レオ・ゴメス
プエルトリコのプロ野球選手 (1966 - )
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レオナルド・ゴメス・ベレス(Leonardo Gómez Vélez , 1966年3月2日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(内野手)。
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ボルチモア・オリオールズ時代 (1993年4月5日) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1966年3月2日(60歳) |
| 身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 180 lb =約81.6 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 三塁手、一塁手 |
| プロ入り | 1985年 アマチュアFA |
| 初出場 |
MLB / 1990年9月17日 NPB / 1997年4月4日 |
| 最終出場 |
MLB / 1996年9月29日 NPB / 2002年7月3日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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1997年から2002年まで6シーズン、NPB(セントラル・リーグ)の中日ドラゴンズに所属。1997年・1999年にはシーズン30本塁打以上を記録し、1999年には中日のセ・リーグ優勝に貢献した。中日時代の通算成績は660試合出場、2355打数、690安打、打率.293、153本塁打、449打点。
中日入団前はレオ・ゴーメッツ[1]とも表記されていた。
経歴
メジャー昇格まで
1985年12月、ルイス・エルナエス・ネボネス高校からボルチモア・オリオールズにドラフト外入団した[2][3]。兄のマルコもミルウォーキー・ブルワーズのマイナーリーグ球団でプレーしたが、成功しなかったという[2]。
1987年にはマイナーリーグA級ヘイガースタウンで打率.326を記録し、カリフォルニアリーグの首位打者を獲得した[3]。また1989年にはAA級イースタンリーグの三塁手として最多補殺数(257個)を記録した[2]。
1990年にはAAA級ロチェスターでインターナショナルリーグの打点王(97打点)を獲得し、同リーグの三塁手として最多併殺参加(26回)を記録した[3]。また同年にはAAAで3打席連続本塁打も記録している[4]。
オリオールズ時代
1990年にオリオールズでメジャー初昇格を果たすと、12試合に出場して39打数9安打、打率.231を記録した[2]。同年から1995年までに、オリオールズの三塁手としてはブルックス・ロビンソン、ダグ・デシンセイに次ぐ球団史上3位となる443試合に出場している[2]。
1991年には118試合に出場、391打数91安打、打率.233、16本塁打、45打点を記録した[2]。
1992年も137試合に出場、468打数124安打、打率.265、17本塁打、64打点を記録した[2]。
1993年は71試合と出場機会を減らし、244打数45安打、打率.197と低迷したが、10本塁打、25打点を記録した[2]。
1994年には84試合に出場、285打数78安打、15本塁打、56打点を記録[2]、特に得点圏打率.379、満塁時の打率.571、7回以降2点差以内という状況では打率.341と、勝負強さを発揮していた[5]。また守備面でも、アメリカンリーグの三塁手として2位となる守備率.975を記録した[3]。
1995年6月に右足首を捻挫し[5]、同年はその影響で53試合の出場に終わり、127打数30安打、打率.236、4本塁打、12打点の成績にとどまった[2]。また出場機会の減少については、当時の監督であったジョニー・オーツから好まれなかったためであるという報道もある[2]。
カブス時代
1995年オフにはオリオールズを解雇された[2]。中日ドラゴンズは1996年2月までに、NPBコミッショナーを通して3人の外国人選手を身分照会していたが[6]、この時にゴメスもリストアップされていたと報じられている[3]。しかし、中日は1993年から1995年にかけ、ブルック・ジャコビー、ディオン・ジェームズ、メル・ホールと3年連続で故障のある外国人選手を獲得して失敗に終わってきたことから、候補選手の故障歴などを徹底的に調べ、足首の故障の治療が長引く心配があったゴメスの獲得は見送り、ダネル・コールズを獲得した[7]。また同年には読売ジャイアンツ(巨人)も新外国人候補の一人としてゴメスをリストアップしていたが、最終的にはジェフ・マントを獲得した[8]。
1996年はシカゴ・カブスに在籍し、136試合に出場して362打数86安打、打率.238、17本塁打、56打点を記録した[2]。同年、故郷プエルトリコで開催されたウィンターリーグでは、中日入りが発表された12月18日までに30試合に出場し、打率.270、8本塁打、23打点を記録しており、本塁打・打点ではいずれもリーグトップであった[2][9]。同年までのMLBにおける通算成績は611試合出場、1916打数、466安打、打率.243、79本塁打、259打点、4盗塁[5]。
中日時代
1996年12月18日、金銭トレードで星野仙一が監督を務めていた中日に入団することが発表された[9]。移籍金は1000万円で、入団時の契約内容は契約金2000万円、年俸1億2000万円だった[2][9]。契約期間は1997年シーズンの1年だったが[2][9]、球団側に2年目(1998年)の契約更新を選択する権利があった[10][11]。
同年の中日打線は「強竜打線」と評された一方で「四番不在」とも言われていたことから、中日は同年オフ、新外国人として「四番を打てるスラッガー」か「攻・走・守三拍子そろったスピードのある選手」を求め[2]、打率.302、29本塁打と安定した力を発揮したコールズを足の故障などを理由に解雇し、それに代わる新外国人として四番を任せられる三塁手を探し、ゴメスを獲得した[3]。また前述のように一度獲得を見送った経緯もあったが、1996年シーズンの活躍から故障は完治したと判断、獲得に踏み切った[5]。同年オフにはMLBの球団数が28から2つ増え、30に拡張されることが決まっていた(1997年のMLBエクスパンションドラフトも参照)ことから、新外国人選手は例年より「小粒」と評されていたが[12]、ゴメスはマイク・グリーンウェル(阪神タイガースに入団)やマーク・キャリオン(千葉ロッテマリーンズに入団)とともに、数少ないMLBで一応の実績を残している選手だった[13]。
1997年
ゴメスは来日1年目の1997年から、勝負強い打撃で主に四番打者として活躍した。同年5月5日の対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)では1点リードの5対4で迎えていた7回表、高津臣吾から満塁本塁打を放つなど、4安打でチームの勝利に貢献した[14]。同年10月1日の対ヤクルト28回戦(ナゴヤドーム)では5対5の同点で迎えていた9回裏、二死一塁で岩崎久則から30号サヨナラ2点本塁打を放った[15]。翌2日の対横浜ベイスターズ25回戦(ナゴヤドーム)でも、2点ビハインド(2対3)で迎えた8回裏の打席で西清孝から逆転31号2点本塁打を放ち、これが決勝打となった[16][17]。
同年のチームは、本拠地をナゴヤ球場からグラウンドが広いナゴヤドームに移転した直後で、その適応に苦しみ、セ・リーグ最下位に低迷したが、ゴメスはそれを苦にしない長距離打者として135試合に出場し、打率.315、31本塁打、81打点、OPS.966と好成績を残した[18]。打率・本塁打・打点の全てがチームトップであり[10]、特に本塁打数は本塁打王のタイトルを獲得したドゥエイン・ホージー(ヤクルトスワローズ:38本)、松井秀喜(読売ジャイアンツ〈巨人〉:37本)、金本知憲(広島東洋カープ:33本)、清原和博(巨人:32本)に次ぐリーグ5位で、チーム最多だった[19]。また来日1年目に30本塁打以上を記録した中日の外国人選手は、ジーン・マーチン、ゲーリー・レーシッチに次いでゴメスが3人目であった[15]。このような好成績から三塁手部門でセ・リーグのベストナインに選出され[20]、また球団はゴメスが家族の暮らすアメリカ合衆国へ帰国する同年10月7日以前に契約延長を決定していた[10]。
しかし、戸部良也はゴメスが本塁打の出にくいナゴヤドームを「モンスターだ」と恐れていた旨を述べている[21]。また同年のチームの低迷の要因としては、ゴメス以外に主軸打者を担っていた大豊泰昭、アロンゾ・パウエル、山崎武司がいずれも低迷していたことが挙げられており、『中日スポーツ』は同年にセ・パ両リーグでそれぞれ優勝を果たしたヤクルトや西武ライオンズには四番打者の古田敦也や鈴木健だけでなく、彼らとともに主軸を打ったドゥエイン・ホージーやドミンゴ・マルティネスといった強打者がいたことと比較する形で、四番打者1人の活躍だけではチームは浮上できないと指摘していた[22]。
走者別の打撃成績内訳は、走者なしで打率.305(269打数82安打)、17本塁打、17打点、一塁のみの場合は打率.371(105打数39安打)、8本塁打、18打点、二塁のみの場合は打率.250(28打数7安打)、2本塁打、8打点、一・二塁の場合は打率.279(43打数12安打)、1本塁打、12打点、三塁のみの場合は打率.400(10打数4安打)、0本塁打、4打点、一・三塁の場合は打率.313(16打数5安打)、2本塁打、14打点、二・三塁の場合は打率.000(2打数0安打)、0本塁打、0打点、満塁の場合は打率.300(10打数3安打)、1本塁打、8打点であった[22]。得点圏打率では打率.284、6本塁打、46打点の打撃成績だった[23]。なお守備では全135試合で三塁手として出場した[24]。
1998年
1998年は大豊、パウエルが放出されたチームにあって、ゴメスは山崎とともに本塁打を量産できる数少ない打者として期待された[25]。開幕直後の4月は打率は低かったものの、リーグトップの6本塁打を記録していたが、5月以降はしばしば左膝を痛め、打線は6月末まで得点数がリーグ最低に陥っていた[26]。体重増が裏目に出て膝を故障したため、シーズン中2度にわたって戦線離脱した[27]。5月13日の対阪神タイガース戦(石川県立野球場)[28]まで全31試合で四番打者として出場、打率.202、6本塁打を記録していたが、同日の試合の守備中に左足をひねって途中退場し、左足内転筋損傷で全治2 - 3週間と診断されたため、翌14日に出場選手登録を抹消された[29]。6月2日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)から20日ぶりに戦線復帰したが、その際は四番打者は山崎が担い、ゴメスは五番打者として起用された[30]。その試合では12試合ぶりの戦線復帰となり、5回裏に田畑一也から勝ち越し3点本塁打を放った[31]。同月5日の対巨人戦では槙原寛己・野村貴仁の継投リレーの前に0対1で敗れた際、打撃コーチの水谷実雄から李鍾範、山崎、立浪とともに「おまえたちが打たないとだれが打つんだ!」と叱咤されたが、同月16日の対巨人12回戦(東京ドーム)では同年の9回表の打席で、三澤興一から10号満塁本塁打を放ってチームの逆転勝利に貢献、チームは4月15日以来2か月ぶりにセ・リーグ首位に立ち、自身も当時リーグトップとなる8個目の勝利打点を挙げた[32]。また同月18日の対巨人14回戦(東京ドーム)では9回表に川口和久から11号1点本塁打を放ったが[33]、この打球はバックスクリーンへ入ったかどうか微妙であり、一度はフェアと判定され、跳ね返ってグラウンドに戻った球を処理した中堅手の松井が二塁へ送球、ゴメスは二塁上でアウトを宣告されたものの、この判定に中日監督の星野が抗議した結果、審判団の協議の末に本塁打と判定されたものである[34]。しかし同月27日の対広島12回戦で5回裏の攻撃中、本塁突入の際に相手捕手の瀬戸輝信と衝突して左膝を負傷し[28]、翌28日には再び出場選手登録を抹消され[35]、同日の対広島13回戦(ナゴヤドーム)では四番打者として一塁手の山﨑が、また五番打者の立浪和義が三塁手として先発出場した[36]。この時の負傷箇所は5月と同じ箇所で[28]、当初は全治2週間と診断されていたが、回復は早く、7月5日から一軍練習に合流した[37]。同年にはシーズン途中で転倒した際、右膝の靭帯を損傷し、それ以降は膝の故障に悩まされるようになる[38]。
6月終了時点では打率.237と低迷していたが[39]、7月7日には二軍(ウエスタン・リーグ)の対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)で四番打者・三塁手として先発出場、1二塁打を含む3打数2安打1打点の結果を残し[40]、翌8日の対ヤクルト13回戦(ナゴヤドーム)で戦線復帰し、四番打者・三塁手として先発出場した[41]。この試合では初回に先制二塁適時打を放ち、3回にも二死三塁から右前打を放った[42]。同月に入ってから復調し[39]、前半戦終了(同年7月20日)時点では打率.248、13本塁打の成績であり、本塁打数は松井(20本塁打)、江藤智(17本塁打)、前田智徳と清原(各14本塁打)に次ぎ、池山隆寛やチームメイトの山崎と並ぶリーグ4位タイであった[43]。後半戦には勝負強さを発揮し、打率も9月10日時点で2割8分台まで上げてきた[44]。9月3日時点では打率.277、チームトップの23本塁打、67打点の成績を残し、チームがセ・リーグ優勝争いを繰り広げる原動力になっていたことから、球団代表補佐の児玉光雄から「貴重なポイントゲッター。来年以降も長い目で見ていきたい」とコメントされ、翌1999年シーズンの残留の内定を得ていた[39]。しかしチームが横浜とリーグ優勝争いをしていた同月には[27]、18試合で2本塁打、3打点の成績に終わり、これが原因でチームは横浜に振り切られて優勝を逃す結果となった[45]。星野はこの不振の要因について、シーズン途中で翌シーズンの契約を明言したことが要因になったためではないかと述べている[45]。
シーズン通算では2度の故障による戦線離脱がありながら、116試合に出場して打率.274、26本塁打、76打点と及第点の成績を記録した[46]。本人曰く、前半戦は故障が多くチームに迷惑をかけたが、後半戦では満足な成績を残せたという[46]。本塁打数は同年のセ・リーグの外国人選手としては最多で[47]、リーグ全体でも本塁打王を獲得した松井(34本)や江藤(28本)、そしてチームメイトの山崎(27本)に次ぐ4位であった[48]。また満塁本塁打を2本[49]、勝利打点もリーグトップの山﨑 (16) と2点差の14を記録するなど、勝負強さも示した[50]。守備では三塁手として114試合に、一塁手として3試合に出場した[51]。同年10月11日に帰国したが、その前に現状維持となる年俸1億5000万円で翌シーズンの契約を締結していた[46][52]。
1999年
1999年は前年の故障を踏まえ、減量して春季キャンプに臨んだ[18][53][54]。1998年シーズン終了時の体重は98 kgだったが、1999年の北谷春季キャンプ合流時の体重は7 kg減の91 kgだった[55]。打撃フォーム改造にも取り組んだ[18]。それが功を奏し、オープン戦から打率4割超、6本塁打と好成績を残し、開幕後も四番打者として中日打線を牽引した[18]。
同年、チームは開幕11連勝の好スタートを切った一方、自身は開幕から12試合連続で本塁打を打てずにいたが[56]、4月18日に東京ドームで開催された対巨人3回戦では[注 1]、シーズン53打席目となった2回表の打席で[57]、先発投手の岡島秀樹からシーズン初本塁打となるソロ本塁打、3回表にも岡島から2打席連続となる3点本塁打を放った[4]。これにより、チームは同回終了時点で5対0と大量リードを果たしたが、その裏の守備で、二死満塁の場面で清原和博の三塁ゴロをトンネルしてしまう[4]。これがきっかけで、チームは同回に6点を失い、先発投手の鶴田泰がノックアウトされてしまった[47]。しかし5回表、「鶴田に悪いことをした」[47]「(自身の失策を)なんとかしたい」と第3打席に立ち、岡田展和から3打席連続となる再逆転2点本塁打を打った[4]。その後、8回表には二死満塁で5打席目を迎え、ここで満塁本塁打を打てばNPBどころかMLBでも史上初となる「サイクル本塁打」(サイクルホームラン)が達成されるところであったが、空振り三振に倒れ、記録達成はならなかった[56]。それでもこの試合で来日後初めて3打席連続本塁打を記録した[53]。また巨人相手に3打席連続本塁打を記録した打者は1965年の興津(広島)、1970年のカークランド(阪神)、1973年の田淵幸一(阪神)、1981年の宇野勝と谷沢健一(ともに中日)、1997年の小早川毅彦(ヤクルト)に次いで7人目、中日の打者としては3人目だった[57]。
その後、4月下旬から5月にかけて調子を落とした時期もあった[53]が、5月22日の対ヤクルト8回戦(ナゴヤドーム)では1997年10月1日の同カード以来、中日では通算2本目のサヨナラ本塁打を放ち、チームにシーズン初のサヨナラ勝ちをもたらした[58]。なお、この本塁打はチームにとってシーズン初のサヨナラ本塁打でもあった[59]。その後は復調し、6月27日の横浜戦(ナゴヤドーム)では自己最速となる65試合目で20号本塁打に到達した[60]。7月21日の対巨人戦(東京ドーム)では岡島から27号本塁打を放ち、巨人戦で打った本塁打を11本としたが、これは1968年の江藤慎一と並ぶ球団タイ記録であった[61]。翌22日の前半戦終了時点では、松井の28本塁打に次ぎ、横浜のロバート・ローズと並んでリーグ2位の27本塁打を記録していた[62]。8月18日の対巨人20回戦(ナゴヤドーム)では[63]、1回裏[64]、斎藤雅樹から29号3点本塁打を放ち[63]、球団新記録となる対巨人戦シーズン12本塁打を記録したが、セ・リーグ全体では1984年に阪神の掛布雅之以来、15年ぶり7人目の快挙だった[64]。この試合までは14試合で1本塁打、4本塁打と不調に陥っていたが、この試合がきっかけで復調したと評されており、また同年はこの試合までに対巨人戦20試合で打率.382、12本塁打、24打点の成績を残していたため、同カードだけなら三冠王間違いなしの活躍と評されていた[65]。
前年とは異なり、シーズン中に残留内定を通告されることはなったが、9月に入ってからも好成績を残し続け[45]、同月は6本塁打、26打点の成績で自身初の月間MVP(セ・リーグ野手部門)を受賞した[66]。同月16日の対巨人最終戦となる27回戦(ナゴヤドーム)では、斎藤雅樹から31号本塁打を放った[63]。これは同年の対巨人戦13本目の本塁打であり、江藤の記録を塗り替える球団新記録にして、1980年の山本浩二に並ぶセ・リーグ2位タイ記録でもあった[67]。同月17日の対横浜23回戦(横浜スタジアム)では4回表に戸叶尚から自己最多となるシーズン32号3点本塁打を放った[68]。チームの本拠地ナゴヤドームでの最終戦となった同月26日の対阪神25回戦では1回裏、川尻哲郎から先制適時打を放ち、中日入団後初のシーズン100打点に到達した[69]。同月28日の対ヤクルト24回戦(明治神宮野球場)では決勝の35号2点本塁打を記録、チームがセ・リーグ優勝へのマジックナンバーを3として迎えていた翌29日の対ヤクルト25回戦(明治神宮野球場)では2点リードを許していた6回表の二死満塁の場面で迎えた打席で、五十嵐亮太から走者一掃の逆転決勝適時打を放つと、続く7回表にも36号3点本塁打を放ち、1人でチームの全得点となる6打点を記録し、チームの優勝へのマジックナンバーを1まで減らすと同時に、打点をシーズン通算108まで増やし、ジーン・マーチンが1976年に記録していた外国人選手としての球団記録である104打点を更新した[70]。
最終的には133試合に出場し、打率.297、36本塁打[71]、OPS.959[18]、そしてリーグ3位の109打点を記録[71]。36本塁打は、本塁打王を獲得したヤクルトのロベルト・ペタジーニ(44本)、松井(42本)、ローズ(37本)に次ぎ、広島の緒方孝市と並んでリーグ4位だった[72]。打点はジーン・マーチンが1976年に記録したそれまでの外国人選手の球団記録である104を上回り[66]、球団外国人選手の最高成績を樹立[27](2006年にタイロン・ウッズが144打点で記録更新)で、同年の中日のリーグ優勝に貢献した[18]。特に優勝争いをしていた巨人戦に強く、27試合で打率.359、13本塁打、28打点を記録したが、巨人戦シーズン13本塁打は球団史上最高で、NPB史上でも1973年に田淵幸一(阪神)が記録した16本塁打に次ぐ歴代2位だった[45]。巨人戦11本目を打った同年7月21日時点では、桑田真澄から5本塁打、岡島から3本塁打を記録しており[61]、桑田相手にはシーズン通算打率.444と好成績を残していた[73]。また巨人の本拠地である東京ドームでは6本塁打、14打点と好成績を残していた[74]。1997年から同年まで3年連続で20本塁打を記録したが、中日が本拠地をナゴヤ球場からナゴヤドームへ移転した1997年以降で、3年以上連続で20本塁打以上を記録した選手はゴメスが初である[75]。守備面では111試合で三塁手、63試合で一塁手として出場した[76]。同年はセ・リーグ三塁手部門で自身2度目のベストナインに選出されたが、ペタジーニが選出された一塁手部門でも2票を獲得した[77]。
2000年
2000年の開幕直後は不振で、4月は打率.178と、規定打席到達者最下位に低迷していたが、5月に復調して打率.344、6本塁打、23打点を記録、来日2度目となる月間MVP[78]を受賞[79]。同月17日の対横浜10回戦(横浜スタジアム)では1回表、2死一塁の場面で小宮山悟から推定飛距離145 mの2点場外本塁打を放ち、8回1死の場面でも小宮山から推定飛距離150 mの場外本塁打を放ったが、これは自身にとってシーズン初の1試合2本塁打であり、また横浜スタジアムでの1試合2場外本塁打は1989年8月13日に阪神のセシル・フィルダーが記録して以来であった[80]。同年7月28日にはナゴヤドームの対巨人戦でサヨナラ打を放ったが、チームはこれ以降、翌2001年5月11日(後述)までナゴヤドームで巨人相手に1分けを挟んで7連敗を喫していた[81]。8月に寝違えにより、頸椎を捻挫した[82]。
最終的には打率.289、25本塁打、79打点の成績を残した[79]。本塁打、打点はチームトップで、前年までに引き続き、4年連続でシーズン20本塁打以上を記録した[79]。同年は一塁手として51試合[83]、三塁手として109試合に出場した[84]。
2001年
中日退団と復帰
ゴメスは2000年9月26日にかねてからの腰の痛みから出場選手登録を抹消され、その治療を兼ねて27日にはシーズン終了を待たずに帰国したが[85]、それまでの3シーズンとは違い、翌2001年シーズンの契約を行わないまま帰国していた[86]。球団は翌シーズンもゴメスと契約する方針だったが、2000年10月5日、アメリカに住む長男の教育問題や、膝・背中の故障などを理由に退団することを発表した[18][79]。
2001年はピッツバーグ・パイレーツのキャンプに参加し、MLB復帰を目指していたが、開幕直前に解雇され、マイナー行きを拒否してFAとなっていた[87]。その後は故郷・プエルトリコでトレーニングをしていたが[88]、古巣の中日から復帰のオファーを受け、同年4月21日に中日への復帰が発表された[87]。当時、中日は新外国人のティム・アンローやオジー・ティモンズを含めて打線が不振で[87]、アンローは開幕から二軍暮らしが続いており、オープン戦では好調だったティモンズも開幕後は不振に陥り、4月23日時点ではスターティングメンバーを外されていた[89]。当時は三塁手は福留孝介の定位置になっており、また一塁手は山﨑と同年からチームに復帰した大豊が起用されていた[89]。中日からの提示条件は年俸80万ドル(当時の為替レートで約9600万円)だった一方、韓国プロ野球のサムスン・ライオンズからも年俸100万ドル(約1億2000万円)の契約条件でオファーを受けていたが、家族の暮らしやすさを考え、サムスンからのオファーを断って中日復帰を選んだ[74]。
復帰後
4月28日に再来日し、同年5月3日に碧南市臨海公園グラウンドで開催されたウエスタン・リーグトーナメント碧南大会の中日対サーパス神戸戦で復帰後初出場を果たした。パイレーツのオープン戦に出場してから約1か月のブランクがあったため、星野は当初、最低5試合は二軍戦で起用してから一軍昇格の是非を検討する方針だったが[90]、チームの打線が深刻な不振に陥っていたため、5月3日の二軍戦に出場しただけで4日に一軍昇格[91]。同日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)から試合に出場した[91]。このような経緯から、首脳陣はゴメスに実戦勘を取り戻させるため、一軍昇格直後の同月8日にはデーゲームで開催された二軍の対広島戦(ナゴヤ球場)に出場させ、同日夜の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)にも出場させるという形(いわゆる「親子ゲーム」)で調整を行わせた[92]。
ゴメス加入を受け、不調だったティモンズも5月10日時点では、ゴメスの来日以降は打率.313、一軍合流後は打率.333と好成績を残していた[93]。同月11日の対巨人戦(ナゴヤドーム)では、3回裏に三沢興一から決勝点となる2点適時打を放ち、復帰後初打点を挙げ、チームは前年から続いていたナゴヤドームでの対巨人戦の連敗を7で止めた[81]。同月13日の同カードでも2回裏に桑田から復帰20打席目で先制ソロとなる復帰後初本塁打を放ち、チームは2年ぶりにナゴヤドームで対巨人3連戦勝ち越しを決めた[73]。なお、同日の試合では5回裏にはベンチに下げられた山﨑に代わって三塁手から一塁手に守備位置を変更され、三塁手には守備固めとして福留が入った[94]。同月15日の対横浜戦(横浜スタジアム)では延長10回表に決勝打となる2点二塁打を放ったが、同日までに28打席で三振は0だった[95]。同月27日の対広島戦(ナゴヤドーム)では体調不良を訴えて途中交代し[96]、翌28日にはナゴヤドームで行われていたチーム練習を休んでいたが[97]、29日の対横浜戦(ナゴヤドーム)では3回裏の適時二塁打を含む4安打を記録した[96]。
同年6月3日の対ヤクルト戦(千葉マリンスタジアム)では2回表に高木晃次から先制3号1点本塁打を放ち、6回表にもジョナサン・ハーストから4号2点本塁打を放った[74]。なお、7月からは右膝の痛みをこらえながらプレーするようになり[98]、左膝も痛めてからは三塁手の守備に就けない状態になったため、夏場からは代打のみの出場や、一塁手としてのスタメン出場が増えていた[99]。その要因としては、一軍合流直後に試合に出場するようになったため、体が絞り切れておらず、当時は体重100 kgを超えていたことが挙げられている[99]。8月7日の対横浜戦(札幌ドーム)では10号1点本塁打を放ち、5年連続2桁本塁打を達成したが、同日の8回表の打席では三塁線を破る安打を打ったものの、膝痛のため一塁で止まっていた[100]。
同年は一塁手として48試合(最多は山﨑の102試合)、三塁手としてチーム最多の59試合(立浪が54試合、福留が51試合)に出場したが[101]、『中日スポーツ』では一塁手が定位置だったと報じられている[102]。同年9月17日までに打率.306、19本塁打を記録していたが[103]、同月16日の対巨人戦(ナゴヤドーム)でかねてから抱えていた右膝痛が激しくなり、残り17試合すべてでスタメン出場することが困難になったことや[104]、自宅が同月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件で標的となったペンタゴンから車で30、40分程度のボルティモアにあったことから、不安を抱いていた家族を支えたいという理由のため、同月16日にアメリカへ帰国、そのまま再来日することなくシーズンを終えた[103]。この右膝痛は1998年から悩まされてきたもので[105]、この年は右膝痛がひどく、特注のサポーターを着けてプレーしていた[38][106]。同年オフには年俸200万ドル(当時の為替レートで約2億4800万円)で中日と翌2002年シーズンの契約を締結した[107]。
2002年
監督が星野から山田久志に交代した2002年の北谷春季キャンプ前には膝への負担を減らすため[105]、膝の治療と並行してランニング、ウエイトトレーニング、食事管理などのダイエットを行い[99]、体重を約7 kg減量した[105]。同年2月の来日時点では、体重は前年のシーズン中より9 kg軽い92 kgだったと報じられている[102][99]。開幕前は、膝の状態に不安が残ることから三塁手ではなく一塁手としての起用も想定され[108]、その場合は山﨑や大豊泰昭、高橋光信との一塁手のポジション争いが想定されていた[109]。山田は二遊間を荒木雅博、井端弘和の2人で固定する構想だったため、一塁手と三塁手をゴメス・山﨑・立浪の3人に競争させることを構想しており[110]、ゴメスを一塁手として起用し山﨑を控えに回すか、ゴメスを三塁手として起用できる場合は立浪を控えに回すという構想[111][112]、またゴメスを一塁手、山﨑を三塁手で起用するという構想もしていた[113]。一方で山田の理想は一塁手として山﨑、三塁手としてゴメスを起用する者だったとする報道もあり、ゴメスも膝の調子が良ければ三塁手で出場することに意欲を見せていた[99]。膝痛は前年ほど深刻ではなかったため、特注品ではなく市販のサポーターを着用していたものの、試合後にはアイシングを日課にしていた[38]。
同年3月30日にナゴヤドームで開催された開幕戦の対ヤクルト戦では、4回裏に同点本塁打を放った福留に続いて藤井秀悟から勝ち越し本塁打を放ったが[114]、チームは逆転負けを喫した[115]。同年4月6日の対広島戦(広島市民球場)では、チームが苦手としていた黒田博樹から1回表、1死二、三塁の場面で3号先制3点本塁打を放ち[116]、翌7日の対広島戦(広島市民球場)で鶴田から[38]、2試合連続となる4号2点本塁打を放った[117]。同月9日の対横浜戦では三浦大輔から先制二塁適時打を放ったが、それから同月23日の対横浜戦(札幌ドーム)で8回表に適時打を打つまで39打席にわたって適時打を放てず、またその試合までの7試合では30打数3安打、打率.100と絶不調に陥っていた[118]。4月7日の試合から同月30日の対阪神5回戦(阪神甲子園球場)まで17試合にわたって本塁打が出ず[119]、翌5月1日の同6回戦では出場機会はなかった[120]。山田曰く、両膝の疲労が理由だといい[121]、スタメンを外されたのは同年では初だった[38]。同月4日の対ヤクルト6回戦(明治神宮野球場)で5回表、入来智から19試合、81打席ぶりとなる5号3点本塁打を放った[38]。同月11日の対横浜戦(横浜スタジアム)では稲嶺茂夫から推定飛距離130 mの6号1点本塁打を放った[122]。同月31日の対横浜8回戦(ナゴヤドーム)では、3回裏に2死二塁の場面で山田博士から左翼5階席に飛び込む推定飛距離140 mの11号2点本塁打を放った[123][124]。本人曰く、中日時代の6年間では最も大きい当たりだったといい、ナゴヤドーム関係者も開場6年目で初年度の1997年にパウエルが記録して以来の大きな打球ではないかと語っていた[123]。6月2日の対横浜戦(浜松市営球場)では8回無死一塁の場面で、斎藤隆から通算150本塁打に王手をかける12号2点本塁打を放った[125]。同月12日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で6回裏に井川慶から左越に同点となる13号1点本塁打を放ち、通算150本塁打を達成した[126]。中日の外国人打者の通算150本塁打はマーチン以来だった[126]。このころには膝の故障を抱えていたことから完全休養日を挟みながら試合出場を続けていたが、同月19日の対ヤクルト戦では、5回に坂元弥太郎から15号本塁打を放った[127]。58試合目での15本塁打達成は1999年と並ぶ自己最速タイだった[127]。同月24日の対横浜13回戦(横浜スタジアム)では、杉本友から8回表に16号3点本塁打を放ったが[128]、同日までに放った全16本塁打のうち、14本は2点差以内の場面で放ったものだった[129]。またこの時点ではジョージ・アリアスの18本塁打に次ぐリーグ2位の16本塁打を記録していたが[130]、一方でこのころには右膝痛が悪化しており、試合前の守備練習にも参加しておらず[129]、木俣達彦からは適度な休養が必要と評されていた[128]。また、この本塁打は結果的に同年、そして中日時代に放った最後の本塁打となった。
7月3日の対巨人戦(東京ドーム)で[131]、試合中に打席に立っていたところ、右膝を捻って痛め、4日に出場選手登録を抹消される[132]。この怪我は古傷とは異なる場所が患部であり、当初はオールスターゲーム明けには復帰できると見られていたが[132]、その後も経過が思わしくないため、7月11日に右膝の精密検査を受けるためアメリカに帰国したが、この時には家族全員を引き連れ、家財道具もすべて持って帰国していた[133]。帰国後、8月14日に手術した[134]。離脱した時点の7月3日時点では、セ・リーグの本塁打数ランキングではアリアスの18本塁打、ペタジーニの17本塁打に次ぐリーグ3位の16本塁打を記録しており[135]、帰国直前の同月10日時点でもペタジーニの20本塁打、アリアスと松井の18本塁打に次ぎ、エディ・ディアス(広島)と並んでリーグ4位タイだった[136]。
結局同シーズンは66試合に出場したのみで[137]、16本塁打、43打点に終わった[138]。同年は一塁手として63試合[注 2]、三塁手として11試合に出場した[140]。山田はゴメスが戦線離脱して以降、一塁手のレギュラーを固定できなかったと語っている[141]。
10月1日の『中日スポーツ』の記事で、同年限りでの退団が決定的となったことが報道され[142]、11月23日に翌年の契約を結ばないことが正式に発表された[143]。同年限りで現役を引退した[18]。
引退後
2010年時点では、オリオールズ傘下のマイナー球団でコーチをしていた。同年8月17日、オリオールズ対マリナーズ戦を星野が訪問した際、再会を果たす[144]。
選手としての特徴
中日入団前は打率のキャリアハイは1994年の.274だった一方、1992年に17本塁打を記録するなど、7年間で5回の2桁本塁打を記録しており、安打の3分の1以上が本塁打であった[5]。初来日時からパワフルな打撃が長所とされていた一方、打撃に安定感があるとも評されていたが、1996年シーズンは打率が.238と低調だったことから、来日当初は後者の評価については疑問を呈する声もあった[12]。その打撃はアッパースイングであり、ほとんどゴロを打たないとも評されていた[2]。中日入団後は、巨人の本拠地球場である東京ドームについて「この球場は好き。ボールがよく伸びるからね」と語っていた[145]。
また守備でも安定感があり、強肩であるとも評されていた[2]。一方で来日前はMLBで7シーズンプレーして5回故障者リスト入りしていること、1993年から1996年までの4年間で1996年の1盗塁のみと足が遅いことが懸念事項として挙げられていた[2]。
中日時代、2002年5月4日までに記録した142本塁打の球場別内訳は中日の本拠地であるナゴヤドームで46本、東京ドームで21本、明治神宮野球場で16本、広島市民球場で15本、横浜スタジアムで13本、阪神甲子園球場で12本であった[38]。
NPBで使用したバットは880 gの軽量バットで、最終年の2002年に同時に所属したオマール・リナレスも同型を用いていた[146]。
人物
妻子は1999年時点で、妻(当時29歳)、長男(同8歳)、そして1998年12月に誕生した長女(同4か月)の3人で、長女誕生直後の1999年は妻とできるだけ長く一緒にいるため、春季キャンプには遅れて合流していた[57]。またナゴヤドームでの練習時にはよく長男を連れてキャッチボールをしていたという[57]。
趣味は水上オートバイである。明るい性格で知られ、「陽気なプエルトリカン」の愛称で呼ばれ、子供のファンも多かった一方、日本人投手への対策を真剣に練る一面もあった[18]。また真面目な性格で、飲酒も喫煙もしなかったという[2]。
敬虔なクリスチャンでロッカーで聖書を読んでいたり、将来の夢は牧師になることと語る。また、試合前にグレゴリオ聖歌を聞き、心を落ち着けていた。試合前には息子と遊ぶなど、家族とスキンシップを取っていた[127]。
好調時はヒゲを伸ばし続ける験担ぎを行っていた。
女優の武井咲はゴメスのファンであったことを公言している[147]。そのため、2012年の開幕戦で武井が始球式[注 3]を務めた際には、中日の応援団がゴメスの応援歌を演奏していた。なお、この応援歌はゴメス入団の前年に在籍していたコールズの曲の流用である。また、この年には10年ぶりに来日し、11月29日にTBS系列で放送された『ひみつの嵐ちゃん!』内のコーナー「嵐シェアハウス」に宅配業者役で登場し、同番組にゲスト出演していた武井と初めて対面した[147]。
東海オンエアのてつやが大ファンであり、1997年から2002年までの中日ドラゴンズの選手しか言わないネタで、登場回数が多いのがレオ・ゴメスである。
1997年のみ中日でチームメイトになったアロンゾ・パウエルとは顔見知りで、来日に関して相談し合ったという[2]。パウエルからは「耐えることが成功するコツ」と教えられており、自身もメルビン・バンチ、エディ・ギャラード、スコット・ブレットといった後輩外国人選手たちにそれを教えていたという[123]。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990 | BAL | 12 | 48 | 39 | 3 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | 7 | 0 | 2 | .231 | .362 | .231 | .592 |
| 1991 | 118 | 445 | 391 | 40 | 91 | 17 | 2 | 16 | 160 | 45 | 1 | 1 | 5 | 7 | 40 | 0 | 2 | 82 | 11 | .233 | .302 | .409 | .711 | |
| 1992 | 137 | 552 | 468 | 62 | 124 | 24 | 0 | 17 | 199 | 64 | 2 | 3 | 5 | 8 | 63 | 4 | 8 | 78 | 14 | .265 | .356 | .425 | .782 | |
| 1993 | 71 | 284 | 244 | 30 | 48 | 7 | 0 | 10 | 85 | 25 | 0 | 1 | 3 | 2 | 32 | 1 | 3 | 60 | 2 | .197 | .295 | .348 | .644 | |
| 1994 | 84 | 333 | 285 | 46 | 78 | 20 | 0 | 15 | 143 | 56 | 0 | 0 | 0 | 4 | 41 | 0 | 3 | 55 | 5 | .274 | .366 | .502 | .868 | |
| 1995 | 53 | 149 | 127 | 16 | 30 | 5 | 0 | 4 | 47 | 12 | 0 | 1 | 0 | 2 | 18 | 1 | 2 | 23 | 0 | .236 | .336 | .370 | .706 | |
| 1996 | CHC | 136 | 427 | 362 | 44 | 86 | 19 | 0 | 17 | 156 | 56 | 1 | 4 | 3 | 2 | 53 | 0 | 7 | 94 | 8 | .238 | .344 | .431 | .775 |
| 1997 | 中日 | 135 | 562 | 483 | 84 | 152 | 23 | 1 | 31 | 270 | 81 | 2 | 0 | 0 | 2 | 74 | 3 | 3 | 76 | 13 | .315 | .407 | .559 | .966 |
| 1998 | 116 | 488 | 420 | 57 | 115 | 14 | 0 | 26 | 207 | 76 | 1 | 1 | 1 | 5 | 57 | 7 | 5 | 66 | 10 | .274 | .363 | .493 | .856 | |
| 1999 | 133 | 560 | 474 | 84 | 141 | 19 | 1 | 36 | 270 | 109 | 4 | 1 | 0 | 9 | 70 | 10 | 7 | 59 | 15 | .297 | .389 | .570 | .959 | |
| 2000 | 122 | 509 | 440 | 59 | 127 | 19 | 1 | 25 | 223 | 79 | 1 | 2 | 1 | 5 | 57 | 8 | 5 | 75 | 18 | .289 | .373 | .507 | .880 | |
| 2001 | 88 | 343 | 291 | 30 | 89 | 13 | 0 | 19 | 159 | 61 | 0 | 0 | 1 | 4 | 47 | 5 | 0 | 35 | 10 | .306 | .398 | .546 | .944 | |
| 2002 | 66 | 279 | 247 | 34 | 66 | 10 | 0 | 16 | 124 | 43 | 0 | 0 | 0 | 2 | 29 | 4 | 1 | 39 | 4 | .267 | .344 | .502 | .846 | |
| MLB:7年 | 611 | 2238 | 1916 | 241 | 466 | 92 | 2 | 79 | 799 | 259 | 4 | 10 | 17 | 25 | 255 | 6 | 25 | 399 | 42 | .243 | .336 | .417 | .753 | |
| NPB:6年 | 660 | 2741 | 2355 | 348 | 690 | 98 | 3 | 153 | 1253 | 449 | 8 | 4 | 3 | 27 | 334 | 37 | 21 | 350 | 70 | .293 | .382 | .532 | .914 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- NPB
記録
- NPB
背番号
- 15 (1990年)
- 11 (1991年)
- 10 (1991年 - 1995年)
- 12 (1996年)
- 4 (1997年[注 4] - 2002年)