メタンフェタミン
中枢神経興奮作用を有する有機化合物
From Wikipedia, the free encyclopedia
メタンフェタミン(英語: methamphetamine, methylamphetamine)は、アンフェタミンの窒素原子上にメチル基が置換した構造の有機化合物である。間接型アドレナリン受容体刺激薬として中枢神経興奮作用はアンフェタミンより強く、強い中枢興奮作用および精神依存性、薬剤耐性がある[2]。日本では商品名ヒロポンで販売されていたが[3]、1951年(昭和26年)6月30日の覚醒剤取締法公布以降は「限定的な医療・研究用途での使用」のみに厳しく制限されている[4]。覚醒剤取締法では、覚醒剤の取扱いを行う場合の手続きを規定するとともに、それ以外の流通や使用に対しての罰則を定めている[2]。メタンフェタミンはこの取締法におけるフェニルメチルアミノプロパンであり、日本で薬物乱用されている覚醒剤である[5]。
| 物質名 | |
|---|---|
(S)-N-メチル-1-フェニルプロパン-2-アミン | |
別名 N-メチルアンフェタミン | |
| 識別情報 | |
| ECHA InfoCard | 100.007.882 |
| KEGG | |
CompTox Dashboard (EPA) |
|
| 性質 | |
| C10H15N | |
| モル質量 | 149.24 |
| 沸点 | 212[1] |

俗称・異称
日本語では、シャブ、エス (S)、スピード (speed) などの俗称で呼ばれる。英語ではアイス(ice)、メス(meth)、クリスタル・メス(crystal meth)などの俗称がある。
歴史
1888年(明治21年)に日本の薬学者長井長義が『麻黄研究物質第33号』として合成して、1893年(明治26年)に薬学雑誌に発表した[6]。1919年(大正8年)に緒方章が結晶化に成功した。
覚醒作用や依存性は、合成に成功した当時は発見されず[7]に発見以後も注目されていなかったが[8]、1938年にナチス・ドイツが薬剤のペルビチン (Pervitin) として用いると、1940年に嗜癖性と1954年までに20数例の精神病がそれぞれ西ドイツ、スイス、チェコスロバキアなどから[9]報告された。第二次世界大戦時は、連合国軍と枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に士気向上や疲労回復の目的で用いられ、アメリカ陸軍刑務所で、従業員と受刑者約1,000人のうち約25パーセント (%) が乱用[9]した。
日本は、1949年(昭和24年)に一般人の製造を禁止するが、密造品が広まり[10]ヒロポンなどのラベルが貼られた[11]。1949年10月に厚生省次官通知で各製造会社に製造の自粛を要請し、1950年(昭和25年)に製造会社ごとに製造数を割り当てたが、富山化学工業は5万本の割当に800万本も製造するなど効果はなかった[12]。東京大学医学部附属病院神経科で1946年(昭和21年)9月に、東京都立松沢病院で1948年(昭和23年)3月に[13]、それぞれはじめて中毒患者が入院した。1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法が制定されると、1952年までに入院患者数は激減し[13]、1954年に5万5,000人超であった検挙者数は1957年に1,000人を下回ったが、1971年(昭和46年)に1万人を超えた[14]。
従来は国内で密造されていたが、1970年(昭和45年)に大韓民国、イギリス領香港、中華民国、ポルトガル領マカオ、タイ王国から密輸入が増加すると暴力団が販売を掌握した[15]。終戦直後から販売価格が高額化すると、若年者ではなく暴力団や水商売人らに流行して違法性を認知して使用した[16]。携帯電話や国外在住者や知人らを介して元締めの暴力団と接触せずに入手が可能になると、1995年から再び流行した[17]。日本国内の薬物事犯は覚醒剤事案の検挙が最も多く、2007年(平成19年)に1万2,000人が検挙されるなど、日本は薬物依存症の治療が進まずに乱用が続いている[18]。
作用
メタンフェタミンは、血液脳関門を易々と通り越して、大脳の中枢神経を刺激し覚醒させる作用があるため、医療用途としてはうつ病・精神病などの虚脱状態や各種の昏睡・嗜眠状態などの改善・回復に用いられる。
小胞体のドーパミン貯蓄を阻害して、シナプス前細胞の細胞質におけるドーパミン濃度を上昇させると共に、ドーパミントランスポーターを逆流させることにより、神経終末からドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなどのアミン類を遊離させ、間接的に神経を興奮させる。さらに、モノアミン酸化酵素の阻害作用によって、シナプス間隙におけるアミン類の濃度を上昇させる作用を併せ持つ[19]。
メタンフェタミンの反復使用は、ドーパミントランスポーター (DAT) やドーパミンD1受容体を減少させる。抗生物質ミノサイクリンの前投与と併用によって、DATの減少やD1受容体の減少を抑えることができる[20]。
効能・効果
- ナルコレプシー、各種の昏睡、傾眠、嗜眠、もうろう状態、インスリンショック、鬱病・鬱状態、統合失調症の遅鈍症の改善
- 手術中・手術後の虚脱状態からの回復促進及び麻酔からの覚醒促進
- 麻酔剤の急性中毒、睡眠剤の急性中毒の改善
副作用など
依存性

乱用開始から依存に至るまでの期間は、約30ヶ月とされており、メチルフェニデートの平均9.2ヶ月と比較すると長い[21]。
物質依存の形成は、個人の置かれている環境に大きく影響を受けるが、遺伝的要因も関係している。メタンフェタミンでは、双子を用いた研究により、遺伝的要因は約4-7割程度と考えられており[22]、メタンフェタミン依存に関わる遺伝子を明らかにすることで、メタンフェタミン依存の分子神経生物学的理解を進めるべく、研究が行なわれている。
メタンフェタミンの精神的依存は、他の依存性薬物と同様、報酬系が大きな役割を果たしている。報酬系は、中脳腹側被蓋野から側坐核及び前頭葉皮質に投射するA10神経と呼ばれる中脳辺縁ドーパミン神経系からなる。この神経の興奮による神経終末からのドーパミンの遊離に引き続き、側坐核のドーパミン濃度の上昇が起こり、これを心地よいと感じる。メタンフェタミンは種々の機構により、側坐核局所で作用することによって、同部位のドーパミン濃度を上昇させ、報酬系を賦活させて依存を形成する。
抗生物質・ミノサイクリンの前投与により、覚醒剤特有の高揚感が阻止され、精神依存を抑制したとの研究報告がある[23]。しかし、高揚感を感じなかったにもかかわらず、再使用欲求に変化がなかったとの報告もあり、覚醒剤の習慣性(身体的依存)が示唆される[24]。ミノサイクリンは、ドーパミン拮抗作用が示されておらず、覚醒剤などの多幸感・高揚感は、ドーパミンと無関係であると示唆される[23]。薬剤耐性菌を生む問題があり、感染症においても抗菌薬の適正使用が言われ、感染症でもない状況での抗生物質の不適切使用は戒められる[25]。
現在のヒロポンの製造
ヒロポン (Philopon) とは、大日本製薬(現・住友ファーマ)によるメタンフェタミンの商品名。同社の登録商標の第364236号の1である。成分名はメタンフェタミン塩酸塩。剤型は結晶あるいは粉末、または錠剤である。かつてはアンプル(注射液)もあったが、2018年(令和元年)に終売・翌年経過措置終了となっている。ヒロポンの名は、ギリシア語の Φιλόπονος(ピロポノス/労働を愛する)が由来である[26]。
2025年(令和7年)現在、処方箋医薬品として「ヒロポン錠」が製造されており、都道府県知事から施用機関の指定を受けた医療機関からの注文に対応している。また本薬品に関しては、製造業者から施用機関までの流通過程、施用した患者までが包装単位で記録保管されるなど、他の医薬品とは別格の極めて厳しい管理がなされている。治療上薬剤を投与する場合は処方箋の交付が医師法第22条で義務付けられているが、覚醒剤を投与する場合は例外的に処方箋を交付する必要がない。また、医師が自身に覚醒剤を自己処方することは禁じられている。
ヒロポン史
市販開始
日本においても、欧米諸国に追随してアンフェタミンやメタンフェタミン製剤が、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的の一種の強壮剤である「除倦覺醒劑」として販売された。日本人の長井がメタンフェタミンを発表したこともあり、あたかも日本で「覺醒劑」が開発されたという誤認もあるが、薬の知的財産権の概念が乏しかった当時によくあったこととして、日本におけるメタンフェタミン製剤は先に市販していた外国の製剤のコピー品であり、1940年(昭和15年)に参天堂が「ホスピタン」を発売したのを皮切りにして、日本の製薬会社各社がそれに続いた。「ヒロポン」は「ホスタピン」に遅れて1941年(昭和16年)に販売が開始された[27]。ほかにも小野薬品工業が「ネオパンプロン」、富山化学工業「ネオアゴチン」を発売した。
のちに「ヒロポン」が最大のシェアを確保したため「ヒロポン」という商品名がアンフェタミン系をも含む覚醒剤の代名詞となってしまい、販売していた大日本製薬も太平洋戦争後に編纂された社史で「ヒロポンというのは当社の商標であるが、今ではヒロポンという名が覚醒剤の総称のようになっているのは、当社としては甚だ迷惑なことである」と嘆いていたほどである[28]。しかし、遅れて発売された「ヒロポン」が、いつ最大シェアを獲得してその名前が広まったのかは、はっきりしておらず、戦前、戦中の研究者たちの論文においては、メタンフェタミンやアンフェタミンは海外製品を含めて商品名で呼ばれていたり、一括して「覚醒アミン」などとも呼ばれているが、ヒロポンを代名詞のように扱っていることはない[29]。その様子が転換するのは、戦後の1947年(昭和22年)に、覚醒剤が市中に蔓延してその弊害が問題となり始めてから、研究者の論文でも「ヒロポンのごとき覚醒アミン」や「ヒロポンを代表する覚醒剤」などの記述がされ、その後は研究論文においても覚醒剤を「ヒロポン」と記述するものも目立つようになった[30]。
市販が遅れた日本における覚醒剤研究については、先んじて市販していた他国を追随する形になり、メタンフェタミンの副作用などの毒性も深く研究されることはなかった[31]。覚醒剤研究の一例として下記のような論文も有山登によって発表されているが[32]
と、先に市販されている他国の例も出して、除倦覚醒効果が強く有用な薬品であるとしていた一方で、常習性はないと分析していた。また不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観によるものが大きいとして特に問題にされていなかった[33]。
日本軍での使用

日本で覚醒剤が発売されてまもなく太平洋戦争が開戦したため、ドイツ等のヨーロッパ諸国のように一般市民に蔓延する前に軍事目的に利用されることとなった。その目的は、厚生省薬務課長の覚醒剤の製造認可に関する国会での質疑応答の通り、「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます」と「疲労回復」や「眠気解消」が目的であった[34]。
戦中におけるヒロポンと特攻隊への投与
ヒロポンと暗視ホルモンの混同
よくヒロポンと混同される「暗視ホルモン」については、戦後にGHQに海軍航空技術廠が作成した成分表が接収されており、その資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の脳下垂体から抽出されたメラノフォーレンホルモンとされ、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造され、台湾沖航空戦で既に使用されており、メタンフェタミンは含まれていない[35]。暗視ホルモンをヒロポンだったと主張する者達の証言を公平かつ客観的に、科学的、薬理学的、臨床的、医学的な見地から精査すると、ヒロポン一錠或いはアンプル一本のメタンフェタミン含有量及び摂取法から現れる症状は薬理学的に整合性が取れない証言が多いと判断せざるを得ず、一次資料のないオーラル・ヒストリーで史実を構築する際の証言の確証性のクライテリアとして、それらの証言は現段階では一次資料がない以上、有用性が希薄であると判断するのが、史実を記述する上で中立性を担保するための誠実なスタンスであろう。
日本軍での使用
沖縄戦において連合軍に占領された飛行場攻撃を主任務としていた芙蓉部隊で、同部隊の指揮官美濃部正少佐の自伝や回想においても、ヒロポンに対する記述や言及は全くない[36][37][38]。美濃部は芙蓉部隊のパイロットの夜間視力向上策として、薬などを使用するのではなく、午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食といった、「猫日課」と称した昼夜を逆転させた生活を送らせていたり[39]、電灯使用を制限してパイロットに暗闇を凝視させて夜間視力を強化するといったような、効果が不明な対策を行っていた[40]。
戦中のヒロポン投与法
戦時中のヒロポンの投与方法について日本政府の公式見解は、「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」と戦後の国会質問で厚生省薬務課長が答弁している通り、飲用が主で注射は殆どなかったとしている[41]。使用実績についても、勤労奉仕していた旧制都立武蔵高等女学校の女学生が、連日に渡って徹夜での工場勤務が続く中で、眠気覚ましにヒロポンを飲用していたように[42]、戦時中のヒロポンは民間でも使用されており、軍で限定的に使用されているものでもなかったと答弁している[41]。
覚せい剤チョコレートの特攻隊への投与
覚醒剤チョコレートの特攻隊への投与に関しては、ルポルタージュによる個人の証言に依拠したオーラル・ヒストリーであるが、オーラルヒストリーを形成する上で、あまりにも証言が少なすぎるという指摘も一部存在し、覚醒剤チョコレートを世に知らしめた書籍『ヒロポンと特攻』[43]の著者である相可文代も、その不自然なまでの証言の少なさを懐疑し自問している。
覚醒剤チョコレートに関する記述がある論文として、熊野直樹 [44]、 西川伸一
[45]らの論文があるが、熊野は西川の論文を引用しており、西川は相可文代 [46]の書籍を引用してるという経緯であり、単一出典の孫引き、循環引用(circular sourcing)での浸透であることが窺える。
証言の曖昧さ
有力な証言の一つとして挙げられるもので、覚醒剤チョコを「食べた瞬間にカーッときました」とあるが[47] [48] 、バイオアベイラビリティ[49] 、生理学的プロセス(ADME)[50] 、吸収ラグタイム(Lag time)[51]といった薬理学、脳神経科学の法則から逸脱した現象として指摘されうる。
摂取する薬物種を問わず、錠剤、固形に成形された薬物で経口摂取で瞬間的に脳に到達し身体的変化を与える薬物は現時点において確認されていない、[52] [53] 投与量、体重、身長、年齢、性別、空腹or満腹、といった因子による変動を受けないロバストネスな生理的事実である。(注:現時点において経口摂取で瞬間的に脳に到達する化合物は確認されていないという意味での生理学的制約であり、摂取後、脳に到達する速度差は因子の影響で有意に変動する)
生理学的制約(Physiological constraint)により、錠剤、カプセル、固形に成形された薬物は、経口摂取なら主観的体感は最速で約15分〜60分はかかるが、メタンフェタミンは比較的吸収が速い物質ではなく、因子よる変動はあるが最大効果が発現されるまで最速で約2時間〜5時間(研究では平均3時間)、主観的体感では最速で約30〜60分以上かかることがChristopher・C・Cruickshank、Kyle・R・Dyerらの臨床薬理試験の研究で報告されている。[54]
また、チョコレートのような高脂質食を摂取した際、カカオの脂質により胃の運動が抑制され(胃排出遅延)[55]、摂取薬物の小腸への移行を遅延させると共に、脂質マトリックスが薬物を包み込み、消化液への放出を阻害するため、血中濃度の上昇速度が著しく低下することが複数の臨床薬理試験の研究で報告されており、最大効果の発現及び主観的体感の発現は約2倍以上(薬品・因子によっては5倍以上)の遅延が報告されている。[56] [57] [58]
Weie Cao、Bekersky、Sheena Sharmaらの研究は、一般医薬品での研究だが、Yi Wangらの臨床薬理試験では、最高血中濃度到達時間(Tmax)がメタンフェタミンと臨床的に有意差のないアンフェタミンを研究対象としており、高脂質食の摂取により、アンフェタミンの最大血中濃度の上昇が4.5〜5時間遅延したことが報告されている。またそれに伴い、主観的体感の発現も因子による変動はあるが最速で約60分以上〜180分以上遅延することが確認されている。[59]
口内粘膜への吸収においても同様であり、チョコレートに添加、成形した場合、カカオ脂の高脂肪マトリックスが物理的バリアとなり、唾液への熔解・放出を阻害させるため(遅延型経口吸収)、性質上、口内保持時間が短いチョコレートでは時間的制約において口内吸収への寄与は極めて限定的であり、カカオ脂に添加された成分の主な割合は口内吸収を待たずに嚥下され消化管内へと帰属する。
例外として、ジピリダモール (血管拡張薬)、ニフェジピン (Ca拮抗薬)、アメナメビル (抗ウイルス薬)…といったBCS Class II(低水溶性・高透過性) の薬品は、高脂質食の摂取により吸収が促進される。[60]
なお、Christopher・C・Cruickshank、Kyle・R・Dyerらの臨床薬理試験では人体への悪影響を回避するため、メタンフェタミン投与量は少量の30mgに抑えられている。
一方、ヒロポン錠1錠のメタンフェタミン含有量は1mg、アンプル1ccに対する含有量は3mgといった極微量の含有量に抑えられており、薬理学的にも興奮剤としてではなく、疲労回復、集中力向上といった効用を目的とし、健康被害、急激な意識の高揚、錯乱、混濁等を及ばさない低リスクな含有量が維持されていたことが示唆されうる。[61]
現存する一次資料
また、最も有力な証言として第七陸軍航空技術研究所の所員であった岩垂荘二が、当時同研究所の陸軍主計大佐であった川島四郎の命令で「覚醒剤チョコレートを製造した」という証言があり、熊野直樹、 西川伸一らもこの証言が有力であるとし論文で採用しているが[62] [63]、いずれも一次資料を精査した独自の実証的研究ではなく、相可文代の書籍『ヒロポンと特攻』[64]からの循環引用である。[65]
このチョコレートに関しては、一次資料として『昭和19年7月15日:夜間視力増強食製造仕様書』という公文書を軍部が完全な形で保管しており、製造法から、成分表、箱のサイズまで詳細に明記されている。 [66]
同仕様書には、チョコレート内の成分が詳細に記載されているが、そのほとんどがビタミンB類であり、メタンフェタミン及びアンフェタミン類の記述はなく、唯一薬品としてはエフェドリンが記載されおり、エフェドリンの含有量はチョコレート一個に対して0.01gと詳細に記述されている。
現存している軍部の公文書の記録と岩垂荘二の証言の乖離は、岩垂が覚醒剤とエフェドリンを混同していたことが示唆されうる。
また「覚醒剤チョコレート」を世に周知させた相可文代自身も、戦中の「ヒロポン」使用証言があまりにも少ないことに疑問を呈しており、どこの工場で生産されたかも定かではないと結論づけており、[67]特攻隊にヒロポンを投与していたという元海軍軍医も覚醒剤チョコレートを「見たことがない」と証言している。[68]
オーラルヒストリー [69] [70] [71][72] [73] により形成された覚醒剤チョコレートの特攻隊への投与に関しては、GHQの資料[74] や薬品会社、食品工場の記録、製品を梱包していた箱等の物証といった一次資料が不在であるため学術的に検証不能であり、実証、反証は困難な状態が継続している。よって現在に至るまで、医史学・薬学史・軍事史の分野において、一次資料に基づく体系的な検証研究は行われておらず、現状では学術的コンセンサスは形成されていない。
ヒロポンと特別攻撃隊

かつてより、「普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない」などと、特別攻撃隊の隊員を興奮させて、死に対する恐怖に麻痺させるため軍がヒロポンを利用していたとの主張もあるが[75]、これも記述の日本軍全般におけるヒロポンの使用実績と同様に事実相違のものも多い。歴史学者吉田裕は、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」とし、疲労回復や夜間の視力の増強が目的であったと指摘している[76]。
陸軍航空隊は航空糧秣としてほかにも、抹茶、ブドウ糖などをチョコレートに混合し、ビタミンCの接取と高空飛行における酸素不足軽減を目的とする「航空チョコレート」を製造してパイロットに支給していたことや[77]、陸軍航空技術研究所において、他にも指定工場となっていた明治製菓に依頼して様々なチョコレートも試作しており[78]、女学生が包装したのが「ヒロポン入りチョコレート」であったのかは特定できない。陸軍航空技術研究所で「ヒロポン入りチョコレート」に携わったとされる技官岩垂の証言は曖昧であり、現存している軍部の公文書によれば、そのチョコレートに含有されていた薬品はエフェドリンであることが判明している。 陸軍で航空特攻が開始される1944年(昭和19年)の前年に製造されており、特攻隊員向けに製造されたものではなく、岩垂は特攻隊員に支給されたとは記述しておらず、他にも特攻隊員に支給されたという証言も見当たらない[79][80]。
日本海軍では「ヒロポン入りチョコレート」の製造の記録や証言がないのに対して、戦前からチョコレートを製造販売していた大東製薬工業(戦後に大東カカオに商号変更)が、海軍省からパイロットと潜水艦乗組員のための特別なチョコレートの製造を発注され、パイロット向けとしては「居眠り防止食」と称した、眠気覚醒のためにチョコレートにカフェインを混ぜたものを製造して納入しており[81]、これを「ヒロポン入りチョコレート」と混同している可能性が高い。この製法は、ドイツ空軍のパイロットが好んで口にしていたショカコーラと同じであったことが判明している。つまり、ここでもレトロスペクティヴ・バイアスによる史実の歪曲が生じていたと判断せざるを得ず。一次資料の発見・提示があるまでは「留保」と記載するのが史実的に誠実なスタンスであり、また史実としての中立性、公平性を担保するものであろう。[82]
元海軍軍医の蒲原博が、太平洋戦争末期の沖縄戦で、鹿児島の串良基地から出撃する特攻隊員にヒロポン注射をしていたと証言しており[83]、串良基地から出撃した徳島海軍航空隊の練習機「白菊」で編成された神風特別攻撃隊「徳島白菊隊」に所属していた沓名坂男一等飛行兵曹が、出撃直前に何らかの注射をされ出撃したが帰還し、戦後になってヒロポンに関するマスコミ報道を見て、自分たちが打たれたのはヒロポンであったと知ったなどという証言もあるが[83]、同じ「徳島白菊隊」の他の特攻隊員からは、出撃時の注射の証言はなく[84]、第五航空艦隊司令部付将校として配属された野原一夫少尉も、「徳島白菊隊」の出撃を見守っていたが、ヒロポンに関する証言はしていない[85]。他に串良基地から出撃しながら生還した特攻隊員や、高知海軍航空隊の同じ「白菊」で編成された「菊水白菊隊」の隊員や、出撃の様子を見ていた関係者からも、特攻隊員が何等かの注射をされていたという証言は見られない[86][87][88][89][90][91][92]。
同じ頃に小説家志賀直哉の推薦で、作家の川端康成、新田潤、山岡荘八が、臨時海軍報道班員として鹿児島県鹿屋航空基地に赴き取材を行っている[93][94]。そのなかで川端は、戦中に殆ど特攻に関する記事は書かなかった代わりに、戦後になってからこのときの詳細な回想を行っているが、ヒロポンについての証言はなく[95]、山岡については、特攻兵器「桜花」を運用する神雷部隊の隊員と寝起きをともにするなど密着した取材を行い、NHKが全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしているが[96]、戦後になっても「小説太平洋戦争」などの著書で、特攻隊員のヒロポン使用についての記述や言及はない[97][98]。
同じころに陸軍においても、第6航空軍に所属して特攻出撃しながら喜界島に不時着し、その後に本土に帰還して振武寮に収容された第22振武隊大貫健一郎少尉が、出撃前の宴会で、飛行時の眠気覚ましなどとして「航空元気酒」と名付けられたヒロポン入りの酒も準備されていたと回想しているが[99]、「航空元気酒」については、陸軍航空技術研究所の技官岩垂が詳細なレシピを保管しており、それによれば、焼酎に味醂、シロップ、ビタミンB剤、カラメルに加えて、浜防風、陳皮、桂皮など和漢医薬20種を混合したものであり、ヒロポンは一切入っていない[100]。陸軍の認識としては「薬用酒」であり、パイロットにも大変好評で大量に生産されている[101]。「航空元気酒」のラベルも多数現存しており、それによると「甘美の酒に特殊の精力剤10数種を加へたる物にして疲労を慰し頓に元気を出す」「空中勤務後に服用し疲労回復に充てる事が望ましい」「飛行勤務時は高高度飛行での低温による氷結を防止するためポケットの奥で保管すること」との注意書きがあり、眠気覚ましの効果を期待したものではなく、疲労回復を目的とした栄養ドリンクとして飲用されていた[102]。
陸軍特攻隊の「と号部隊」の「振武隊」にも、海軍の川端らと同様に報道班員の高木俊朗が特攻隊員と寝食を共にして密着取材しており、慶應義塾大学から学徒出陣して特攻隊員に志願した上原良司少尉からは[103]、戦後に書籍『きけ わだつみのこえ』に掲載されて有名になる絶筆「所感」を託されたりしているが[104]、戦後になって作家に転身し、「特攻基地知覧」や「陸軍特別攻撃隊」などの著書で特攻を厳しく批判しているなかでも、ヒロポンに対する言及も記述も一切ない[105]。
既述の通り、特攻隊員のヒロポン使用については確定的な記録や証言がなく、九州大学教授の熊野直樹は、メタンフェタミンが日本軍において使用されたことについては否定できないとしながらも、その使用目的はドイツ軍と同様に「睡眠抑制」「疲労回復」「夜間視力の向上」であったとしており、特攻隊員の死への恐怖を和らげるなどという効果については言及していない[106]。元中学校社会科教員であった相可文代も、勤労奉仕の女学生がヒロポン入りと思われるチョコレートの包装に携わったという証言を聞いて、特攻隊員のヒロポン使用を疑って調査したが、「ヒロポン入りチョコレート」を食べたという証言は皆無で、ヒロポンを使用したという証言すらも限定的であったため、これまで特攻隊員とヒロポンの関係について大きく取り上げられることはなかったと指摘している[107]。また、日本政府の公式見解も記述の通り、メタンフェタミンの製造許可の目的は「疲労回復」や「眠気解消」である[34]。
特攻隊にヒロポンを投与していたという一次資料は現在でも全く見つかっておらず、また、戦後軍部から民間に大量流出したとされるヒロポン錠、ヒロポン注射液だが、現在に至るまで軍部下がりのヒロポンのアンプルは一本も発見されていないという事実は不可解極まりないと言えよう。 また、戦時中にヒロポン注射液を製造していたという一次資料、軍部がアンプルを貯蔵していたという一次資料は共に一切存在しない[108][109][110]。現状オーラル・ヒストリーでの史実の構築といった虚偽、憶測、イデオロギー、レトロスペクティヴ・バイアス、認証バイアス、フォルス・メモリー等を容易に誘発する極めてハイリスクな手法に依存せざるを得ないのが現状である。その限定的な史実の構築過程において個々の証言の信憑性のクライテリアは厳密に精査されるべきであり、一次資料もなく確定していない事象に関しては、現状では「留保」とするのが後世に残す史実・資料としては最も公平で中立性を保持する誠実なスタンスであろう[111][112]。
終戦後GHQのヒロポンへの関与
GHQによる「麻薬」の定義とヒロポンへの関与
終戦後直後における覚醒剤(メタンフェタミン)の大量流出・乱用について、「GHQが日本軍から接収した軍用備蓄(ヒロポン注射液アンプルを含む)を解放した結果、民間に大量流出した」という言説が一部存在するが、査読論文として一次資料に基づき当該説を実証的に支持した研究は現存しない。
GHQの指令書SCAPIN-389 [113] は
『Japanese military medicinal narcotic stocks」(日本軍用医薬品麻薬備蓄)』の保管・配布を対象としており、その主な押収品目対象は『阿片、モルヒネ、コカイン(原料のコカ葉を含む)ヘロイン、マリファナ』であり、メタンフェタミン(ヒロポン)は当時の国際麻薬条約およびGHQの定義では「narcotics(麻薬)」に分類されておらず、「Medical supplies(医療用消耗品)」として、「軍用医薬品麻薬」の押収・管理対象外であったことが示唆される。
戦後の麻薬の流通に関しては、熊野直樹 の論文が有用である。[114]
GHQは1945年12月4日SCAPIN-389 [115]における『日本軍用医薬品麻薬備蓄の保管・配布』の指令以前に、1945年10月12日付けのSCAPIN-130 [116]において「narcotics(麻薬)」の定義・分類しており、そこには『阿片、コカイン、モルヒネ、ヘロイン、マリファナ、それらの種子および植物、ならびにそれらから派生したすべての物質、あるいはそれらの混合物または調製物を含むものとする。』と明記しており、1945年12月4日SCAPIN-389における統制命令が出るまで、及び翌年のSCAPIN全てを通して_“methamphetamine”, “Philopon”,"Amphetamine-type”,"stimulants“,“methylamphetamine”,“alpha-methylphenethylamine” _といった言葉は明記されていない。[117] [118] [119] [120]
戦後のヒロポン禍の実態を検証した代表的な論文、書籍として_佐藤哲彦、[121] [122] Miriam Kingsberg、 [123] [124]Jeffrey W. Alexander、[125] 橋本明、[126] ならびに占領期日本を包括的に論じ、ピューリッツァー賞を受賞したJohn.W. Dowerの書籍、[127]これらにおいて戦後のヒロポン禍は詳細に記述されているが、GHQが覚醒剤流通に直接的に関与したとする実証的記述は皆無である。
戦後、軍の備蓄のヒロポンが民間に流出したのは事実であるが、一次資料、実証的検証の査読論文すら不在のまま、一部で「GHQの関与説」が流布されているのは、ヒロポンは『覚醒剤=違法・麻薬・有害』であるのだから、当然『GHQが定義する<日本軍用医薬品麻薬備蓄>の麻薬としてヒロポンが含まれていたはずだ』というレトロスペクティヴ・バイアスから逆算された推論である可能性が指摘されうる。[128]
1949年に乱用が問題視され始め、1951年に覚醒剤取締法が制定され、そこで初めて法的にメタンフェタミンは『違法薬物=悪』として認知されたのであり、戦中に合法市販薬であったメタンフェタミンを、軍部が時間とコストをかけ隠蔽工作をする合理的事由は希薄であり、その裏付けとしてGHQによる直接的関与の証拠も現在に至るまで確認されておらず、実証的研究による報告もなされてない。[129][130][131][132]
また、戦時中(1941-1945年)のヒロポン(大日本製薬製)の大量生産は、主に錠剤(突撃錠・猫目錠など)であり、注射液アンプル(1ccなど)の大量生産・軍需供給を示す一次資料は確認されていない。大日本製薬の社史では「戦時中、軍部が夜間戦斗従事者に之を用いた事により」と錠剤使用を記述しているが、注射液の言及はない。[133]
1949年11月30日の第6回国会参議院予算委員会第10号において厚生省薬務局長・慶松一郎は_「陸軍、海軍で使っておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかったと私は記憶いたしております」_と答弁しており[134]、軍用とされるヒロポン注射液アンプルについては、元軍医の回顧録[135]やスケッチ(茶色い約3cmアンプル描写)があるものの、実物写真・現存品・博物館展示例は現在のところ発見・公開されておらず、戦時中にヒロポン注射液がどれだけ軍部用に製造、貯蔵していたのかを証明する一次資料は確認されていない。
仮にGHQによる大量放出を想定する場合、その前提として大規模な注射液備蓄の存在が必要となるが、これを裏付ける実証的証拠も現存せず、よって現在に至るまで査読論文としての研究対象外として位置付けられている。
西川伸一の研究によると、戦後における注射液の流行は、1949年頃から本格化したとされる。[136]
これは、民間製薬会社による新生産が起点であり、武田薬品工業がゼドリン注射剤を1947年に、富山化学工業がネオアゴチン注射剤を1948年に発売したことに続くものである。1950年には富山化学工業が厚生省の生産割当(5万本)に対し800万本を製造するなど、民間製薬会社によるメタンフェタミン及びアンフェタミンの注射剤の超過生産が乱用拡大の主因となった経緯を示すものである。
戦後におけるヒロポン乱用の主因を「GHQによる軍備蓄のヒロポン注射液の大量解放」とする見解は時間的整合性および供給構造の観点において実証的研究では支持されておらず、現在の研究においては、戦後の覚醒剤流通の拡大は主として旧軍需在庫および製薬企業の在庫が統制の弛緩の中で市場へ流入した結果として説明されることが一般的であり、GHQの直接的関与については実証性を欠いた遡及的解釈として位置付けられている。
戦後のヒロポンの蔓延
戦後になるとヒロポンを含む覚醒剤は、以前の「疲労回復」や「眠気解消」といった目的に加え、精神を昂揚させる効果によって、酒やタバコの様な嗜好品の一つとして蔓延した。その蔓延の大きな要因となったのは、市場に大量に供給されたことによる価格の安さであり、ヒロポンの値段は注射10本入りで81円50銭で、闇市でも100円以上で買えた。その頃の日本酒の並等酒は1升で645円であったため、嗜好品としての入手し易さは際立っていたといえる[137]。そして既述の通り、メタンフェタミンとアンフェタミンの製剤の覚醒剤は、のちに製造が規制されるまでは23社が24の商品名で製造販売していたのにもかかわらず[138]、いつしか、大日本製薬(現・住友ファーマ)の一商標に過ぎなかったヒロポンが、そのシェアの大きさから覚醒剤の代名詞の様に呼ばれるようになった。この頃にヒロポンが広く市民生活に入り込んできた例として、長谷川町子が『週刊朝日』に1949年4月10日号から同年12月15日号まで連載した漫画「似たもの一家」で、「ヒロポン」という回が存在しており、主人公の作家伊佐坂難物が所有していたヒロポンを近所の子供が誤飲してしまうというエピソードになっている[139]。
芸人、役者、ミュージシャンなどの芸能人は好んでヒロポンを使用し、新宿末廣亭の初代席亭北村銀太郎によれば、楽屋にはヒロポンのアンプルが200~300本常備されていて、殆どの出演者が接取していたという。当時芸能界で活動したコロムビア・トップも、参議院議員に転身後国会において、ヒロポンが蔓延した当時の芸能界を証言したことがある[140][注釈 1]。そのほか、ビートたけしなども芸能界によるヒロポン蔓延について様々な場において触れており、例えば初代三波伸介や東八郎の早世の原因にあげている[141]。歌手で俳優のディック・ミネも、第3代日本歌手協会会長時に出版した著書で、落語家の柳家三亀松、漫才師のミス・ワカナ、歌手の笠置シヅ子、岡晴夫らのヒロポン常用について記述し、芸能界へのヒロポン蔓延に対して警鐘を鳴らしている[142]。作家の中にも蔓延しており、船山馨のように自らがヒロポン中毒であったとカミングアウトした作家の他にも、流行作家の多くがヒロポンに頼って作品を執筆しており、朝日新聞が社説天声人語で「戦後派文学、肉体派文学はほとんどヒロポン文学といつてよいほど、ヒロポン中毒の頭脳の中からはき出されたものである」などと指摘したこともあった[143]。
戦後における注射液の流行は、1949年頃から本格化したとされる[144]。これは、民間製薬会社による新生産が起点であり、武田薬品工業がゼドリン注射剤を1947年に、富山化学工業がネオアゴチン注射剤を1948年に発売したことに続くものである。1950年には富山化学工業が厚生省の生産割当(5万本)に対し800万本を製造するなど、超過生産が乱用拡大の主因となった。 終戦直後の1946年(昭和21年)には早くも慢性覚せい剤依存症者が東京大学神経科に入院し、1947年頃には精神医学会からも「注射薬も費出されるということになってしまいまして、注射に頼る人が大分出て来た。こうなってから私どもが全く思いがけなかった程癖になる人、受醒剤の嗜癖の状態というべきことが起ってきたのであります」「相当量続けて使っているという人に著しい精神症状呈して来るものがあるということに気付いたのであります」などと乱用による薬物依存症発生の指摘があっているが[31]、これらの薬物依存症の患者はヒロポン中毒者の略で「ポン中」などと呼ばれていた[145]。加えて、中毒者が行う不潔な注射器の使い回しは、ウイルス性肝炎の伝染機会を増加させ、輸血後肝炎が感染拡大する遠因となった。
芸能界や文学界にヒロポンが蔓延する中で、1947年(昭和22年)に作家織田作之助や漫才師ミスワカナがヒロポンの大量摂取により死亡したと報道されると(両名の死因については諸説あり)[146]、世間の注目度が増して、ようやくその毒性についての研究が進むことになった。同年の内科学会においては「一般健康人が本剤を使用するのは大いに注意する要がある。我々の調査でも本剤は習慣性があり投與量増加しなければ効果なく、又疲労感は一時的にはないが後より強い疲労現はれ、注意散漫し集中的な仕事は出来ない。中事生等盛んに試験中にのんでゐるが尿意を常に催し、集中した勉強は出来ない」「私は本剤の如きは飽迄、医師の監督の下に慮方し又剤薬として管理される要あるを提唱する」と、学生が受験勉強用に飲用するなど、国民が広く使用している実態と、毒性に対して効果は限定的であり、医師の管理の元に使用すべきとの提言もなされている[31]。
ヒロポンが社会問題化するなかで、その規制が本格的に議論されるようになるのは、1949年(昭和24年)に入ってからとなった。10月24日の参議院厚生委員会において、ヒロポンに対する言及が初めて行われたものの、その後の11月25日の参議院本会議においては「この頃はやるヒロポンの注射であるのでありまして、果して結果がいいかどうか。これはその麻藥を使用するところの医者が藪医者であるか名医であるかに全くよるのでありまして、」と処方次第との答弁があっている[147][31]。このヒロポンは医学的には有用であるという見方は、規制反対派の論拠となり、1950年(昭和25年)12月8日付読売新聞社説「編集手帳」においては「ヒロポン禍は事実である」としながらも、「ヒロポンそれ自体が有害なのではない。それが医療の範囲を超えて乱用されたことに問題がある」と原因はヒロポンでなく悪用する方だと指摘し「近代科学に目をそむける未開人の意識であり、科学に対する野蛮な鎖国である」などとヒロポンの全面的製造禁止法案の議論を進める国会に釘をさしている[148]。
しかし、根強い有用論はあっても、国会でヒロポンが取り上げられてからは、規制の方向に大きく舵をきられていくこととなる。厚生省も着々と規制を進めており、1949年3月に薬事法の施行規則改正でヒロポンなどの覚醒剤を劇薬に指定すると、生産数量を旬報で報告をさせるなどの措置を講じ[149]、9月には、メタンフェタミンとアンフェタミンそれぞれの錠剤を「国民医薬品集」から削除して、製造を厚生省大臣の許可制とした。さらに、10月には各都道府県知事あてに事務次官通牒発出し、製薬業者に注射剤の製造自粛を勧告したが、それまでの生産分のストックや密造によって市中には大量のヒロポンや他社の覚醒剤が流通しており、乱用に歯止めがかからなかった。当時、都市には戦火で身寄りを失ったいわゆる浮浪児が多数路上生活していたが[150]、その浮浪児のヒロポン乱用は止まらず、40~50本も乱用しているような子供もいたという[151]。
大東亜戦争期の日本本土空襲により多く発生した戦災孤児に端を発する浮浪児や不良少年らは、ヒロポン欲しさに犯罪を犯すようになっていたので、ヒロポンが少年犯罪激増の元凶となっていた。1949年(昭和25年)の警察の見解として「少年ヒロポン患者薬代欲しさから盗みやユスリ・・都内に『ヒロポン禍』が目立ってふえ、とくにこれに伴う青少年犯罪が激増しつつある」「恐るべきヒロポン禍薬欲しさのスリ窃盗犯罪青少年の半数は中毒」「青少年のカクセイ剤中毒患者は毎年増加の傾向にある、法規制の改正により製造を中止する以外ない」という発表があっている[152]。1949年に警視庁保安部が補導した青少年のうち半数がヒロポン中毒であり、補導されていない青少年を含めると、東京都内だけでも青少年のヒロポン中毒者は15,000人に達すると予想された。それでも恐るべき数であったが、翌年の1950年になると、文部省の推計でその数は倍の30,000人なった[143]。2022年(令和4年)で日本全国で検挙された覚醒剤事犯の検挙者数は6,289人であり、東京都内の青少年のみでその約5倍のヒロポン中毒者がいたことになる[153]。
そして、ヒロポンなどの覚醒剤規制を決定づける凶悪少年性犯罪が発生する。1949年から1950年(昭和25年)にかけて埼玉県で少年百数十名による集団強姦事件が発生したが、検挙された加害者の少年の殆どが、ヒロポンと同じメタンフェタミン製剤「ネオアゴチン」の常習者であり、過度の使用の結果いずれも中毒症に陥り、幻覚、幻聴、被害妄想の症状が現れていることが判明、また、捜査の過程で「ネオアゴチン」の製造が厚生大臣から認可された販売制限量を超えていたことも判明し、製造会社は薬事法違反の行政処分を受けている[154]。この凶悪事件は世間を震撼させて、覚醒剤の害悪性を広く国民に知らしめることとなった[155]。
少年の集団強姦事件が明るみに出た直後の1950年(昭和25年)2月、厚生省薬務局は「医師、歯科医師又は、獣医師の処方せん又はその指示」がなければ覚醒剤は購入できないという、当時の薬事法(現・薬機法)で可能なもっとも厳しい規制を決定した。しかし、これでも効果は限定的なもので、浮浪児らヒロポン中毒の少年たちは、劇薬として医師の処方箋や指示がないと入手できなくなったヒロポンを、薬局などを脅迫して入手したり、医師に対しても頼み込んだり、ときには脅迫までして1か月~1年といった長期に渡る処方箋や指示書を発行させて覚醒剤を入手し続けた[155]。
現行法では対応できないのは明らかとなっており、全面的な禁止に向けて新たな法律の制定が必要という認識が国会内にも広まっていった。参議院厚生委員会を中心に議論が深まっていったが、衆議院大蔵委員会の公聴人質疑において、朝鮮戦争特需への対応で、特に製鉄所や造船関係の工場では、深夜残業が当たり前となっており、工場労働者に会社側がヒロポンを支給させて長時間勤務を強いているという実情も明らかにされた。覚醒剤問題は、少年犯罪だけでなく労働環境の悪化の元凶ともなっており、国による早急な対応が求められた。そして、ついに1951年5月18日、覚せい剤取締法案が参議院厚生委員会の議員4人を発議者として国会に提出され、6月13日には衆議院本会議で可決し、30日に公布され、同年 7月30日に施行された[156]。同法により日本では「限定的な医療・研究用途での使用」を除き、覚醒剤の使用・所持がすべて厳禁されている[注釈 2]。
覚せい剤取締法が施行されても、覚醒剤中毒者による凶悪事件は後をたたず、1954年(昭和29年)4月19日に、授業中の小学校内で生徒が覚醒剤中毒者によって殺害されるといった衝撃的な文京区小2女児殺害事件が発生。さらに同年6月25日には中毒者が通行人5人を川に投げ落として幼児3人が死亡する事件も発生[157]するなど中毒者による殺人事件が続発、より取り締まりが強化されていくこととなった[158]。 同年10月、警視庁は「ヒロポン撲滅運動」を開始。同年11月19日には、ヒロポンの一大集散地となっていた御徒町の親善マーケットを警察官600人で急襲。密造、使用違反で3900人を検挙した[159]。 この年、販売組織などを通じた調査が行われ、全国の常習者は285万人と推定された[160]。
ヒロポンは#効能・効果に記載の通り、覚せい剤取締法における「限定的な医療・研究用途での使用」としてナルコレプシーや鬱病などの症状の治療を目的に、2025年時点においても[161]、大日本製薬と住友製薬株式会社が合併した大日本住友製薬(現:住友ファーマ)によって生産・販売が続けられ、日本薬局方上は処方薬(処方箋医薬品)の覚醒剤として残っている。その投与方法は、1回2.5〜5mg、1日10〜15mgを経口投与するとされているが、重要な注意事項として「反復投与により薬物依存を生じるので、観察を十分に行い、用量及び使用期間に注意し、慎重に投与すること」「本剤投与中の患者には、自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること」「治療の目的以外には使用しないこと」が徹底され、厳格な管理のもとで使用されている[162]。ヒロポン1mgは2026年3月31日に経過措置期限を迎え、以降は保険適用外となる[163]。
