柴田秀勝

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本名 柴田 秀勝[1][注 1]
愛称 柴ちゃん[3]
性別 男性
出身地 日本の旗 日本東京市下谷区浅草田原町[4](現:東京都台東区浅草)
しばた ひでかつ
柴田 秀勝
柴田秀勝(カナダのトロントで行われたアニメノース2014における、もみじアワード授与式にて)
柴田秀勝
カナダトロントで行われたアニメノース2014における、もみじアワード授与式にて)
プロフィール
本名 柴田 秀勝[1][注 1]
愛称 柴ちゃん[3]
性別 男性
出身地 日本の旗 日本東京市下谷区浅草田原町[4](現:東京都台東区浅草)
生年月日 (1937-03-25) 1937年3月25日(89歳)
血液型 O型[5]
職業 声優俳優ナレーター[6]
事務所 RME[7]
配偶者 関根明子[8]
(2025年死別)
公式サイト 柴田秀勝HP・カクタス
公称サイズ(時期不明)[9]
身長 / 体重 172[5] cm / 70 kg
声優活動
活動期間 1963年[10] -
ジャンル アニメゲーム吹き替えナレーション
デビュー作狼少年ケン[10][11]
俳優活動
活動期間 1957年 -
ジャンル テレビドラマ
デビュー作 犯人
ダイヤル110番
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柴田 秀勝(しばた ひでかつ、1937年昭和12年〉3月25日[1][12][13][4][注 2] - )は、日本声優俳優ナレーター[6]演出家東京都台東区浅草田原町出身[4]RME所属で[7]、同社の代表取締役会長[18]。妻は声優の関根明子[8]

生い立ち

1937年、東京府東京市下谷区浅草田原町(現:東京都台東区浅草)で経師屋の息子として生まれる[19]。父は表具師だった[13]。当時は襖や屏風、掛け軸の表装の仕事がたくさんあり、生活も豊かで、「下町の貴族」のような生活を送っていたという[13]。4 - 5歳の頃から近所の映画館へ遊びに行き、清水金一榎本健一を観て育つ[20]

小学3年生の時に東京都港区愛宕愛宕山に転居[13]。転居してから間もない頃のある日に学校の前で分かれていた兄が、神隠しにでもあったように姿を消してしまった[13]。それ以来、何ひとつ消息がつかめていないという[13]

前述の兄の突然の行方不明が、強烈なショックを与えていたことから、小さい頃から吃音症により、た行がうまく言えず、そこで詰まっていた[13][2][20][21][22]。それを治そうと、小学校時代の担任の教師が、国語の授業に力を入れてくれて、何回も指名して皆の前で読ませたりして、訓練してくれたという[2][23]。その一つとして、演劇を教えてくれたという[2]。中学、高校進学後も相変わらず治らなかったが、演劇には興味を持っていたため、続けてはいたという[2]

当初目標としていたのは歌手だった[23]。当時は教師も色々調べてくれて、ある日「吃音症は歌うと、どもらないと云われているから試してみろ」と言われ、試してみたところどもらず、当初は歌手になろうと決意した[20][23][24]。歌の世界を目指してラジオののど自慢番組に出場したが、結果は鐘2つで落選[23][24][25]。その時に「あ、俺には才能がないな」と歌を断念した[23][25]。その後教師から卒業前に、「歌がダメなら、歌舞伎をやれ。歌舞伎の台詞は“歌うが如く”だ」とアドバイスを受け、歌舞伎の世界を目指したという[23][24][25]

西桜小学校卒業[4]。当時は天童と呼ばれていたが、中学校に入ると「ビリから三番目」になったとのこと[4]

麻布中学校・高等学校卒業[4][19][26]。中学時代で最初に出演していた舞台は『同志の人々』[25]。当時はこれに出演してもらうために、十七代目 中村勘三郎に中学生が一升瓶持って「よろしくお願いいたします」とご挨拶に行っていたという[25]。勘三郎からは「面白いヤツだ」と思われたようで、その後も良くしてくれた[25]。中学時代はバス通学をしていたが、当時は車掌に行き先を伝えて切符を買うという規則であり、吃音症から家のある虎ノ門(とらのもん)が言えず、次駅の田町駅(たまち)も言えなかったため、その次駅である新橋駅まで乗って、毎日二駅歩いて戻ってきていた[21]。そのため、た行が言えるように克服するため、高校の頃に演劇部に入部した[21]。男子校だったため、女役には困っており、女子校の演劇部を駆けずり回り、女生徒を借りてきたという[13]。「歌舞伎独特の“七五調”の台詞を、ゆっくりと声高らかに発声していけば、言葉の問題も解消するのではないか」と考えたことからそれまでのクラブの伝統を破り、歌舞伎を上演することを思いつき、初めて女形の経験もしていた[13]。中学、高校時代と歌舞伎を続けて、「さて、大学をどこにしようか」と考えていたところ、当時は歌舞伎を勉強できる大学は学習院大学早稲田大学日本大学芸術学部と3つしかなかった[23][24][25]。そこで、先生に「歌えば言葉はつかえない。歌舞伎の台詞は歌うようなリズムがあるから、演劇が好きなら歌舞伎を勉強できる日本大学芸術学部に行ってみたら」と言われ、日本大学芸術学部演劇科に進学する[21][19][22]。国劇研究会で歌舞伎を専攻し、坂東秀調の指導を受ける[4]。江戸文学から始まり、理論の勉強をしており、4年間は歌舞伎の勉強をしていた[23]。年に一回の学内発表会と卒業公演を目指して、授業が終えてから稽古をしていた[23]

大学4年生になり、歌舞伎の世界へと就職するつもりだった[24]。日本大学芸術学部の卒業公演では『勧進帳』を出演[25]。その時は衣装も、二代目尾上松緑のものをそのまま使わせてもらっていたことから、松竹全面協力でスタッフは全員が松竹から派遣されてきていたという[25]。松竹創業者で当時会長だった大谷竹次郎が「このままでは歌舞伎の世界はだめになる、新しい風を入れなければいけない」、「学生から歌舞伎役者を輩出しよう」と柴田らの3年先輩くらいから学士俳優を求めていた[23][25]。柴田も関西歌舞伎の具体的な目標を持って練習しており、日本大学芸術学部卒業後、関西歌舞伎に就職することになったという[23][25]

キャリア

俳優として

大学卒業後、前述の通り関西歌舞伎に就職が決まっていたが倒産し、失業[4][21][23][24][25]。意気消沈して新宿ゴールデン街を歩いていて見つけた売り店舗を購入[4][19]1958年4月にスタンドバーを開店させ[19]、同年に俳優活動を開始する[27][13][21]新東宝からハンサムタワーズの第二期生としてデビュー[4][28]。当時は端役ばかりであったという[13]テアトル・エコーへの入団を希望するも不合格[28]。1959年頃、東宝演劇部で立ち上げた俳優養成所を受けようかとも思ったが、応募者が殺到して狭き門になっていたという[28]1960年、テレビドラマ『熱血カクタス』で主役のカクタス役を演じる[2][13][29][30](なお、当時これを紹介した雑誌記事に芸名を「柴田勝彦」と記したものがあった[4]が、これは誤りである[31])。その時は言葉の不自由は感じていなかった[2]。『熱血カクタス』に出演中に偶々共演していた菅原文太に誘われてモデルクラブのSOSに所属していた[13]。業界好景気の折でもあり、男性ファッションモデルとして大いに稼ぎ、経済的にかなり潤っていたという[8][13]。次に出演していた1961年の『特別機動捜査隊』では小杉刑事役で出演していた[13][30]が、警視庁の中にいる場面が多く、かかってきた電話を取って「はい、こちら特捜隊」と言う台詞があったが、柴田は前述のとおりた行が駄目であったため、「はい、こちら」までしか言えなかった。『特別機動捜査隊』の共演者たちは柴田が吃音持ちだということは知らず、「アフレコが合わない」と思っていた[2]。現場では「特捜隊」とまで言えずとも、「はい、こちら……‥」でもOKが出ていた。しかしアフレコではそういうわけにもいかず、最高でそこだけ30回以上もリテイクしていたこともあり、「『こちら』と『特捜隊』を別々に撮って繋げてくれないか」とお願いしようかと思ったぐらいであった。そんな状態だったことから、声優になれるとは想像もしておらず、た行のないセリフはまずないことから「あんなものはできるワケがない」と思っていた[2]。当時は警視庁協力ということで規制が多く、柴田の刑事役はガラが悪いということで、刑事をクビになり、それで刑事くずれの柴田記者役に変わったが、柴田記者を演じている頃には言語障害であることを忘れてしまった[13][2][30]。当時の柴田は「生活感が表現できる役者になりたい」という理想を持っていたが、実際は生活感のある演技ができず、実写俳優の仕事をしていく中で「これ以上、役者(実写俳優)を続けるのは無理だ」と悩むようになる[32]

声優として

東映動画のプロデューサーだった籏野義文からの依頼で1963年に『狼少年ケン』で初めてアニメに出演[10][11]。しかし、この時は慣れておらず、「君は声優に向かない」と言われて、柴田は「本当にやめよう」と思ったという[11]

その後、大学時代の同級生で歌舞伎仲間だった久保進(後の青二プロダクション会長)に「声専門のプロダクションを始めたいから、いっそのこと声優の専門家にならないか。」と言われ、声優になる[21][33][16]。SOS[4]松竹[4]太平洋テレビ[4][26]、劇団未来劇場[4][26]東京俳優生活協同組合[4][26]、TAP[4]の所属を経て、1969年、久保らと共に青二プロダクションを設立[8][13][26][34]。「新会社の立ち上げに力を貸してほしい」ということで、大学時代の同級生でテアトル・エコーのマネージャーだった黒田洋を招き入れた[13][28]。結成1年後、黒田が営業部長として加わって、この3人の役員でスクラムを組み、青二プロダクションを発展させていった[13]

声優の本格デビュー作は同年放送の『タイガーマスク』のミスターX役だが[33]、当時は、「声優をやるぞ」という気持ちにはなっていたものの、実写の仕事にも未練があり、ちょろちょろとそちらの仕事にも色気を出していた[35]。社長からは「ミスターXは『タイガーめ……』と言ってるだけで良いんだからとにかくやってみてくれ」と言われたが、吃音症でた行の音が出せないことから、その「タイガーめ……」という台詞が言えなかった[23][35]。「さてどうしよう」と思った時に、フッと解決策を思い付き、試しに含み笑いで演じたところ、リズムに乗れたからか、た行で詰まる癖を克服できた[21][23][35]。それからは精神的にも余裕ができ、どんな役がきても大丈夫とのことで、ナレーションの仕事も受けるようになった[21]。その後、松本零士と『タイガーマスク』で監督を務めていた勝間田具治とでトークショーをした際、勝間田から「今、タイガーマスク新作の企画に携わっている」と教えてもらい、そこでもミスターXが登場するということで、「その役は人には渡せねぇよ」とその場で勝間田に直談判し、『タイガーマスクW』でも再びミスターX役を演じることになった[35]

特に声優を意識したのは『タイガーマスク』が終わり『マジンガーZ』に入った頃である[2]。ある日突然、女の子から手紙が届いて「あれ、ボクが声をやってることがよくわかったなあ」、と思ったのがキッカケであったと語る[2]。ふっと気が付いてみたところ、柴田以上に井上真樹夫などが3〜5通ぐらいの手紙を貰っていた[2]。その時に「オイ、ちょっと、オレたちに、ファンレターが来たよ(笑)。」、「ホントだってばあ〜(笑)。」とそんな状態が半年ぐらい続いていた[2]。青二プロダクションは正月5日が初出社の日であるが、朝、会社に行ったところ、入り口にダンボール箱が積まれており、入れなかった[2]。「このダンボールは何か」と聞いていたところ、「年賀状だ」と言われた[2]。「年賀状っていったって、こんなダンボール箱に」「とにかくあるのなんの」と思い見ていた[2]

その年に九段会館で記念公演の『青二十周年記念公演』をしており、その時に月刊OUTに声をかけていたところ、「喜んで応援しましょう」ということで、お金は出してくれなかったが協力してくれた[2]。当初、ある雑誌に電話をしていたところ、「広告としてなら、載せましょう」という返事で「こちらもお金がなかったですから、それなら結構です」ということになった[2]。それで、OUTに電話をしていたところ、「明日伺います」と言う返事だったため、「ボクらはきっと、OUTさんも広告扱いなのかなあ」と思い、ビクビクしていた[2]。そうしていたところ、出来上がった台本の写真をとったりして、一所懸命してくれた[2]。それで、お金のことは何も言わないため、「これは、きっとタダなんだ」と思い、ホッとしていた[2]。その後も、お金の話が出なかったため、皆で「とぼけちゃお」と言っていたという[2]。その他にも当時、ニッポン放送にいた上野修にも、声優の舞台公演をするというのは初めてのことであったことから御相談にいっていた[2]。その時、上野もアドバイスなど色々協力してくれたという[2]

ドキュメンタリー映画のナレーションで、第28回国際産業映画・ビデオ祭 文部大臣賞、第29回国際産業映画・ビデオ祭 通商産業大臣賞を受賞している[36]

2004年RME株式会社を設立し、代表取締役会長に就任[18]。新人・後輩声優の育成に力を注いでいる[36]

現在まで

2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第13位に選ばれる[37]

2020年4月1日、妻の関根明子とともに、創設時より所属していた青二プロダクションからRMEに所属事務所を移籍した[38]。 2025年8月1日に妻の関根明子が癌のため死去。前後では妻の看病のために出演していた『ONE PIECE』のドラゴン役を途中降板。後任には若いドラゴン役で出演している井上和彦が若い頃を含め引き継いだ。

特色・役柄

音域はA-C[5]方言江戸弁[7]

声優としては、多数のアニメ、洋画に出演の他、テレビのナレーションも務めている[6]。2017年時点では今まで出演していたアニメの作品数は2000を超えており、9本のレギュラーを持っている[8]

役柄としては、特撮・アニメを問わず、威厳ある悪役、地位の高い人物役、歴代の強敵・巨悪を演じている[24][39]。一方、ナレーションとしては、甘味のある語りも多数である[24]

2017年時点での芝居については、身体が付いていけないといい、記憶力についても「芝居の最中に台詞が全部抜け落ちてしまった自分を夢に見そうで怖い」という[40]

声優を長く続けていくにあたって、心がけていることは滑舌だという[40]。2017年時点では演技のことは考えず、滑舌をちゃんとすることしか考えておらず、それ以外のことを考える余裕はないという[40]

出演作について

2014年時点では『NARUTO -ナルト-』の三代目火影役、『鋼の錬金術師』のキング・ブラッドレイが好きと語っている[24]

実写作品では、『仮面ライダーストロンガー』のジェネラルシャドウが広く知られているものの、自身はほとんど記憶に残っていないと語っている。特撮作品においては、このジェネラルシャドウが最初のレギュラー出演ということになったという[28]。あの頃、マネージャーを担当していた前述の黒田が取ってきてくれた仕事だったという[28]。ジェネラルシャドウの依頼が来ていたのも、前述の縁だったと語る[28]。これをきっかけとして以後も様々な特撮作品で呼んでもらえるようになったわけであることから、非常に思い出深いキャラクターになったという[28]。ジェネラルシャドウは、東映生田スタジオで収録していたが、ラッシュの関係もあるため、そこは面倒でも毎週通っていたと語る[28]。当時の吹き替え専門の役者は、メジャーのような存在ではなく、まだまだ地位の低い縁の下の力持ちであり、監督と一度もお目に掛かったことがなかった[28]。現場で会っていたのは、音響監督を兼ねた助監督、録音技師でまだ声優という立ち位置するあやふやな時代だったことから、業界的にも凄く低く見られていた[28]。一度、横柄な「おいコラ口調」で指示を出していた助監督と大ゲンカして、アフレコ途中で帰ってしまったことがあった[28]。その後、監督にたしなめられたようで、すぐにその助監督が引き留めに追いかけてきたという[28]。東映生田スタジオでは、事実上の音響監督を務めていた太田克己と話しした覚えがなく、演出的な指示を出していたのは、助監督だったという[28]。人形劇『Xボンバー』に登場するジェネラル黒田はこのジェネラルシャドウをかけたキャラクターで、このキャラクターの声も柴田が演じていた。また『瀬戸の花嫁』でもそれにあやかったキャラクター・ジェネラル番長を演じている)。2011年公開の「オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー」では36年振りにジェネラルシャドウの声を担当した。その時は素直に嬉しかったという[28]。その時の演技は監督の金田治も「どうぞ柴田さんの思うようにやってください」と、ただそれだけであり、2018年時点では「本当にありがたいことだ」と思っているという[28]

スーパー戦隊シリーズ」では5度にわたりレギュラー出演を果たしており、そのうち2作品は悪の首領を演じた。

マジンガーZ』のあしゅら男爵は北浜晴子と互いに張り合って台詞を喋るため、口パクが合わず、大竹宏が「柴田が先に声を出して、それに追随するようにお晴がしゃべったらどうか」とアドバイスしたという[41]。また柴田が手に持ったシナリオを軽く振り下ろすのが、同時に声を出す合図であったといい、『マジンカイザー』の頃も同じやり方であった[42]

1981年の『銀河旋風ブライガー』ではナレーターを務めており、古川登志夫は「歌舞伎のような格好いい重低音ボイス」と評している[43]。柴田本人曰く、「中学生の頃から、そのような見栄を切る演技をしてきた」とのこと[43]。ただし、本編が始まる前に収録するため、内容を知らずに務めなくてはならず、少し大変であったという[43]

水戸黄門』(25〜27部)ではナレーションを務めていたが、それまでの『水戸黄門』のナレーションは、長らくTBSのアナウンサーが担当していた[43]。その時は前任の杉山真太郎が引退するタイミングで、「次は、今話題の声優にやらせてみよう」ということになり、あらゆる声優プロダクションにオーディションのお達しがあり、柴田にも声がかかってきたという[43]。「さあ、スタジオ借りてサンプルボイスを録りましょう」ということになったが、柴田は「そんな大ごとにしたくない」と面倒に感じ、「ここ(事務所)で録っちゃおう」と言っていた[43]。マネージャーが「録ってる最中に電話がかかってきたらどうするんだ」と文句を言っていたが、柴田は「だったら俺が喋っている間は、みんなが受話器を持ち上げておけばいいだろ!」、「日本広しといえども、今、声優で七五調を読めるのは俺しかいない」と自信があり、そのサンプルも一発録りであったが、それで選ばれたという[43]。その後、プロデューサーに聞いたところ、「他の応募者の皆さんが頑張って七五調を喋ろうとしている中、あなたの七五調だけが、なんだかナチュラルに聞けた」と言っていたという[43]

アダルトゲームアダルトアニメに実名で出演しており、その際は「特別出演」「特別友情出演」となっているときがある(『Theガッツ!』『姫騎士リリア』『といろ小町〜紅に染まるそのときまで〜』『諦観のイヴ・ベセル』)[44][45][46][47]

人物

趣味は旅行、水泳、ゴルフ[7]。特技は乗馬[7]

免許は普通自動車運転免許、大型自動二輪運転免許[7]

「声優とは、俳優の一部」および「声優の前に俳優であれ」との考えを持つことから、これから声優を目指す若人には「心を演じる、人を演じるような俳優になれ」と教えており、「自分が役者であることを自覚すればやっていけるだろう」とのことである[21]。他者が声優を目指すことに抵抗は無い一方で、近年の若手声優に対しては「映像に声をあてることだけは僕らよりうまいが、心と人間を演じきれていない」「若い人たちの演技はどうしても底が浅いような気がしてならない」と苦言を呈している[21]

RMEの会長を務める傍ら、東京都新宿区歌舞伎町新宿ゴールデン街にある会員制バー「突風」のマスターも務めている[29]。就職先だった関西歌舞伎が倒産し、意気消沈していたところ新宿のゲイバーで働いてた女形の先輩から「お祝いをしてやる」と呼び出されて、それで仲間と連れ立って新宿を歩いていて見つけた売り店舗を購入[4][19][29]。その時は一緒にいた同期の久保進が「ちょっと見てみたい」と言い、試しに覗いてみたところ店主に捕まり、「毎月2万の支払いでいいから買え」と言われた[29]。しかし、当時はフランク永井が月給1万3800円で歌っていたような時代だったことから簡単に払えず、店主は「わかった、それならお前は月1万円出せばいい、残りの1万は俺が客になって飲んでやる」と言い、翌週には権利書を渡された[29]。その店主は支払いが終わる前に死去したが、その後は店主の息子が後を継いでくれたという[29]。そのタイミングでテレビが普及し始めて、「役者の仕事があるぞ」ということになり、太平洋テレビに入社して、洋画の吹き替えをしていたという[29]

役者活動開始とほぼ同時期の1958年4月に「スタンドバー TOP(トップ)」として開店[19]。1962年、里吉しげみが主宰していた劇団未来劇場[16]公演のアガサ・クリスティ原作の『そして誰もいなくなった』を見て感銘を受けて、すっかり惚れ込み同劇団に入団したという[13]。劇団未来劇場では、数々の公演に出演しており、ここで、現代的な演技を学ぶことができた[13]。劇団未来劇場の研究生の中に里吉の妻の水森亜土[16]がいたという[13]。その後、劇団未来劇場の仲間たちと店名を「突風」にしてリニューアルする。同店は新宿ゴールデン街最古参で、役者や業界の関係者が集う店で知られる。同じ事務所に所属していた菅原文太も飲みに来ていたという[8]。1965年3月28日、1992年5月6日、2003年6月15日と過去3回もらい火に遭っている[48]次原隆二の漫画『レストアガレージ251車屋夢次郎』、辻真先の小説『迷犬ルパンシリーズ』に登場する。なお、柴田は『翔んだパープリン』にスナックのマスター役で出演していた。

キノトールが在籍していたテアトル・エコーなら「何とか入れるかもしれない」と思い面接を受けに行ったが、納谷悟朗に落とされた[28]。後年、東京ディズニーランドシンデレラ城がオープンした時、その流れで納谷が「突風」に来たことがあり、「納谷さん、あのとき僕を落としたの、覚えてます?」と訊いたところ、「いや、ぜんぜん覚えてない」と返され参ってしまったという[28]。「オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー」で納谷と久々に共演したが、あれがご一緒した最後の作品となってしまった[28]。その頃まで柴田のことを「ひでかつ」と呼び捨てにしてくれたのは、納谷くらいしかいなかったという[28]。そのアフレコの際、納谷が「おい、ひでかつ。今日は先にやって帰ってくれ。後は俺ひとりでのんびりやりたいから」と、その時は「まさか先輩を差し置いて先に帰れるわけないじゃないですか」と言った[28]。納谷は冗談めいた口調で「俺はこれがもう最後の仕事になるかもしれないから、頼むから好きにさせてくれよ」とそうまで言われると先に帰るしかなく、結局、それが納谷と言葉を交わした最後になってしまった[28]。その後しばらくて、大泉に新設された録音スタジオに訪れたことがあり「ああ、僕たちみたいな吹き替え役者のために、今ではこんな立派なスタジオが建てられる時代になったのか」と、しみじみ想ったことがあった[28]。それもこれも、すべては納谷たちを始めとする先輩たちの苦心の賜物だった[28]。その時は「たかが吹き替え屋ふぜいが」と蔑まれながらも、「実直に声の芝居に磨きを掛けてきた偉大な先人たちの成果が、今こうして目に見える形で結実したんだなあ」、「こんな立派なスタジオで納谷さんたちご一緒できたなら」とそう考えると、思わずこみ上げてくるものがあったという[28]

『熱血カクタス』で共演した内海賢二に対して、自身のバーの2階を下宿として提供し、そのうえアルバイトのバーテンとして雇い、彼の生活を援助した[49]。内海は生前声優生活初期に面倒を看てくれた柴田と八奈見乗児への感謝を忘れなかったと言う[49]

キートン山田を声優に誘ったのは柴田である。山田がアルバイトをしながら役者生活をしていた時期、アルバイト先のスナックの店主が柴田と知り合いだったため、柴田が店によく訪ねて来ていて、山田と面識ができた。ある日、柴田が「声専門のプロダクションができるから、履歴書を書いて来い」と山田に言い、創立したばかりの青二プロダクションに預かりで所属させた[50]

後輩である塩沢兼人とは親交があり、柴田は「俺が死んだら弔辞はお前が読んでくれ」と言っていた[51]。しかし、塩沢の急逝(2000年5月)によって実際には塩沢の弔辞を柴田が読むことになった[51]。その弔辞の中で、柴田は「バカヤロー」と怒りを交えながら深く嘆いている[51][52]

小村哲生とは仲が良く、「声の仕事をやれ」と誘ったことで小村は声の仕事を始めたという[53]。小村によると柴田の繋がりで、青二塾の卒業生が巡回公演に参加してくれるという[54]

柴田が『水戸黄門』(25〜27部)のナレーションをしていた頃、大塚周夫が「水戸黄門見てるぞ! いいよ、なかなかいい! でも、ターゲットが広すぎるよ。テレビの前で見ているのは1人だ。そんなイメージでしゃべってごらん」と言われ、今までテレビの前に何人いるかといったことは考えておらず衝撃を受けた。それ以来、マイクの前に立つときの心持ちは大きく変わった[55]

内閣総理大臣福田康夫は麻布中学・高校の同級生である[26]

結婚は早く、元妻[注 3]との間に息子と娘がおり、子供は離婚後に柴田が引き取ったという[16]

出演

脚注

外部リンク

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