荻窪用水
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成立の経緯
小田原市荻窪地区は、江戸時代は足柄下郡荻窪村であった。水田のない貧村で、村民はこの地に水を得て水田を開くことを願望していた。そこへ、足柄上郡川村(現:神奈川県足柄上郡山北町)の百姓・川口広蔵が農閑期の行商で荻窪村へ現れた。広蔵は、大工職を副業とし、足柄上郡の灌漑工事でもある瀬戸堰の建設にも参加したことから土木技術の知識もあり、村民の願いを聞くと、早川からの水路開削を決意する。水路が通ることになる足柄下郡入生田村、風祭村、板橋村、水之尾村の村民も参加する五ヶ村共同事業として、1782年(天明2年)工事が開始された。
工事は難航し、事故による犠牲者も出たが、20年後の1802年(享和2年)に完成。五ヶ村に合計70町歩の水田が開けた。広蔵はこの献身的な工事の指導により名主格に取り立てられた。用水は灌漑の他、水車による精米にも利用された。
用水はその後、1923年(大正12年)の関東大震災により大崩壊の被害に遭うものの修復が行われ、1925年の6月には復旧する。しかし、用水には土砂の流入が多く、その堰ざらいに苦労すること、また取水口の堰は蛇籠に玉石を入れたものを積み上げたものであるため、早川が洪水し堰が決壊した後の復旧に人手がかかること等、用水の維持は五ヶ村の村民にとって大きな負担となっていた。
そこへ、箱根登山鉄道から用水の発電利用の話が持ち上がる。用水路の改修、維持は会社がやり経費も負担する代わりに、水量の半分以上を発電に利用させてもらうというものであった。こうして1937年(昭和12年)、山崎発電所が完成。取水口の堰もローリングダムに変わり、水路のトンネルも内部にコンクリートを巻いたものに改修された。
1957年(昭和32年)、荻窪地区に広蔵の功績を称える記念碑が建てられた。現在でも荻窪地区には彼岸の時に「広蔵念仏」を唱える習慣があるという。

