三田用水
From Wikipedia, the free encyclopedia
沿革
起源は江戸の六上水のひとつである三田上水であり、1664年(寛文4年)に開削され、玉川上水を下北沢村から分水して、代々木・渋谷・目黒・大崎・白金付近まで開渠で導き、伏樋で伊皿子・三田まで給水した。中村八郎右衛門・磯野助六の両名によって開かれたといわれている。1722年(享保7年)に三田上水は廃止になったものの、分水を農業に用いていた周辺農村の願い出により、1724年(享保9年)に三田用水として再開され、世田谷・麻布などの十四ヶ村に給水した[2]。周辺の村では、これを基に開墾が進み、互いの調整を図った。
明治時代に入ると、この水を利用した水車小屋が見られるようになり、さらに海軍火薬工場の動力として使用された時期もあった[3]。1890年(明治23年)、水利利用組合が結成。豊富な水利に着目して[4]現在の恵比寿ガーデンプレイスの地にヱビスビールを製造する日本麦酒(後に大日本麦酒に合併)の工場が開設されたのもこの時期である。開設当時は、工場と地域農民との間で水利をめぐるトラブルもあった。
20世紀に入り周辺の市街化が進むと灌漑用水としての利用は失われ、さらに電気の普及もあり動力としての利用も減少していった。宅地化の過程において、付近の子供の遊び場ともなっていた旨の記載がある史料[5]も残されている。1929年(昭和4年)以降、大日本麦酒の負担があり、水路の暗渠化が進められ、並行する道路の拡幅用地にされた[6]。
戦後は、更に利用の減少が進み、1952年(昭和27年)の土地改良法の施行にともない普通水利組合が法定解散。1974年(昭和49年)、三田用水は廃止された。
