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キートン山田

日本の元声優、ナレーター (1945-) From Wikipedia, the free encyclopedia

キートン 山田(キートン やまだ、1945年〈昭和20年〉10月25日[3][11][12][13] - )は、日本の元声優、俳優、ナレーター[8]。北海道空知郡北村(現在の岩見沢市)出身。本名および旧芸名は山田 俊司(やまだ しゅんじ)[1][3][4]。最終所属はリマックス[9]。

本名 山田 俊司(やまだ しゅんじ)[1][2][3][4][5]
性別 男性
概要 きーとんやまだキートン山田, プロフィール ...
きーとんやまだ
キートン山田
プロフィール
本名 山田 俊司(やまだ しゅんじ)[1][2][3][4][5]
性別 男性
出生地 日本の旗 日本・北海道空知郡北村(現在の岩見沢市)[5]
出身地 日本の旗 日本・北海道勇払郡穂別町(現在のむかわ町)[5]、三笠市[6]
生年月日 (1945-10-25) 1945年10月25日(80歳)
血液型 A型[7]
職業 声優、俳優、ナレーター[8]
事務所 リマックス(最終所属)[9]
配偶者 あり
公式サイト キートン山田|+-- REMAX --+(アーカイブ)
公称サイズ(時期不明)[7]
身長 / 体重 176 cm / ― kg
スリーサイズ 95 - 82 - 89 cm
靴のサイズ 26.5 cm
声優活動
活動期間 1970年代 - 2021年
ジャンル アニメ、吹き替え、ナレーション、CM
デビュー作 タイガーマスク[10]
俳優活動
ジャンル テレビドラマ、舞台
声優:テンプレート | プロジェクト | カテゴリ
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経歴

生い立ち

1945年、北海道空知郡北村(現在の岩見沢市)で誕生し、4歳で養子になり勇払郡穂別町(現在のむかわ町)に引っ越す[5]。一時生家に戻った後、中学3年生で三笠市に移住[5][6]。

子供の頃は無口で、人と話すのが苦手で思ったことを口に出せないタイプだった[10]。当時は自動車が少なかったことから「トラックの運転手になりたい」、また「野球の選手になりたい」など夢はコロコロ変わっていたものの、「役者をやろう」と思っていなかった[4]。学芸会には一回出たっきりで、演劇部に所属していたこともなかった[4]。歌を唄ったりするのが好きだった一方で、芝居は考えていなかったという[4]。

声優・俳優になるまで

1963年に北海道三笠高等学校卒業[14]後、就職のため上京、建設会社に就職しサラリーマン生活を始める[10][15][16][17][18]。しかし、前述の性格から、会社に入社後、お得意さんと会うのも、人とのコミュニケーションも苦手だった[10]。その時に「一生この会社にいるのかな?」と思い、「ほかに何か自分に向いている道があるのでは」と半年くらい考えていたという[10][15][16]。同時に「劇団員募集」の広告を見つけて、憧れだった俳優も目指して日本児童芸能学園を経て[4]、劇団日本児童[19][20]に入る[10][15][16]。子供の頃に映画を観て「面白いな」と思っていたことはあったが、前述の通り、「役者になるんだ」という強い意志は持っていなかったという[16]。もしそこで入団オーディションに落選していたら、断念していたと語っている[16]。当時は積極性がなく、どきどきしながら応募しており入団OKの返事がきていたところまたどきどきしていたため結果、「入団しても何もできない。でも1年間は通う」と決める[10]。

キャリア

俳優として

1年でその劇団を退団したが、先輩の紹介で所属していた劇団ではCMの仕事が次々に舞い込んでいた[10]。インスタントラーメンやビール、全国展開していた大手小売チェーンのCMにも出演しており、当時の4畳半の家賃が1か月4500円だったが、CM出演料は6000円だった[10]。

サラリーマンと俳優の掛け持ちを4年間続けた後、22歳くらいの時に退職して役者に専念するようになる[15][16]。それまで昼間は会社、夜は劇団という生活を続けてきたという[16]。しかし劇団の公演があると夜だけの活動というわけにはいけず、その時は会社を休んだり、誰かに仕事を代わってもらったりしていたという[16]。そういうことも次第にしづらくなっていたため、思い切って退職したという[16]。退職金を12万貰ったが、ちょうどその時に父が病気で入院して、12万のうち10万を父に送り、残りでアパートを借りていた[4]。その後三ヶ月の失業保険もなくなり、すぐに役者の方の仕事が入るわけではなく、収入源がないことからアルバイトを転々としていた[4]。当時は運転手、スナックのバーテンダー、倉庫番など色々なアルバイトをしていた[4]。声優になった後もアルバイトは4年ぐらい続けており、午前中にアルバイトをして、午後からアフレコに行っていたこともあった[4]。当時については「親にはものすごく猛反対され、黙って会社を退職してしまったため、僕を連れ戻すために伯父が上京してきたくらいだった」と語っている[16]。しかし辞める気はなく、夢に破れて地元に帰って「ほら見たことか」と言われるのが悔しく、「とにかく一人前の役者になろう」と余計にのめり込んでいたという[16]。

声優として

アルバイトをしながら役者生活をしていた中、アルバイト先のスナックの店主と知り合いで常連だった柴田秀勝から「声専門のプロダクションができるから」と紹介され、創立したばかりの青二プロダクションに預かりで所属となった[10][15][16][17][18]。所属事務所はその後、ぷろだくしょんバオバブ[21][22]→賢プロダクション[3][13]→リマックスと変遷。バオバブ所属者の劇団であるすごろくにも所属していた[23]。第二次アニメブームの昭和50年代(1970年代後半から1980年代前半)には声優業が中心になり、一番ファンの人に知られたのは『ゲッターロボ』の神隼人の役だと雑誌のインタビューで答えている[4]。その後、青二プロダクションを退所し[2]、アニメブームの終息と共に声優の仕事もなくなり[17][18]、妻からも転職を促され[24]、安全なサラリーマン生活に戻ろうかとも考えたこともあった[25]。生活のために日雇いのバイトや封筒貼りの内職などをしたが、それでも3人の子供を養いながらローン返済をすることは難しかったため、事務所や親族から借金をしていた[10][26]。また、電車賃を浮かすために当時住んでいた千葉県松戸市からスタジオのある浅草まで、徒歩で移動していたこともあった[27][25]。「カラオケの司会の仕事が一番つらかった。食べていくためには何でもやった。勉強になり無駄になってない」と辛かった当時のことを回想している[25]。

デビューから10数年間は本名の山田俊司で出演していたが、声優の仕事がほぼなくなっていた時期に1時間番組のナレーションの仕事を受けた際に、「本格的なナレーションの経験はないが、ありのままの自分で仕事に臨む」という思いのもと[26]、改名を決意[2][28]。当初はプロダクションから「仕事に影響する」との理由で反対を受けたが、アルバイトや内職を全て辞め背水の陣を敷き裸一貫出直す覚悟[27]で1983年に[24][11]芸名を「キートン山田」に改名[10][18][28][29]。芸名の由来は、当時読んだ本の影響で喜劇役者のバスター・キートンに肖ったもの[10][28][27]。その一方で、学生のころに「聞いとんのか、山田!」と先生から何度も注意されたのが印象的で、「聞いとんのか山田」を縮めてこの芸名にしたとも語っている[30]。名前からは、「誰も二枚目風の演技を想像しない」と思うことも狙いだったと述べている[2][28]。本人いわく、ナレーターの道を歩み始めたのはこの時から[26]。

1990年には、『ちびまる子ちゃん』のナレーションを担当[28]。当初は番宣だけで、本編は別のナレーターが担当する予定だった[31]。しかし、原作者のさくらももこは、ナレーターのキャスティングには納得がいっておらず選考は難航していた。そんな中、山田が番宣を吹き込んだテープが当時ニューヨークにいたさくらの元に送られ、「この声としゃべりが欲しかった」ということで本編も担当することになった[17][27]。本作でのナレーションが「キートン節」[27]と呼ばれ代名詞となり、代表作[26]に数えられるようになる。

その他の活動

声優活動の傍ら、1995年に創設した自らの劇団「劇団ふりぃすたいる」も主宰した。きっかけは、自身が講師を務める声優養成所で在校期間2年で卒業する生徒たちが、どこにも所属することができず、過去の自分の経験もあって何とかしたいという気持ちが膨らみ、生徒たちの中から団員を募り結成された[25]。ふりぃすたいるは創立20周年記念公演を終えた2015年5月をもって解散し、同年7月3日にマンモス八木と2人で「きぃとん劇場」を創立した[32]。

若いころから「できれば東京に住みたくない」という気持ちが強く、1999年には静岡県伊東市に家を構えて生活しており、仕事の度に東京などへ出かけている[10][11][33]。2006年頃から伊東市に住み始めて農作業をしている[29][34]。農作業の当初は岩だらけで畑になるような土地ではなかったため、土を作るところからしていたという[34]。

芸能活動以外にも、株式会社ペルソンが依頼代理となって講演活動も行っていた[11]。

引退まで

2014年、第8回声優アワード「功労賞」を受賞[35]。

2020年12月5日、2021年3月末日をもって声優業から引退することを発表[36]。同時に、『ちびまる子ちゃん』のナレーションも本人の申し出から2021年3月28日放送回で降板した。放送開始から31年だが、1992年9月から2年半は番組自体を中断していたので、担当期間は28年半である[37]。なお、同作品で共演するさくらももこ(まる子)役のTARAKOは発表される前から引退することを本人から聞いていたとTwitterにて明かしている[38]。『ちびまる子ちゃん』の降板については「75歳で『ちびまる子ちゃん』を卒業すると心の中で決めていた」と語っている[39]。2011年頃の65歳の時に同級生が定年を迎える年齢になり全員引退したが、山田は1人残り「お前いつまでやるんだ」、「一生やれていいな」と言われていた[10][17]。その時は、まだタイミングはなく、「自分はいつがいいのか」と考えていた[10][17][18]。『ちびまる子ちゃん』が30周年を迎えたことや上京時は東京オリンピックが開催されたことから、「今回もオリンピックがあって区切りがいい」と思ったこと[17][18][28]や75歳になり、今後のことも考え、「人生の後片づけを元気なうちにしよう」と思ったのが理由だという[10]。病気になり欠席が多くなったりすれば、周囲にも迷惑をかけてしまうことから「自分の生き方をしたい」というのがあった[10][17]。引退まで10年かけてきたため、心残りや一抹の寂しさというのもなく、後悔はなかった[10][17]。また、ナレーションを担当していた番組のうち、『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』は2020年12月26日放送回をもって[40]、『ポツンと一軒家』も2021年3月28日放送回をもってそれぞれ降板した[41]。

引退後は以前からしていた野菜作りに本格的に励んでいる[10][29][34]。

人物・エピソード

声種はバリトン[42]からテノール[4]。

元々主人公を周囲で支える脇役の演技に引かれていたという[2]。二枚目役が来たら引き受けていたが、演じても「性に合わないな」と思っていたという[2][17]。改名後、演技スタイルも変わり、周囲から何かを言われて演技を変えるのではなく、「自分らしさを貫こう、キートン山田としての芸風を押し通そう」と思ったという[2]。

『超電磁ロボ コン・バトラーV』の浪花十三役など、クールでニヒルな感じの役を演じることも多かったが、自分では少しわからなかったという[12]。ただし、クールな役を演じるのは、自分でも気に入っていた[12]。普段はあんな話し方はしないことから、映画を見たりして、「クールな男はどういうふうにしゃべるか」と研究したりしていたという[12]。

クールな悪役、アウトローの役など自分にないものをもっている役のほうが、演じて面白いという[2]。自分にはもっていないものを想像し、その役の魅力を自分らしく表現するというところに惹かれているという[2]。脇役のほうが、そういった表現したいものを出せる余地が多いため、演じていて楽しいと感じることが多いという[2]。

ナレーションを務めることが多く、特にアニメだけではどんどん新人に役を取られ、いずれ干されることを懸念し、ナレーションもできる声優に絶対になることを望んでいた。それに伴い、「自分らしいナレーション」を確立させるべく、旅番組の中で落語を採り入れる。ナレーターの仕事を選んだきっかけは『ドロロンえん魔くん』で30秒の次回予告を担当したり、『ゲッターロボ』内で予告編も毎週担当していたからだった[29]。その後、TBS系の『SFドラマ 猿の軍団』の出演時には「完全なナレーション担当」として呼ばれた[29]。これも予告だったが、やっていくうちに「面白いな」という気持ちはあった[29]。そのうちに先輩で番組のナレーションをしていた人物が出てくるようになり、「ああなれればいいな」という気持ちはあった[29]。バラエティ番組のナレーションでも活躍していたが、改名してから半年後にテレビ東京の『テレビあっとランダム』に起用されたのがきっかけだった[29]。ある人物がテープオーディションを聞いてそれのオファーが来た[29]。その時に偶々その人物がカセットテープを開いていた時に名前が目立ったようで「ちょっと面白い名前がある。キートン山田」と聴いてみたところ「いいじゃないか!」と思ったという[29]。『テレビあっとランダム』は、土曜21時からの放送の数時間前に収録に行ったが、当時はナレーションのやり方は習ってないことから大変だった[18][29]。原稿は手書きだったことから、読みづらい字で、それをコピーして、数時間後に生放送で流れていた[18][29]。間に合わない時は収録中に生でナレーションしていたことから相当鍛えられていた[18][29]。それがナレーター仕事の最初だったことから、きつかったという[18][29]。

初めてのレギュラーアニメ『一休さん』の上様こと将軍足利義満は、約7年かなり自由奔放に演じられた作品で、様々なアドリブにも挑戦できたという。「『一休さん』のおかげで、少しだけアニメの仕事に自信が持てた」とも語っている[43]。また将軍様の笑い声は、当初台本では「あっはっはっは……」と記述されていたが、外見や高貴な身分から不相応であったため、山田が「のっほっほっほっ…!」に差し替えた(中盤からは「のほほほほほ…」で概ね定着した)。

自身にとって転機となったのは『ちびまる子ちゃん』のナレーションだと述べている。キートン山田に改名してからは、自分らしい表現に試行錯誤していたが、その1つがナレーションだと語っている。できるだけ作らず自分らしくナレーションをしたらどうなるだろうとずっと考えたと言う。やはりどこかに無理をかけて作ったものは長続きできない、またそれまで色々な仕事を受けていたが、キートン山田として、ピッタリの仕事、代表作になるような仕事があるはずだと思っていたという。『ちびまる子ちゃん』の仕事が来た時「これだ」と感じ、決して無理をせず、しかし思いを込めたナレーションをするという望んでいた形の仕事ができたと述べている[44]。『ちびまる子ちゃん』での台詞「後半へつづく」はCMに入る際にちょっとした間があったので、第25話「まるちゃん学校でお腹が痛くなる」の巻でアドリブで入れたところ、スタッフ・キャスト・作者に思いのほか受けて採用された[31][27]。同作品では、基本的に演者のアドリブが認められていないため珍しいケースだが、場面切り替え時に「翌日」と入れたりイントネーションを工夫したりするなどしている[26]。また、『ちびまる子ちゃん』ではナレーションだけではなく、本人役として登場したことが何度かある[45]。

2006年10月、自分が講師を務めていた声優学校の学生として知り合った、当時29歳のストリートミュージシャンをしていた女性と再婚した[46]。32歳差の年の差婚である。

趣味はマラソン。59歳の時にホノルルマラソンに初参加[33]し、以降も5回参加・完走しており、他のマラソン大会にも多数出場している[47][11]。

関東周辺に住む北海道三笠市出身者の集まり「東京三笠会」の会員である。「東京三笠会」が母体となり、三笠の文化・芸術・スポーツの振興を図るための活動を行う団体「ふるさと楽校」の代表代行を務めている[6][48]。

その他の家族に6人の孫がいる[28][18]。

後任

山田の引退後、持ち役を引き継いだのは以下の通り。

さらに見る 後任, 役名 ...
後任役名作品後任の初出演備考
緒方賢一ナレーション『ポツンと一軒家』2021年4月4日放送分
木村匡也『ちびまる子ちゃん』[注 1]
津田健次郎『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』2021年6月5日放送分
宇垣秀成ジャマイカン・ダニンガン『機動戦士Ζガンダム』『機動戦士ガンダム U.C. ENGAGE』
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出演

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ

1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1994年
1995年
  • ぼのぼの(フェネックギツネくんのお父さん)
1998年
1999年
2000年
2001年
2004年
2005年
2008年

劇場アニメ

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代

OVA

1980年代
1990年代
2000年代

ゲーム

1991年
1993年
  • サイボーグ009(004 / アルベルト・ハインリヒ)
  • スタートリング・オデッセイ(ベルン・セルシアム)
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2007年
2008年
2009年
2011年
2013年
2015年
2019年
2021年
2025年

ドラマCD

  • テレビアニメーション ドラマシリーズ デビルマン(入郎)
  • ゲッターロボVSゲッターロボG(神隼人)
  • ここはグリーンウッド 〜FM特番「緑林お騒がせ!放送局」〜(編成局長)

吹き替え

映画

ドラマ

特撮

人形劇

オーディオブック

  • 銀河英雄伝説 外伝 ユリアンのイゼルローン日記(アレックス・キャゼルヌ)

ナレーション

テレビドラマ

テレビ番組

映画

CM

※注記がないCMはすべてテレビCMのナレーション。企業広告のキャッチフレーズは二重カギカッコで表記した。

ほか

その他コンテンツ

歌

  • えかきうたムーミン
作詞:丘灯至夫 歌:山田俊司、増山江威子、はせさん治、北川国彦、野村道子

作品

シングルCD

  • まっすぐの煙(2003年10月25日)
  • 羊の数だけ抱きしめて(2009年7月15日)羊の数を数えるCD

脚注

外部リンク

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