ベストブラッド
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
青森県八戸市のタイヘイ牧場生産。父パーソロンは2度のリーディングサイアーを獲得した名種牡馬、母はイギリスからの輸入馬で、イギリスリーディングサイアー・クリペロと1000ギニー優勝馬アバーメイドの娘という良血馬だった。
その血統から誕生前より期待を寄せられていたが、右前脚が曲がっていたために常に脚部に不安を抱え、いちども出走せず競走生活から退いた。競走馬時代に管理した鈴木清は、「右脚さえまともだったら、かなりの成績を残しただろう。左側から馬体を見れば、それこそ惚れ惚れするような馬だった」と回想している。その後は種牡馬入りしたが、種付け料は無料に設定され、それでも初年度の種付け相手は1頭のみだった。
サザンフィーバーの活躍
1982年4月24日、唯一の初年度産駒となったサザンフィーバー(母ルラウス)が誕生。1984年、ベストブラッドと同じく鈴木清厩舎に入り、デビュー前から調教で目立った動きを見せた。11月に迎えた初戦(東京・芝1800m)は、2着に9馬身差を付けての逃げ切り勝利を収める。この競走の3着馬は、翌年クラシック戦線で中心馬の1頭となるスダホークだった。次走の条件戦(黒松賞、中山・芝1600m)も1分35秒4という好タイムで勝利し、クラシックに向けての有力馬に挙げられた。
4歳時は初戦のジュニアカップで3着。苦手の不良馬場で行われた共同通信杯4歳ステークスも3着となり、クラシック初戦・皐月賞への前哨戦としてスプリングステークスに出走。デビューから騎乗を続けた柴田政人はミホシンザンに騎乗、本馬の鞍上は増沢末夫に替わった。
レースではスタートから単独で逃げ、余裕を残したまま最後の直線に入った。しかし直後に右前脚粉砕骨折を生じて転倒。レース終了後、診療所で予後不良と診断され、安楽死の措置が執られた。通算5戦2勝。軽傷で済んだ増沢は、競走後「(無事なら)絶対に勝っていた」と語り、本馬を本命に推していたサンケイスポーツ記者の佐藤洋一郎は紙面に追悼文を寄せた。
以後
サザンフィーバーの活躍で注目されたベストブラッドは、タイヘイ牧場から北海道のアロースタッドに供用地を移した。種付け数も急増し、1985年には49頭、1986年には62頭への種付けを行った。この中から愛知杯、スポーツニッポン賞金杯を制したホワイトアローを送り出し、重賞勝利馬の父となった。産駒には他に6勝を挙げオープン馬となったレッドプリティ、小倉3歳ステークス2着のリバルドサキ、愛知杯3着のミスカサブランカなどがいる。
その後、供用地はふたたびタイヘイ牧場に戻り、1996年を限りに種牡馬から用途変更となった。以後の消息は不明である。
血統表
| ベストブラッドの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
| 父系 | パーソロン系 |
[§ 2] | ||
父 *パーソロン Partholon 1960 鹿毛 アイルランド |
父の父 Milesian 1953 鹿毛 イギリス |
My Babu | Djebel | |
| Perfume | ||||
| Oatflake | Coup de Lyon | |||
| Avena | ||||
父の母 Paleo 1953 鹿毛 フランス |
Pharis | Pharos | ||
| Carissima | ||||
| Colonice | Abjer | |||
| Colonis | ||||
母 *クレペラ Crepella 1963 芦毛 イギリス |
Crepello 1954 栗毛 イギリス |
Donatello | Blenheim | |
| Delleana | ||||
| Crepuscule | Mieuxce | |||
| Red Sunset | ||||
母の母 Abermaid 1959芦毛 イギリス |
Abernant | Owen Tudor | ||
| Rustom Mahal | ||||
| Dairymaid | Denturius | |||
| Laitron F-No.12-g | ||||
| 母系(F-No.) | 12号族(FN:12-g) | [§ 3] | ||
| 5代内の近親交配 | Blandford5×5=6.25%、Tourbillon5×5=6.25%(父内)、Clarissimus 5×5=6.25% | [§ 4] | ||
| 出典 | ||||
母クレペラの半妹ハンティングボックスも日本に輸入されており、その産駒に1982年の皐月賞優勝馬アズマハンターがいる[2]。