カラジャン
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概要
出自
カラジャンは元朝最後のカアンのトゴン・テムル(ウカアト・カアン)の治世前半の宰相として名高いトクトの息子であった[1]。
『庚申外史』によると、トクトが甘州に赴任していた頃、カラジャンは京師に留まってウカアト・カアンの皇太子のアユルシリダラの遊び相手となり、両者は親密な間柄であったという[1][2]。そのため、『庚申外史』にはカラジャンがウカアト・カアンとアユルシリダラ父子の側近として信頼・重用されていた逸話が残されている[2]。
ある日、ウカアト・カアンと奇皇后(アユルシリダラの生母)が偏殿に座していた時、偏殿の外でアユルシリダラはカラジャンに背負われ、老鴉の声真似をする遊びをしていた[3]。しかし、今度はアユルシリダラが入れ替わってカラジャンを背負おうとすると、カラジャンは跪いて「奴婢である私を、長たる皇太子に背負わせるようなことはできません」と述べ従わなかったため、怒ったアユルシリダラはカラジャンを鞭討った[3]。やがてカラジャンの泣き声がウカアト・カアンに聞こえてきたため、事情を聞いたウカアト・カアンは「賢い子である」と讃えたという[3]。
その後、甘州から戻ったトクトは夕暮れに京師に到着したため、ウカアト・カアンに謁見しないままでいたが、たまたま奇皇后がこれを先に知った[3]。そこで奇皇后はカラジャンを呼び出し、「汝は父のトクトのことを思っているか?」と問うた所、カラジャンは「父のことを思っております」と答えた[3]。これを受けてウカアト・カアンも「トクトは今どこにいるのだろうか。汝もトクトに見えたいか?」と述べたところ、奇皇后は既にトクトが戻っていることを明かし、翌日にトクトは丞相に任命されたという[3][4]。
トクト一族の失脚からの復権
ウカアト・カアンから重用されていたトクトであったが、大権を一身に集めたために周囲の者の猜疑心を招き、1354年(至正14年)にハマの讒言を受けて失脚した[3]。これに連座して長男のカラジャンは粛州に、次男のサンバオヌは蘭州に、それぞれ左遷された[5][6]。7年後の1362年(至正22年)に至ってトクトの名誉回復がなされ、カラジャンも召し戻されて中書参知政事に任命され、また申国公に封ぜられた[7][1][6]。
以後、『元史』宰相年表によると1365年(至正25年)には中書左丞とされ、1367年(至正27年)11月には「頭平章(Aqalaqu binǰang)」に任命されて大同路に赴任し、明朝が建国される1368年(至正28年/洪武元年)まで平章の地位にあったという[8][1]。また、1365年(至正25年)からは知枢密院事も兼ねており[9]、元末の重臣であった[1]。
大都の放棄・北遷
1368年(至正28年/洪武元年)9月、ウカアト・カアンは大都を放棄して北上し、応昌に至った所で死去したが、この間の経過については『北巡私記』という史料に詳しい[10]。『北巡私記』の著者の劉佶はカラジャンと親しく、このため『北巡私記』中でカラジャンの動向について詳しく触れられている[11]。
1368年7月28日、ウカアト・カアンは明軍の接近への対処を群臣を図った所、ほとんどの者は大都を放棄して上都に遷都することに同意したが、カラジャンのみはこれに強く反対したという[12]。この議論の中で、カラジャンはかつて金の宣宗が中都から開封府に遷都した(貞祐の南遷)結果、永久に河北を失った故事を引き、今大都を放棄すればこれを維持することはできないと主張した[12]。その上で、大都に残留して援護の兵を待つべきであると論じたが、ウカアト・カアンは「イェスは既に敗れ、ココ・テムルは遠く太原府にいるというのに、どこの援兵を待つというのだ」と述べ、結局は大都を放棄することに決まった[12]。劉佶が退出したカラジャンに議論の顛末を尋ねた所、カラジャンはただ痛哭するのみであったという[12]。また、カラジャンはその夜ウカアト・カアン一行が大都を離れることも明かし、これを受けて劉佶はカラジャンに従ってウカアト・カアンの北上に同行することを決めた[13][12]。
かくしてカラジャン・劉佶らを含むウカアト・カアンの一行は大都を離れて北上を始めたが、8月1日にカラジャンは再びココ・テムルを援兵として召し戻すことを上奏し、認められている[12]。カラジャンは援兵を得られなければ事態を打開できないと考えていたようで、8月18日に劉佶がカラジャンに今後の方策を尋ねた時、「できることはなにもない」と答えている[14][12]。また、9月6日には明軍接近の報を受けてカラコルムまで逃れることをウカアト・カアンに勧めているが、ウカアト・カアンが決断できないでいるまま、明軍接近が誤報であると分かったたため、この件は沙汰止みとなった[15][16]。
年が明けた1369年(至正29年/洪武2年)正月1日、カラジャンは劉佶に「亡国の臣がどうして国土の恢復を図ることができようか。我らは『西北諸藩』と共にこの事業を図るべきである」と語った[12]。これを受けて劉佶はどうして早くその計略を実行しないのかと問うたところ、カラジャンは「アルグ王の事(阿魯輝王之事)」が問題であると答えたという[12]。「アルグ王の事(阿魯輝王之事)」とは恐らく1361年(至元21年)に王族のアルグ・テムルがイルティシュ川で叛乱を起こした事を指し、カラジャンはウカアト・カアンがアルグ・テムルの叛乱を受けて、西北方面の王族を叛乱分子と見て信頼していないことを慮っていたようである[17]。果たして、同月6日に平章政事の李百家奴も西北諸藩に援護を請う事を提案しているが、ウカアト・カアンには受け入れられなかった[18][17]。
またこれより先、監察御史の徐敬熙が「酒を戒めること」「宮掖に政治に干渉させないこと」「宰相は賢者を選ぶこと」などからなる十事を上奏していたが、これに背くように2月1日に酒を好むサルバンが中書平章政事に任命された[19]。2月22日、劉佶に会ったカラジャンは高麗婢(=奇皇后)とサルバンを批判しており、サルバンの任命は奇皇后の意によるもので、徐敬熙やカラジャンはこれに批判的であったようである[20][19]。
同年6月5日には大都奪還のため派遣されたイェスが常遇春率いる明軍に大敗し、同月9日には平章政事の李百家奴が死去し、同日にカラジャンが開府儀同三司の地位を加えられ、徐国公に封ぜられた[21]。前述の通り李百家奴とカラジャンは「西北諸藩」の助けを請うべきであるという点で意見を同じくしており、イェス軍の大敗という情勢を受け、この時ウカアト・カアンは李百家奴・カラジャンの意見を採用することを決意したのではないかと考えられている[21]。同年9月6日にはカラジャンは太保に任命され、固辞するも許されなかったという[22][23]。この記事を以て『北巡私記』中でのカラジャンについての言及は終わる[23]。
ビリクト・ハーンの治世
1370年(至正30年/洪武3年)5月にウカアト・カアンが応昌で死去すると、皇太子アユルシリダラがビリクト・ハーンとして即位した[24]。前述の通りカラジャンはアユルシリダラと親しい間柄であり、ビリクト・ハーンの治世下でそれまで以上に重用されることとなる[24]。
1372年(宣光2年/洪武5年)、大軍を編成した明軍は三手に別れてモンゴル高原に北上し、李文忠率いる部隊はヘルレン川流域まで進出した[25]。ここまでモンゴルの部落は李文忠軍を恐れて逃れるばかりであったため、李文忠は更にトーラ川まで進出したところ、この方面にはマンジとカラジャンが待ち構えていた[25]。李文忠軍の接近を知ったカラジャンらは敢えて渡河して陣を構築し待ち構え、数度戦うと退却してアルグン川まで逃れた[25]。李文忠軍はこれを追撃したものの、ここでモンゴル軍は援兵を得て数を増やし、激戦の末李文忠自身も負傷して敗走した[26][25]。
これより先、徐達率いる部隊もココ・テムル率いる軍団に敗れており、一連の戦役の敗北によって洪武帝は以後20年近くモンゴル高原に本格的な出兵を行わなくなる。「カラコルム(西北)方面の勢力と協力し」「ココ・テムルと合流して」明軍に当たるというのは『北巡私記』中でカラジャンが劉佶に語っていた計略そのものであり、この戦役においてカラジャンが果たした役割は大きいと評される[24]。
1373年(宣光3年/洪武6年)の高麗の記録では「中書省太師闊闊帖木児(ココ・テムル)・太保哈剌章(カラジャン)・太尉蛮子(マンジ)」の名が挙げられており[27]、カラジャンがココ・テムルに次ぐビリクト・ハーン政権のNo.2として位置付けられていたことが窺える[25]。
1378年(宣光8年/洪武11年)4月にはビリクト・ハーンが死去し、弟のウスハル・ハーンが地位を継承した[28]。この年末の12月に洪武帝はビリクト・ハーンの遺臣達に投降するよう勧める詔を下しているが、その中では「故元丞相哈剌章(カラジャン)」が筆頭で名を挙げられている[29]。これによって、ココ・テムル死後の北元においてカラジャンが臣下筆頭の地位にあったことが分かる[28]。
ウスハル・ハーンの治世
ウスハル・ハーンの治世下でも、カラジャンは「太師右丞相」として引き続き重用されていたようである[1]。しかし、1387年(天元9年/法武20年)にはムカリの子孫で遼東方面を支配していたナガチュが食料不足から明朝に降るという事件が起き、北元の支配体制は動揺した。同年11月には「元丞相のカラジャンとダイル・ブカがカラコルム(和林)に入った」との報告があり、これを受けて明将の藍玉はこれを討伐することを請うている[30]。
そして1388年(天元10年/洪武21年)、藍玉率いる遠征軍がブイル・ノールに滞在していたウスハル・ハーンの陣営を急襲し、ウスハル・ハーンは大敗を喫して西方に逃れた(ブイル・ノールの戦い)。この時、ブイル・ノール付近にあったカラジャンの陣営も攻撃を受け、軍士15,803戸・馬驢48,150匹が明軍によって捕らえられたという[31]。これによってカラジャンの息子の玉出忽児禿哈も捕虜になったようで、後に洪武帝より下賜を受けた記録が残る[32][33]。敗走したウスハル・ハーンはオイラトの支援を受けたイェスデルによって殺され、イェスデルがジョリクト・ハーンとして即位した。以後、モンゴルは内乱状態に陥ったようでカラジャンの動向も史料上で見られなくなる。1390年(洪武23年)正月には、「カラジャンの甥」の迭里帖木児が、灤河より明に降ったとの記録がある[34]。これを最後にカラジャンに関する記録は史料上に見られなくなる。
14世紀初頭、モンゴルでは「アストのアルクタイ太師(Asud-un Aruγtai tayiši)」と呼ばれる人物が登場し、ハーンを傀儡としてモンゴルの事実上の指導者となった。アルクタイの兄妹はブイル・ノールの戦いで補虜になったとの記録があり、アルクタイの一族はウスハル・ハーンに直属していた事が分かる。また、カラジャンの伯祖父のバヤンがアスト軍団を率いていたこと、アルクタイはフルンボイル地方を本拠地としていたことなどから、アルクタイはまさにカラジャンの配下であったアスト軍団から出て成り上がった人物と考えられている。