっていたはずだと説かれている。すなわち、史実上のパヴィア包囲戦 (773–774年)になぞった展開である[130]。
第1枝篇:オジエの出自
第1枝篇(全3109行、「オジエの幼年時代」の部や章などとも仮称される[132][134]は、オジエの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:[135][136][注 56]
オジエはデンマルク公ゴーフロワ(→ジョフロワ[注 7])を父に生まれる[注 57]。
若きオジエはシャルル王への人質となり、フランスに身柄を預けられている(5行)[143]。しかし、シャルル王[注 58]へ、デンマークへの使節が口髭・顎髭を剃られて追い返されたとの報が入り、おいおい人質オジエに仕返しをすると意気込んで (7–25行) 、とりあえずオジエをサントメール城砦に監禁させる。ここでオジエは城主の娘と娘と情事をおこない、息子ボードワン[注 59](→ボルドウィン[144])をもうける[145]。このボードワンは、のちにシャルロ王子に殺される運命にあると詩では前ぶれされるが[146]、それがおいおいシャルルマーニュとオジエとのあいだに決定的な亀裂を生むのである( § 第2枝篇:息子の死と出奔参照)[147][148][149]。
やがてシャルル王は[注 60]、復讐としてオジエを寸断処刑すると蒸し返しだしたので[注 61][注 62]、オジエはことさら実父や継母のベリサンを恨む[148](100–117行)[注 63]。オジエ自身による無実の訴えも(118行–)、臣従の嘆願や (124–155行)[159]、妃の口添えさえも(156行)通じないようである[147][148]。
ところがローマ教皇から、異教徒の侵略に対する救援依頼状が届き、シャルルは、オジエも連行しイタリアに向かう。身元保証人は、親戚のバイエルン公ネーム(→ナモ)が引受ける。オジエは元服(騎士叙任の儀礼)を受けておらず具足もなく丸腰だった。観戦していると、前衛で旗手を務めるアロリー・ド・プイユ(プッリャ州のアロリー)[注 64]の敵前逃亡を目にする。オジエたちは、アロリー隊から甲冑・軍旗(オリフラム[160])を奪い、奮迅した。苦戦中のフランス軍は応酬し、軍旗をふるい王の援軍にかけつけたオジエは感謝され、王みずから所有の剣で佩刀の叙勲を受ける[161][162]。『ロランの歌』ではオリフラムを掲げる役をアンジュー公ジョフロワ/ジェフロワ[注 65]に甘んじるものの[163][注 66]、オジエは前衛や先陣を務めるに最適任とされており[14]、『サガ』によればオジエは旗手の役目であった[164]。
しかし新手の強敵カラユー(→カラヒュー)[注 67]の報告が入る。カラユーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルシューブル[注 68](→コルスブル)の娘グロリアンド[166][167] の許嫁だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラユーは、聖剣コルタン( →コルタナ)[注 69]の所有者で、姫の御前でのオジエと決闘を申し込む。シャルルの息子シャルロ[注 70]が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ[注 71](→サドン[注 72])という対戦相手をつけて、2組で決闘をおこなう。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモン[注 73]の一団が乱入し、オジエを捕獲する。説得に応じず釈放しないため、律儀なカラユーは、フランス陣営に投降し、もし、オジエが処刑されようものなら、自分も殺して構わない、と言った。
ここで異教徒側にまた強者の救援が到着する。メオルグルのブリューナモン[注 30][注 74]という猛者である。都督は姫とカラユーの婚約は破談にし、このブリューナモンと娶わせるという。姫は反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリューナモンと戦わねばならない。姫はその勇士の役を、なんと俘虜のオジエに依頼し、カラユーも聖剣コルタンをオジエに譲り与えて一任する[81][注 75]。オジエはみごとブリューナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬(上図参照)ブロワフォール[注 31](→ベフロール[注 32])を手に入れる[注 76][注 34]。
ブリューナモンとの決着によりサラセン勢は敗走、逃げる都督(コルシューブル)は、ネームに切り殺され、次いでダヌモンがオジエに仕留められた[177][178]。シャルルは船60艘、ボート30隻、20ドロモーン隻に、菱食などを積載して与え、カラユー、グロリアンド、ダドワヌらを丁重に帰路にたたせた[179][178]。
第2枝篇:息子の死と出奔

第2枝篇[注 77]は他と比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ王子が、オジエの息子ボードワネットとチェス将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔チェックメイト〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジエは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジエは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジエは追放の身となり、パヴィア国のデジエ(≒史実のランゴバルド国王デシデリウスとされる[注 78])に身を寄せる[180][181]。
オジエの反乱・投獄・復帰

この後、追討しようとするフランス王軍を、オジエがさんざんに翻弄する。オジエは、ローヌ川沿いのシャ[ス]テルフォール[注 79]に牙城を得、マンゴネルなどの大型兵器で攻撃されても、従者ベノワ[注 80]がギリシア火薬で対抗するなど(左図参照)、痛快に立ち回る劇が語られる[183][注 81]。
しかしそんなオジエも、やがて捕えられる。5人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを4分の1と水で薄めた古ワイン1杯しか与えませんから、と言ってテュルパン司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその4分の1だけを与えて存分に養った。7年が経ち、オジエのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった[184]。

こうしたオジエの牢獄生活も7年目に突入し(第9761–5行)[186]、この展開で、第9枝篇(9794–11040行)が始まる:[注 82]
フランスは、アフリカの王ブレイエ[注 41][注 83](→ブリュイエ[注 84])率いる軍の侵攻を受け、被害は甚大、「オジエがおれば」の声高まる。王は不承不承オジエの復帰を承諾。巨躯のオジエに耐久できる馬探しが始まり、王の厩舎の駿馬たち、バランから贈られた馬[84]≈ブランシャール[?][92]や他の馬が試されてぺしゃんこにされる( § ブロアフォール参照)。しかしオジエの愛馬ブロアフォールが、モー市の聖ファロ大修道院( § モー市とサン・ファロン修道院参照)に預けられていると判明。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏させオジエを迎え、涙をさそう(9796–10380, 10381–10450行)[189][190]。
戦闘準備は整ったが、オジエは自分の息子を殺した王子の命を差し出さねば働かないと、条件を出す。王は困惑するが、ネームにより、キリスト教世界の命運がかかっている事案であり、自分も息子ベルトラン[注 85]をオジエに斬られたが、赦している、と諫言される。しかしオジエが聖剣コルタンを振りかぶり、いざ王子の首をはねようとしていたその時、大天使ミカエル[191]が降臨してその手をとどめた(10451–11038行)[192][193][190][注 86][注 87]。

第9枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという[101]。第10枝編では、オジエは実際にアフリカの王ブレイエと戦う[注 42]。ブレイエはなんと 17フィート (5.2 m) の高さの巨躯で(右図参照)、その剣はガランの作、オジエの剣コルトも良いがその3倍の値打ちがある[196][197]、そして名馬ボーサンにまたがっている[注 88]。ブレイエは途中で休戦を請い、亡きキリストを聖墳墓に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジエの馬ブロアフォールは悲しくも殺されてしまう。オジエは応酬し、相手の首を刎ねる(11039–11856行)[199][190][200]。ここで第11枝篇に突入し、オジエは馬ボーサンをはじめ、武具を鹵獲する(11857–11947行)[201]。
ブレユスが倒れた後の戦いについては、上記典拠を示した要約ではおおむね端折られている[注 89]。
しかし第11枝篇(11882–12494行)の本題は、サラセン人との戦いがつづき、オジエが巻き込まれた英国王女(結婚相手)を救助する[203]、そしてしばしのあいだ孤軍奮闘する(後述)のが筋書きである。次いで第12枝篇末で、シャルル王が仲をとりもちオジエと英国王女は結婚し、現今のベルギーに在するエノー伯爵領やブラバント公国を賜る(13007–13031; 13040–1行)[204][205][197] 。サラセン軍は、エノー州(現今のベルギー内)に攻め込むが(11880行[206]、20人のサラセン人に絡まれた英国王アンガール(エドガール)の娘を行きがかりのオジエが助ける[203][207]。
ブレイエ後にも戦いはまだ終わりがないのだが、上述の要約資料では省かれている[注 90]。原典では、次々に現れるサラセン勢の敵の名や馬などの装備が列挙されており、これをオジエが孤軍奮闘して、名剣コルトや新たな馬ボーサンの力をかりて応酬するのである[209]。オジエは良く守るが、敵は百、千の単位で押し寄せる(12438–9行)。その間、フランス軍はきづいておらず、王は寝入っていたところを、自分のグレイハウンドが豹たちに襲われる夢で起こされる(12446–52行)[210]。英国王妃は、オジエの情勢がさらに、万単位の敵に追われる[注 91]と告げ( 12468行)、次いでいかがあそばせるつもりですか、とシャルル王にせまったあたりで枝篇が終結する。
第12枝篇(12494–13058行)は、のどかな5月の風景で始まるが[注 92]、原作ではオジエを初め、面々の武勲の回想録が語られている。そして作品の締めくくりに、モーにてオジエと従者ベノワは埋葬された、と記される(13054–5行)[211][47][212]。
また、従来要約で注目されない部分だが、最後の乱戦で戦ったなかにはブレイエの息子で正しくはイゾレ(Ysoré/Isoré)と呼ぶ[214]新王[注 93]も加わっていたことを、ヴィルヘルム・クロエッタは強調している[215]。別サイクルの作品になるが、『ギョーム入道記』の第 I 稿本では、ザクセンの王子イゾレが登場しており、殺されたブリュイエ(=ブレイエ)の復讐でパリ攻囲戦をしかける段がある。これはつきつめれば、同じキャラクターであろうとクロエッタは結論付けている[218]。いずれにしろ、ブレイエ王の息子のイゾレは、続編(オジエ物語)でもオジエと敵対するキャラクターとして出現する( § ロマンス作品の内容参照)。
改作や翻案
後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、アドネ・ル・ロワ(1300年没)が、『オジエの幼年時代』(Enfances Ogier)を詩作した[219](下の節を参照)。北欧でも、『オジエの騎士道』の第1枝篇に近似するテクストが13世紀に古ノルド語の散文に翻案されて、『カルル大王のサガ』集の第3枝篇『オッドゲイル・ダンスキ (Oddgeir Danski)』として収録された[220]。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている[221]。また、オジエの青少年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された[222]。
アドネ・ル・ロワ
アドネ・ル・ロワ(1300年没)による『オジエの幼年時代』は、『オジエの騎士道』第1枝篇のみ(そのオジエとブリュナモンの決闘まで[224])を忠実に模して前半とし、独自裁量の後半(約4000行)を継ぎ足した作品とされてる[223][225][注 94]
例えば、アドネの作品では、オジエがカラユエル(Carahuel)から名剣コルタンをもらい受けるのは、肝心のブリュナモンとの決闘が終わったあとになっている[229][230]。また決闘後、負けた側のサラセン人軍は総崩れになって敗走するところは同じだが、『騎士道』では総督コルシューブルをネーム公が討ち、次いでオジエがダヌモンを討ったとされるのに[177]、アドネの『幼年時代』では、総督はシャルル王がジョワユーズをふるって頭蓋にめり込ませたと書き換えられ、順序もダヌモンの戦死が先になっている。これによりアドネは[231]、息子の死を嘆き悲しむ総督コルシューブルの愁嘆場の場面[232]を脚色して盛り込むことができている。
また、ランベールの『騎士道』が、人質の身の上になっているオジエのところからやや唐突に始まるのに対し、アドネはその事態に至るまでのわかりやすい理由を創作して、オジエの父、デンマークのゴーフロワは、ハンガリーのコンスタンス(大足のベルトの妹。シャルル王の叔母で、まだ若い)に戦争を仕掛けて被害を被らせたとがで、貢物と人質を要求されたとしている。そしてサラセン人との戦争が終結したのちのことになるが、ゴーフロワとコンスタンスは政略結婚、デンマーク姫とハンガリー王子も縁を結ばれるダブル結婚で、両家の仲の修復が目論見される[233][234][225]。 オジエと恋仲になりボードワンを生む相手も本作ではマオー(Mahaut)という名で登場する[10]。
中世盛期末頃
フィリップ・ムスケは『韻文年代記』(1243年頃)において、オジエの死について記している[236]。
ジャン・ドゥートルムーズ(1338-1400年)の著書『歴史の鑑』には、オジエがアーサー王伝説の妖猫カパリュ(キャスパリーグ)と戦ったという伝承を記録する[237] 。また、妖精モルガンに渡された指輪で若さを保っていたオジエが、指輪をとりはずして、たちまち老爺になったという、浦島太郎的な逸話もこの作品に盛り込まれている[238]。しかしこれらはすでにアレクサンドラン版(1335年頃)に現れていた内容であり、いずれ刊行もされた散文体ロマンス(<1500頃)にもみえる。
十音綴詩文体ロマンス版
上で触れたモルガン・ル・フェイによってアヴァロンに誘われ、祖国に帰るというあらすじは、まず十音綴詩版ロマンス(31000行、14世紀初頭[222]、1310年頃[239]、1350年頃[129])にあらわれた[238]。これは『オジエの騎士道』の改作版(remaniement)のひとつとも形容される[240]。この十音綴ロマンス十音綴は、クヌッド·トウビュによれば唯一P本に現存するという[239][注 95]。これは従来の『オジエの騎士道』と同じ韻律だが、倍以上の長さであり[注 52]本項ではトウビュに従い、別作品の十音綴ロマンスとして扱う(写本学的には長さに関係なく ABMDP本が十音綴『オジエの騎士道』の異本として扱われているので注意[242][244]
拡張版は、すでに冒頭でも1370行ほどが追加されており、これだけでも製作者が"まったく新しいバージョンの物語"を企画していたことは明らかとされる[245]。トウビュの解析では、幾つかの続編部がくわわっており、「中東オリエントのオジエ」[注 96](53葉、約6900行)[123]、「モルグの妖精郷のオジエ[注 97]」(17葉、約2200行)[246] 、「オジエ帰還[注 98]」(60葉、約7800行)[いずれも仮訳題名で、原文も暫定題名][116]と命名されている。
すなわち、この改作版は、続編題名からあきらかなように、オジエが妖精モルグ(モルガン・ル・フェー)に誘われてアヴァロンで同居する運びとなっている[247] 。また、オジエが30歳並みの若々しさをたもったまま、200年後のパリに現れる滑稽劇や、若さの秘訣であった妖精の指輪を外してたちまち老爺と化する場面もすでにこの十音綴詩文体ロマンスにおいて盛り込まれている[248]。
アレクサンドラン版

さらには、アレクサンドラン韻律(十二音綴)詩版(29000行、14世紀中葉[222]、1335年頃[249])にも追加される[250]。これも『オジエの騎士道』の改作版(remaniement)のもうひとつとされる[240]。アレクサンドラン詩は、極彩色の挿絵で有名な「タルボット・シュルーズベリーの書」(大英図書館所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)[251][252]等、従来知られた3点[注 99][249]に加えて4点目[254]の写本に現存する。
アレクサンドラン詩版はトマス・カイトリーが要約して、幾つかの箇所を抜粋脚注しているほか[120]、ポール・メイエルによる抜粋もみられるが[255]、全体の活字編本は、いまだ刊行されおらず、と2015年の冒頭15詩章を抜粋した発表論文に見える[256]。
アレクサンドラン詩版は、いわば十音綴詩版と、のちに散文に起こされたバージョンとの中間段階の作品である[257]。本作で示される家系は、ドーン・ド・マイヤンスの長子ゴーフロワが[259]、ダンマルシュ(デンマーク)制服を果たし、ダヌモンド姫を妃とした[261][3][注 100]。ダヌモンドが妊娠すると、まるで2児を身ごもったごとく大きくなり、オジエの出産で落命する[263][264]。ゴーフロワはジェルメーヌ・ド・ヴァンビズ[仮カナ表記]という女性と再婚[267][注 101](再婚相手はベリサンであるとランベールの『オジエの騎士道』[268]や十音綴拡張版[269]にはみえる[注 102])。また、オジエとねんごろになる娘はギメールとされ、未婚のままボードワンを生む[11]。
このアレクサンドラン詩版では、冒頭部にモルガンとの宿命があるという内容が継ぎ足された[264][注 103]。新生児のオジエが、6人の妖精女たち[注 104]。の訪問を受け、恩寵を授かる場面を加えており、妖精のひとりモルグ・ラ・フェー(モルガン)は、自分の愛人となってすごすときまで、決してオジエ死ぬことは無いという運命を与えた[273]。そして他の妖精たちはというと、妖精のグロリアンドはキリスト教圏随一の騎士となる、サグルモワールは欠戦することなからず、フォラモンドは戦で不敗、もうひとり「アヤメの花のごとく白き妖精」[274]は恋愛の幸、ベアトリクスは甘美さと優雅さを与えた[275][277]。
オジエは中東オリエント(アクレやバビロン)で活躍したのち、予言通りに妖精モルグが愛人として連れ去り、アヴァロンで暮らし、一子ムルヴァン(M[e]urvin)をもうける。本国フランスに帰郷を果たすが、すでに数世紀を経た浦島太郎的展開となる[278][注 105] (細かい粗筋は § ロマンス作品の内容に詳述する)。

ある総評によれば、アレクサンドラン版の前半は、ランベールの『オジエの騎士道』を大体において忠実になぞっているが、ひとつの脚色としてはディディエの王妃アーグルモンド(Aigremonde)との恋仲の発展が挙げられる[282]。ランベール原作と異なる後半では、オジエは重要ではありつつも、その独断場ではなくなっており、甥のゴーティエや、ランベール原作では第1枝篇かぎりで出番のなかったカラユー(Caraheust)らが、いわば準主人公的な重要な活躍をみせている[283]。アレクサンドラン版では、カラユー対巨人ラグラフル[仮カナ表記](アングラフル[注 106])の決闘があるが(右図参照)、この決闘の勝利が洗礼を受けるべき神よりの瑞兆である[285]。
散文体ロマンス
アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文化翻案『オジエ物語』が、15世紀に登場し[129][286]、その代表例が1498年にパリで出版された各種版本(以下詳述)である[287]。こうした揺籃印刷本をかわきりに、16世紀にも複数の版が刊行し、以後、何度も再版されて広まった[288]。
最初の版本はリヨンの1496年版で[289] ジャン・ド・ヴァングル(Jean de Vingle)が版元であるが[290]、おそらくその次がアントワーヌ·ヴェラール版元のパリ本(1498年[頃])である[注 107])であろう[295][296]。早期本にはもうひとつ、プチ・ローラン[注 108]が版元のパリ本があり、これも出版年月日なしであるが[290]、1495年頃とされる[297]。
この 1498年版は、現存するうちの3点はヴェラム(犢皮紙)刷りで、とりわけ豪華なのがトリノ本であり[298]、ファクシミリ複製版がトウビュ(1967年)により刊行されている[299][298][301]。
トリノ本は、進呈本の存在で、繊維紙のかわりに犢皮紙刷り、各57章冒頭の木版画の代わりに極彩色のミニアチュール画が配置されている。また、この1部にのみ、1498年登極したルイ12世へ捧ぐ辞を述べたプロローグがつけられており[302][303]、ひざまづいたヴェラールが陛下に本を献上するミニュアチュール画(第[2]葉)も添えられる[291][304][305]。現トリノ国立大学図書館蔵(XV.V.183)である[306]。版本/一部写本。一部は(欠損を補うため)、活字に似せた手書きで書かれた写本部分となっている[307][注 109]。
複数部が世界各地に現存するが[308]、英国のヘンリー7世 の蒐集物(現・大英図書館蔵 C.22.c.1/IB 41217[294])も、皮印刷本で、挿画はジャック・ド・ブザンソンの画家の様式とされる[291][309]。パリ国立図書館蔵本も皮印刷本である[注 20]。ニューヨークのモルガン・ライブラリー蔵本は、繊維紙印刷であるが、他の部本にみられないオジエ誕生の扉絵を掲載する[307][注 110][注 111]。
ロマンス作品の内容
詩文体ロマンスの項で、オジエの出生の際、6人の妖精が祝福したことは既述したが、散文体のテキストの第1章では、妖精らの名がグロリアンド、パレスティーヌ、ファラモンド、プルシーヌ、モルグに多少変わっている[314][注 112][317]。
ロマンスの内容は、妖精モルガンに関する部分はカイトリ―などにより詩の抜粋と英文要約がされており[295]、ロドルフォ·レニエールや[318]、フランソワ・シュアール[319]がヴェラール版の散文版本を要約する。
ロマンスでは、オジエが生まれた時に妖精モルガンと出会うのが布石で、のちのモルガンとはアヴァロンの地で愛人関係になる運命なことは[295]、すでに上述した詩文体ロマンスのなりゆきと同じである[120]。
ロマンスではしかし、『オジエの騎士道』で語られた以上に、オジエが現実の世界でまだまだ業績を積む。ブリュイエ(Bruhier、上ではブレイエ)戦の後英国の王女を救い[320]、そのクラリス姫と結婚した[321][323][注 113]のみならず、イングランドに行き英国王に即位する[325][326]。そのあとで弟であるデンマーク王ギヨンと、甥のゴーティエとの対面をはたす[327][328]。オジエはアクレにいってこれを援けよという天啓を受けたため、ベルトラン・ド・ブリュイ[注 114]を英国統治の代官に任命した。するとベルトランはオジエが死亡したと偽り、シャルルの宮廷でクラリス姫が自分と結婚をもくろむが、甥ゴーティエがやってきて嘘をあばき、正義をめぐる決闘となり[329][330]、敗北したベルトランは絞首刑となった[331][332]。
このあたりでロマンスの続編のうちのいわゆる「中東オリエントのオジエ」の部に突入する。前触れ通り、オジエは東洋をめざし、やがてアクレの王座をを任される[325]。 続編の詳しい粗筋は、挙げた要約資料にくわしい[333][334]。オジエが食糧難のアクレに到達し[注 115]、まずコルモラン王を倒す[335][336] ジュスタモン(Justamont)というブリュイエ王の兄弟でもある巨人と決闘して倒す(壮絶な戦いで、馬同士も戦う[109][110] § ボーサン参照)。これでアクレ解放は成就したに見えたが、イゾレ(ブルイエの子、ジュスタモンの甥)やミュルガラン、モワサンなど諸将が繰り出して弔い合戦に挑んだ結果、ジャン王が討ち死にしてしまい[337][110]、後継の王にオジエが選出される[338][339]。[340]。アクレ王となったオジエがキリストの墓(聖墳墓教会)参拝を希望すると、親類の仇を恨む2人のテンプル騎士団員に画策され、さぞオジエに恨みあろうブリュイエ王の息子のイゾレのもとへ送りつけられそうになるが、船が難破し[341][342]、オジエは漁師に拾い上げられる。たどり着いたバビロンでは、顔や手を黒塗りにしてムーア人のふりをし、武人としてバビロン(カイロ)のスルターン、ノラダン[仮カナ表記][注 47](Noradin)に仕える。オジエはアングラーフル[仮カナ表記](Engoullaffre 、またはラングラーフル・バビヤン[仮カナ表記] l'Engoulaffre Babillant、これもブリュイエの兄弟[343])という敵将を負かして捕虜とするとき、キリスト教との捕虜がいると知る。ノラダンの諸将にまぎれたカラユーと再会し、スルターンには注意せよと警告される[344][345] 。次にモワサン王[仮カナ表記](Moisant)も武功で捕らえるが、自分の正体が発覚して、一緒に投獄される羽目になる[346][347]。
これでお膳立てがととのい、いわゆる『オジエの解放』断片(La Délivrance d'Ogier le Danois)で知られる展開に突入する[注 117]。この断片は、今ではすなわち上述の十音綴詩文体ロマンス版の不完全本と認識されている[注 95]が、捕虜のモアサン王が、必ず救い出されるという天使の声を聴く途中あたりが出だしとなっている[348](これはのちに、モアサン王がキリスト教改宗に踏み切る布石となる[350]) 。カラユーがオジエの遭難を知り、オジエの甥ゴーティエが率いる軍を連れて戻ってくる[352]。この間、様々な紆余曲折はあるが[注 118][注 119]、ゴーティエはついに勝利して、ノラダンを捕虜となす。よってオジエやモワサン王の解放交渉の材料がそろう[358]。ゴーティエは、スルターンの軍馬マルシュヴァレー(Marchevalée)を手に入れて試乗し、これはぜひとも伯父のオジエへの土産とせねば、と誓う[359]。そのため、スルターンが自分の身代金のみならず[360]、馬のためにも巨万の富を積もうとするが、その値がおそろしくつりあがっても[注 120]、結局この馬は返還されなかった[361][注 121]。
すなわち、マルシュヴァレーは、アレクサンドラン版においても同様で、オジエが生涯獲得する4頭のうちの3頭目として登場する。ボーサン( Bauchant)の後釜の馬であり、妖精郷のパピヨンの前任の馬である[118][注 122][注 123]。
オジエには、かねてから英国の王女(クラリスの名がつかわれる)を妻にしていたが[364]、キリスト教徒が支配を奪った聖地エルサレムで彼女に洗礼を受けさせここで挙式する[365]。ゴーティエがバビロンの統治をおこなうのを見届けたのち、オジエはカラユーが「アケール」 Acaire というクリスチャン名で洗礼を受けるべく、同行して、その本国インドに向かう予定であったが[注 124] 、嵐によっておのおのの船の行き先が分断され、カラユーはグロリアンドに慰められて、自分の洗礼と本国インドのキリスト教化を果たす[367][368]、一方でオジエは、ひとり小舟で漂流し、「天然磁石の城」たるアヴァロン城の磁気に惹きつけられて(妖精モルグ/モルガンのいる)その岸に漂着する[370][注 125]。
こうして前触れ通りオジエはモルガンの愛人となり、そのままアヴァロンで暮らすことになるが、リュタン(妖精)の王子の変わり身の姿な馬( § パピヨン参照)をあてがわれれ、また散文ロマンス版では30歳の若さを保つ指輪と、浮世を忘れる王冠を授けられる。(また、オジエはアヴァロンに到着早々、アーサー王に請われて長年の災厄となっていたリュタンが怪物化したシャパリュ/カパリュ[ス]をおとなしくさせる[371][注 126]、(キャスパリーグ § オジエ・ル・ダノワ参照)[373]。
じつはオジエの不在の間、バビロンやアクレなど中東の要地はノラダンほかサラセン人によってことごとく奪還されてしまう。オジエは知らずまま長年の月日を暮らし、モルガンとのあいだに息子ムールヴァン(Meurvin, Murvin)をもうける[注 127]。しかし、その暮らしが200年たったころ、ついにキリスト教圏に危機的な状況と判断し、モルガンは忘却の王冠をはずしてオジエの記憶をとりもどさせて、現世に送り出す[374][375]。
アレクサンドラン版でもやはりアヴァロンで200年余暮らしたオジエがフランスへの帰郷を許されるが、妖精郷で与えられていた正体がリュタンな馬パピヨンも付けてよこされ、燃え尽きればオジエの命も尽きるといういわくのたいまつを渡され、雲に乗せられモンペリエの近くの現世に舞い戻る[376][377][378][379][注 128]。オジエはフィリップ王の御代に現れるが、その王の崩御を越えて生き残ったため、王妃に結婚を迫られ、たいまつを火に投じてしまう[380][379][381]。しかしオジエが捨てようとした命も、モルガンが拾って救う[380][382]。
散文体でもだいたい同じように事は運ぶが、詳述する。モルガンはオジエが俗界にもどるのを許し、従者ベノワと馬パピヨンもつけ、例の「たいまつ」ももたせるが、散文版ではけっきょく何の役割も果たさない[注 129]。モルガンはこの一行を雲に乗せて[注 130]、都市まで送り届けるが[386]モンペリエで、オジエは叔父のジラール・ド・ルシヨンに会えると思いきや、とうに故人であり、自分がオジエだと信じてもらえないばかりか、剣かになり従者ベノワが死んでしまう。ベノワはモーのサン・ファロン修道院に埋葬を頼むが、火を噴くパピヨンも祓魔されるべきか問われる。その修道院長が指輪にあこがれて外してみたため、それがオジエの若さを保つアイテムだという秘密を知ってしまう。オジエは目的通り王を救援すべく、シャルトルで攻囲されているフランス軍と合流し、パピヨンも口から火を吹いて(二匹の火竜を吹いて)敵を散らし[注 49]、皆を驚嘆させる。オジエえに色目を使う王妃をあしらうが、うたた寝するまに、豪華な指輪が外されて、若さの秘訣だと王妃と同席したサンリスの貴婦人にばれてしまう[121]。貴婦人が暗殺隊をやとい、指輪を奪おうともくろむ[387]。戦況はフランス勢が不利だったが、オジエの活躍で俘虜などは奪還される。オジエは敵の総大将であるフロリオンに大将戦での決着をもちかけ、敵はヌビア総督もくわえて戦うが、敵が恐れて使わない約束だったパピヨンはなんと王の白馬を絞殺し、自分が黒から白毛に変化してなりすました[注 50][122]。サラセン側は敗北し、フロリオンは改宗する。オジエは身の上話をせがまれるが、約束を忘れてアヴァロンのことを明かそうとしたとたん、指輪がはずれ、老人と化してしまった。落ちた指輪をはめてみて若返ったジョフロワ伯は、着服の様子だったが、モルガンが訪れて指輪をオジエの手に戻し、アヴァロンの内情には触れるなと忠告して去っていった。散文体の最終幕では、未亡人の王妃に結婚を迫られたオジエは自決せず、例のサン・ファロン修道院長に諮ると答え、院長も良縁だとうなずくが、またもやモルガンがやってきてオジエをいずこかに連れ去ってしまう。その後のことはわからずじまいだが、人々はまだオジエが生きているものだと信じ続けている[388]。
ムールヴァン続編
オジエは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァンと言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られていないが『Roman de Meurvin, fils d'Oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン[注 131]が、白鳥の騎士の祖先とされている[389][390]。また、『Histoire du Preux et Vaillant Chevalier Meurvin』、1540年の題名でも出版されているが、すなわちは、オジエの子孫が(白鳥の騎士であり、そのまた子孫が)史実上のゴドフロワ・ド・ブイヨン(第1回十字軍指導者、エルサレム国王)であるという設定だと指摘される[391]。
再話
日本語で手軽に読める資料に、市場泰男訳トマス・ブルフィンチ再話『シャルルマーニュ伝説』「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」があるが、これは、くらべてみると現代フランス語で書かれたトレッサン伯爵の再話とおおよそ合致している[注 132]。
例えば、オジエ誕生のときに6人の「名付け親の妖精」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物するはじまりもそのうちの仙女のひとりモルガン・ル・フェイ(ブ氏再話では→モルガナ)もそうであるトマス・ブルフィンチ & 市場訳 (2007), pp. 325–326[392]。これら再話では、名前や設定が武勲詩やロマンス版と比べて大幅に改変されている[注 133]。
文学論
『オジエ物語』で、オジエが故国の窮地に駆けつけてやってくる伝説に、対応するのがフリードリヒ赤髭王(フリードリヒ・バルバロッサ)がドイツの危機に再来するという民間伝承に対応する[393][394]。各地の類話については山で眠る王を参照。
『オジエ物語』にみえる「たいまつと不可分の生命のモチーフ」、よりわかりすくいえば「命のろうそく」のモチーフは[395]、北欧のノルナゲスト伝説にみえる[398][注 134]。
この命の身代のモチーフはギリシア神話のメレアグロス伝説にもみられる[398][273]。
妖精郷への異郷訪問譚の意味では、スコットランドのアーセルドンのトーマス伝説や[382][400]、タム・リンのバラッドと共通すると指摘されているが[400]、さらに穿った考察では、これらスコットランド伝承がオジエ物語より派生したものであると[401]、バラッド編纂者フランシス・ジェームズ・チャイルドは考えた[402]。
イタリア
スカンジナビア

北欧では、フランス武勲詩『オジエの騎士道』の初期本の第1枝篇のみを土台として古ノルド語で翻案した作品が、「デンマーク人オッドゲイルの小話」(Oddgeirs þáttr danska)と題して、『カルル大王のサガ』第3枝篇(1240年頃[404])に編まれた[220] 。そのサガのおおかたの枝篇を翻訳・抄訳したデンマーク語版が『カルル大王年代記』[仮訳題名](Karl Magnus krønike)であり、1480年の写本などに残る[405][406]。これはアドネ・ル・ロワ『オジエの幼年時代』と同じく、『騎士道』第1枝篇のブリュナモン決闘までを第45章までにまとめ、その同じつなぎ目以降は独自の展開でのこり9章を接ぎ合わせた作品である[407][223]。
時代を経て、近現代になるとクリスチャン・ペーザーセンが、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジエ物語の印刷本『デンマルク人オジエ』(Ogier le Dannoys) を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『オルガー・ダンスゲの年代記』[注 137](Olger Danskes Krønike)として出版した[33]。このことにより、オジエ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。このときペーザーセンは、オルガー・ダンスクは、じつは、デンマークの王子で、ゴトリク王(デンマーク語: Gøtrik)の息子だとしている[31]。サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』などによれば、ゴトリク王の息子の名はオーラーブであるが[409]、それと同一人物だと説明した。
しかし、全体的にいえば、このデンマーク版は元のフランス散文体の作品の内容をおおむね踏襲しているといえる[410]。たとえばデンマーク版の序盤でも、新生児のオルガー(ホルガー)のところへ6人の妖精がやってくるが、ペーザーセンはフランス語風の「フェー」たちとはいわず、ヴェッテたち(原文:Vetter 、標準語単数形:vætte、英語のワイト wightと同根語)と意訳している[411]。

北欧のバラッド
デンマークのバラッド『ホルガー・ダンスクとブアマン』[仮訳題名](Holger Danske og Burmand、DgF 30、TSB E 133)は、ホルガ―と回教徒の怪人のブアマン[注 138]との決闘を主題とする[406]。ABCDと4種の異本が存在する[412]。ブアマンは回教徒の設定であるが、キリスト教徒をとって食らい血をすするとB[413](とD本[416])で描写されており、またトロールであるとD本に明記される[418][419]。類話のバラッドはスウェーデン語にもみつかる(SMB 216)が、投獄から解放されたホルガー・ダンスクが、やはりブルマン[注 139]というトロールと戦うありさまを歌っている[420][421]。
北欧の英雄図

英雄としての人気ぶりは、15、16世紀に、デンマークやスウェーデンの二つ教会にホルガーの壁画が描かれていることからも、うかがうことができる[48]。スウェーデンのフロダ教会の絵は、1480年頃 アルバートゥス・ピクトルの作とされる(左図参照)。添え書きに「ホルガー・ダンスクはブアマンに勝利した」、と書かれているが、これはデンマーク語やスウェーデン語のバラッドにあるリフレインの文句でもある[423][424]。
元はノルウェーのスターヴ教会(樽板教会)の正門が、旧・王立北欧古代学博物館(Det Kgl. Museum for Nordiske Oldsager、のちデンマーク国立博物館に編入)により1861年に購入されているが、これにはオルガー・ダンスク(Ølger Danske)とブルマン(Burman)のレリーフ彫刻が、刻銘入りであしらわれている(右下図を参照)。販売した商人は、レインリ・スターヴ教会の廃寺からの出物だとしていたが、その教会は当時(も今も)現存するため、否定されている。ニコライ・ニコライセンは、おそらくヴェストレ・スリドレ市内、ロン教区の Öde 教会(Øyjar Chapel参照)ではないかと推察した。これら人物の彫刻は、この正門に当初からあったものではなく、後年になってより広いドアを通すために拡張改築が行われた際、増築部分に配置されたものである[422]。
(クロンボー城の石膏像については § クロンボー城の伝説を参照)
クロンボー城の伝説

ヨーロッパには、祖国の危機によみがえるという「眠れる王」伝説が各所にあるというのは § 文学論でとりあげたとおりだが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し[20]、とりわけ、ペデルセンの郷土ヘルシンガー市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像(1907年)を制作依頼し、その石膏型をクロンボー城の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えられている[425]。
デンマークでは、ホルガー・ダンスクに関してクロンボー城の下に鎧の音がするという噂がたっていた、とトマス・カイトリー(1834年)が記述する[427]。より詳細な伝説は(1843年)が収録しているが、ある死刑囚の奴隷が恩赦と引き換えに、鎖の音がする城の地下の探索を命じられた。すると石性のテーブルに鋼鉄の鎧を着こんだ武者がすわっており、端にいたホルガー・ダンスクが立ち上がると、あごひげが生えこんでしまっていたテーブルが砕けた。ホルガ―が男に手を差し出せというと、奴隷は鉄のバールを差し伸べると、ホルガ―が握った跡が鉄についていた。ホルガ―は「まだデンマークに丈夫はいるのだな」と、感心したという[428][429][注 141]。
クロンボー以外の眠れる巨人
ティーレによれば、眠れるホルガ―の伝説はいくつかあるが、モーゲルトンダー市(こちらも城がある)にも、地下にホルガ―が眠り、キリスト教圏の危機になると援けにあらわれる、という伝承が根付いている[430]。
スウェーデン南部ランズクルーナ市街のロンネベルガの丘陵群(Rönneberga backar)は、かつてデンマーク領だった場所であるが、このうちに人骨の白骨された墳墓のひとつが、「ホルガーの丘」(Höljer Danskes hög )と命名されたが、その丘のまんなかに、かつてデンマーク王だったホルガーが眠っているという伝説が発生した[431]。
デンマークの民話
また、民間伝承では、デンマークの国軍が窮地に陥れば、ホルガー・ダンスクが赤い盾を持ってやってきて前衛に立ち、軍を率いるのだといわれている。ホルガ―はインドの地で不思議の実を食べて不朽の肉体を得たのだという[432]。
ある巨人伝説によれば、ホルガー・ダンスクがバウスヴェーア[注 10][注 142]を訪れて衣服を新調しようとしたとき、あまりの背の高さに仕立て屋たちは数人がかりで梯子に乗って寸法を計らねばならなかった。ひとりがハサミで図った印をつけようとして、誤ってホルガーの耳をかすり切ってしまった。オジエは痒みをおぼえてノミがいると間違え、男を握り殺してしまったという[433][429]。
別の巨人譚によれば、ある魔女がホルガーに地中までのぞけるという魔法の眼鏡を貸し与えた。ホルガーは地べたにうつぶせになって地面を調べていたが、そのときの眼鏡のあとが、二つの穴になって水がたまり、コペンハーゲン近郊の名所になってしまった[434][429]。
北欧の創作文学・楽劇
デンマークではさらにアンデルセンの童話や、クンツェンのオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマンの詩にゲバウアーが曲をつけた歌も知られている。
大衆文化のオジエ
オジエ・ル・ダノワは、トランプのスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、ポール・アンダースンの『魔界の紋章』もオジエ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。
命名
関連項目
- 武勲詩ユオン・ド・ボルドーの続編では、妖精郷を統治するアーサーが王位をユオンに禅譲させられまいかと不安になる。
- オジエが妖猫キャスパリーグと戦ったとする伝記がある。