アスプルモンの歌
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アスプルモンの歌(アスプルモンのうた、Chanson d'Aspremont)は、ローランの若き頃の活躍[3]と騎士叙任[注 1]を描いた作者不詳の12世紀(1190年以前[4])の武勲詩。全11376行(武勲詩としては異例の長編[5])。現存する原稿から当時特にイギリスで人気を博したと推測される。
異教徒王アゴランが息子の王子オーモンをともないイタリアに侵攻、フランク王国の首都エクスのシャルルマーニュ王は、異教の使節がもたらす挑戦状を受け対決を決意、アスプルモンで衝突して会戦が始まる。ネーム公の活躍はめざましく、使節バランは感化されて改宗を決意、「良き異教徒」として味方につく。
ロランらは若輩とみなされ参戦を見送られて副都ランに軟禁されるが脱出、ネーム公の黒毛の名馬モレルを奪って戦に乱入[注 2]。シャルル王の危機にロランが駆け付け、異教徒の王子オーモンを討ち取る。その折、王豪華な戦利品の数々を鹵獲―角笛オリファン、愛馬ヴェイヤンティフ、そして聖剣デュランダル。いずれも後にロンスヴォーの戦いへと携える運命となる名物である。
かくしてロランの活躍により、シャルルマーニュの王子オーモンとの会戦に勝利。後半(第二部)では[注 3]、論功行賞がおこなわれ、戦利品の聖剣デュランダルはロランに授けられ、シャルルマーニュにより彼は騎士に叙された。
(行指定は、Brandin編本およびNewth 英訳本に準ずる)
アフリカの異教徒王アゴラン[注 4]が南イタリアに侵攻を開始した。王アゴランはバランに使節としてもたせた親書は、はたして五旬節のおり首都エクス(アーヘン、39–40行)で会議を開廷しているシャルルマーニュ[注 5]の元に届く[10]。
建前は[注 6]、キリスト教圏を制覇したら、息子の王子オーモン[注 7]をローマで戴冠させたいとするが(335–6行)、使節によれば、すでに大軍[注 8]で海を渡ってカラブリア州(318行)を制しており、夏中にはプーリア州やシチリアも併呑したら、まず自分みずからが王冠を戴き(446–7行)、息子に禅譲する腹積もりだという。使節バランは、ネーム公[注 9]と接するうち、キリスト教への改宗を決意(548行)[19]。
こうして双方の軍が向かうアスプルモン(「苦き山」の意[20])の地において、キリスト教世界の命運を決する激戦の火蓋が切られることになる。 異教徒らはじきに(同カラブリア州の)アスプルモンに着き(1116–8行)、フランス勢は、はるばる野や丘を越え、"壊れた橋や見知らぬ水路"をよぎり、隊列が無事とは言えぬままたどり着く(1662–5行)[21]。フランスを筆頭にしたキリスト教軍は、兵数で大きく劣っており列国の応援を頼むべく、シャルル王は、フリジア王国のゴンデルブフ王[仮カナ表記](Gondelbuef)[注 10]、ハンガリー王国のブルーノ王、ブルターニュ王国のサルモン王[注 11]らに檄を飛ばし、それぞれ1万勢の応援をとりつける(926–960行)。また近くのパヴィーア王国のディディエからは兵糧物資の救援を頼む(990–4行)[25]。
本作ではシャルルの十二臣将(パラディン)のなかで、ネーム公が多芸多才な臣将として敏腕を解き放つ[26]。しかし、テュルパン司教が指摘するに、重要な一大戦力が欠けている。すなわちジラール ・ドゥフラート[仮カナ表記]公爵(Girart d'Eufrate、ジラール ・ド・フレートとも)である。公は王との折り合いが悪かった。司教は親戚なので、なんとか助力の要請するため使節を願い出た(1008–23行)。ジラール公は反逆分子なのだが、この作品ではキリスト教圏の側について、サラセン人の敵王や王子を倒すのに重要な役割を果たす[27]。
シャルルの甥ロラン(指小辞のRolandin/Rollandinsで呼ばれる)は成人とみなされておらず、他の少年たちと同様、参戦を禁じられ、ラン(ラオン市[28][注 12]、1066, 1072行)で門番を監視につけて軟禁されていた(1053–9 行)。しかし血気盛んな彼はこれを無理やり抜け出し、仲間を率いて戦場へと急ぐのである(後述)[注 1]。

テュルパン司教は、ジラールの拠点 ヴィエンヌ (ブルゴーニュ公領の設定[注 13])に到達し、親戚らがこぞって食事中なときに割り込んでくる。ジラールは、息子のエルノー(Ernault)や甥たちのブヴォン(Beuvon )とクラロン(Claron )、それらの父ミロン(Milon )[注 14]の4騎士に給仕させていた。ジラールは「あの小人(ピピン短躯王)の息子めへ臣従の礼をとれなぞ」と激怒し、ナイフを突きつけ(右図参照)、テュルパンは躱してもぎとろうとする (1079–1145行)。テュルパン司教は、ジラールの勧誘失敗と思い込んで駆け去る(1214–行)[34][注 15] 。

ロランや若輩どもらは、ランで幽閉されていたが[注 16]、シャルルマーニュの軍が近くを行進するのを聞きつける。若者らは門番に頼んで様子を除きに出たいと談判するが拒否され(左図参照)、最終的にはリンゴ樹の棒で門番を叩きのめして脱走し、通りかかったブルターニュの軍人から馬を奪って走り去る。しかし当のブルターニュ王が、ロランのしでかしたことと知ると、お咎めなしとなる(1239–1370行)[39][40][41] 。
シャルルがローマに到着(1404行)した頃、ジラールはまだ苛立った気分でおり、息子のルノーとレニエ(ルニエとも)、甥のブヴォンとクラロン(1420–21行)を呼びつけて[注 17]、シャルル王が応援要請するとはおこがましい、と怒りをぶちまけ、自分は老いた身だが、終いになったら(死後は)シャルルから領地の拝領も務めの任も拝するな、などと演説ぶる[42]。これを妻のエメリーヌ[注 18]が諫めるが[43]、みるまに舌鋒がきわまり、<ジラールほど神様の法を破った者が息さえさせてもらえるのが不思議>[44]、とか、<あれほど悪事三昧したのだから、自分だったら真っ先にローマの聖ペテロ聖堂で懺悔をすまして、さっさとアスプルモンまでシャルルの応援にいく>、などとまくしたてる[45]。ついにジラールも折れ、戦支度を始めるが、まず甥たちを佩刀させ騎士叙任し(1529–48行)[46]、息子のレニエとエルノーにも次いで佩刀と

若き騎士リシェ(Richier[注 19])もいちおう活躍したひとりであるが[48]、ベランジェ伯爵(Berenger)の甥で(vv. 1776–8)[49]、ネーム公が養成した里子でもある[33]。敵軍への使節を志願するが、険峻なアスプルモンの山でグリフォン(1825行;右図参照)に襲われ[46]、馬[注 20]を食い殺されて密命に失敗。ネーム公に叱責され、シャルルからの親書通達の役目をもぎ取られる(1891–7行)[32][33]。ネーム公は、自分も改めてグリフォンと対峙してみてリシェにはきつく言い過ぎたと反省するが、その爪足を切り落として撃退した;その足というのはコンピエーニュに行けば拝むことができると詩は語る(1195–1217行)[50][51]。
ネーム公は書簡を持って[注 21]、アゴラン王に侵攻はいかなることかと尋問するため敵陣に向かう。これをゴラン(Gorhan/Goran)という、バランの息子でアゴランのセネシャル(家令)が[52][注 22]、王の白馬を借用して(2174、2211行)迎えるが、ネーム公の黒馬モレル(2273行)[注 23] を横取りしようと欲して戦う;敗色濃くなり停戦を申し出、ネームを案内することを承知するが、むざむざ殺されに行くようなものだと危惧する(2345–59行)。じっさい、アゴラン王に対し、フランス潜入スパイだった事情通のソルブラン(Sorbrin、2488行)が呼ばれると、ネームを切り刻めば、それこそシャルルマーニュには大打撃である、と進言する(2511–25行)。バランが介入し、ネームは生かしたまま、シャルルマーニュへの返答を持たせることになった:三日後に戦いを決する、もしシャルルがマホメット教に改宗して降るならば慈悲を見せる、との内容である(2575–92行)。ネームは敵の王妃にも蠱惑的な興味を引かれ、魔法や毒に対抗するという金の指輪も贈られる(2620–63行)[53]。バランも固辞するネームに財宝などを贈ろうとし、ついにシャルル王への献上品として「雪や水晶よりも白い」馬一頭を受け取らせる(2680–94行)[注 24]。ネームは、この白馬に乗って副都ランに帰還し(2759行)、白い軍馬(2915行)をバランからの贈物として王に献上する[注 25]。
ネーム公は、別路の帰り道に同伴したバランにより、オーモンが10万勢で異教徒らが建設した塔に籠城しており、アスプルモン越えの峠を守っていると教えられていた(2720–4行)[注 26]。ネーム公はしかし、オーモン個人のまわりに集中攻撃をすれば塔は落とせる、と立案した(2856–67行)。敵勢10万に対しキリスト教勢は3万 (3103–4行)。オーモンは、名剣デュランダルを携え(3157、3184、3228行等)、黒馬に乗る(3227行)[注 27]。アンジューのジョフロワ(フランス語: Joifroi[注 28])とユオン/ユー・ド・マン(Hüon/Huë/Huës de Mans/Manseau[注 29](2877–9行)は、本作では相棒同士で参戦し[33]、前者はアルジェノワのトルコ人を斃し、後者はオーモンの親戚[注 30]を殺す(3174–82行)。オーモンの旗手エクトル(Hector、3223–4行)もリシェが倒した。かろうじて軍旗だけは回収した(3298–3309行)オーモンだが、形勢不利とみて敗走する(3315–20行)。
ジラール ・ドゥフラートも結局、援軍にかけつける。聖モーリスの旗印をかかげ、6万の兵を率いる(3909–20行)。このとき、ジラールが王に対して頭を下げた(頭巾を脱いで礼をした)など、テュルパンはことこまかに犢皮紙に書きしたためて、ナイフで脅された仕返しをした(4149–62行)[36]。フランス勢も再編成。前衛師団[注 31] 7千(ブルターニュ王サルモン他)、ミロン公が団長ひきいる第二師団 7千(フリジアのゴンデルブフ王他) 、ネーム公ひきいる第三師団2万5千(4314–37行)、他、第4・5・6・7師団、あわせて6万(4338–81行)。
ロランも槍代わりの手ごろな棍棒をふるい[注 32])、とりあえずの馬から(4969–71行)、ネーム公のモレル号を拝借して乗り換え(5749–5755行)[注 33]。シャルルマーニュがオーモン王子と交戦中で、宝石をちりばめた兜はオーモンのデュランダルさえ受け止めた(5894–5、5937–47行)。しかし兜をこそぎ取られて窮地の瞬間、ロランがあらわれ(6009行)、オーモンを降し、シャルルマーニュを救援。オーモンの角笛オリファン、名剣デュランダル、名馬ヴェイヤンティフ(古フランス語: Vielantiu 6076–8行[73]、「目覚めし」馬の意[75])を獲得する[76]。
作品後半の第二部[注 3]で、フランス勢はオーモンの陣幕・陣地を占拠し、褒美や武勲授与の式典となる。ジラール公は、3000の兵卒を騎士に繰り上げようではないか、と動議し、その大勢の人数を、すでに騎士たるジラールの息子ミル/ミロンとエルノーが率いて、シャルル王からの武器の支給(すなわち騎士叙任)を受け取りに行く(7399–7429)。
シャルル王は、もちろんロランにもデュランダルを佩かせる(第377–8詩節、7480–7510行)[77][78][15][注 34]。

ミロン教皇が、フランス軍のためにミサを執り行い[81]、その際に聖遺物を披露する。すなわちキリストがロンギヌスに刺されたその聖なる御柱の欠片を忍ばせた十字架であった(7671-4行)[82]。後にこの十字架が重要な役割を果たす。
レッジョでは、サラセン王アゴランが息子の消息がわからず、報告がないと苛立っていた。フランス勢による四体の邪神の偶像が略奪されたのをはじめ(7688–95行)金銀財宝、武器が奪われたのは判明していた。ある家臣マンダカン[注 35]は、フランス軍に物資的な増強をゆるしてしまった以上は、と慎重論を述べたが(7699-7706)、別の家臣マラディアン[注 36]は逆に、威圧的に出るべしと助言。ご神体の返還、マホメット教への改宗の要求、謝罪として物品のみならず処女たちを朝貢させればよい、とした(7707-22行)。アゴラン王は強硬外交を帯びた使節にウリアンとガランドル[注 37]にオリーブの枝[注 38]を持たせて派遣した(7723–34行)。シャルル王は "トリモチにかかった鳥のごとく、捕らわれた"[注 39]も同然なのだから、観念して降伏しろとのメッセージである[83]。
決裂は必須で、戦はまたあらたに始まろうとしていた。ミロン教皇は、何者か聖なる十字架を戦場で掲げる者がいないか探していたが(8375行以降)、武人は辞退するので、ランスのテュルパン司教にその役目がまわる(8490–3行)。フランス勢は、またもや十字架の前に跪き礼をする。まもなくして、三人の騎乗した騎士たちが、アスプルモンの山の尾根を越えてくるのがみえた。オジエが近寄ると、白馬に乗ったひとりは( 8512行)聖ゲオルギオス (聖ジョルジュ[注 40]だと名乗った。そのときアフリカの一団が攻め迫り、前出のマンダカンは、とりわけ巨躯の驚異だった。しかし聖ジョルジュは、ロランに怖じることはない、なんなれば幸運のために我の名を呼べ、と諭した。えてしてキリスト教徒が「サン・ジョルジュ!」を勝鬨とするならわしが始まった[注 41]と詩では主張をする(8528–41行)[84] 。
テュルパンの掲げる十字架は、まばゆい光を放ち、サラセン人の進撃を阻む。教皇が説くところ、それは"[キリスト]が苦痛を耐えた十字架なれば/見よ、輝き炎めき/アフリカ勢を寄せつけぬ"と(9295-6行)[注 42]。テュルパンはいったん十字架を教皇に預け、自分も武器をとって参戦する(9312-16行)。のちにまたテュルパンは十字架を掲げ、サラセン勢の目をくらませ[注 43]。
最終的にはアゴラン王も戦死し、クレロン(Clairon/Claires)に斬首せられ(10479–484行)[88][89]、シャルルは本国に凱旋する。ジラール公は、表向きはシャルルに忠誠をつくすごとく取り繕うが、このままではいずれかのプライドが持たないだろう、と、ひとりごちる(11349–355行)[90][91]。
批評・解説
アゴランの史実的なモデルは、イブラーヒーム・イブン・アグラブなどアグラブ朝(Banū Aghlab; Aghlabid dynasty)のチュニジア地方の王権によるイタリア侵攻だと思われる[92]。
上述したように、シャルルの十二臣将(パラディン)のなかではネーム公が諸芸に通じた有能な臣将として目立っている[26]。異本(ゲサール編本[93])では、ネームはシャルルマーニュ配下随一の顧問と評される[94][97]。ゴーティエはゲサール編本から「助言の大小にかかわらず、正直者が相続権を失ったり、寡婦や幼児らが害されるような[言葉]は与えなかった」という賛辞を引用している[98]。不思議なことに、ブランダン編本(ニュース英訳本も同じ)では、ジラール公が、「..故事を助け、自らの財布で養い、寡婦の面倒をみ、その無事を安堵」してこそが理想の王のあるべき姿である(7166–7行)とよく似た文句を[99]、第二部の初頭で口にしている[注 44]。
またラルジェス(気前良さ、寛大・寛仁などとも和訳される)の模範例ともされるのが、ネーム公が王に対して「出費は
本編では若きロランの活躍が描かれるが、英雄の幼少期の事績では全般的に、騎士叙任がまだな若者が刃のついた得物をふるってはならないタブーがある、と指摘される。オジエやヴィヴィアン、ガラン・ド・モングラ―ヌは、この規則に反しているが、若きギョーム・ドランジュ)やルニエ(オリヴィエの父)は、騎士叙任前の刃物の使用を断っている。本作ではロランも最初は規則に従い、棒切れ(原文ではリンゴ樹の pel/piel)を武器にしているところは、ギョームの異教徒義兄弟レヌアール(Rainouart)[注 45]が棒(tinel)を振るうのに似ている[70]。
英訳者ニュースは、本作には"僧侶的なユーモアと反僧侶的なユーモアの両方が、複数例みられる"としており、戦う僧侶としてのテュルパンは好意的に描写されるが、テュルパンに破門をほのめかされたジラールが怖じず反抗する場面は、反教会的情緒をしのばせているという[105]。ジラールを勧誘しようとしてにナイフで脅されたテュルパンは、根に持っていて、後の場面でジラールが王に臣従の礼をつくす瞬間を、存分に記録にしたためて意趣返ししたのは[36]上述のとおりである。ただ、べつに司教の意向ではなく、このような事案も記録文書化するシステムがあったわけで、封建制度のありかたを知るのによい例だとも指摘される[36]。また、本作はテュルパンがもとはノルマンディーのジュミエージュの僧院で、のちランスで聖職授任や聖別を受けたとしているが(8436–42行)、史実のティルピンは、サン・ドニ僧院の出身だとされている[106]。
写本
ブランダン(Louis Brandin)編本の刊行本は全2巻(1919年、1921年)、全11376行に及ぶが 、底本は "Wollaton Hall"写本であり、これをW本と称して使った[107]。これは現ノッティンガム大学図書館蔵、Wollaton Library Collection 内 Mi LM 6 写本である[108][109]。ニュース(Michael A. Newth)の英訳書(1989年)も、おなじ W本から訳出したので[110] 、行数は一致する。アンドレ・ド・マンダックの研究書では、ロンドン・大英図書館 Add 35289写本 ( L3本[注 46]、ブランダンの N本)を底本とし、その稿本と酷似するとみなしたフランコ・イタリア語のヴェネツィア fr. VI 写本(第6号)本で補足している[注 47][112]。
レプケ(Fritz Roepke 1909年)による『アスプルモンの歌』の研究書の知るところでは(W本がみえず)、17の写本を把握しており[113][114]、これがモンフラン(1958年)では実際には4写本多い[注 48]20写本を、レプケやブランダン他の略号も記した対照表として挙げている[115] 。ただしこれらの集計はフランコ・イタリア語の翻案もないまぜである。
純フランス語『アスプルモンの歌』の稿本に分類[116]されるものには(原則レプケの略称をもちいると)次のものが含まれる:P1P2P3P4P5の各本、すなわちパリのフランス国立図書館(BnF)蔵 français 2495写本[注 49]、 25529写本[注 50]、1598写本; BnF蔵 nouvelles acquisitions françaises 5094写本、10039写本[注 51]; くわえて L1L2L3の各本、すなわちロンドン・大英図書館蔵 Royal 15 E vi 写本(タルボット・シュルーズベリの書)[注 52] at fol. 43r-69v[117]、ランズダウン写本集782写本[注 53] 、Add 35289写本(旧 Ashburnham 写本)[注 54] が含まれる[116]。
さらに B 断片は、ベルリン州立図書館蔵 Gall. qu. 48 写本;Br断片はブリュッセルのKBR蔵 IV 621 (1)写本; C 断片は、クレルモン=フェラン市のピュイ=ド=ドーム県立公文書館蔵写本[注 55][注 48]; Ch本はかつてチェルトナムにあったゆえの略称だが現在はコロニー (ジュネーヴ州)のボドマー図書館に移管(デジタル版あり[118]); E 断片は エアフルト大学図書館蔵; R本はローマ・バチカン図書館 Reginensi latini, 1360(だが、同バチカン図書館にPalatini latini, 1971, V という別の稿本も見つかっている[120])[116]。
そしてフランコ・イタリア語の翻案(フランス語: remaniement; イタリア語: rifacimento)である、イタリア題名『アスプラモンテの歌(Cantari d'Aspramonte)』の稿本に分類されるのは[121]、レプケのいうV1V2 ら各本[113]、すなわちヴェネツィア国立マルチャーナ図書館蔵 fr. 225写本(旧IV 写本)および fr. 226写本写本(旧VI 写本)[121][注 56]。レプケのF断片(1葉)は、フィレンツェ国立図書館蔵 cl. IV, Nr. 932 写本であるが、こちらの分類で、P3 本も重複でこちらにも[121]両方に分類されている。またCha = シャンティイ市・同城付属コンデ美術館図書館蔵 470 写本も追加されている[124]。
受容
『アスプルモンの歌』は、(フランス語が公用語で通じたプランタジネット朝の)イングランドで格別な人気があり、それはアングロ=ノルマン語で書かれた写本が多く現存したことからもあきらかである[125][注 57]。
翻案
イタリアでは、アンドレア・ダ・バルベリーノ[注 58]によって14世紀末(1400年頃)、『アスプラモンテ』(L'Aspramonte)の題でイタリア語散文に翻訳・翻案された[130][114][注 59]。このバージョンは広く読まれ、後のイタリア語圏の作品(『モルガンテ』『恋するオルランド』『狂えるオルランド』など)に影響を与えたとみられている。
またスカンジナビアでも、この武勲詩をいわゆる『偽テュルパン年代記』と強引にはぎ合せて、『カルル大王のサガ』の第4枝篇(「Af Agulando konungi」[131])をこしらえあげた[132][114][注 60]。そのひづみで、アスプルモンのある場所を、原作通りイタリアのカラブリア州にはできず、スペインに所在したことになってしまっている[134][135]。サガがラテン語『偽テュルパン』から取り入れた部分は前部(18章まで)にとどまり、すなわちアゴランドゥスとの戦闘までは記述するが、アゴランドゥスが死んだという記述は省く[136]。サガは原典をいきなり切り替え、今度は『アスプルモンの歌』の1/3進んだあたり以降を元ネタとして訳出を始める[136][132]。よってアゴランドゥスの息子(ヤムンド Jamundr)というのは(『偽テュルパン』には無く)『歌』より注入されたキャラクターである[132][注 61]。