タイロン・ウッズ
アメリカ合衆国のプロ野球選手
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タイロン・ウィリアム・ウッズ(Tyrone William Woods[注 1][1][6] , 1969年8月19日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州パスコ郡デイドシティ[1]もしくは同州ポーク郡ウィンターヘイブン[5]出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)[1]。
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中日時代 (2008年6月1日、西武ドーム) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | フロリダ州パスコ郡デイドシティ[1] |
| 生年月日 | 1969年8月19日(57歳) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 225 lb =約102.1 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 外野手、三塁手、一塁手[2] |
| プロ入り | 1988年 MLBドラフト5巡目 |
| 初出場 |
KBO / 1998年4月11日[3] NPB / 2003年3月28日 |
| 最終出場 |
KBO / 2002年 NPB / 2008年10月25日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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アメリカ合衆国では1988年から1997年までマイナーリーグでプレーしており、メジャー昇格は果たせなかったが、1998年に韓国プロ野球(現:KBOリーグ)のOBベアーズ(1999年以降は「斗山ベアーズ」)に入団すると、2002年に退団するまでの5シーズンで通算174本塁打、510打点を記録し[4]、1998年には本塁打王・打点王の二冠王を獲得[4][7]、シーズン最優秀選手 (MVP) を受賞した[4]。
2003年から2004年はNPBのセントラル・リーグ(セ・リーグ)に加盟する横浜ベイスターズで、2005年から2008年は同リーグに加盟する中日ドラゴンズでそれぞれプレーし[8]、四番打者として活躍した[7]。NPBでは6シーズンで通算240本塁打(年平均40本)を記録したが[9]、いずれのシーズンも35本塁打以上を記録しており、セ・リーグの本塁打王を3回(2003年・2004年・2006年)、打点王を1回(2006年)それぞれ獲得している[7]。またKBO時代と合算すると日韓通算414本塁打を記録したことになる[7]。本塁打・打点の二冠王に輝いた2006年には中日のセ・リーグ優勝に、2007年にも中日の日本シリーズ優勝にそれぞれ貢献した[7]。このことから、中日の歴代最強外国人選手とも評されている[10]。
日韓のプロ野球リーグ (KBO・NPB) の双方で本塁打王・打点王の二冠王に輝いた唯一の選手である。NPB球団への入団前はタイロン・ウッツ[11][12][13]と表記されることもあった。
経歴
プロ入り前
9人兄弟姉妹の第8子としてフロリダ州で生まれ育ったが、幼少期の生活は裕福ではなかった[6]。7歳か8歳のころに野球を始めたが、当時から年長者たちに混ざってプレーできるほどの体格とパワーを有していたという[14]。
フロリダ州ヘルナンド郡ブルックスビルのヘルナンド高校[注 2]を卒業した[15]。高校時代までは野球だけでなく、アメリカンフットボールもプレーしており[14]、アメフトではガルフ・コースト・カンファレンス (all Gulf Coast Conference) で3回優勝した[16]。一方で野球でもオールカンファレンスチーム (all-conference) に3回、オールエリアチーム (all-area) に2回選出され、全州ファーストチーム (first team All-State) にも2回選出された[16]。在学中は打率、本塁打、打点の3部門すべてでチームトップであり、1987年にはパスコ・ヘルナンド年間最優秀選手 (Pasco-Hernando Player of the Year) に選出され、1988年にはFlorida Athletic Coaches association (FACA) が主催するオールスターゲーム (FACA All-Star game) に出場した[16]。高校時代には大学に進学してアメフトを続ける話もあったというが、選手寿命の長さを考えて野球を選んだという[14]。
マイナーリーガー時代
1988年のMLBドラフトで、ウッズはモントリオール・エクスポズからドラフト5巡目(全体128番目)で指名を受け[17]、契約した[18]。同年にルーキーリーグでデビューし[19]、その後は1997年まで、エクスポズやボルチモア・オリオールズ、ボストン・レッドソックスそれぞれの傘下のマイナーリーグ (MiLB) 球団でプレーした。また、冬季はメキシコやベネズエラでプレーした[20]。アメリカ時代は外野手の他、三塁手も経験した[2]。
しかし守備面で問題を抱えていたことや(後述)[18]、MLBのスカウトたちからは主戦格の投手を打てないだろうと評されていたことから[20]、一度もメジャー (MLB) への昇格はできず[18]、1997年シーズンまでの10年間で計10球団を渡り歩いた[21]。マイナーリーグにおける通算打撃成績は875試合出場、打率.258、106本塁打、419打点[22]。
エクスポズ・オリオールズ傘下時代
1993年はエクスポズ傘下のAA級ハリスバーグ・セネターズで106試合に出場、打率.252、16本塁打、59打点を記録した[1]。1994年は初めてAAA級に昇格し、オタワ・リンクスでプレーしたが、後にハリスバーグに降格する[1]。同年4月に発行された『週刊ベースボール』増刊号によれば、ウッズは背番号60の外野手としてエクスポズの40人枠に入っていたが[23]、実際にMLBの試合に出場する機会はなかった。本人は、エクスポズ時代にはMLBのキャンプに選ばれ、オープン戦でも活躍したシーズンもあったが、自身ではなくクリフ・フロイドがMLBに選ばれたと語っている[24]。
1995年はオリオールズ傘下のAAA級ロチェスター・レッドウイングスでプレーし、開幕戦で四番打者・右翼手として起用された[25]。同年のイースターである4月16日に開催された対ノーフォーク・タイズ戦では、前年にオタワやハリスバーグでチームメイトだったジミー・ウィリアムズと対戦したが、5対6と1点ビハインドで迎えた9回表、二死二・三塁の場面で打席に立ったものの抑えとして登板したウィリアムズとの対決の末に二塁ゴロに倒れ、チームはそのまま敗戦した[26]。同年は70試合に出場して打率.261、8本塁打、31打点の成績を残した[1]。同年には後に中日ドラゴンズでチームメイトになるアレックス・オチョアとチームメイトであった[27]。また、後にNPBで本塁打王争いを繰り広げるタフィ・ローズともAAA級のチームでともにプレーしたことがあり、ローズとはこれ以来親交があった[28]。
レッドソックス傘下時代
1996年はレッドソックス傘下のAA級トレントン・サンダーで99試合に出場し[1]、打率.312、25本塁打と好成績を残した[29]。本塁打数はアダム・ハイズデュと並んで同年のチーム最多であり[30]、トレントン球団史上歴代4位タイでもある[31]。同年秋には古巣であるハリスバーグ・セネターズとのイースタンリーグ南地区プレーオフ第3戦で本塁打を放ったが、トレントンはハリスバーグに1勝3敗で敗退した[32][33]。
27歳で迎えたマイナー10年目の1997年シーズンは、レッドソックス傘下のAAA級ポータケット・レッドソックスでプレーし[1]、29試合に出場して打率.352、9本塁打を記録したが[29]、同年限りでレッドソックスを解雇された[20]。1998年時点でポータケット球団広報担当を務めていたビル・ワムレス (Bill Wamless) は、レッドソックスはウッズが優秀なメジャーリーガーになれるとは考えておらず、彼が海外リーグで活躍できる機会を得られるようにポータケットに昇格させたと語っている[20]。またメキシカンリーグのミナティトラン・オイラーズでもプレーした[1]。
韓国・OB/斗山時代
ウッズは1998年から2002年の5年間にわたり、大韓民国(韓国)のプロ野球リーグ(現:KBOリーグ)の球団である斗山ベアーズ(1998年の球団名は「OBベアーズ」)に在籍し、韓国球界を代表するスター選手として活躍した[4]。韓国時代の通算打撃成績は打率.295、174本塁打、510打点で[4][34][35]、韓国でプレーした1年目の1998年には本塁打王・打点王の二冠王を獲得して最優秀選手 (MVP) も受賞、2001年には2度目の打点王を獲得した[4]。中でも通算174本塁打は、2025年7月3日にメル・ロハス・ジュニアが更新するまでKBOリーグの歴代外国人最多本塁打記録であった[36][37]。このような活躍から、ウッズは韓国プロ野球史上最強の外国人選手として名前を挙げられる場合がある(後述)。なおOB/斗山球団およびLGツインズの本拠地球場である蚕室野球場はホームベースから両翼フェンスまでの距離が100 m、中堅フェンスまでの距離が125 mと韓国球界の本拠地球場としては最大であり、本塁打が出にくい球場[38]、かつ韓国でも投手有利な野球場の代表格と評されているが、ウッズがこのような環境下でこれだけの本塁打数を記録したことは高く評価されている[6]。この活躍を受け、ウッズは韓国でプレーしていたころから後の所属球団である横浜ベイスターズや中日ドラゴンズだけでなく、ヤクルトスワローズや千葉ロッテマリーンズといった日本野球機構 (NPB) の複数球団から注目を受けていた[39]。守備位置は5年間を通して一塁手だった[2]。
韓国時代の登録名はウジュ(우즈)で[40]、背番号は33[41][6]。ファンから「黒熊」のニックネームで親しまれていた[18]。蚕室野球場で開催されるベアーズのホームゲームの際、右中間の外野席には常に「WOODS HOMERUN」という横断幕が掲げられていた[6]。
また、ウッズが斗山でプレーしていた時期と同時期にサムスン・ライオンズでプレーしていた李承燁とは韓国球界時代からライバル関係にあった[42]。李は後にNPBでも読売ジャイアンツ(巨人)に所属し、2006年には中日に所属していたウッズとセントラル・リーグの本塁打王を競い合ったが[43][44]、後年には韓国でウッズがプレーしていた当時、自分は本塁打王や打点王ではなく、ウッズに勝つことを目標にしていたと述べている[40]。
渡韓の経緯
韓国プロ野球を主催する韓国野球委員会 (KBO) は、1982年の創設以来禁止していた外国人選手の採用を1998年シーズンより解禁することを決めており、1997年10月から11月にかけて、アメリカ合衆国のマイナーリーグ球団を退団した選手の中から韓国でのプレーを希望する者を募集していた[45]。この背景には、韓国人の朴賛浩がMLBのロサンゼルス・ドジャースで活躍したことなどから、韓国国内のファンが自国のプロ野球よりもMLBに注目していたことが懸念されたこと、またファンが球場に足を運ぶことを促すという狙いがあった[20]。実際、当時の韓国プロ野球はアジア通貨危機の影響から、観客動員数がそれまでの最盛期の半分近くにまで低迷しており、それに伴って財政面でも厳しくなっていた球団が多く、ヘテ・タイガースは看板選手の李鍾範を4億5000万円の譲渡金でNPBの中日に放出し、またサンバンウル・レイダースは球団の経営難から主力選手を次々と放出するなどしており、宣銅烈や李尚勲といったスター選手たちのNPBへの流出も相次いでいるという状況であり、外国人選手の解禁はそのような状況の中で行われた制度改革の一環だった[46]。
KBOは応募者約50人をフロリダ州に集め、各球団のコーチやスカウトの立ち会いの下で入団テストを行い[注 3][45]、韓国時間の11月14日、同州セントピーターズバーグにあるヒルトンホテルで外国人選手ドラフト会議を行った[19][48]。KBO加盟8球団のうち、サンバンウルを除く各7球団がドラフト指名を経て外国人選手を各2人獲得したが[注 4][45]、ウッズはこのドラフト会議でOBベアーズ(1999年以降は「斗山ベアーズ」)から第2指名を受け[48]、OBに入団することが決まった[49]。ウッズと同時期に韓国球界入りした外国人選手で、NPBでもプレー歴がある選手としては、他にスコット・クールボー(現代ユニコーンズに入団)やホセ・パーラ(サムスンに入団)がいる[49]。
初年度となる1998年シーズンの年俸は7万4000ドル、契約金は2万ドルで[50][51]、30本塁打以上を打てば6000ドルの出来高がつく契約だった[19]。なおウッズは当時、韓国でも成功できなかった場合はプロ野球選手を引退してアメリカ合衆国に帰国し、消防士になろうと考えていたという[19][52]。また入団交渉の際にはボルチモア在住のウッズの代理人が交渉の場であるフロリダまで来なかったため、後にOB(斗山)でウッズの通訳を担当するOB球団スカウト部長のチョ・ソンイル (조성일) がウッズの個人電話を借り、入団交渉を行ったが、代理人側がより有利な条件を要求して通話が長時間におよんだところ、ウッズは電話料金を気にしてチョに対し電話を早く切るよう要求、代理人に対しても長電話をしないように伝え、OB球団側が提示した条件を受け入れようとしたという[48]。
1998年
1998年4月11日に光州無等総合競技場野球場で開催されたヘテ・タイガース対OBベアーズの開幕戦で、ウッズは2回表にヘテのエース・李大振から左翼方向への1号本塁打を放った[3][48]。KBOで初打席本塁打を記録した外国人打者は、2022年9月時点でこのウッズを含め5人のみである[53]。しかし当初は外角球と変化球に苦戦し、野球評論家やファンからは二軍降格や解雇を求める声も上がっていた[6]。そのような状況の中でも監督の金寅植はウッズを辛抱強く中軸として起用し、やがてウッズも韓国球界のストライクゾーンに順応し、その強力なパワーで本塁打を量産していった[6]。
5月17日に釜山で開催されたロッテ・ジャイアンツとのダブルヘッダー第1試合で、2点を追っていた3回表に無死満塁で車明珠から左翼方向へ本塁打を打ち、外国人選手として初の満塁本塁打を記録[50]、同月21日時点では打率.295、8本塁打、21打点と好成績を残し、チームの中心打者となっていると報じられていた[50]。夏場までは李承燁に本塁打数で大差をつけられていたが、真夏に入って本塁打を量産し、9月13日には李承燁と並ぶ37号本塁打を記録した[48]。9月16日時点では110試合に出場し、リーグ5位の打率.309(李承燁と同率)、37本塁打、93打点を記録しており、打率・打点はいずれもチームトップだった[54]。またクールボー(同日時点で打率ランキング4位の.316、26本塁打、96打点)とともに、当時最も活躍している外国人選手として報じられていた[54]。8月時点でウッズの本塁打数は李承燁の本塁打数を7本下回っていたが、やがてウッズはハイペースで本塁打を量産するようになった一方、李承燁はスランプに陥り、終盤にウッズに本塁打数で追い抜かれて本塁打王のタイトルを逸する結果となった[6]。この件を受け、李は「ウッズに負けたのではなく、自分自身に負けた」と語っている[55]。李承燁が韓国プロ野球で初めて本塁打王になった1997年以降、NPB移籍前最終年の2003年までの7年間で本塁打王を逃したシーズンは、この1998年と2000年(朴勍完が本塁打王を獲得)の2シーズンのみである[55]。
10月1日にOBの本拠地である蚕室野球場で開催された対現代戦で、ウッズは4回裏に鄭珉台の投じたスライダー(球速130 km/h)を打ち、1992年に張鍾勲(ピングレ・イーグルス)が記録していた韓国記録のシーズン41本塁打を上回る42号2点本塁打を記録したが、この本塁打の打球飛距離は同年の公式打球飛距離記録としては最長となる飛距離140 mであった[6]。またこの本塁打で2打点を挙げたことにより、ウッズの打点はそれまでトップだった李承燁を上回る103となった[19]。一方で同シーズン終盤には右手親指と人差し指の付け根を痛めており、その影響で翌1999年シーズン開幕直前時点でもスローペースの調整が続いていた[56]。
なお、同年には外国人打者として球団史上初となる4試合連続本塁打も記録していた[57]。
本塁打・打点の二冠王獲得
最終的には来韓1年目で全126試合に出場[51]、当時の韓国プロ野球新記録のシーズン42本塁打を放ち[40]、本塁打王・打点王(103打点)の二冠を獲得した[51]。打率はリーグ9位の.305を記録したが、2002年までの斗山時代の5年間で打率がトップ10入りしたシーズンは同年のみである[41]。
本塁打数の月ごとの内訳は、4月が4本塁打、5月が6本塁打、6月から8月の3か月が各7本塁打、9月が10本塁打である[6]。全42本塁打のうち、蚕室野球場で放った本塁打は24本塁打で、同球場で1シーズンに20本塁打以上を放ったベアーズの選手は同年のウッズが初である[58]。またウッズはベアーズの選手としては初めて、シーズン30本塁打とシーズン100打点を同時に達成した打者でもある[59]。同年はウッズだけでなく、チームメイトである金東柱も24本塁打・89打点、沈正洙も19本塁打・73打点を記録したことから、この3人は「우동수 트리오」(ウドンス・トリオ[60])や「공포의 삼총사」(恐怖の三銃士)と形容された[48]。
なおシーズン42本塁打は長らく球団史上最多本塁打記録でもあったが、2018年に金宰煥が44本塁打を記録したことで更新されている[61]。蚕室野球場を本拠地とする斗山やLGの所属選手が40本塁打以上を記録した事例は、2017年までウッズが唯一だった[38]。また打点も1995年に金湘昊が樹立した球団の最多打点記録 (101) を更新するものだったが、これも2018年に金宰煥が133打点を記録したことによって更新されている[62]。同年は長打率も.619を記録したが、こちらは李承燁がウッズを上回る.621を記録したため、リーグ2位に終わった[63]。その要因は、ウッズの二塁打が32本にとどまった一方、李承燁はウッズを大きく上回る38二塁打を記録したためである[63]。
シーズンMVP受賞
同年10月8日には、韓国プロ野球記者協会により外国人選手としては初めてシーズンの最優秀選手 (MVP) に選出された[64]。ベアーズの選手のシーズンMVPは、1982年の朴哲淳、1995年の金湘昊に続き、3人目であった[48]。
しかしゴールデングラブ賞の一塁手部門にはウッズではなく、李承燁が選出されており、2022年時点でシーズンMVP受賞選手がゴールデングラブ賞に選出されなかった事例はこのウッズが唯一である[48]。投票結果は李承燁が132票、ウッズは99票で、その背景には外国人選手差別や投票人らの知識欠如が指摘されたが、KBO広報団長の이진형は、MVPとゴールデングラブ賞では投票基準が異なり、ゴールデングラブ賞は成績のみならず、攻撃・守備・認知度など3点が選定基準になることや、MVPの授賞は10月、ゴールデングラブ賞授賞は12月に行われるが、外国人選手たちは授賞式のある12月には帰国してしまっており、その点も投票に影響を与えた可能性があると指摘している[65]。守備に関する指標を見ると、李承燁は失策3、守備率は全一塁手でトップの.998だった一方、ウッズは6失策、守備率.994だったが、ゴールデングラブ賞投票の明暗を分けた最大の要因は「認知度」であると評されている[65]。
幻のヤクルト入団
同年オフにウッズは日本のプロ野球 (NPB) 球団からオファーを受けており[51]、実際にNPBのヤクルトスワローズへの金銭トレードが噂されていた[66]。ヤクルトは同年オフ、監督が野村克也から若松勉に交代したことから一発長打のある外国人選手の獲得を目指しており、11月1日までにウッズの身分照会を済ませ、西都秋季キャンプ[注 5]にウッズを招待して実戦形式の入団テストを行うことを予定していた[12]。またヤクルト移籍の噂の要因には、当時の韓国が日本以上の深刻な不況にあり、プロ野球の観客動員数が激減していたことに加え、親会社も経営が苦しくなっていた球団が多かったという事情もあった[66]。
ウッズは斗山に対し、22万ドル以上の年俸をもらえなければオファーを送ってきたNPB球団に移籍する旨をOBに伝えていたが、OBがウッズの要求を呑んだため、ウッズは年俸22万ドルでOBと翌1999年シーズンの契約を結んだ[51]。残留が決まった時期は同年11月18日以前のことで、1999年シーズンの年俸は韓国ウォンでは3億2000万ウォン、日本円では約2100万円と報じられている[13]。
1999年
李承燁は翌1999年8月2日、シーズン99試合目の[69]対ロッテ・ジャイアンツ戦(大邱市民運動場野球場)で、文東煥からウッズの記録を塗り替える43号本塁打を放ち[70]、最終的にはシーズン54本塁打を記録している[69]。ベアーズの球団名が前年までの「OBベアーズ」から「斗山ベアーズ」に改称された同シーズン、ウッズは無冠に終わったものの、リーグ7位となる34本塁打、リーグ10位となる101打点を記録[41]、チームメイトの金東柱(22本塁打・84打点)、沈正洙(31本塁打・110打点)とともに計87本塁打を記録した[48]。なお斗山で2年連続30本塁打・100打点を達成した選手はウッズが初であり、2017年9月時点でウッズと金宰煥の2人のみである[71]。同年には自身2度目の4試合連続本塁打も記録した[57]。
同年、チームはレギュラーシーズンを1位で終え、同年のハンファ・イーグルスとのKBOポストシーズン(プレーオフ)に臨んだ。ウッズは蚕室野球場で開催された第1戦で[72]、4回裏に宋津宇から、球団史上初めてとなる外国人選手のポストシーズンでの本塁打を記録し、また6回裏には沈正洙が、7回裏にもウッズがそれぞれ1点本塁打を放ち、球団史上初となるポストシーズン1試合3本塁打を記録したが、チームはこの試合に敗れた[73]。その後、ウッズは蚕室で開催された第2戦でも5回裏に2点本塁打を放ち、大田ハンバッ運動場野球場で開催された第4戦でも2点本塁打を放ったため[72]、単一シリーズ4本塁打を記録したが、チームは4連敗で敗退した[73]。レギュラーシーズンを1位で終えたチームがプレーオフ4戦全敗を喫する形で韓国シリーズ出場を逃したのは、同年の斗山が初めてである[72]。
2000年
2000年、ウッズはレギュラーシーズンで打率.315、39本塁打を記録した[74]。39本塁打、111打点はいずれもリーグ2位で[41]、本塁打王は40本塁打を記録した朴勍完[75]、打点王は115打点を記録した朴栽弘である[76]。同シーズンには通算324試合目となる7月4日の対サムスン戦(大邱市民運動場野球場)で通算100本塁打を達成したが[77]、これは2016年にエリック・テームズに更新されるまで、韓国球界史上最速記録だった[78]。また打点も3年連続で100以上を記録したが、韓国球界で3年連続100打点以上を記録した打者は、ウッズが李承燁に次いで史上2人目だった[79]。
同年のLGツインズとのKBOポストシーズン(プレーオフ)で、斗山は計6本塁打を放ち、LGを撃破した[73]。ウッズは現代との韓国シリーズでも3本塁打を記録したが、3勝4敗で準優勝に終わった[73]。また同年は韓国プロ野球オールスター戦の出場選手に3年目で初めて選出され[6]、ドリームチーム(東軍)の一員として出場[80]。同年7月23日に済州島の済州野球場で開催された本塁打競争では9本塁打を放って優勝した[80]。外国人選手の本塁打競争優勝は、韓国プロ野球オールスター戦史上初だった[81]。なお、同年は金東柱も打率.339、31本塁打、106打点を記録、沈正洙も打率.265、21本塁打、75打点を記録した[74]。また、同年には指名打者 (DH) 部門でゴールデングラブ賞を受賞している[65][82]。
2001年
2001年の年俸は15万ドル(約1億7700万ウォン)で[19]、契約金込みでは21万ドル(約2500万円)であったと報じられている[83]。同年、斗山はウッズや金東柱とともに強力クリーンアップを担っていた沈正洙を現代に放出し、トレードで沈哉学を獲得した[74]。このため「ウドンス・トリオ」は解体され、それに反発した斗山ファンの中には球場に観戦に行くことをやめようとする動きもあったが、トレードで加入した沈哉学は開幕後に活躍を遂げ、新たに「우동학 트리오」(ウドンハク・トリオ)と呼ばれる中心打線を形成した[74]。また、同年には自身3度目の4試合連続本塁打を記録した[57]。
同年7月17日に蚕室野球場で開催された韓国プロ野球オールスター戦で、ウッズは東軍の3番打者として先発出場すると、1回表に西軍の先発投手・金守経(現代)から先制1点本塁打を打ち、3回、4回、8回にも安打を記録した[6]。結果、東軍は6対2で西軍に勝利した[80]。これにより、KBOの歴代オールスターゲームの試合最多安打タイ記録を樹立、MVPを決める記者投票では計56票のうち53票を獲得[6]、MVPに選出され[84]、賞金1000万ウォンを獲得した[6]。ベアーズの選手としてはオールスターゲームMVP選出は1983年(OBベアーズ時代)の申慶植に次ぐ史上2番目で、斗山としては史上初である[6]。
またレギュラーシーズンでも打率.291[74]、34本塁打[74][85]、113打点を記録し、自身2度目の打点王を獲得した[62]。打率と本塁打はそれぞれ前年の.315、39本塁打より数字を落としたが、打点はキャリアハイであり[74]、斗山入団から4年連続の100打点を記録した[79]。なお、2024年シーズンまでに斗山で複数回打点王を獲得した打者はウッズが唯一である[62]。また本塁打数もリーグ3位であり[41]、1998年から2001年まで4シーズン連続で30本塁打以上を記録したが、これはKBOでプレーした外国人打者としては2022年時点でウッズが唯一である[53]。同年は金東柱も故障で103試合の出場にとどまりながらも打率.324、18本塁打、62打点を、沈哉学も打率.344、24本塁打、88打点を記録したため、「ウドンハク・トリオ」は3人で76本塁打、263打点を記録したことになる[74]。
同年のポストシーズンで斗山は、ハンファとの準プレーオフで3本塁打、現代とのプレーオフで7本塁打を記録し、2年連続で韓国シリーズ進出を達成した[73]。
韓国シリーズ
同年の韓国シリーズは、「歴代最強チーム」と呼ばれたサムスンとの対決になったが[73]、ウッズは当時のサムスンの本拠地・大邱市民運動場野球場で開催された第1戦(10月20日)で3番打者として先発出場すると、0対3と負け越した状態で迎えた4回に先頭打者として、相手の先発投手であるバルビーノ・ガルベスから1点本塁打を放つ[86][87]。その後、同点の3対3で迎えた5回表の打席では金玄旭から逆転適時打を放ったが、チームは後に再逆転を許し、最終的には4対7で敗北した[86]。その後、チームは第2戦(10月22日)[注 6]を9対5で勝利し、本拠地の蚕室野球場で迎えた第3戦では、3対1とリードしていた3回裏、3番手投手の盧長震から左中間方向へ1点本塁打を放ち、チームは11対9で勝利した[86]。この試合での両チームの合計得点は20点で、韓国シリーズの1試合の最多総得点の新記録だったが[86]、続く第4戦(10月25日)では斗山が18点、サムスンが11点を獲得、早くもこの記録を更新した[88]。この試合でウッズは3番打者・一塁手として先発出場し、1回裏に相手先発のガルベスからこのシリーズで3本目の本塁打となる先制2点本塁打を放った[88]。この本塁打は内角に食い込む球速141 km/hのシュートを打ち返し、右翼席中段まで運んだものだった[89]。しかし2回表に自身の失策からチームのピンチを招き、最終的にはこの回だけで8失点を許してしまう[88]。しかしその回の裏に1点を返し、3対8と5点ビハインドで迎えた3回裏、ウッズは四球を選んで出塁し、後に無死満塁になった末に押し出し四球で生還、結果的にチームはこの回だけで12点を追加して逆転に成功、そのままリードを守って勝利した[88]。10月27日に蚕室野球場で開催された第5戦(サムスンのホームゲームとして開催)でも、ウッズは3回表に1死2・3塁で打席を迎え、先制犠牲フライを放つが、チームはこの回の裏に4点を返され、最終的には4対14で敗戦した[88]。
そして斗山のホームゲームとして蚕室野球場で開催された10月28日の第6戦では、1対2の1点ビハインドで迎えた5回裏の攻撃で、先発投手の盧長震に代わってリリーフで登板した金珍雄から逆転2点本塁打を放ったが、この打球は蚕室野球場における韓国シリーズで唯一の場外本塁打かつ最長距離本塁打(飛距離145 m)として記録されている[88]。またこのシリーズ4本目となる本塁打により、ウッズは韓国シリーズ最多本塁打記録を樹立したが[73]、前年の韓国シリーズでも3本塁打を記録していたため、この2シリーズで通算7本塁打を記録、韓国シリーズにおける個人の通算本塁打数の新記録を樹立した[88]。前者の記録は2014年の韓国シリーズでサムスンのヤマイコ・ナバーロがタイ記録を[73]、後者の記録も2022年にSKワイバーンズの崔廷がそれぞれタイ記録を樹立している[88]。またウッズは1999年から2001年までのポストシーズンで通算13本塁打(準プレーオフで1本塁打、プレーオフで5本塁打、韓国シリーズで7本塁打)を記録しており、この数字は歴代1位だったが、後に李承燁がNPBからKBOに復帰してから通算14本(準ポストシリーズ2本塁打、ポストシーズン6本塁打、韓国シリーズ6本塁打)へ更新したため、2024年時点では歴代2位となっている[73]。その後、チームは7回表に3点を失い、3対5と再逆転を許すが、7回裏に2点を返して再び同点に追いつくと、ウッズは8回裏に無死1・2塁で打席を迎え、三塁ゴロに倒れながらも1死2・3塁のチャンスを作る[88]。そしてその次の打席で、四番打者の沈哉學が勝ち越しの犠牲フライを打ち、チームは6対5と再々逆転に成功、そのまま9回表を無失点で切り抜け、球団史上3回目、そして斗山ベアーズとしては初となる韓国シリーズ優勝を決めた[88]。なお、準プレーオフ・プレーオフを勝ち進んで韓国シリーズを優勝したのは韓国球界史上、1992年のロッテ・ジャイアンツに続いて2球団目である[88]。
このシリーズで、斗山は4勝2敗で6年ぶり通算3度目となるシリーズ優勝を達成、ウッズはこの優勝に貢献したことが評価され、シリーズMVPを獲得した[90]。最終的なシリーズの打撃成績は6試合で打率.391(23打数9安打)、4本塁打、8打点で[88]、敗れたサムスン監督の金應龍は「斗山に負けたのではなくウッズに負けた」と振り返った[19]。シリーズMVPを決める記者投票では全59票が投じられたが、その内訳はウッズが55票、鄭守根が3票、洪性炘が1票(いずれも斗山の選手)という結果だった[6]。ベアーズの選手の韓国シリーズMVP受賞は金裕東(1982年)、金敏浩に続き3人目だった[6][91]。またこのMVP受賞により、ウッズは韓国球界における初の「トリプルクラウン」(シーズンMVP・オールスターMVP・韓国シリーズMVP)達成者となった[92][93][94]。このKBOにおける「トリプルクラウン」達成者は2022年シーズン終了時点で、ウッズと李鍾範[注 7]の2選手のみである[95]。
幻の中日入団
一方で同年オフ、ウッズは年俸を不満として、斗山球団に対し「来季は韓国でプレーしない」と揺さぶりをかけていた[96]。当時、後の所属球団であるNPBの中日ドラゴンズは、星野仙一に代わって山田久志が新監督に就任、主砲候補として新外国人の補強を狙っていたが、当時中日一軍打撃コーチを務めていた佐々木恭介はウッズをレオ・ゴメスに続く主砲候補として高く評価し[83]、斗山対サムスンの韓国シリーズを現地で観戦し[97]、球団にウッズの獲得を具申した[89]。また、同じく後にウッズが所属することになる横浜ベイスターズも同年からウッズの獲得を検討していたと報じられている[39]。
しかし当時の中日の補強ポイントは外野手であった一方[98]、当時ウッズは一塁手以外の守備位置に就いておらず、中日の一塁手としてはゴメスや山﨑武司[注 8]・大豊泰昭が在籍していた[101]。このため山田はウッズについて、打撃面だけならば申し分ないと評価しつつも、本人が承諾すれば同年11月の浜松秋季キャンプで外野手として使えるか守備テストを行うという方針を決めていたが、韓国から中日側に「外野守備は無理」という情報も入っていた[101]。それでも中日は秋季キャンプで外野守備テストを行うべく、同月29日にはウッズ側からの内諾を得た上でNPBコミッショナー事務局を通じてウッズの身分照会を行ったが[102]、最終的には日韓協定により、ウッズは11月いっぱいまで斗山に拘束されることとなったため、中日はウッズの獲得を断念し、メキシカンリーグに在籍していた外野手のスコット・ブレットを新外国人として獲得する方針に転換[103]、ウッズは斗山に残留することとなった[96]。同年オフ、ウッズは翌2002年シーズンの年俸を15万6000ドル(1億8000万ウォン)とする条件で斗山と契約した[19]。
2002年
2002年は、1998年シーズンに韓国球界入りした外国人選手で唯一韓国5年目のシーズンを迎えることとなった[96]。同シーズンは年俸23万1000ドル+オプション10万ドルの報酬を受け取っていたが、打率.256、25本塁打、82打点と期待外れの成績に終わった[96]。ウッズが斗山で30本塁打および100打点を達成できなかったシーズンは同シーズンが唯一である[6]。しかし、同年も打点はチームトップ[104]、およびリーグ9位であり、25本塁打はリーグ7位だった[41]。前年(2001年)のポストシーズン前、ウッズは斗山球団GMのクァク・ホンギュ(곽홍규)から「優勝すれば5万ドルを与える」という約束を受けており、球団は約束通りの5万ドルから約22%ほどの税金を差し引いた3万ドル台のボーナスを与えたが、この約束は文書を交わさず口頭で行ったものだったことから、ウッズは税引き後5万ドルと解釈していたため、球団が嘘をついていると激怒しており、このトラブルが2002年シーズンの低迷の一因である可能性が指摘されている[6]。一方で同年のオールスター戦の本塁打競争では飛距離130 mの本塁打を記録し、最長距離賞 (최장거리상) を受賞した[105]。
同年オフにはアメリカ帰国後、球団から「年俸は現状維持で再契約する」という提示を出されたが、ウッズは「最高の待遇をしてくれなければ韓国でプレーしない」として、NPB移籍を模索するようになった[96]。韓国のスポーツジャーナリストであるイ・ジェクク (이재국) は、斗山球団のウェブサイトに連載したコラムで、ウッズはシーズン中から自身の代理人に対し、NPB球団への移籍を推進してもらうよう要求していたと述べている[6]。一方で契約交渉の折、斗山側はウッズの「韓国でプレーしない」という発言を「こけおどしに終わるのでは」と受け取っていたが、保留契約選手の締切期限となる11月30日までに再契約の意思を伝えてこない場合、残留交渉を断念して他の外国人選手を探す方針だった[96]。しかし、ウッズは後述のように横浜と契約したため斗山を退団[106]、斗山は翌2003年にウッズの穴を埋める打者が現れず[107]、またチーム最多勝利投手のゲーリー・ラスも退団したことによって投打の柱を欠いたことから[104]、最終的にシーズン7位に低迷した[107][108]。斗山はウッズの横浜移籍による退団を受け、彼を任意脱退選手としたため、斗山には5年間の保留権が与えられたが、ウッズが中日を退団した2008年10月時点ではその保留権は既に消滅していた[106]。
なお同年オフには後述の横浜以外にも、NPBの千葉ロッテマリーンズ(パシフィック・リーグ)が同年限りで退団したフランク・ボーリックの後釜となる長距離打者としてウッズの獲得を検討[109]、館山秋季キャンプで入団テストを行うことを検討していたが[110]、ロッテは最終的にウッズの獲得を断念した[111]。
横浜時代
2003年から2004年はNPBの横浜ベイスターズに所属し、2003年は40本塁打、2004年は45本塁打を記録、2年連続でセントラル・リーグの本塁打王を獲得した[112]。この2年間は主に四番打者・一塁手として起用されたが、チームはウッズ入団前の2002年から3年連続でリーグ最下位に沈んだ[113][112]。
横浜時代2年間の通算打撃成績は266試合出場、273安打、打率.286、85本塁打、190打点、4盗塁[112]。
横浜入団
横浜は2002年12月9日、スティーブ・コックスおよびウッズとの入団交渉が合意に達したことを発表[114][34]、翌2003年1月29日にこの2選手とマット・ホワイトサイドの計3選手の入団発表が行われた[115][116]。同シーズンの横浜はチーム本塁打数がセ・リーグワーストの97本塁打に終わっており[117]、同年オフにはヤクルトを退団したロベルト・ペタジーニの獲得を狙ったが、失敗に終わっていた[118]。横浜は翌2003年シーズンの主砲候補の新外国人としてはコックスを第1候補、ブライアン・ドーバックを第2候補にリストアップしていたが[118]、ドーバックは入団を拒否し[119]、結果的にはコックスとともにウッズが入団した。韓国球界を経てNPBに進出した外国人選手は、1998年オフにサムスンから読売ジャイアンツ(巨人)に移籍したホセ・パーラが史上初であり[120]、ウッズは史上3人目と報じられている[121]。
ウッズの背番号は44で[34]、ユニフォームの背ネームはタイガー・ウッズにあやかってファーストネームのイニシャルを冠し、T. WOODSとした[2][117]。契約期間は1年で[122]、2003年シーズンの推定年俸は5000万円[34]。また年俸とは別に契約金・出来高として、最大1億5000万円程度のオプションも設定された[94]。横浜から提示された年俸は当時の為替レートで5億ウォンに相当し、2002年の斗山からの年俸1億8000万ウォンを大きく上回るものだった[19]。一方で来日当時コックスは28歳、ウッズは33歳で、同時に入団したコックスの契約内容は移籍金100万ドル・年俸275万ドル(当時の日本円で推定年俸は3億円[123]ないし3億2000万円[124])と、ウッズよりはるかに高額な契約だった[123]。
2003年
春季キャンプ・オープン戦
2003年シーズン開幕前は、同期入団のコックスと同じ一塁手の座を争うことになった[125]。また当時の横浜にはウッズ・コックス・ホワイトサイドの新外国人3人のほか、前年から所属していたクリス・ホルト、ドミンゴ・グスマン(ともに投手)も加えると、計5人の外国人選手が在籍していた[注 9][116]。球団は当初、4人の外国人枠のうち3人を投手、1人を野手に割り振る構想であったが[126]、当初の期待度はウッズよりも現役メジャーリーガーだったコックスの方がはるかに高かったため[125]、ウッズは球団からコックスの控えとして位置付けられており[127]、外国人選手5人の中でウッズの序列は一番下とみられていた[4]。このような事情から、ウッズは契約時に球団から横浜の二軍チームである湘南シーレックス(イースタン・リーグ)で起用する方針を告げられていた[126]。ただし、結果的には横浜時代の2年間で、ウッズが湘南シーレックスの一員としてイースタン・リーグの試合に出場したことは1度もない[128][129]。
このように当初はコックスに比べて評価の低かったウッズだったが、宜野湾市立野球場で開かれた横浜の春季キャンプでは、フリー打撃の際に球場のスコアボード(高さ約10 m、本塁から約120 m)を超える推定飛距離165 mの打球[注 10]を打つなどして、監督の山下大輔や打撃コーチの高木由一から高い評価を得るようになった[4]。このようなウッズのパワーを見た山下は、コックスの控えとしての当初の構想から一転、ウッズを外野手として起用することでコックスと併用することも検討していた[39]。また選手の年俸査定を担当していた運営部長の笹川博も、練習やフリー打撃で場外への打球を連発していたウッズの実力を高く評価し、場外本塁打が話題を呼ぶようならば翌2004年シーズンの契約にあたってその点も考慮に加えることを示唆していた[130]。一方、当初は四番候補として高い期待を受けていたコックスはキャンプ中の2月7日、走塁練習中に右膝を負傷して全治4週間と診断された[131]。その後、コックスはオープン戦期間中の3月14日に一軍合流を果たすも[132]、開幕一軍は見送られ、同月28日に本拠地・横浜スタジアムで開催された阪神タイガースとの開幕戦ではオープン戦で古木克明(6本塁打)に次ぐチーム2位の4本塁打を放っていたウッズが四番打者として起用されることが決まった[133]。
日本の投手への苦戦と適応
開幕当初、ウッズは韓国に比べて変化球の制球力に優れる日本の投手たちに戸惑った[134]。開幕戦では8回裏に金澤健人から1号本塁打を放つなど[135][136]、2安打、2打点の活躍を見せたが、翌29日の第2戦からは変化球攻めに苦しむようになる[137]。開幕3戦目の30日に開催された対阪神3回戦は4打席連続三振に終わり、続く4月1日に東京ドームで開催された対巨人1回戦では「悪い流れを変えたかったから」との理由から、トレードマークのドレッドヘアを切り、右目に比べ視力の落ちる左目だけ度が入った眼鏡を着用して臨んだが、第1・第2打席とも三振に終わった[138]。
この間、チームは29日の対阪神2回戦から4月5日の対中日2回戦(ナゴヤドーム)まで6連敗を喫しており[139]、連敗中のウッズは1安打のみに終わった[140]。4月6日の対中日3回戦(浜松球場)でチームは勝利し、連敗を止めたが[139]、この試合でウッズは先発オーダーから外され[137]、代わって佐伯貴弘が四番で起用された[140]。第2戦から同月8日時点で、ウッズは21打数1安打と低調な成績に終わっていた[137]。本人は後年、日本に来て一番感じたのは投手のレベルの高さであり、球速・制球力・変化球の種類のいずれもレベルが高く、投手力は韓国より優れていると述べている[141]。
加えて当時、早ければ15日の対中日戦にはそれまでシーレックスで調整していたコックスの一軍復帰が見込まれていたことから、ウッズは9日からの広島東洋カープ・ヤクルトスワローズとの5連戦では六番打者としての起用が見込まれていたものの、そこで結果を残せなかった場合、二軍降格の危機に直面していた[137]。
本塁打を量産
しかし9日の対広島1回戦(横浜スタジアム)では1回裏、長谷川昌幸から[134]24打席ぶりの安打となる2号2点本塁打を打った[142][143]。同月11日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)では、第3打席で[144]鎌田祐哉から推定飛距離150 mの場外本塁打を放ち[注 11][145]、翌12日の対ヤクルト戦でも坂元弥太郎から[134]、第1打席で2試合連続となる4号2点本塁打を放った[144]。開幕15試合目の対中日戦(鹿児島県立鴨池野球場)では、2回と6回に山本昌から初の1試合2本塁打を放ったが、チームは試合に敗れた[146]。
4月29日の対ヤクルト戦から再び四番を打つようになり、5月3日の対中日戦(ナゴヤドーム)では1回表の第1打席で朝倉健太から8号2点本塁打を打ち、4回表の第3打席にも平井正史から9号3点本塁打を放ち[147]、5打点を記録、チームは勝利した[146]。5月18日の対ヤクルト戦では、3回表に花田真人から15号満塁本塁打を放った[148]。このような好調に加え、年俸も推定5000万円と安価であったことから、同年5月26日の時点では早くも翌2004年シーズンの残留が内定していた[149]。
4月末までの通算成績は24試合、打率.271、7本塁打、13打点だったが[24]、5月は24試合に出場し[150]、89打数27安打[151]、打率.303、10本塁打、23打点、長打率.685、出塁率.392を記録[152]、6月4日には5月のセ・リーグ月間MVPに選出された[150]。また同日までセ・リーグ最多となる18本塁打を記録していたが、横浜スタジアムで2本、鹿児島[注 12]・福島[注 13]でも各1本の場外本塁打を打っており、監督の山下をして「ことしのハマの名物」と言わしめていた[150]。好調の要因としては「球を長く見よう」と意識を改めたことや、高木からの助言を受け、中堅から右翼方向への流し打ちを意識したところ、外角の変化球を引っ掛けることが減ったことが挙げられている(後述)[134]。また監督推薦でオールスターゲーム出場選手として選出され、自身初のオールスターゲーム出場を果たした[157]。
8月24日の対阪神戦(横浜スタジアム)では久保田智之から、自身6本目(うち横浜スタジアムでは4本目)となる推定飛距離150 mの場外本塁打(3点)を放った[158]。同月30日の対中日戦(ナゴヤドーム)では、4回表に2死3塁の場面で岡本真也から30号2点本塁打を放ち、球団では1999年のロバート・ローズ以来となるシーズン30本塁打を達成した[159]。
終盤はヤクルトのアレックス・ラミレスと本塁打王争いを繰り広げていた。9月15日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)では2回と3回に高井雄平から加入後3回目の1試合2本塁打を放ち、翌16日の同カードでも2回と3回に館山昌平から2本塁打(3回は2点本塁打)を放った[146]。同月28日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)では2回裏に37号1点本塁打を、6回裏には1999年のローズが記録した球団のシーズン最多本塁打記録(37本塁打)を更新し、かつセ・リーグ単独トップに立つ38号1点本塁打を放った一方、ラミレスも2本塁打(36号、37号)を放っていた[160][161]。なお2回の本塁打は石堂克利から、6回の本塁打は五十嵐亮太から放ったが、試合には敗れた[146]。10月5日の対中日戦(横浜スタジアム)では第1打席で紀藤真琴から39号、第2打席で遠藤政隆から2打席連続となる40号2点本塁打を放ったが、試合には敗れた[162]。一方で9月16日時点で得点圏打率は.252と、規定打席到達者28人中ワースト9位と低迷しており、またリーグワーストタイとなる120三振を記録、守備面でも敗戦に直結するミスが目立っていた[163]。最終的な得点圏打率は.237で[164][165]、セ・リーグの規定打席到達者28人の中では新井貴浩 (.193)、井端弘和 (.197)、藤本敦士 (.212) 、桧山進次郎 (.231)、アレックス・オチョア (.233) の5人に次いで低く、全体22位だった[164]。
本塁打王を獲得
最終的にはラミレスと同数の40本塁打でシーズンを終え、セ・リーグ本塁打王のタイトルを獲得した[166][167]。ベイスターズの選手による本塁打王獲得は、横浜大洋ホエールズ時代の1988年にカルロス・ポンセが獲得して以来だった[168]。また来日1年目で40本塁打以上を記録した外国人選手は、ウッズが6人目である[注 14][171][151]。そしてKBO・NPBで本塁打王を獲得した史上初の選手となったが[6]、これを達成したのは2023年シーズン終了時点でウッズただ1人である。対戦チーム別本塁打の内訳は、阪神から8本、中日から10本、巨人から6本、ヤクルトから11本、広島から5本で[172]、中日戦では打率.330を記録した一方、ヤクルト戦では.198と抑え込まれていた[173]。同シーズンに記録した猛打賞は5回、1試合2本塁打は6回である[151]。
一方、132三振はリーグ最多であった[151]。また出場試合136[165]、87打点[171][165]、268塁打、4犠飛、66四球、132三振、14併殺打、101残塁、長打率.559、出塁率.361もいずれもチームトップだった[165]。なお同年は一塁手として109試合に出場し[174]、6失策を記録した一方、右翼手としては25試合に出場して失策0で[174][175]、それぞれの守備率は一塁手として.994(リーグ3位)、右翼手として1.000だった[174]。代打では2試合で起用され、2打数1安打1三振、打率.500だった[176]。同年のセ・リーグのベストナイン投票では、一塁手部門でジョージ・アリアス(阪神)に次いで多くの票を集めるも、1票差で敗れた[177]。
このようなウッズの活躍の一方で、チームはリーグ2位かつ球団記録となる192本塁打を記録しながら、打率はリーグワーストの.258、得点もリーグワースト2位の563(他5球団の平均は647.8)に終わり、また投手陣がいずれもリーグワーストとなる防御率4.80、725失点(他5球団の平均は615.4)を記録するなどした[178]。結果、140試合で45勝94敗1分、勝率.324という成績でリーグ最下位に沈んだ[179]。
同年11月13日、ウッズは前年から倍増となる年俸100万ドル(日本円で約1億1000万円)の1年契約で翌2004年シーズンの契約を締結することに合意した[168][180]。球団は当初、年俸70万ドル(約8400万円)の契約条件を用意していた一方、ウッズは同年の年俸42万ドルから約250%増額となる100万ドルの年俸を要求しており[181]、最終的にはウッズの希望が通る形となった。一方でこの契約更改の際、ウッズは複数年契約を希望した一方[182]、横浜はコックスを始め、石井琢朗・斎藤隆ら2002年オフに複数年契約を結んだ選手が同年に軒並み不調に終わっていたことから[183]、同年の契約更改時からは原則として複数年契約を結ばない方針を取っていた[184]。このことからウッズの翌シーズンの単年契約となり、それがウッズに不信感を抱かせ、翌2004年オフの流出の原因となったという報道もある[182]。また、当初はウッズよりはるかに高い期待を受けて入団したコックスはわずか15試合の出場に終わり、2年契約の途中ながら1年で解雇された[168]。
2004年
来日2年目となる2004年の開幕前、首脳陣はウッズの守備に不安があったことからサインプレーを簡素化しており[185]、逃げ切り態勢の終盤にはベンチに下げることも構想されていた[186]。
シーズン中
同年は前年に比べて選球眼が向上し、右方向への安打を狙うなどして確実性や勝負強さが増していると評されていた[28]。本人も打撃練習の際、相手バッテリーから外角球を中心に攻められることを想定し、右方向へ飛ばすことを意識していると語っていた[187]。
同年5月22日の対中日10回戦(横浜スタジアム)では延長12回表、抑えの佐々木主浩が中日のアレックス・オチョアから勝ち越し本塁打を被弾し、5対6(1点ビハインド)で12回裏の攻撃を迎えたが、その攻撃でウッズが再逆転サヨナラ11号2点本塁打を放ち、佐々木のNPB復帰後初勝利に貢献した[188]。この勝利は同シーズンのチームにとって初のサヨナラ勝ちであり、またウッズにとっては来日後初のサヨナラ本塁打でもあった[189]。同月26日の対阪神7回戦(阪神甲子園球場)では6回表に久保田から12号ソロ本塁打を[190]、翌27日の対阪神8回戦で5回表に井川慶から13号2点本塁打を[191]、28日の対巨人8回戦(東京ドーム)では9回表にブライアン・シコースキーから14号2点本塁打を[192]、そして29日の対巨人9回戦で7回表に河原純一から15号ソロ本塁打を放ち[193]、自身初の4試合連続本塁打を記録した[194]。しかし翌30日の対巨人10回戦では無本塁打に終わり[195]、後述の球団タイ記録に並ぶことはできなかった。同年6月16日の対巨人12回戦(横浜スタジアム)では[196]、球審の森健次郎に暴言を吐いたとして来日後初の退場処分を受ける(後述)が[197]、翌日の同カードではそれぞれ19号・20号となる1試合2本塁打を放った[198]。これは同シーズン初、NPB通算7回目の1試合2本塁打で、4回に桑田真澄から2点本塁打、8回にマット・ランデルから1点本塁打を放っていたが、試合には敗れている[146]。
一方で同シーズンは他球団から徹底的にマークされるようになり[199]、特に7月中旬は他球団からの厳しい攻めに苦しんだ[200]。しかし7月28日の対ヤクルト17回戦(明治神宮野球場)で[201]、杉本友から27号本塁打を打つと[202]、29日の対ヤクルト18回戦(明治神宮野球場)の試合中止を挟んで[203]、30日の対広島戦(広島市民球場)で大竹寛から28号本塁打を放つ[204]。同日時点で、対広島戦では打率.426、8本塁打、29打点と好成績を残しており、本人曰く「このところチャンスに打てなかった」中で4安打、4打点を挙げ、チームの勝利に貢献した[205]。続いて7月31日・8月1日の広島戦(広島市民球場)の中止と2日の移動日を挟んで[206][207]、8月3日の中日戦(ナゴヤドーム)で川上憲伸から29号[208]、翌4日の対中日戦(ナゴヤドーム)でもマーク・バルデスから30号本塁打をそれぞれ放った[209]。そして6日の対ヤクルト18回戦(平塚球場)では[200]、苦手としていた石川から5試合連続となる31号2点本塁打を放ち[210]、1968年の長田幸雄、1977年の田代富雄(当時は横浜打撃コーチ)が保有していた連続試合本塁打球団タイ記録に並んだ[211][212]。続く7日のヤクルト19回戦(横浜スタジアム)[213]で本塁打が出れば、球団新記録となる6試合連続本塁打となるはずだったが、この試合は無安打に終わり、球団新記録樹立はならず、連続試合安打も7で途切れた[214]。
5試合連続本塁打を記録してからは3試合連続で無安打に終わったが、構えた際に体重を爪先に乗せることを意識したことで復調、8月11日の対阪神17回戦(札幌ドーム)では3点リードで迎えた延長10回裏、ロドニー・マイヤーズから[215]同シーズンでは2度目のサヨナラ本塁打となる32号逆転サヨナラ満塁本塁打を放った[216]。延長戦でのサヨナラ満塁本塁打は、2003年7月18日の横浜対巨人戦でチームメイトの小田嶋正邦が延長11回裏に記録して以来、NPB史上9度目であった[217]。同月21日の対中日21回戦(横浜スタジアム)では3回裏、前後を打つ佐伯貴弘、多村仁とともに球団としては1997年8月14日以来7年ぶりとなる3者連続本塁打を記録した[218]。この本塁打は野口茂樹から放った1点本塁打で、同日には続く4回の打席でも野口から再び1点本塁打を放ち、シーズン2度目(通算8度目)の1試合2本塁打を記録、チームも勝利している[146]。8月は最終的に、横浜時代では自己最多となる月間11本塁打を記録した[219]。
同年9月3日の対ヤクルト21回戦(横浜スタジアム)で、昨年に自身が樹立したシーズン本塁打球団記録を更新する41号本塁打を放った[220]。
2年連続本塁打王
シーズン終盤まで、かつてAAA級でともにプレーした巨人のタフィ・ローズと本塁打王争いを繰り広げた[28]。最終的にウッズはローズと並んで45本塁打を記録してシーズンを終了していた一方、彼らより遅れてシーズンを終了した岩村明憲(ヤクルト)は1本差の44本塁打まで迫っていたが、岩村はヤクルトのチーム最終戦となった10月16日の対横浜28回戦(横浜スタジアム)で本塁打を放つことができず、この日をもってセ・リーグは全日程が終了[221]、ウッズとローズが2年連続のセ・リーグ本塁打王を獲得した[222][223][224]。当時35歳であり、本人はこの年齢で2年連続本塁打王を達成できたことについて「満足している」と語っていた一方、チーム成績が振るわなかった点については不満の旨も述べていた[222]。この本塁打数は2008年に村田修一によって更新されるまで球団記録であった[225]。対戦チーム別の本塁打数の内訳は中日から11本、ヤクルトと広島から各8本、巨人と阪神から各9本であった[226]。また、来日から2年以上連続で40本塁打以上を記録した打者は、ウッズがトニー・ソレイタ(1980年 - 1981年)、アレックス・カブレラ(2001年 - 2003年、3年連続)に次いでNPB史上3人目であり、ウッズが来日からの2年間で記録した85本塁打は2019年時点で、カブレラの104本塁打、ソレイタの89本塁打に次ぐNPBの外国人打者歴代3位(セ・リーグに限れば1位)である[227]。そして多村も40本塁打を記録したため、同一チームの2人が40本塁打以上を記録したことになるが、これは同年の巨人も含めてNPB史上6チーム目、横浜としては初の快挙であった[228]。対チーム別の対戦成績を見ると、中日戦で打率.360、広島戦でも.355を記録した一方、ヤクルト戦では.231と抑え込まれた[173]。
また本塁打だけでなく、打点に関しても打点王のタイトル争いを繰り広げており、10月1日時点ではセ・リーグの打点ランキングは金本知憲(阪神)が105でトップを走り、2位のウッズが103、3位のグレッグ・ラロッカ(広島)が101という状況だった[229]。しかし、ウッズは同シーズン最後の出場となった5日の広島戦では打点を上げられず、103から打点を上積みすることはできなかった[230]。また同日に右肘関節炎との診断を受けたため、翌6日付で出場選手登録を抹消され[231]、同月8日には右肘骨棘除去手術のため[232]、アメリカ合衆国へ帰国した[233]。この手術は本人曰く「骨と骨が少しぶつかったりして痛かったから、きれいにしただけ」の手術だという[234]。最終的には金本が113打点で打点王のタイトルを獲得した一方、ウッズは金本と10打点差の103で、打点王のタイトルは逃し[235]、金本やラミレス(110打点)に次ぎ、岩村と同数のリーグ3位に終わった[236]。
同年は一塁手としてのみ出場したが、10失策を記録した[175]。また得点圏打率は.223で[237][238]、これはセ・リーグの規定打席到達選手38人[237]の中で最下位であった[239]。守備面では、出場した全130試合で一塁手として起用され、10失策、守備率.991(リーグ4位)を記録した[240]。また、代打での出場機会は1度もなかった[241]。
同年にはセ・リーグの一塁手部門で、自身初のベストナインに選出されている[242][243]。一方のチームは本塁打数が194本とリーグ2位を記録、またチーム打率も前年の最下位から一転してリーグ首位の.279を記録したが、138試合で59勝76敗3分、勝率.437という成績で、2002年から3年連続となるリーグ最下位に沈んだ[244]。
横浜退団
帰国前、ウッズは来季も横浜でプレーすることを希望すると述べた上で、翌2005年シーズン以降の複数年契約と、年俸を同年の100万ドル(約1億1000万円)から倍増することを求め[245]、後述の球団側からの提示を受けて「(年俸)2億円が限度なら、もう横浜には戻ってこれない」と語っていた[246]。
一方、横浜は同年9月中旬の時点でウッズに残留を要請する方針を決めていたが[247]、提示する年俸の金額について球団社長の峰岸進は「2億円が限度」と語っており[248]、また前述のように前年オフから原則として複数年契約を認めない方針を取っていたため、残留に向けての交渉は難航した[249]。しかし2年連続で本塁打王を争った実績を高く評価し[250]、同シーズンの倍額に当たる年俸200万ドル(当時のレートで約2億2000万円[251])を基本線に[252]、2年目(2006年)の契約を違約金を払うことで解除できるバイアウト方式や、年俸の基本額を抑え、出来高を増やした形の2年契約を検討しているとの報道もあった[250]。また契約内容は年俸プラス出来高払いで総額300万ドル(約3億3000万円)の2年契約(バイアウト方式)であり、1年目の成績次第では2年目の年俸を減額できる変額制となっているとする報道もあった[253]。
球団専務取締役の山中正竹は「マネーゲーム」に参加するつもりはなく、このような提示条件を変更するつもりはないと述べていた一方[253]、ウッズはあくまでそのような条件付きではない2年契約を求めたため、両者の溝は埋まらなかった[232][252]。横浜はウッズに契約条件の最終提示を済ませた上で、同月30日までに回答するよう求めていたが、ウッズからは回答はなかったため、横浜との契約条項により、同年11月1日から横浜以外の他球団との契約交渉が可能な状態になった[254]。これを受け、横浜退団は確実と報じられた[255][256]。横浜がウッズを慰留できなかった一因として、前述のように2003年オフから原則として複数年契約を認めない方針を立てながら、同オフにその例外としてシアトル・マリナーズから横浜に復帰した佐々木主浩と総額13億円の2年契約(当時の日本人選手としてはNPB史上最高額となる年俸6億5000万円)を締結していたことが挙げられている[257]。
中日時代
中日への移籍
このように横浜との契約交渉が事実上決裂した後は、落合博満が監督を務めていた中日ドラゴンズに加え、同年オフにジョージ・アリアスを解雇し一塁手のポジションが空いていた阪神タイガース[258]がそれぞれ、ウッズへの獲得オファーを出していたが、前年(2003年)オフに横浜から中日へ移籍したドミンゴ・グスマンと代理人が同じ[注 15]であることから、移籍先は中日が本命であると報じられていた[184]。中日の球団オーナーを務めていた白井文吾、および球団社長の西川順之助らは西武ライオンズとの日本シリーズで敗退した直後の同年11月1日までに、ウッズの獲得競争に名乗りを上げた[259]。
一方で阪神監督の岡田彰布もウッズに強い関心を示しており、中日と阪神は当初、ウッズにそれぞれ2年契約、総額6億円以上の契約条件を用意していると報じられていた[260]。後に残留交渉を進めていた横浜、そして競合相手とみられていた阪神が相次いで争奪戦から撤退したことにより、中日移籍が確実と報じられる[261]。同年12月1日、西川はウッズとの契約について条件面で合意したことを明かし[262]、翌2日にウッズはNPBコミッショナー事務局から横浜を自由契約になった選手として公示され[263]、同日には中日がウッズの獲得を発表[264][265]、同月4日付で正式に選手契約が締結された[266]。同月14日、背番号は横浜時代と同じ44と発表された[267]。
契約期間は2005年から2006年シーズンまでの2年間で、総額1000万ドル(日本円で約10億2000万円)[264]。年単位では年俸約5億円で、この契約条件は中日球団としては1992年の落合(年俸3億円)を上回り[268]、史上最高年俸となった[264]。同シーズン、年俸5億円超の外国人選手はいずれも巨人のロベルト・ペタジーニ(7億2000万円、同年限りで退団)とローズ(5億5000万円)の2選手のみで、ウッズは彼らに次ぐ高年俸選手となった[269]。また無理に本塁打を狙って打撃状態が悪化するような事態を防ぐため、本塁打よりも四球、および打点の出来高払いを高く設定する条件も盛り込まれた[268][264]。さらに金銭面だけでなく、住居として本人の希望する物件を用意し、家賃などの諸経費を全額負担するという条件や[注 16]、同年には2月1日から全選手が参加した球団春季キャンプへの途中参加を許可するという異例の条件も盛り込まれていた[268]。
中日移籍の背景には、ウッズ自身が「優勝できるチームでプレーしたい」と考えていたことに加え[270]、中日側もレオ・ゴメスが退団して以降、長距離砲不在が懸案となっており[265]、同年は打線のつながりの良さと強力な投手陣でリーグ優勝を達成したが、日本シリーズではアレックス・カブレラを擁する西武に敗れていた[271]。このことからまた課題点の長打力を補強することを目標としており[265]、落合も「右の四番」の存在を理想としていたが[271]、2年連続本塁打王に輝いたウッズはその補強ポイントに合致する存在だった[265]。また、同シーズンに四番打者を担っていた福留孝介への相手バッテリーのマークが分散されることや[272]、福留、ウッズ、立浪和義、アレックス・オチョアと左右の打者が交互に並ぶ強力クリーンナップの形成も期待された[273]。また横浜時代には、それぞれチームメイトになった川上憲伸(2004年は打率.389、3本塁打、5打点)や山本昌(2003年は打率.556、2本塁打、2打点、2004年は打率.375、1本塁打、1打点)といった中日の主力投手たちを打ち込んでいたことから、彼らからは味方になることを期待されていた[274]。
なお中日時代の2006年には、契約交渉などで代理人を務めていたアメリカの法人[注 15]が、2003年1月[注 17]に代理人契約で、ウッズが受け取った年俸などの6%を報酬として受け取ること、契約を解除した場合はその時点で未払いの報酬金を支払うことなどを盛り込んだ契約を締結したが、ウッズが翌2004年12月に中日入りした直後に契約を解除され、契約金から報酬を支払われていない[注 18]」として、報酬6000万円(2年契約・年俸10億円のうち6%)の支払いを求めて名古屋地方裁判所へ民事訴訟を提訴していた[276]。中日退団後の2009年(平成21年)3月2日には東京地方裁判所(山崎勉裁判長)が被告であるウッズに対し、原告である代理人へ約1300万円を支払うことを命じる判決を言い渡している[注 19][277]。
中日への移籍当初は一塁手としてだけでなく、左翼手として起用する構想もあったが[175][278]、中日時代の4年間で一塁手以外のポジションに就いたことは一度もなかった[279][280][281][282]。
2005年
2005年シーズンを迎えるにあたり、チームとしての目標は中日のセ・リーグ優勝と日本一、そして個人目標としては自身の前年の本塁打数を上回る46本塁打を掲げていた[283]。また2003年が40本塁打、2004年が前年より5本多い45本塁打だったことから、前年よりさらに5本多い50本塁打を打ち、NPBではオレステス・デストラーデ以来となる3年連続の本塁打王獲得を目標に掲げていたとも報じられている[273]。
同年の春季キャンプでは北谷公園野球場の左翼席に特設された高さ14 mの防球ネットを大きく越えるような打球(推定飛距離150 m以上)を連発するだけでなく、コンパクトなスイングで右翼方向に流し打ちする練習にも取り組んでいた[271]。オープン戦16試合では打率.381、3本塁打[注 20]、12打点、得点圏打率.444(得点圏では9打数4安打)を記録していた[285]。一方で開幕前、名古屋の民放テレビ番組に出演した二宮清純は、長打力はあるものの守備範囲の狭いウッズは強力な投手力と守備力を武器とする中日のチームカラーに反するタイプの選手であり、ウッズの加入は中日にとってプラスにならないのではないかと述べていた[286]。
序盤の不振と退場劇、出場停止
開幕2試合目となる同年4月2日の対横浜2回戦(ナゴヤドーム)では、川村丈夫から6回裏に移籍後初本塁打を放ち[287][288]、開幕4試合目となる同月5日の対ヤクルト1回戦(明治神宮野球場)では石堂克利から2本塁打を放った[289]。この1試合2本塁打はNPB通算9回目で、中日移籍後では初であった[146]。しかし、その後は内角攻めが厳しくなり[290]、4月6日の対ヤクルト2回戦(明治神宮野球場)で延長10回表に五十嵐亮太から死球を受け[291]、後に左手小指の亀裂骨折で全治6週間と診断される[292]。その後もチームのために出場を続けていたが[292]、続く10日の対巨人戦(東京ドーム)でも[293]、1回表無死満塁の場面で後藤光貴から左手に死球を受け、思わず後藤のいるマウンドへ歩み寄ったところ、荒木雅博に制止されていた[294]。2死球は9試合を終えてリーグ最多、かつ自身にとってもNPB最多タイ(2003年は2死球、2004年は1死球)であり、4月12日からの対広島2連戦からは死球対策にパット入りの打撃用手袋を使用していた[294]。一方で五十嵐からの死球がきっかけで、それ以降は左手をかばいながら打席に立つことが続き、不調になっていたと報じられている[295]。五十嵐から死球を受けた6日までは5試合で打率.278、3本塁打の成績を残していた一方、7日から13日までの6試合では打率.125、1本塁打と、死球禍を境に成績が急降下していた[293]。
4月27日時点では、打率.195、6本塁打、10打点と大不振に陥っており、守備面でも4月13日の対広島戦で遊撃手・井端弘和からの送球をミットで捕球できず、決勝点を許すきっかけを作っていた[286]。また24日の対巨人戦では好機で空振り三振に倒れ、バットを足でへし折るという出来事があったが、落合やチームメイトからは「そのうち打てるようになるからリラックスしろ」と声をかけられていた[290]。4月終了時点では本塁打は新井貴浩(広島)の9本塁打に次ぎ、清原和博・高橋由伸(いずれも巨人)と並ぶリーグ2位の8本塁打を記録していたが、打率は.217で、セ・リーグの規定打席到達者38人の中では最下位であり、得点圏打率も.192だった[296]。二宮はこのようなウッズの不振を受け、同年5月発売の『サンデー毎日』誌上で、2000年に中日に加入したディンゴが18試合で1本塁打のみに終わり、シーズン途中の8月に解雇された件と同様、ウッズの加入は期待外れであったと評していた[286]。
調子が上向きになりかけた矢先[297]、セ・パ交流戦開幕前日の5月5日[298]に開催された対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)で藤井秀悟の胸元への投球に激怒し、右手で藤井の顔面を殴って退場処分を受け(後述)[299]、セ・リーグから10試合の出場停止、制裁金50万円の処分を科された[298]。出場停止の対象となった試合は、5月6日から8日の対オリックス・バファローズ3連戦(スカイマークスタジアム)[注 21][303]、10日から12日の対西武ライオンズ3連戦(インボイスSEIBUドーム)[注 22][303]、13日から15日の対福岡ソフトバンクホークス3連戦(ナゴヤドーム)[注 23][303]、17日の対北海道日本ハムファイターズ1回戦(札幌ドーム)[303][310]である。
この時点でウッズは清原、新井、そして前年までチームメイトだった多村と並んでリーグトップの9本塁打を記録していたが[311]、そのウッズが交流戦の開始と同時に出場停止となったことが大きく響き、チームはウッズの離脱中に2勝8敗と大苦戦を強いられた[注 24][312]。交流戦開幕戦となった5月6日の対オリックス1回戦(スカイマークスタジアム)では指名打者 (DH) の高橋光信が[313][300]、2戦目以降はウッズの復帰までアレックス・オチョアがそれぞれ四番打者を務め[314][315][316][317][注 25]、また一塁手は渡邉博幸[314][315][316][317]、高橋光信[316]が代役を務めたが、チームは開幕戦でシーズン初の完封負けを喫し[318]、これを含めて3度の完封負け[注 26]を喫していた[319]。この間、総得点も22(平均2.2得点/試合)にとどまり[319]、4得点以上を記録した試合も1試合のみとなっていた[320]。
このような低迷の一因として、交流戦開幕から5月16日までの時点で、三番打者の立浪和義や四番打者のアレックスがともに打率.176、六番打者の森野将彦が.172、七番打者の谷繁元信が.200と、好調だった4月に打線を支えてきたメンバーが不振になっていたことが挙げられ、特に立浪やアレックスは、それまで四番打者を担っていたウッズの存在から、相手バッテリーのマークがウッズに集中したことの恩恵を受けていたところ、ウッズが離脱したことで相手バッテリーから強くマークを受けるようになったと評されている[321]。最終的にシーズンのチーム打率はセ・リーグ5球団相手で.273だった一方、交流戦では序盤にウッズを欠いていたこと、また前年のセ・リーグ優勝チームだったことからパ・リーグの投手陣から徹底的なマークを受け、チーム打率は.254にとどまっていた[319]。
戦線復帰から交流戦折り返しまで
ウッズは出場停止期間中の同年5月14日・15日に開催されたウエスタン・リーグのサーパス神戸対二軍5・6回戦(あじさいスタジアム北神戸)でいずれもDHとして先発出場し、5回戦では3打数無安打に終わったものの、6回戦で4打数1安打を記録した[322]。同年のウッズのウ・リーグにおける成績としては、出場試合2、9打席、7打数、1安打、打率.143という成績が残っている[323]。また14日の試合前には二軍監督の佐藤道郎からの頼みで前田章宏の打撃指導を行い、前田はその試合でウッズからのアドバイスを実践して本塁打を放っている[324]。
ウッズは出場停止期間明けの5月18日に開催された対日本ハム2回戦(札幌ドーム)で四番打者・一塁手として先発出場し[325]、戦列復帰を果たすと、チームは同シーズン4度目、交流戦では初の2桁得点となる11点を記録し、11対4で大勝した[326]。しかし復帰後も、セ・リーグのそれとは異なるパシフィック・リーグのストライクゾーンへの適応に苦しみ、度重なる遠征や慣れない球場でのプレーによって疲労が蓄積、慢性的な腰痛に悩まされていた[327]。ウッズの復帰後初の新カードとなる5月20日の対千葉ロッテマリーンズ1回戦(千葉マリンスタジアム)で、チームは交流戦で初めて3連戦の初戦に勝利し[328]、翌21日の2回戦でウッズは5回表にダン・セラフィニから戦線復帰後18打席目で初となる本塁打、かつ開幕から出場33試合目での2桁本塁打到達[注 27]となる10号1点本塁打を放ったが[329]、3対1とリードしていた7回裏に同点に追いつかれるきっかけとなる失策をし、最終的にチームはサヨナラ負けを喫した[330]。当時、守備面では立浪とともに緩慢な守備が目立つと指摘されており[331]、古葉竹識は当時指名打者を担っていた立浪を三塁手、森野を一塁手で起用し、ウッズを指名打者で起用すべきだと提言していた[332]。また打線もつながりを欠いており[333]、広岡達朗は当時の中日打線の低迷の原因について、前年は打線につなぐ意識が浸透していたが、今年はウッズに依存しようという意識がマイナスに働いていると指摘していた[333]。
このような要因から、チームは交流戦で「降竜戦」と揶揄されるほどの深刻な低迷に陥り[333][334]、5月22日には対ロッテ3回戦で敗れ、4月17日から35日間守っていたセ・リーグ首位から転落[335]、さらには交流戦前半最後の3連戦となる5月24日から26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス3連戦(ナゴヤドーム)でも3連敗を喫し[336]、6カード連続負け越しとなった[337]。一方で同カードの第2戦で、ウッズはナゴヤドームでは出場停止直前の同月4日に対ヤクルト戦で放って以来となる11号1点本塁打を含む3安打を放ち、移籍後36試合目で初の猛打賞を記録した[338]。
最終的に、チームは交流戦を15勝21敗で終え、12球団中ワースト4位に低迷、逆に優勝争いを繰り広げた阪神は21勝13敗2分けで貯金8を記録し、ソフトバンク、ロッテに次ぐ12球団中3位(セ・リーグ6球団ではトップ)に入っており、この交流戦の戦績が両チームの明暗を分けたと評されている[339]。
中盤以降の復調
交流戦中盤で復帰を果たして以降、ウッズは大振りを避けてコンパクトにはじき返す打撃が目立つようになり、それに伴って勝負強さも伴ってきたと評されている[340]。6月7日までは得点圏打率が.193と低迷していたが、翌8日の対楽天5回戦(フルキャストスタジアム宮城)では6回表と8回表に2打席連続で同点適時打となる二塁打を放っていた[341]。交流戦最終戦となる16日の対オリックス6回戦(ナゴヤドーム)では、6回裏に15号逆転本塁打を打ち、NPB以上6番目の速さとなる通算321試合目でNPB通算100本塁打を達成した[342][327]。交流戦ではロッテとソフトバンクから各2本塁打、オリックスと楽天から各1本塁打の計6本塁打を記録しており[343]、これと18打点はそれぞれチーム最多であった[344]。打率は.260、長打率は.470、出塁率は.324、得点圏打率は.281だった[344]。交流戦の最後10試合では打率.194、2本塁打、13三振と不振に喘いだが、リーグ戦が再開してから6月24日までの間は本塁打狙いの大振りから一転して本来のシュアな打撃に戻り、打率.375に上昇した[345]。7月は打率.378(リーグ1位)、3本塁打、15打点、28安打(リーグ1位)の成績で、月間MVPを受賞した[346]。
リーグ戦再開後には6月23日の対阪神戦から7月3日の対ヤクルト9回戦(明治神宮野球場)まで8試合連続打点を記録し、この間は28打数14安打、3本塁打、12打点と好調だった[347]。連続試合打点の球団記録は1949年の西沢道夫が記録した11試合であったが[347]、同年7月5日の対巨人7回戦(ナゴヤドーム)では4打数2安打を記録するも、得点圏に走者を置いた2度の打席で凡退して無打点に終わり、連続試合打点は8で止まった[348]。5月半ばまで2割代前半に低迷していた打率は[349]、対ヤクルト11回戦(長良川球場)でシーズン3度目の3安打を記録した7月17日時点で.285まで上昇していた[350]。オールスターゲーム前の前半戦では、それぞれチームトップとなる通算20本塁打、58打点を記録していた[340]。
8月6日の対横浜11回戦(横浜スタジアム)では[351]、4回表に斎藤隆から23号2点本塁打、8回表にも斎藤から24号1点本塁打、9回表には川村丈夫から25号2点本塁打を放ち[352]、NPBで初となる1試合3本塁打、また自己最多タイとなる1試合4安打・5打点を記録した[351]。1本目は横浜ファンが多かった右中間席への飛距離125 m、2本目は中日ファンが多かった左中間席への飛距離135 m、そして3本目はバックスクリーン方向のコカ・コーラの看板へ直撃する飛距離135 mだった[146]。またこの試合で同一カード7試合連続本塁打を放った福留とは7月13日の対巨人戦(札幌ドーム)以来15試合ぶり、同シーズン5試合目(通算3勝2敗)となるアベック本塁打を記録していた[146]。チームはウッズの活躍で3試合連続の逆転勝利を果たし、試合後にウッズはヒーローインタビューで「とてもいい気持ちだよ。横浜にもボクのファンはいるけど、ビジネスだから。ベストを尽くしただけなんだ」と語ったが、古巣である横浜のファンからは大ブーイングが起きていた[351]。また同日の試合から、30号本塁打を放った同月11日の対阪神15回戦(ナゴヤドーム)までに自己最長タイ記録かつ球団タイ記録となる5試合連続本塁打を記録した[353]。ウッズ以前に5連続試合本塁打を記録した中日の選手には、1979年の大島康徳、1984年のケン・モッカ、1989年の落合、1996年の大豊泰昭、2003年の福留がいる[219]。この間、7日の対横浜12回戦(横浜スタジアム)で26号本塁打[354]、9日の対阪神13回戦(ナゴヤドーム)で27号本塁打[355]、10日の同14回戦で28号・29号本塁打(同シーズン3度目、NPB通算11度目の1試合2本塁打[356])を放っている[357]。2本塁打を記録した10日の試合終了時点では、4試合で計7本塁打を記録しており[358]、11日の試合終了時点では本塁打数でリーグトップを走っていた新井(31本塁打)と1本差に迫っていた[359][360]。8月の試合は同日時点で残り16試合あり、そのままのペースで本塁打を量産すれば当時のNPB記録だった月間16本塁打を大幅に上回る月間25本塁打の計算だったが[219]、12日の対広島12回戦(広島市民球場)では無本塁打に終わり[361]、連続本塁打記録は5で止まった[362]。
同年8月31日の対阪神16回戦(阪神甲子園球場)では3点ビハインドで迎えた3回裏、井川慶から前年の8月11日以来NPB通算4本目、そして中日移籍後では初の満塁本塁打となる31号逆転満塁本塁打を放ち、チームはこの試合に勝利したことで首位に立っていた阪神とゲーム差を0.5まで縮めた[363]。しかしチームは翌9月1日の対阪神17回戦(阪神甲子園球場)で敗れ、5月21日以来となる首位奪回に失敗し[364]、それからも首位を奪還することはできず[365]、同月29日には阪神のリーグ優勝が決まったことにより、V逸とリーグ2位が確定した[366]。一方で同日の対横浜21回戦(横浜スタジアム)では7回表に打った適時打でシーズン100打点に到達し、先に100打点に到達していた福留とともに球団史上初めて2打者がシーズン100打点を達成することとなった[367]。
最終的な成績
最終的に3年連続の本塁打王は逃したが[297]、38本塁打はチームトップ[368]、かつ新井の43本塁打、金本知憲の40本塁打に次ぐリーグ3位であった[369]。また打点は今岡誠(147打点)、金本(125打点)、アレックス・ラミレス(104打点)に次ぎ、福留と並んでリーグ4位かつチームトップの103を記録した[370]。2年連続の100打点、初の打率3割を記録した[368]。所属チームの本拠地球場は前年まで狭い横浜スタジアムから広いナゴヤドームに変わり、またボールも「飛ぶボール」から「飛ばないボール」に変わったが、そのようなマイナス条件の中でも大きく本塁打数を減らすことはなかった[371]。打率は規定打席到達者34人中10位となる.3063で[372]、NPB入り3年目にして初めて打率3割以上に到達した[371]。ただし小関順二・荒井太郎 (2006) は、横浜時代の2年間に比べて微妙に成績が落ちていると指摘しており、その要因としてメジャーからのオファーがあったか、もしくは本人がアメリカに帰りたくなったため、シーズンに集中できていなかったのではないかと指摘している[373]。なお同年の38本塁打は、1949年の西沢、1994年(本塁打王)および1996年の大豊泰昭と並ぶ歴代7位タイ(2006年のリーグ優勝決定時点)であり、ナゴヤドーム移転後の1997年以降では2006年のウッズに次いで2本目に多かった[374]。また対戦チーム別の内訳は、阪神から7本、横浜から8本、ヤクルトと広島から各6本、巨人から5本であった[375]。その一方で得点圏打率は.254であり[372][376]、これはセ・リーグの規定打席到達者34人中ワースト3位であった[371]。また、併殺打はリーグワーストとなる24を記録した[372]。守備面では出場全135試合で一塁手として出場し、9失策、守備率.992(リーグ3位)を記録した[279]。DHや代打としての出場機会はなかった[377]。
前年のチームは138試合で総得点623、111本塁打だったが、ウッズの加入した2005年は9月29日までの139試合で663得点、137本塁打を記録した[367]。最終的なチーム本塁打数は前年より28本増加し、総得点も阪神に次ぐリーグ2位となる680を記録した[319]。これを受け、当時『中日スポーツ』の記者だった渋谷真は「史上最高年俸で迎え入れたウッズへの投資には、間違いがなかった」と評している[367]。交流戦で低迷していたチームもリーグ戦再開後には成績を持ち直したが、最終的には阪神に遠くおよばず、リーグ連覇を逃すことになった[378]。同年のベストナイン投票では、セ・リーグの一塁手部門で新井の88票に次ぐ2位の57票を獲得した[379]。
2006年
2006年シーズン開幕前は40本塁打、120打点を目標に掲げていた[297]。同年には韓国時代から本塁打王争いを繰り広げたライバルである李承燁が中日と同じセ・リーグの巨人に加入し、韓国に続いて日本でも再び彼と本塁打王争いを繰り広げることとなった[55]。
開幕から8月まで
同シーズン開幕当初は不振に喘いだ[380][381]。4月4日の対横浜1回戦(横浜スタジアム)でシーズン1号となる満塁本塁打を放ったが、この試合終了時点では打率.154であり[382]、同月12日時点では打率.167、2本塁打で、中日打線もウッズの不振が原因で調子に乗り切れていないと評されていた[383]。また同月15日時点では好機での凡退が目立ち、ボールになるような外角の変化球に手を出していると評されていた[384]。しかし同月19日の対阪神戦ではサヨナラ適時打を放ち、落合をして「不振も峠を越えた」と評され[385]、同月25日の対ヤクルト2回戦(ナゴヤドーム)では3回裏に石井一久から逆転勝ち越し打となる4号2点本塁打を放っており、同日の試合までに7試合連続安打を記録し、打率も.241まで上昇させていた[386]。4月のは打率.253だった一方、得点圏打率は立浪の.438に次ぐ.368、打点はアレックスの15に次いで福留に並ぶ14と、いずれもチーム2位を記録、本塁打は福留の8本塁打、アレックスの6本塁打に次ぐチーム3位の4本塁打を記録していた[387]。
交流戦に入ってからは好調で、5月17日の対オリックス・バファローズ2回戦(ナゴヤドーム)では5回裏に萩原淳から9号3点本塁打、7回裏にユウキから10号2点本塁打を放った[388]。またこの試合までの5試合では、福留と2人の合計打率は5割以上に達していた[388]。最終的に交流戦では全36試合に出場し、チーム最多となる9本塁打、32打点を記録した[389]。この間、打率は.269、長打率は.538、出塁率は.377、得点圏打率は.318を記録した[389]。交流戦を通じてチームは20勝15敗1分けの12球団中4位と健闘したが、規定打席到達者で得点圏打率が3割超を記録した打者は福留 (.432)、ウッズ、アレックスの3人だった[390]。また5月にはチーム打率がリーグ最下位と、前月に引き続いて低迷する中、ウッズは福留の.370に次ぐ打率.326に加え、それぞれチームトップとなる8本塁打、28打点を記録、出塁率も福留の.438に次ぐチーム2位の.422を記録していた[391]。6月は打率.259だったものの、森野(19打点)、福留(17打点)に次ぐチーム3位の15打点、チームトップの5本塁打、福留の.425、井端の.384に次ぐチーム3位の出塁率.370を記録[392]、7月は荒木の.343に次ぐ打率.339に加え、それぞれチームトップの6本塁打、17打点を記録していた[393]。
8月は打率.297、9本塁打、23打点を記録したが、前半には打率4割以上を記録していた一方、同月後半には打率.196と低迷しており、チームの総得点および本塁打数も月前半では78点、18本を記録していた一方、月後半では37点、8本と半減していた[394]。同月2日時点では、本塁打数は巨人の李承燁がリーグトップの34本、ウッズはリーグ2位の25本で[395]、このシーズンでは最大となる9本差をつけられていた[396]。同日の対横浜戦では背中の張りから途中交代したが[397]、翌3日の対横浜10回戦(横浜スタジアム)では四番・一塁手として先発出場し、1回表には山口俊から場外への26号2点本塁打を、9回表にも加藤武治からNPB通算150本塁打となる2点本塁打を放った[398]。この試合は9対7で中日が勝利したが、落合が「絶対負けられないゲーム」と振り返った試合でもあり、この2本目の本塁打でそれまで打点王争いを独走していた横浜の村田修一とトップタイに並び、後に打点タイトル争いを独走するようになった。また来日4年目、通算491試合目での通算150本塁打到達はNPB歴代6位のスピード記録でもあった[399]。
9月以降
残り30試合を切った9月15日時点で[396]、本塁打数は李承燁がリーグトップの39本、ウッズはアダム・リグス(ヤクルト)とともにリーグ2位の33本であり[400]、李承燁を6本差で追っている状態であった[396]。しかし、山本昌がNPB史上最年長でノーヒットノーランを達成した翌16日の対阪神18回戦(ナゴヤドーム)では、4回裏に福原忍から34号2点本塁打を放ち[401]、ウッズはこれ以降、本塁打を量産する[396]。一方の李承燁は9月18日に40号本塁打を放って以来[402]、10月4日の対横浜21回戦(東京ドーム)で9試合ぶりとなる41号1点本塁打を放つまで本塁打がなく、その本塁打を放った時点では42本塁打のウッズと1本差だったものの[403]、後述の10月10日の試合を最後に戦線離脱し[404]、そのままリーグ2位の41本塁打でシーズンを終えた[405]。
ウッズは9月19日の対横浜15回戦(横浜スタジアム)で通算109打点を記録し、1999年にゴメスが記録した球団4位(外国人選手としてはトップ)に並ぶと[406]、同月22日の対ヤクルト18回戦(明治神宮野球場)で石井一久から36号満塁本塁打を放ち[407]、シーズン2本目の満塁本塁打を記録すると同時にゴメスの記録を抜き、球団単独4位の113打点を記録した[408][409]。この113打点は自己最多を更新するものでもあり、またそれまで課題とされていた得点圏打率も前日時点で.287を記録していた[407]。
同月26日の対横浜17回戦(ナゴヤドーム)では1回裏に三橋直樹から38号2点本塁打、4回裏には再び三橋から39号1点本塁打を放っており、1回の本塁打で1989年の落合が記録した116打点を抜き、球団史上2位の117打点目を記録した[410]。この試合までに記録した1試合2本塁打は同シーズンに限れば6試合目(5勝1敗)、2005年からの通算では9試合目(7勝2敗)、2003年からの通算では17試合目(11勝6敗)であった[410]。同月28日の対横浜19回戦(ナゴヤドーム)では、1回裏に牛田成樹から40号2点本塁打を、3回裏の第2打席でも再び牛田から41号2点本塁打を放ち[411]、李承燁を抜いてリーグトップに立った[396][411]。自身にとって2打席連続本塁打は26日の横浜戦(ナゴヤドーム)以来、同シーズン5試合目で4勝1敗であり、2003年からの通算だと10試合目(8勝2敗)であった[411]。また中日の選手の40本塁打達成は1950年の西沢道夫、1976年のジーン・マーチン、1985年の宇野勝、1989年の落合に次いで球団史上5人目であり、ナゴヤドームに本拠地を移転した1997年以降では初であった[411]。一方でこの試合の5回には141個目の三振を記録し、前年の自身による球団記録の139三振を更新した[411]。最終的に、9月には23試合で打率.321、また本塁打・打点はいずれもリーグトップの9本塁打、28打点を記録し、自身通算3度目の月間MVPに選出された[412]。
リーグ優勝、そして本塁打・打点の球団記録更新
10月9日に開かれた対ヤクルト21回戦(明治神宮野球場)では、4回表に鎌田祐哉から45号満塁本塁打を放った[413]。一方でこの試合では左足首に自打球を当て打撲しており、翌10日に中日はリーグ優勝へのマジックナンバーを1とした状態で対巨人22回戦(東京ドーム)[414]を迎えたが、ウッズの左足首には引き続き痛みが残っており、踏ん張りが聞かない状態だった[404]。しかし「あしたは休みだろう」と考え、レッグガードを装着して試合に臨んだ[404]。
ウッズはこの試合で、4回表に姜建銘から46号先制3点本塁打を放つ[414]。その後、チームは7回裏までに3点を返されて3対3の同点に追いつかれたが、延長12回表に福留が1死満塁から中前へ勝ち越し適時打を放つと、続いて打席に立ったウッズは高橋尚成から47号満塁本塁打を放った[414]。結果、この1試合で7打点を挙げ、西沢の保有していたシーズン本塁打球団記録(46本)を更新し、チームはこの試合に勝利して優勝を決めた[404]。ウッズはNPB入り前にアメリカやベネズエラ、韓国で計6度の優勝を経験していたが、日本では初の優勝であった[397]。なお、この47号満塁本塁打は前日の試合に続く2試合連続満塁本塁打でもあり、これはNPB史上、前年のベニー・アグバヤニ(千葉ロッテマリーンズ)に続き史上6人目、セ・リーグでは1953年の藤村富美男(大阪タイガース)以来53年ぶり2人目の快挙だった[374]。また、打点も9日の満塁本塁打で西沢の球団記録 (135) を1点上回る136とし、球団記録を56年ぶりに更新した[415]。同日までの1か月間では、24試合で14本塁打、41打点を記録していた[416]。
この日、日本テレビの野球中継で実況を担当した同局アナウンサーの河村亮は、ウッズが47号満塁本塁打を放った際「痛烈!一閃!」と実況しており、後年にはこのフレーズが「名実況」として語られている[417]。
本塁打・打点の二冠王を獲得
同シーズンはいずれも日韓を通じて自己最多となる47本塁打、144打点を記録し、2年ぶりにして3度目の本塁打王、そして初の打点王を獲得、リーグ優勝に大きく貢献した[416]。打点は2位の村田(114打点)[418]に30点差をつけたリーグトップ[419]、かつ球団新記録にしてNPB史上歴代6位の記録であり、2025年シーズン終了時点では最後の140打点達成者となっている[420]。
一時は本塁打数で9本差をつけられていた李に6本差をつけての本塁打王獲得であり、また外国人打者による3度以上の本塁打王獲得はローズ(パ・リーグで3回、セ・リーグで1回の計4回)、オレステス・デストラーデ、ラルフ・ブライアント(それぞれパ・リーグで3回)に次ぐNPB史上4度目の記録であり、セ・リーグに限れば初であった[396]。外国人選手による複数球団での本塁打王獲得はローズ以来、NPB史上2人目でもあった[396]。球団としては、本塁打王は1996年の山﨑武司以来[264]、打点王は1994年の大豊泰昭以来で[421]、両タイトルとも本拠地がナゴヤドームに移転した1997年以降では初であった。また40本塁打以上も、球団としては1989年の落合(2006年当時は監督)以来であった[264]。
同年のチーム本塁打数は139本で、ウッズはその3分の1強の本塁打を1人で記録したことになる[422]。本塁打の内訳は、ソロ本塁打21本、2点本塁打16本、3点本塁打6本、満塁本塁打4本である[423]。年間4本以上の満塁本塁打は2005年の今岡誠以来NPB史上6人目で、球団としては1950年の西沢が5本打って以来のことである[409]。対チーム別の本塁打数は、阪神とヤクルトから各6本、巨人から5本、広島から9本、横浜から12本[424]、交流戦では西武ライオンズ・楽天・オリックスから各3本の計9本であった[425]。
打率はセ・リーグの規定打席到達者29人中7位となる.3097で、本塁打・打点以外にも332塁打、84四球はそれぞれリーグトップを記録した[426]。同シーズンは来日当初から指摘され続けていた勝負弱さを克服し[270]、得点圏打率も.305を記録した[426]。本人は打点王を獲得できたことについて、自身より前の一番から三番を打っていた荒木雅博、井端弘和、福留の3人が出塁してくれたおかげであると語っている[416]。またこのように勝負弱さを克服した要因は、確実性を増すために左翼方向へ引っ張るスイングを極力減らし、中堅から右翼方向への打球を思い描いたスイングを心掛けるようになったためであるとも報じられており、9月22日時点で記録していた36本塁打のうち、25本塁打がそのような打撃の結果打てたものだった[407]。
球場別の打率および本塁打数を見ると、本拠地のナゴヤドームで.308および20本塁打、広島市民球場で.455および4本塁打、横浜スタジアムで.378および5本塁打、明治神宮野球場で.364および4本塁打、東京ドームで.316および3本塁打を記録していた一方、阪神甲子園球場では.148と打率が著しく低く、本塁打は0本、打点も1のみだった[422]。また対チーム別打率を見ると、セ・リーグ5球団のうち対横浜戦で.372、対広島戦で.353を記録した一方、対阪神戦のみ3割未満の.266だった[427]。左右投手別の成績を見ると、右投手相手には打率.281(381打数、107安打)、36本塁打、104打点を記録していた一方、左投手相手には11本塁打、40打点ながら打率.387(142打数、55安打)を記録していた[427]。
守備面では139試合で一塁手として出場し、13失策、守備率.988(リーグ4位)を記録した一方[280]、5試合で指名打者 (DH) として起用されたが、23打席、20打数3安打、打率.150、0本塁打、2打点という成績に終わった[428]。また、同年も代打で起用されることはなく[429]、二軍戦への出場もなかった[430]。
また同年は福留も首位打者と最高出塁率を獲得、さらに投手部門でも川上憲伸が最多勝利と最多奪三振、岩瀬仁紀が最多セーブのタイトルをそれぞれ獲得したことから、中日勢は表彰対象となる個人成績11部門のうち7部門でタイトルを獲得したことになるが、これは過去最多だった1994年の5タイトル[注 28]を上回るものだった[416]。また打撃三部門のタイトルが中日の選手で独占された年も、同じく1994年に大豊が本塁打王・打点王、アロンゾ・パウエルが首位打者を獲得して以来であった[431]。同年の中日は87勝54敗、勝率.617で2004年以来のリーグ優勝を達成したが、この優勝は打のウッズ・福留、投の川上・岩瀬の活躍が特に大きいと評されている[432]。この活躍から、同年にはセ・リーグの一塁手部門で自身2度目のベストナインに選出された[433][434]。得票数は最多のウッズが168、2位の李承燁が20であった[435]。またセ・リーグの最優秀選手 (MVP) 選考投票でも、1位票(5点)を40票、2位票(3点)を66票、3位票(1点)を59票獲得し、福留(754点)[注 29]、川上(498点)[注 30]に次ぐ3位となる457点を記録した[436]。
日本シリーズ
北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズでも、全5試合(第1戦から第2戦はナゴヤドーム、第3戦から第5戦は札幌ドームで開催)で四番・一塁手として先発出場し[437]、打率は.267(15打数4安打)と悪くはなかったものの、本塁打、打点はいずれも0、5四球、7三振、長打率は.333、出塁率は.450、得点圏打率は.000で[438]、チームは1勝4敗で敗退した。小関・西尾典文 (2007) によれば、日本ハムの投手陣から胸元高めを執拗に狙われ、上体を起こされたことで外角低めを突かれ、凡打に打ち取られることが多かった[439]。
同年12月19日には優勝旅行先のアメリカ・ラスベガスで契約更改交渉を行い、年俸6億円の1年契約を結ぶことで合意した[440]。
2007年
レギュラーシーズン
2007年は序盤から本塁打を量産し、高打率をキープするなどしており、一時は三冠王も狙える位置につけていたと評されている[441]。5月は全26試合に出場し、打率では.379の小笠原道大(巨人)にはおよばなかったものの.368と高打率を残し、また本塁打11、打点29と2部門でいずれもリーグトップの活躍を果たした[442]。チームもウッズの活躍に支えられ、16勝10敗、勝率.615で月間トップになったことが評価され、自身通算4度目の月間MVPに選出された[442]。また監督推薦でオールスターゲーム出場選手として選出され、自身2度目のオールスターゲーム出場を果たした[443]。
8月16日の対阪神タイガース16回戦(京セラドーム大阪)で[444]、6回表に下柳剛からNPB通算200号本塁打を放った[445][446]。NPBにおける通算200号本塁打は史上88人目であり、出場642試合目での達成はカブレラ(538試合)、ラルフ・ブライアント(578試合)、ランディ・バース(587試合)に次ぐ史上4番目のスピード記録だった[447]。またこの本塁打はシーズン30号本塁打でもあり[444]、NPBの外国人選手としてはクラレンス・ジョーンズ(1970年 - 1977年)、ペタジーニ(1999年 - 2003年)に次いで3人目となる5年連続30本塁打以上を達成した[447]。
しかし、夏場からは持病の腰痛が悪化して打撃のペースが落ちていた[441]。また、三番打者の福留が後半戦開幕と同時に右肘痛で戦線離脱したことにより、それまでのように三番・福留と四番・ウッズの相乗効果で攻撃の流れを作るということができなくなった[448]。チーム打線は森野将彦の成長、中村紀洋の踏ん張りといった要素の存在から大幅な弱体化は免れたものの、福留が離脱し、ウッズが敬遠されることが増えたことにより、後半戦のチーム打率と1試合の平均得点は.259、4.17点/試合と、前半戦の.263、4.4点/試合に比べて下落していた[448]。また、同年のウッズは特に福留離脱後の後半戦で敬遠されることが多くなり、その影響などから打率が下降、前年に比べて本塁打・打点も大きく減った[448]。8月22日の対巨人戦では、それまで打率.364、9本塁打、18打点と得意にしていた巨人投手陣から4四球(全21球のうちストライクは4球)を喫したが、本人は敬遠攻めに遭うことは「リスペクトされている証拠だから、気にしていない」と語っていた[449]。しかし、一方で敬遠されることが増えたことにより、本人曰く「どんどん振っていきたいタイプだから、フラストレーションがたまったよ」という[448]。実際、同年にはセ・パ両リーグで1位となる121四死球を記録しているが[450]、その四球数は前年に比べて4割近く増加していた[448]。チームはオールスター前の前半戦終了時点では、2位の巨人と1ゲーム差でセ・リーグ首位に立っており[451]、貯金も10あったが、後半戦に限れば勝率5割を辛うじて超える戦いになっていた[448]。後半戦では優勝争いを繰り広げた巨人との直接対決4カードのうち3カードで負け越し、福留の離脱に加え、先発の山本昌の不調(2勝10敗)、中継ぎの岡本真也・平井正史の後半戦の不振もあって失速、一時はマジックナンバーを点灯させたものの、最終的には巨人に逆転を許し、10月2日には巨人が1試合を残してリーグ優勝を、中日は3試合を残して2位が決まった[451]。この時点では2位の中日は巨人と2.5ゲーム差で、貯金は13(76勝63敗)あったものの、前半戦から3つしか貯金を増やせなかったことになる[451]。シーズン最後の本塁打は同年9月25日の対巨人23回戦(東京ドーム)で4回表に内海哲也から放った1点本塁打であり、この本塁打により100打点にも到達、球団史上初となる3年連続100打点も記録したが、試合には敗れた[452]。
最終的には139試合に出場して466打数126安打[453]、打率.2703[454]、35本塁打、102打点、得点圏打率.264を記録し、本塁打・打点と長打率.530、出塁率.418はいずれもチームトップだった[453]。本塁打数は高橋由伸、アーロン・ガイエルと同じリーグ2位で、36本塁打を記録した村田修一におよばず[455]、2年ぶりの無冠に終わった[441]。ウッズがシーズン最後の35号本塁打を放った9月25日終了時点では、ウッズがリーグトップ、高橋が2位の34本塁打、阿部慎之助が3位の33本塁打、ガイエルが4位の32本塁打で、村田は7位の24本塁打だったが[452]、中日が3試合、村田の所属する横浜とガイエルの所属するヤクルトが各6試合を残し、高橋の所属する巨人が全日程を終了した同年10月3日終了時点では、ウッズが高橋と並んで35本塁打でリーグトップ、村田が34本塁打でリーグ2位、阿部が33本塁打でリーグ3位、ガイエルが32本塁打でリーグ4位だった[456]。翌4日のヤクルト対横浜21回戦ではガイエルが33号、村田がリーグトップタイに並ぶ35号本塁打をそれぞれ放ち[448]、村田は5日の対広島24回戦(広島市民球場)でこの日引退試合だった佐々岡真司からリーグ単独トップに立つ36号本塁打を放った一方[457][458]、ウッズは中日のシーズン最終戦となる同月7日の対横浜24回戦(横浜スタジアム)で3打数、1安打、1三振、1四球に終わり、35本塁打のままシーズンを終えた[459]。また121四球、19故意四球、153三振はいずれもリーグトップで、打率は規定打席到達者34人中24位だった一方、得点圏打率は.264だった[454]。守備では137試合で一塁手として出場し、12失策、守備率.989(リーグ5位)を記録した[281]。また指名打者 (DH) として1試合に出場したが、4打数無安打3三振に終わった[460]。同年は代打としても1試合に出場し、1四球を記録した[461]。交流戦では19試合に出場したが、57打数12安打、打率.211、2本塁打、9打点、得点圏打率.214に終わった一方、出塁率はチームトップの.385を記録した[462]。同年も二軍戦で打席に立つことはなかった[463]。
ポストシーズン
この年よりセ・リーグに導入されたクライマックスシリーズでは、阪神と対戦したファーストステージと、巨人と対戦したセカンドステージのそれぞれ初戦で本塁打を放った[464]。シリーズでは5試合に出場し、17打数4安打、3本塁打、7打点、打率.235、長打率.824、出塁率.435、得点圏打率.500を記録[465]、チームはファーストステージで阪神を、セカンドステージで巨人をそれぞれ撃破し、2年連続で日本シリーズに進出した。なおシリーズ前には、セカンドステージの舞台となった巨人の本拠地・東京ドームについて「50%の力で本塁打が打てる」と語り、巨人打線はナゴヤドームに比べて狭く、本塁打が出やすい東京ドームの恩恵を受けているとして巨人を挑発していた[466]。同年レギュラーシーズンのウッズの東京ドームにおける打撃成績は.326、7本塁打、10打点であった[466]。
前年同様に日本ハムと対戦した日本シリーズ(第1戦から第2戦は札幌ドーム、第3戦から第5戦はナゴヤドーム)では全試合で四番・一塁手として先発出場し、チームは4勝1敗でシリーズ優勝を果たしたが[467]、自身は17打数4安打、打率.235、0本塁打、2打点、長打率.235、出塁率.350、得点圏打率.250に終わった[468]。しかし第3戦では初回に一死一、二塁で打席に立ち、ウッズから1犠打を挟む7連打で7得点を記録[469]。日本一になった第5戦では、この試合の唯一の得点となる平田良介の犠牲フライでホームを踏み[470]、最後の打者となった小谷野栄一の二塁ゴロでウイニングボールを掴んだ。この日本シリーズ閉幕後の11月3日にアメリカへ帰国しており、同年のアジアシリーズには出場しなかった[471]。同年にはセ・リーグの一塁手部門で自身3度目のベストナインに選出された[472]。
同年オフにはチームに残留することで合意し、2008年1月4日には現状維持の年俸6億円で2008年シーズンの1年契約を結んだ[473]。
2008年
レギュラーシーズン
2008年は開幕前、チーム目標としてはリーグ優勝と日本一を、また個人成績の目標としては打率3割、50本塁打、150打点を掲げていた[474]。また前年に巨人や阪神の投手陣から敬遠攻めに遭い、リーグトップの121四球を記録したことを踏まえ、自分に勝負を挑んで三振を奪った投手は「キング」(王様)と敬意を表す一方、敬遠策を取った投手は「チキン」(臆病者)呼ばわりする旨も語っていた[474]。
同年も4番打者を任されていたが、中日打線はセ・パ交流戦に入ってからチーム打率1割台と低迷していた[475]ため、5月29日のオリックス戦(ナゴヤドーム)では4番を和田一浩に譲り3番でスタメン出場[475][476][477]。中日移籍後初めて4番を外された[475]。その後、6月14日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で4番に復帰し[478]、最終的には交流戦24試合で10本塁打を記録、自身初の交流戦最多本塁打を記録した[479]。対チーム別の本塁打数の内訳は、日本ハムから3本、楽天・ロッテから各2本、ソフトバンク・オリックス・埼玉西武ライオンズから各1本である[479]。本塁打だけでなく19打点、15四球、27三振、長打率.671、出塁率.378もチームトップだった[480]。交流戦では全24試合のうち[481]、12試合で指名打者 (DH) として出場し、50打席、40打数9安打、5本塁打、10打点、10四球、16三振、打率.225を記録した[注 31][482]。しかし自身の不振が原因で[483]7月26日の阪神戦(阪神甲子園球場)[483]から前半戦終了まではスタメンから外れた[484]。4試合で代打として起用されたが、4打数無安打、3三振、1併殺、打率.000だった[485]。7月10日の対広島戦(広島市民球場)でシーズン20号本塁打を放ち、NPBの外国人選手としては11人目となる来日以来6年連続の20本塁打を達成した[486]。選手間投票でオールスターゲーム出場選手として選出され[487][488]、自身3度目のオールスター出場を果たすと[487]、8月1日の第2戦(横浜スタジアム)で成瀬善久から本塁打を放った[487][484]。
9月4日のヤクルト戦(明治神宮野球場)にて9回表に30号2点本塁打を放ったことで、NPBの外国人選手としては初となる6年連続30本塁打以上を記録した[18]。日本人選手も含めると大杉勝男に並ぶ記録であり、王貞治(19年)、秋山幸二(9年)、山本浩二(8年)、野村克也・松井秀喜(7年)に次ぐNPB史上7番目の記録だが、入団以来の連続記録としては初である[489]。最終的には来日以降6年連続35本塁打以上を記録したが[8]、シーズンを通しては攻守に精彩を欠き[490]、35本塁打、77打点はいずれもチームトップではあったが[491]、ともに来日以降最低の数字に終わった[492]。前述した交流戦のものを除いた対チーム別の本塁打数の内訳は、ヤクルトから7本、広島と横浜から各6本、巨人と阪神からは各3本で、計25本だった[493]。また全35本塁打のうち、24本がソロ本塁打であった[494]。打点に関しては、横浜時代の2004年から前年まで4年連続で継続していた100打点が途切れる結果となった[490]。また三振138、併殺打18もチームワーストであり[491]、得点圏打率は.227で、セ・リーグの規定打席到達者33人の中では金城龍彦の.202、荒木の.210に次いで3番目に低かった[495]。このように勝負弱さが際立ち、チャンスで凡退する場面が何度も見られ、高額な年俸に見合った成績とはいえなかった[8]。また守備面では124試合で一塁手として出場し、6失策、守備率.994(リーグ4位)を記録した[282]。同年も二軍戦で打席に立つことはなかった[496]。
中日を退団
39歳と高齢なことに加え、守備面の不安・体力の衰えから中日球団は同年限りの解雇を検討していたが[492]、クライマックスシリーズでは、チームは第1ステージで阪神を2勝1敗で下したものの[497]、第2ステージでは巨人相手に1勝のあと3連敗し、日本シリーズ出場を逃した[498]。ウッズはこのシリーズで、7試合に出場して26打数8安打、打率.308、チーム最多の5本塁打[注 32]・8打点を記録、長打率.885、出塁率.387、得点圏打率も.500を記録した[500]。そのため、球団内部では新外国人選手を獲得するより、ウッズと再契約する方が良いという意見が噴出し[492]、監督の落合もウッズは戦力として必要かと言われれば必要だろうとの見解を示した[501]。このため、最終的に中日は1年契約で年俸300万ドル(約2億8200万円)の契約条件をベースに残留交渉する方針を固めたものの、ウッズは「自分にもプライドがある」と減俸を拒否した[492]。結局、2008年11月4日に中日は正式に来季の契約を結ばないことを発表し[8][502]、同年12月2日付で日本野球機構 (NPB) より自由契約選手として公示された[503]。
当時の中日打線にはシーズン30本以上の本塁打を打てる打者がウッズ以外にいない状態だったが、落合以下首脳陣はフリーエージェント (FA) 選手の獲得・大物新外国人の補強はせず、既存戦力もしくはドミニカ共和国を中心とした将来性のある外国人選手などで「大砲不在」の状況を克服する方針を決めていた[8]。そのウッズの穴埋めとして獲得したのがドミニカ共和国生まれで米国下部リーグ出身のトニ・ブランコで[504]、ブランコは来日1年目の2009年シーズンこそ契約金500万円・年俸3000万円の1年契約だったが[505]、同シーズンに全試合で4番打者を務め39本塁打・110打点で本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、ウッズの穴を埋める大活躍を果たしたことで同年オフには2年契約・年俸1億7000万円+出来高払い(2年総額約4億6000万円)と大幅な年俸アップを勝ち取った[506]。
中日退団後
退団が濃厚となった際には、指名打者 (DH) 制があるパ・リーグ球団が獲得に乗り出すことは確実であり、福岡ソフトバンクホークス・東北楽天ゴールデンイーグルスなど複数球団による争奪戦も予想されると報じられた[492]。また2002年オフに斗山に与えられていたウッズの保有権は消滅し、ウッズは日韓のどの球団とも契約できる状態になっていたこと、サムスン監督の宣銅烈が「韓国に帰ってくれば30本塁打は十分に打てるだろう」と評していたことから、古巣である斗山の監督を務めていた金卿文はウッズの復帰を期待する旨のコメントをしていたが[106]、高年俸・高齢がネックとなり実際にはオファーはされなかった。中日を自由契約となった当時、『中日スポーツ』の電話取材では「まだ日本でやりたいという気持ちが強い。他球団からのオファーを待つ」と語っていた[507]。また2009年5月には阪神タイガースが打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役候補としてウッズの名前を挙げていたが[508][509]、球団はクレイグ・ブラゼルと契約、ウッズのNPB復帰は実現しなかった。同年はどこの球団でもプレーしておらず、『中日スポーツ』(中日新聞社)では前年限りで現役を引退したと報じられていたが、本人はNPBで稼いだ金で建てたフロリダ州タンパの豪邸で生活しながらもウエートトレーニングを続けていたといい、同紙の取材に対し、将来NPBで現役復帰したいという意向を語っていた[510]。
2010年プロ野球シーズン開幕前(3月24日)にテレビ番組収録のため来日して退団後初めてナゴヤドームを訪れ、次代の4番であるトニ・ブランコらを激励した[199][511]。
中日退団後はフロリダで不動産業を営んでおり[199]、正式な表明をしてはいないが野球選手としては完全に引退状態にある。2010年11月には『中日スポーツ』の取材に対し[512]「パ・リーグよりよく知っているセ・リーグの方が力になれる」と語り、セ・リーグ球団からのオファーがあれば検討する意志を示したが[513]、オファーはなく現役復帰していない。
選手としての特徴
打撃
パワー
身長185 cmと、外国人打者としてはあまり体格面で恵まれていたわけではなかったが[422]、アレックス・カブレラに匹敵するパワーの持ち主で[271]、横浜時代の打撃練習では横浜スタジアムのバックスクリーンを越える打球をたびたび放っていた[373]。打撃時にはボールをぎりぎりまで手元に引き付け、差し込まれることを恐れずにパワーで飛ばすという打撃が特徴であり[373]、中利夫は詰まり気味の打球でも北谷公園野球場の左中間フェンスを越えるほどのパワーがあると評していた[514]。持ち味のパワーは高校時代からのウエイトトレーニングの賜物であり[134]、現役時代の2003年時点では、シーズンオフは筋力増強を目的に2 - 3時間、シーズン中は筋力維持を目的に約30分のウエイトトレーニングを行っていると報じられており[39]、2005年オフには週4日のウエートトレーニングとランニングで体を仕上げていたという[349]。ベンチプレスの最高記録は150 kgである[39]。高校時代にはアメリカンフットボールを経験しており、アメフトで鍛えた体が後の日本球界での活躍に繋がった[9]。そのパワーは金本知憲が「横浜時代にライナーでナゴヤドームのレストランに直撃させた」と証言し、広澤克実が「多分横浜に来た選手でバックスクリーンを超える選手は(ウッズ以外に)いなかった」と太鼓判を押すほどであった[515]。また山本昌は横浜時代のウッズについて「どのコースに投げても、きれいに当たればホームランがある」「攻めるところが少ない、いい打者」と語っていた[274]。中日時代の2005年春季キャンプでは打撃練習を見ていたアレックス・オチョアが驚くほどの飛距離を見せており[514]、2006年には「日本選手ではチーム1、2のパワーを持つ」新井良太が、2007年にも同じ右の長距離打者である中村紀洋が、それぞれキャンプでウッズの打撃を見て驚いていた[349][516]。
NPBにおける通算6年間で240本塁打を記録しているが、年平均では40本塁打/年に相当する[9]。1989年から2018年までの平成時代にNPBで通算100本塁打以上を記録した選手のうち、年平均の本塁打数が30本以上の選手はウッズ、タフィ・ローズ、ロベルト・ペタジーニ、松井秀喜、ブランドン・レアード、ブライアント、マット・ウインタース、オレステス・デストラーデ、ウラディミール・バレンティンの計9人いるが、この中で年平均が40本以上に達している選手はウッズ1人のみである[517]。
2003年6月8日の巨人戦(横浜スタジアム)では工藤公康からバックスクリーン右のスタンドを飛び越える本塁打を放っている。この時点で2003年シーズン19本中5本目の場外弾となったため、あまりのパワーに球団が事故防止のため横浜スタジアムの場外に警備員を配置することを急遽決定。横浜の新名物として盛り上がった[9]。
技術面
韓国時代から、打撃に起伏がなく大きな短所がない点や、他の選手と異なり大舞台でも緊張せず普段通りの力が出せる点に加え、野球に真摯に打ち込む姿勢が高く評価されていた[518]。
横浜入団時にはパワーだけでなく、アロンゾ・パウエルやセシル・フィルダーといったNPBで成功を収めた外国人打者と同じような柔軟な手首の使い方を横浜から評価されていた[111]。横浜時代の2003年には、本塁打を含めた安打のうち、中堅から右方向への打球の割合は開幕から4月までは61%だったが、5月には70%であり、球を長く見て中堅から右方向へ流し打ちする傾向にあると評されていた[134]。また中はパワーだけでなく、腰の回転が良く、それを支える土台となる下半身が強いことから全身を使ったスイングができ、体近くの球はうまく腕を使ってさばけていると評していた[514]。『中日新聞』記者の中村彰宏は、外角球は逆らわずに右方向に打ち返し、内角球で攻められると腕をたたんでコンパクトに振り抜くなど、状況に応じて打ち分ける秀でた打撃技術の持ち主であると評していた[285]。
バット
OBベアーズ入団時の1998年当時、使用していたバットは長さ35インチ、重さ920 gだった[19]。
NPBでは一貫して黒いミズノ製のバットを使っていたが、何度か重さを変えている[519]。横浜入団時の2003年春季キャンプでは、打撃練習でミズノ製のマスコットバット(長さ34インチ、重さ950 g)を利用していたが、実戦では910 g前後のバットを使用する予定と報じられており[2]、実際には長さ88.0 cm、直径6.5 cm、重さ890 gのバットを用いていた[519]。
中日移籍時の2005年には、2004年に清原和博が用いていたものと同じミズノ製のバットをメーカーに注文するなど[520]、6種類のバットを試していた[521]。同年のバットも940 gであり、平均重量900 - 920 gが一般的とされる中でも重いバットであったが、2006年は真っ直ぐではなく緩い変化球を投げられることが多くなると見込み、その対策として前年よりさらに40 g重い980 gのバットを仕入れていた[521]。
弱点
弱点としては、得点圏打率が低いことが挙げられており[271][371]、横浜時代の2003年から中日移籍初年度の2005年まで、いずれのシーズンも得点圏打率は打率を下回っていた[407]。また、現役最終年の2008年は得点圏打率が1割台に低迷していた時期もあった[523]。このように好機に弱い原因としては、好機で力が入ってボール球に手を出すという悪癖の存在が指摘されていた[407]。2006年には47本塁打(ソロ21、2点16、3点6、満塁4)で87打点を記録し、また得点圏に走者がいる場面では177打数54安打、93打点を記録していた一方、本塁打王を争った李承燁は41本塁打の大半である25本がソロ(2点本塁打が14本、3点本塁打が2本、満塁本塁打はなし)で、本塁打による打点も59、得点圏における打数・打点も123打数・57打点ではあったものの、得点圏打率では李承燁の方がウッズより高く[524]、李承燁が.325、ウッズは.305だった[525]。
また打席の中心線より外側に立つため、外角球(特にスライダー)を苦手としていた[383]。小関順二・西尾典文 (2008) は、長いシーズンでは特に外角球の弱点を克服しようとはせず、打てる球だけ打とうとする姿勢が功を奏しているが、短期決戦で徹底的に弱点を責められると苦しいと評している[516]。
OB時代の1998年は最も苦手な投手としてヘテ・タイガースの林昌勇を挙げていた[526]。また横浜時代の2年間はヤクルト戦を苦手としており、ジェイソン・ベバリンには29打数2安打、打率.069、0本塁打、0打点、15三振、石川雅規には26打数4安打、打率.154、2本塁打、5打点、9三振と抑え込まれていた[173]。石川との対戦では、2003年に18打数無安打8三振と抑え込まれていた[210]。
守備・走塁
OBベアーズの関係者が1996年に入手したスカウティングレポートによれば、ウッズはマイナーリーグの有望株トップ100には入っておらず、打撃面は秀でているが守備に難があるという評価をされており[19]、MLBに昇格できなかった一因にもこの守備難が挙げられている[18]。
NPB時代も守備面では捕球・送球ともに不安定で、守備範囲も狭く[271]、守備力はアライバコンビの足枷になるほど低かった。その極端な守備範囲の狭さから荒木雅博を送球イップスに追い込み、中日時代のある試合では井端弘和が投じた頭部付近へのノーバウンド送球をミットに当てることすらできず後ろに逸らし、井端は「あれも俺のエラーになるの?」と嘆いたという[527]。一方で小関順二は、守備はどちらかといえば下手な方ではあるが[439]、手の届く範囲ならば決して下手ではなく[441]、ゴロやフライを無難にさばく程度の守備力はあり、バッテリーの足を引っ張るシーンも少なかったと評している[439]。
走塁面では多くを期待されてはいなかったが、巨体ながら2005年には3盗塁を企図していずれも成功させるという一面があった[373]。また2007年にはごくまれに一塁到達が4.3秒前後を記録することもあった[441]。小関・西尾 (2007) は2007年時点で38歳でありながら、年齢や体格の割に動きは悪くないと評していた[439]。ただし、NPBでは一度も三塁打を打っておらず、2940打席連続生涯無三塁打はNPB歴代1位の記録である[528]。
人物
幼少期にはMLB通算536本塁打を記録したレジー・ジャクソンに憧れており、NPB時代に着用した背番号44はジャクソンが所属したニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に肖ったものである[4]。
ドレッドヘアが特徴[138]。同じアフリカ系アメリカ人のタイガー・ウッズと名前・イニシャルが似ているため、横浜入団直後の2003年2月に宜野湾春季キャンプのフリー打撃練習で特大本塁打を放った際にはタイガー・ウッズを引き合いに「タイガー・ウッズばりの飛距離」「202メートルのスーパーショット」と報じられたほか[125]、2003年6月10日には『読売新聞』東京夕刊で、当時19本塁打とセ・リーグ本塁打王争いのトップを走っていたタイロンについて、「飛ばすこと」ではタイガー・ウッズに負けていないと報じられた[134]。ただし、本人はタイガー・ウッズとの血縁関係を否定している[529]。
後述のようにNPBでは3度の退場歴(後述)があるが、韓国時代は恵まれた体格に加え、穏やかな印象から国内ファンも多かったと報じられている[530]。中日時代も入団直後、4月10日までに9試合で2死球を受けていた際には、相手チームのバッテリーからの執拗な内角攻めについて「これまでは我慢してた。けど、これ以上、死球攻めにあったら僕も考えなくちゃいけない。僕だっていつまでも黙っていないよ」と語っており、『中日スポーツ』記者の青山卓司からは「温厚を絵に描いたような男が珍しく気色ばんだ。」と評されていた[294]。
本人が『週刊ベースボール』2003年6月23日号の独占インタビューで語ったところによると、アメリカ球界の場合チームがその選手にどれだけお金を使ったかという政治的な事情が考慮されて試合に出場するメンバーが決まるが、韓国球界や日本球界はチーム内で調子の良い9人をゲームで使う意識が根付いているとのことである。政治的なことを抜きに出場機会が決まる環境は自分にとっていい環境なのではないかと本人は考え、アロンゾ・パウエルからも「ニッポンはいい国だぞ」と予てより聞いていた[9]。
本塁打を打った後、ホームベース付近で右手拳で胸を2回叩き、顔を上に向け右手人差し指に口づけをする。これはホームランを打つ肉体を作ってくれたことに対して神に感謝するという意味を込めているといわれている[9]。
斗山時代にはシットコム番組『順風産婦人科』(SBSテレビ放送)にカメオ出演したことがある[6]。
趣味・嗜好など
食事の好き嫌いは特にないが、辛いものは苦手だという[39]。ただし日本のキムチは韓国のキムチより辛くなく、おいしいと語っていた[39]。また、来日直後は鍋料理[39]、およびしゃぶしゃぶを好んでいた[2]。
家族など
自身より5歳年上のシェリル夫人と[532]、一人の息子(2003年時点で16歳)がいる[533]。2003年時点では息子を1人アメリカに残し、日本で妻と2人で暮らしていた[533]。
私生活では「ヌードル」と名の付いたイングリッシュ・コッカー・スパニエルを飼っていたが、この名前は前の飼い主が付けた名前をそのまま使っていたものである[9]。
対人関係
自身の来日前からNPBで活躍していたアレックス・カブレラやタフィ・ローズとはマイナー時代から夜遊び仲間だったという[4]。
横浜時代はチーフトレーナーの升永雅純や打撃投手の山田喜久夫と仲が良く、彼らとはよくプロレスごっこに興じていたという[274]。またペンダントのデザインは斗山時代の背番号である「33」で、左腕にも「33」の入れ墨を入れていた[274]。
斗山でウッズの通訳を担当したチョ・ソンイル (조성일) は、ウッズは食事の際の箸の使い方をすぐに完璧に習得したり、特別打撃練習を熱心に行ったり、韓国語を積極的に学んだりするなど、韓国で成功するために努力を惜しまなかったと評している[6]。殊勲選手に選ばれた当初、ウッズは賞金を仲間たちと分配するという斗山の慣行に従おうとせず、賞金を全額自分のものにしようとしたが、チームの先輩である金泰亨から通訳を通じて諭され、彼の忠告を聞き入れたという逸話がある[6]。斗山時代のチームメイトであった金東柱のことは「코뿔소」(サイ)というニックネームで呼んでおり、2022年には再会したいかつての仲間として彼や金敏浩らの名前を挙げている[95]。またOB入団時に監督として自身を辛抱強く起用した金寅植(前述)のことは退団後の2007年時点でも慕っており、再会を希望する旨を述べていた[534]。
中日時代に結果を残した背景には、監督を務めていた落合からの配慮によるストレスフリーな環境があり、試合日以外は完全に自由時間であった上に、遠征先で雨天中止になると自宅への帰宅を落合に許可された。落合は「あいつは放っておいても成績を残すよ。だから、自由にやらせているんだ」と調整に全幅の信頼を寄せ、当時30歳代半ばを迎えていたウッズも身体のケアやウエートトレーニングに精を出し応えた[9]。中日時代は移動日で練習がない日にも愛知県名古屋市内のスポーツジムに通い、また遠征時も各地のスポーツジムに通うなど、チームトップクラスの練習量で知られていた[535]。
クリーンナップを組んでいた福留孝介とのコンビは「FW」や「FW砲」と中日スポーツで名づけられたことがある[536][537][538][539][540]。また、和田一浩が移籍してきた2008年は「WW砲」と名づけられた[478][541][542]。
中日時代のチームメイトである立浪和義とは生年月日が全く同じであり、2007年には2人そろって報道陣から誕生日を祝われている[543]。
韓国球界への影響
横浜移籍後の2004年、ウッズは『東亜日報』でフェリックス・ホセとともに、韓国プロ野球史上最強の外国人選手として紹介され[544]、また2016年に同紙がプロ野球ファン1000人を対象に実施した歴代最高の外国人選手を問うアンケート調査でも348票を獲得して1位に輝いている[40]。KBOは2022年に発足40周年を記念し、ファン投票で「レジェンド40人」を選出したが、この中で選出された外国人選手はウッズとダスティン・ニッパートの2人である[95][6]。ウッズは2022年、ベアーズとKBOについて「私が実力を発揮できるように機会を与えた」として感謝の旨を述べており、また韓国時代の思い出としては1998年にシーズン本塁打新記録を樹立したこと、そして2001年に韓国シリーズ優勝を達成したことを挙げている[95]。
1998年シーズンの活躍を受け、タイロン・ウッズはプロゴルファーのタイガー・ウッズをもじって「韓国プロ野球界のウッズ」と呼ばれた[545]。当時、韓国はアジア通貨危機に端を発する深刻な経済危機に見舞われ、明るい話題が少なかったことから、ウッズの活躍はMLBにおけるマーク・マグワイアやサミー・ソーサの活躍がアメリカにとって大きな明るい話題となったことと同様に、韓国を元気づけたと評されている[20]。『ワシントン・ポスト』によれば、ウッズが韓国新記録となるシーズン42本塁打を記録した当時、韓国のプロ野球ファンたちはウッズの本塁打記録更新に大きく注目し、多くの記録更新を願う声が上がっていたといい、日本で長年にわたり、日本人選手による記録の更新を狙う外国人選手に対して寛容でない空気があったこととは対照的であったという[20]。
またウッズの活躍は韓国球界に衝撃を与え、多くのチームが外国人の強打者を複数人同時起用するきっかけになったとされている[546]。実際にリーグの平均防御率は、1998年は3.99だったが、1999年には4.98に急上昇し、2000年は4.64、2001年も4.71だった[546]。室井昌也は、韓国プロ野球の外国人選手導入は、後にアメリカや中南米の選手たちがステップアップの場として日韓を行き来する機会を増やすきっかけになったと評している[46]。
退団後の2004年オフには、ウッズやホセ・フェルナンデス(元SK)が韓国球界を経てNPBの球団で成功を収めた前例から、MLBに昇格できないマイナーリーガーらが韓国球界でアジアの野球に対する経験を積み、NPBに挑戦しようとするという動きがあり、NPB球団も韓国球界での経験からアジア野球に慣れている外国人選手に関心を寄せていると報じられていた[547]。
退場歴
斗山時代の2002年4月26日には対現代ユニコーンズ戦(蚕室野球場)で7回裏に三振した際、ヘルメットとバットを投げるなどして退場処分を受けた[548]。
横浜時代の2004年6月16日に開催された横浜対巨人12回戦(横浜スタジアム)では2回裏の打席で、審判員の森健次郎に対し、内角球のストライクの判定を不服として暴言を吐いたとして退場処分を受け[196]、この件でセ・リーグから厳重戒告と制裁金5万円の処分を科された[549]。NPBで退場処分を受けたのは、来日2年目でこれが初のことだった[197]。
中日時代の2005年5月5日に開催された中日対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)では、5回裏に相手投手の藤井秀悟に暴力を振るったとしてNPB通算2度目の退場処分を宣告され、セ・リーグから出場停止10試合と制裁金50万円の処分を受けた(詳細後述)[550]。
2007年5月2日に開催された中日対巨人戦(ナゴヤドーム)では、2回裏の打席で見逃し三振に倒れた際に球審に暴言を吐いたとして、NPB通算3度目の退場処分を受けた[551]。チームも試合に敗れ6連敗を喫した[551]。ただ、その翌日の同カードでは同点の9回裏二死一、二塁の場面で右中間にサヨナラ適時打を放ち、チームの連敗を止める活躍を見せた[552]。
藤井秀悟への暴行事件
2005年5月5日に開催された中日対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)で、5回裏にウッズが打席に立っていたところ、相手投手の藤井秀悟が投げた球速140 km/hの速球がウッズの胸元を通過した[553]。ウッズはこの投球を頭部に近い投球と解釈して激怒、藤井に詰め寄ったが、藤井は帽子を取って謝罪する素振りを見せず、両手を広げて「何?」というジェスチャーをした[553]。ウッズはこれを挑発と受け取り[554]、右拳でマウンドにいた藤井の右頬を殴り、球審の谷博から退場処分を宣告された[553]。藤井はこの暴行により、頸椎捻挫で全治10日間の傷害を負った[555]。
この事件を受けてセ・リーグ会長の豊蔵一は翌6日、ウッズの暴力行為は危険球ではない投球に対する報復行為であるとして「危険かつ悪質」と判断し、出場停止10試合と制裁金50万円の処分を下した[556]。セ・リーグの出場停止処分は、2003年6月に広島の新井貴浩が出場停止1試合を受けて以来で、制裁金を含む重い処分は2000年に巨人のダレル・メイが出場停止10日間と制裁金50万円を科されて以来であった[557]。また、この処分は1998年に巨人のバルビーノ・ガルベスが審判団にボールを投げつける事件を起こし、同シーズン終了までの出場停止を科されて以降では最も厳しい処分であるとも報じられている[556]。また中日球団もウッズに厳重注意を行った[557]。
この事件当時、ウッズはリーグ最多タイの3死球を受けていた[554]。特に4月6日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で五十嵐亮太から左手への死球を受けて小指を骨折して以降、不振に陥っており(前述)、内角球に神経質になっていた[554]。この事件直前の5月2日時点では直近5試合で16打数7安打、打率.438、3本塁打と復調していたが、同日には翌3日からのヤクルトとの3連戦を控え、『中日スポーツ』の取材に対し「できればヒットを打ちたい。でも今度デッドボールを当ててきたら、こっちからヒットして(殴りつけて)やるよ。ヤクルトのキャッチャーには試合前にそう忠告しておくよ」と冗談交じりに語っていた[558]。ウッズは試合後に「彼が謝ってくれれば問題はなかった。次、同じことをしたら、またやってやる」と語り、落合も「気持ちは分かる。暴力行為が起こるのも野球だよ」とウッズを擁護していたが[注 33]、『朝日新聞』記者の村上尚史はウッズの態度には反省が見られないと批判、落合の発言についても暴力行為を正当化しているとして批判している[554]。また『中日スポーツ』記者の館林誠は、ウッズの「おれは人生を懸けて戦っている」という言い分には理解を示しながらも、「こどもの日」である5月5日に多くの子供たちや家族連れのファンたちの前でウッズがこのような「ルールを無視した暴力行為」という「起こしてはならない」行為におよんだこと、そして落合が会見でウッズの行為を擁護したことを厳しく批判しており[553]、中日球団事務所にも落合の発言に対し抗議の声が殺到したという[550]。ヤクルト監督の若松勉は、ウッズについて「日本で野球をやる資格なんかない。名古屋に来たときに、新聞にも(ウッズがヤクルトの投手陣を)威嚇するような発言が出ていただろ。こんなことでは野球ができない。当たりどころが悪かったら、藤井の野球人生が終わりになってしまっていた」と語り[553]、被害者の藤井も「殴ってくるとは思わなかった。あそこに投げないと抑えられない」[550]「強打者を抑えるには、あそこしかない。当てる球じゃない」と主張し[554]、落合の「暴力も野球のうち」発言については「それはないだろ」と憤慨していた[555]。
なお、藤井は日本ハムに移籍した後の2008年3月5日に自身のブログで、ウッズとのツーショット写真を掲載して和解をアピールしている[559]。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | OB 斗山 |
126 | 521 | 452 | 77 | 138 | 14 | 1 | 42 | 280 | 103 | 1 | 2 | 0 | 2 | 65 | 5 | 2 | 115 | 13 | .305 | .393 | .619 | 1.013 |
| 1999 | 124 | 544 | 454 | 90 | 135 | 20 | 0 | 34 | 257 | 101 | 5 | 2 | 0 | 3 | 83 | 8 | 4 | 126 | 14 | .297 | .406 | .566 | .972 | |
| 2000 | 127 | 565 | 479 | 91 | 151 | 22 | 0 | 39 | 290 | 111 | 4 | 1 | 0 | 3 | 77 | 5 | 6 | 132 | 13 | .315 | .414 | .605 | 1.020 | |
| 2001 | 118 | 525 | 436 | 101 | 127 | 16 | 2 | 34 | 249 | 113 | 12 | 3 | 0 | 5 | 83 | 4 | 1 | 114 | 11 | .291 | .402 | .571 | .973 | |
| 2002 | 119 | 469 | 407 | 53 | 104 | 18 | 3 | 25 | 203 | 82 | 5 | 2 | 0 | 7 | 50 | 3 | 5 | 123 | 11 | .256 | .339 | .499 | .838 | |
| 2003 | 横浜 | 136 | 551 | 479 | 73 | 131 | 17 | 0 | 40 | 268 | 87 | 2 | 3 | 0 | 4 | 66 | 2 | 2 | 132 | 14 | .273 | .361 | .559 | .921 |
| 2004 | 130 | 551 | 476 | 84 | 142 | 15 | 0 | 45 | 292 | 103 | 2 | 1 | 0 | 0 | 74 | 8 | 1 | 142 | 16 | .298 | .394 | .613 | 1.007 | |
| 2005 | 中日 | 135 | 584 | 506 | 92 | 155 | 20 | 0 | 38 | 289 | 103 | 3 | 0 | 0 | 4 | 67 | 3 | 7 | 139 | 24 | .306 | .392 | .571 | .963 |
| 2006 | 144 | 614 | 523 | 85 | 162 | 29 | 0 | 47 | 332 | 144 | 1 | 2 | 0 | 6 | 84 | 4 | 1 | 151 | 22 | .310 | .402 | .635 | 1.037 | |
| 2007 | 139 | 593 | 466 | 85 | 126 | 16 | 0 | 35 | 247 | 102 | 3 | 1 | 0 | 5 | 121 | 19 | 1 | 153 | 15 | .270 | .418 | .530 | .948 | |
| 2008 | 140 | 573 | 490 | 77 | 135 | 18 | 0 | 35 | 258 | 77 | 0 | 1 | 0 | 2 | 78 | 3 | 3 | 138 | 18 | .276 | .377 | .527 | .904 | |
| KBO:5年 | 614 | 2624 | 2228 | 412 | 655 | 90 | 6 | 174 | 1279 | 510 | 27 | 10 | 0 | 20 | 358 | 25 | 18 | 610 | 62 | .294 | .393 | .574 | .967 | |
| NPB:6年 | 824 | 3466 | 2940 | 496 | 851 | 115 | 0 | 240 | 1686 | 616 | 11 | 8 | 0 | 21 | 490 | 39 | 15 | 855 | 109 | .289 | .391 | .573 | .964 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
- OB(OBベアーズ)は、1999年に斗山(斗山ベアーズ)に球団名を変更
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度別守備成績
タイトル
- NPB
- KBO
- 本塁打王:1回(1998年)
- 打点王:2回(1998年、2001年)
表彰
- NPB
- ベストナイン:3回(2004年、2006年、2007年)
- 月間MVP:4回(2003年5月[150]、2005年7月[346]、2006年9月[412]、2007年5月)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(2007年)
- KBO
- 最優秀選手:1回(1998年)
- ゴールデングラブ賞:1回(2000年)
- 韓国シリーズMVP:1回(2001年)
- KBOオールスターゲームMVP:1回(2001年)
- その他
- ドラゴンズクラウン賞:優秀選手賞2回(2006年[575]、2007年[576])
記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:2003年3月28日、対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、4番・一塁手で先発出場
- 初打席:同上、2回裏に井川慶から四球
- 初安打・初打点:同上、3回裏に井川慶から左前適時打
- 初本塁打:同上、8回裏に金澤健人から左越ソロ
- 初盗塁:2003年4月2日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、6回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助)
- NPB節目の記録
- 100本塁打:2005年6月16日、対オリックス・バファローズ6回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に加藤大輔から中越逆転3点本塁打[327][577] ※史上240人目
- 150本塁打:2006年8月3日、対横浜ベイスターズ10回戦(横浜スタジアム)、9回表に加藤武治から左越2ラン ※史上144人目
- 200本塁打:2007年8月16日、対阪神タイガース16回戦(京セラドーム大阪)、6回表に下柳剛から中越2ラン[445][446][578] ※史上88人目
- NPBその他の記録
背番号
- 33(1998年 - 2002年)
- 44(2003年 - 2008年)