パリサイ人と徴税人のたとえ

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「パリサイ人と取税人」(Kloster Ottobeuren

パリサイ人と徴税人のたとえ(パリサイびととちょうぜいにんのたとえ、: The Parable of the Pharisee and the Tax Collector)またはファリサイ派の人と徴税人のたとえは、新約聖書ルカ福音書18章に記されている、イエス・キリストの譬え話である。この譬え話の主題は義認(義化)と神への祈りにおける謙虚さである。

…イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書18章9–14節(新共同訳)

解説

ファリサイ派は民衆から、ユダヤ律法を厳格に守る、ユダヤ教の正統派とみなされていた。これに対して、徴税人はユダヤの人々からローマ帝国の税金を徴収する、同胞を裏切って私服を肥やす存在とみなされていた。

この譬え話は、(1)神は、自分の正しさを誇る心ではなく、自分の過ちを認める謙虚な心を喜ぶこと、(2)神の完全さの前ではいかなる正義の人も不完全であり、人は誰も自分の正しさを誇ることができないこと、(3)断食や献金も大事であるが、神に対する真摯で正直な心はもっと大事であることを教えている。

説教者による註解

「彼(パリサイ人)の祈りは祈りではなく、自分を称賛する談話に過ぎなかった」
Friedrich Justus Knecht[注 1] (1910)[1]
「彼(パリサイ人)は自分を完全だと考えていたので、神から何の好意・祝福・承認も求めず、罪の赦しも、恩恵の倍加も求めなかった。…(中略)…『ああ、傲慢な魂よ、汝は自分が惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることを知らない[注釈 1]』」
Roger Baxter[注 2] (1823)[2]

正教会聖職者の解説

正教会のアヴェルキー大主教(1976年没、en)は、次のように解説している。

イエスは、この後に語られるたとえ話の中で、神の忠実な信者の祈りが、神の助けと守りを引き寄せるものであることを示しています。イエスは、ファリサイ派の人と徴税人の二人が神殿で祈った様子を語っています。ファリサイ派の人は、自分の善行を功績として神に示し、他人を軽んじるなど、自己重要感と自己顕示欲をもって祈りました。一方、徴税人は、自分の罪深さと不徳を自覚して祈りました。その結果、彼はファリサイ派の人よりも義とされた者として家に帰りました。なぜなら、主はこのたとえ話の結びの言葉で、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と述べているからです。したがって、人は謙遜な心で、自分の罪を心から悔い改めながら祈らなければなりません。徴税人の祈り、「神よ、罪深い私を憐れんでください」は、模範として広く用いられるようになりました。
アヴェルキー・タウシェフ『新約聖書(四福音書)の研究ガイド』[3]

関連する聖書箇所

脚注

関連項目

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