ロベルト・プルッツォ
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
|
| ||||||
| 名前 | ||||||
| 愛称 | Il Bomber[1]、O Rei di Crocefieschi[1] | |||||
| ラテン文字 | Roberto Pruzzo | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1955年4月1日(70歳) | |||||
| 出身地 | クロチェフィエスキ | |||||
| 身長 | 175cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| ユース | ||||||
| 1971-1973 |
| |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1973-1978 |
| 143 | (57) | |||
| 1978-1988 |
| 240 | (106) | |||
| 1988-1989 |
| 13 | (1) | |||
| 代表歴2 | ||||||
| 1978-1982 |
| 6 | (0) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1998-1999 |
| |||||
| 1999-2000 |
| |||||
| 2000-2001 |
| |||||
| 2002 |
| |||||
| 2004-2005 |
| |||||
| 2005-2006 |
| |||||
| 2008-2009 |
| |||||
| 2009 |
| |||||
|
1. 国内リーグ戦に限る。年月日現在。 2. 年月日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ロベルト・プルッツォ(Roberto Pruzzo,1955年4月1日 - )は、イタリア・リグーリア州ジェノヴァ県クロチェフィエスキ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。空中戦の強さを活かして多くのゴールを挙げ、同世代ではイタリア最高のストライカーの一人とされ、ASローマ最高の選手の一人とされる。プルッツォのキャリアにおいて、ハードワークをこなし、得点能力の高いセンターフォワードとして知られた[2]。
クラブ
ジェノヴァ県のクロチェフィエスキ出身で、15歳の時、ジェノアCFCのユースチームに入団。チームがセリエAに昇格した1973年、18歳でトップチームに合流し、12月2日のチェゼーナ戦でプロデビューした[1]。初年度は19試合に起用されたが、無得点に終わり、チームはセリエBに降格した[1]。翌1974-75シーズン、セリエBでリーグ戦12得点を挙げた[1]。1975-76シーズンにはセリエBで優勝し、そのシーズンのセリエBの得点王に輝いた[1]。1976-77シーズン、10月3日のASローマ戦でセリエA初得点を挙げた[1]。このシーズン、惜しくもセリエAの得点王には届かなかったが、リーグ戦で18ゴールを決め、フランチェスコ・グラツィアーニに次いでランキング2位となった[1]。1977-78シーズン、キャプテンに就任したが、このシーズンは9得点に終わった[1]。6シーズン在籍したジェノアでは、163試合68得点を記録した[1]。
1978-79シーズン、ユヴェントスとASローマが争奪戦を繰り広げたが、ローマが獲得した[1]。プルッツォは1980年代のイタリアで最も優秀なストライカーとなり、1982-83シーズンにセリエA制覇し、コッパ・イタリアも4度優勝を経験した。セリエA得点王に3度輝き、コッパ・イタリアでも得点王になった。ホームのオリンピコで行われたリヴァプールFCとのUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝では、ゴールを挙げたがチームはPK戦で敗れた。
1986年のセリエA・USアヴェッリーノ1912戦において、イタリア人としては唯一となる1試合5得点を記録した。ローマでは公式戦318試合で138得点を挙げた[1]。
1989年にACFフィオレンティーナに移籍した。このシーズンのリーグ戦では13試合に出場したのみに終わったが[1]、来シーズンのUEFAカップ出場権をかけた古巣ローマとのプレーオフでは、ステファーノ・ボルゴノーヴォが起用出来ないことから、先発起用された[1]。ロベルト・バッジョのアシストから決勝点を記録し、フィオレンティーナのUEFAカップ出場権獲得に貢献した[3]。この試合を最後に現役を引退した[1]。
代表
クラブでの実績にも関わらず、イタリア代表では1978年から1982年に6試合に出場したのみとなっている。1978年9月23日にトルコ戦でフル代表デビュー[1]。イタリアで開催されたEURO1980のメンバーに選出され、イタリアは4位となり、1980 ムンディアリートにも出場した[4][5]。1982 FIFAワールドカップは代表メンバーから外れ、出場できなかった[6]。