上杉憲方
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| 時代 | 南北朝時代 - 室町時代初期 |
| 生誕 | 建武2年(1335年) |
| 死没 | 応永元年10月24日(1394年11月17日) |
| 改名 | 憲方、道合 |
| 戒名 | 明月院天樹道合 |
| 墓所 | 神奈川県鎌倉市明月院、伝上杉憲方墓(江ノ電極楽寺駅徒歩2分) |
| 官位 | 右京亮、安房守 |
| 幕府 | 室町幕府関東管領、上野・武蔵・伊豆・安房 |
| 主君 | 足利氏満 |
| 氏族 | 上杉氏(山内上杉氏) |
| 父母 | 父:上杉憲顕 母:木戸氏 |
| 兄弟 | 憲将、憲賢、能憲、憲春、憲方、憲英、憲栄、岩松直国室、上杉朝房室 |
| 子 | 憲孝、房方、憲定、憲重、明江理通(伊豆円成寺住持)、娘(相模三浦如意寺住持) |
| 花押 |
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上杉 憲方(うえすぎ のりまさ[注釈 1]/のりかた)とは、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将・守護大名。2代鎌倉公方足利氏満の元で関東管領を務めた。上野国・武蔵国・伊豆国・安房国守護。上杉憲顕・能憲の系統を継承して山内上杉氏の始まりとなった[3][注釈 2]。あじさい寺として知られる鎌倉明月院の開基でもある[9]。
誕生・前半生
建武2年(1335年)、のちに上野国守護・越後国守護・関東管領を務めた上杉憲顕の子として誕生する。兄弟に憲将、能憲、憲春、憲英、憲賢、憲栄らがいる[10]。憲方は父の憲顕在命時(1306年~1368年)は殆ど動きがなく[11]、「上椙系図大概」では国清寺開山の無礙妙謙の下で修業したとみえる[12]。応安2年(1369年)、憲方が35歳の時に、武蔵国守護を務める兄・能憲の下で守護代を務めていたことが確認されている[13]。また同年6月には安房守の官途を称し、父の憲顕の死を契機としてか入道(法名道合)していることも確認されている[14]。
憲方には上杉房方、上杉憲孝、上杉憲定[注釈 3]、上杉憲重らの息子に加え、相模三浦の如意寺の住持となった娘と、伊豆円成寺の住持となった明江理通の2人の娘がいた[15]。のちに憲孝は宅間上杉氏に養子に入り、房方は弟・憲栄の猶子となって越後上杉氏に、憲重は山浦上杉氏の祖となり、三男の憲定が憲方の後継として山内上杉氏を継ぐ。憲方は自身の子供を通じて越後・宅間・山内三家を影響下に置くことになる[16]。
能憲からの相続
天授2年/永和2年(1376年)5月8日、42歳の憲方は病床にあった兄・能憲から山内上杉氏の家督と所帯等を譲られた。能憲が務めていた伊豆国守護職もこの時に譲られたとみられているが、憲方が伊豆国守護を務めていた確実な所見は永徳2年(1382年)9月まで時代が下る[14]。能憲から譲り状を受けたことに伴い、憲方は次男の憲孝を能憲の養子とした[14]。天授4年/永和4年(1378年)4月11日、能憲の死の直前には兄弟の憲春が務めていた上野国守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られた。しかし憲春は能憲の死後も鎌倉公方の足利氏満の意向によって[17]上野国守護職に留任しており、これは能憲と憲方の本分ではなかったため、憲春との間に確執が生まれたともいわれている[18]。
同年4月17日に能憲が亡くなると、同月18日以降に鎌倉西御門の報恩寺にて義堂周信を呼んで能憲の葬儀が行われ、これを憲方が執り行った。一方で四十九日の法要は憲春が行った[19]。同年5月22日、憲方は能憲の遺命により宅間上杉氏を憲孝に継がせ[20]、父として憲孝を後見して宅間上杉氏の家産を統括した。同年6月25日には同じく遺命により能憲の邸宅を報恩寺塔庵とした[20]。
能憲の死後、能憲の後任の関東管領には憲春が任じられた。これにより山内上杉氏の家督は憲方、関東管領は憲春という状況が生まれることになる[21]。能憲の在任時は幼少のため、氏満の公方としての職務は関東管領(能憲)が代行していた。成長し、自立し始めた氏満は憲春を重用することで嫡流である憲方をけん制し、関東管領上杉氏の勢力を押さえようとした[22]。氏満の憲春重用は、能憲―憲方を尊重する京都の足利義満との間に軋轢を生んだともいわれている[23]。
憲春の自害
能憲が亡くなってから約1年後の天授5年/康暦元年(1379年)3月7日、憲春が自害した。『喜連川判鑑』『鎌倉大草紙』は、京都で起きた管領細川頼之と頼之に対抗する斯波義将らとの政争[24]・康暦の政変に乗じて京に攻め上がろうとする鎌倉公方足利氏満に対する諫死だったという[注釈 4]が[25]、木下聡によればいずれも同時代史料にある記載ではなく、木下は自害の原因を憲方との兄弟関係といった憲春自身の問題としている[26]。
憲春自害の原因については諸説あり、岩崎学は憲春の関東管領就任以後、鎌倉府と幕府との関係が疎遠となっていた状況から、反幕府的な氏満に近い立場の憲春を幕府から支援を受けた憲方が憲春を追い込め、自害に至らせたという見方を示している[27]。植田真平は岩崎の研究を踏まえつつ、当時憲春が置かれていた状況の芳しくなさに着目し、兄・憲方との確執と応安2年(1369年)に炎上した円覚寺の再建事業の行き詰まりを抱える中、康暦の政変に伴う京都の混乱が関東にも波及して鎌倉にも軍勢が集まるなど、情勢がにわかに緊迫した中で憲春が進退窮まったとみている[23]。憲春の自害は儒学者・東坊城秀長の日記である『迎陽記』の同日条に「鬱憤」か「狂乱」と当時からささやかれるほど、全く突然で不可解な自害であった[23]。一方で、小要博や駒見啓介は『鎌倉大草子』や『喜連川判鑑』の通り、反幕府行動を起こした氏満への諫死説をとっている[28][24]。
憲春が自害したことで、憲方はようやく能憲からの譲り状にあった上野守護職を義満より安堵されることになり[29]、憲春・憲方の兄弟間で分散しかけた能憲の遺産(ひいては父・憲顕の所領の大半[30])は憲方のもとに集約された[31]。これとほぼ時期を同じくして、憲方の妻が夫のための逆修塔を鎌倉極楽寺の西方寺跡に立てており、この件との関連が指摘されている[31]。
関東管領・三ヶ国守護に
憲春自害後の康永元年(1379年)3月11日[14]、憲方は足利義満の要請を請けて土岐頼康討伐のため伊豆三島に出陣した[20]。三島に出陣した時点で憲方が鎌倉の山内に屋敷を構えていたことが、義堂周信の日記『空華日用工夫略集』同日条から判明している[14]。山内の屋敷は憲顕から能憲に継承され、さらに憲方が継承したもので、憲方の家系が山内上杉を名乗る由来となった[32][14]。


しかし同月に義満が態度を変えて頼康を赦免したため、4月15日まで三島に留まっていた憲方は、義満に鎌倉へ帰るように命じられた。同時に義満の要請を受けた氏満により関東管領に任じられる[33]。憲方は28日には鎌倉へ戻った[34]。また前述の通り、同年5月9日には憲春が維持していた上野国守護職も憲方に安堵された[29]。
同年7月7日、鶴岡八幡宮に上野国片山西之村を寄進する[35]。同年12月27日には守護代の大石氏(大石能重)[36]に対して武蔵国内帆別銭の沙汰を命じており、武蔵国守護としての憲方の活動が確認される[35]。これにより憲方は伊豆・上野・武蔵の三ヶ国の守護を務めることとなった[14]。三ヶ国のうち伊豆国・上野国の守護職は憲方の家系に相伝知行されていくことになる[37]。なお、伊豆国守護として憲方の元で守護代を務めたのも大石能重である[38]。

関東管領の職権には鎌倉公方を補佐して関東における政務を統括すること、公方御教書に対する奉書の発給、京の室町幕府の命令を鎌倉府管轄国へ取り次ぐこと等があげられる[39]。また、能憲の時代は氏満が幼少のため能憲が文書発給を代行していたが、憲方が関東管領になった頃には氏満は21歳になり、自力で文書を発給できる年齢になっていた[40]。このため、関東管領が文書発給を代行するのではなく、押妨停止や沙汰付を命じる公方が出した発給文書に、関東管領が施行状をセットで発給するようになり、以後このかたちが定着し確立した[41]。公方の発給文書と関東管領施行状がセットで発給された初見は、康暦2年(1380年)6月8日、氏満が円覚寺へ出した御教書と同日に、憲方が鎌倉府奉行人の布施主計充へ施行した施行状である[42]。さらに憲方の頃には所務沙汰にも関東管領が関与するようになったことが指摘されており[43]、憲方の在任期に関東管領が鎌倉府の政務を統括する権限が確立されていった[44]。
憲方の施行状は7点が現存し[41]、憲方が発給した文書は36点が『上杉家文書』等に現存している[45]。関東管領として発給したものが23点、関東管領兼任の武蔵国守護としてのものが4点、山内上杉氏家職となっていた伊豆国守護としてのものが2点、軍事行動に伴う禁制など鎌倉公方の命令を受けたものではない文書が7点となっている[46]。
康暦2年(1380年)4月8日、憲方は幕府より越後国妻有荘(新潟県十日町市・津南町)を与えられた[35]。
小山義政の乱
康暦2年(1380年)5月16日、下野裳原(栃木県宇都宮市)にて下野国守護・小山義政と同国大名の宇都宮基綱の軍勢が衝突し、基綱が戦死するという出来事が起きた[47]。小山氏と宇都宮氏は下野国の支配権をめぐってかねてから対抗関係にあったが、この衝突の原因は室町幕府との関係で遅れをとった小山側が焦燥感を覚えてしかけたものと言われている[48]。基綱は管領・斯波義将の姉妹を母に持ち、さらに妻は細川頼之の姪と、京都との強力なパイプを持っており、康暦の政変が起きても宇都宮氏と幕府の関係は動じることがなかったが、小山側は所領処分で幕府と行き違いが発生した事案があるなど遅れを取っていた[48]。
同年5月8日、憲方はこの乱に絡めて鶴岡八幡宮と光徳寺へ祈祷の精誠を命じる奉書を発給した[49]。小山氏の行動を重大な違反と断じた鎌倉府は、同年6月1日に[48]小山義政討伐のため、犬懸上杉氏の上杉朝宗と、氏満の重臣である木戸法季と共に関東管領の憲方を大将として発向させた[50] [51]。氏満も武蔵国府中(東京都府中市)から村岡(埼玉県熊谷市)に出陣し、憲方たちは利根川を越えて岩船(栃木県栃木市)に進軍して小山に迫った[52]。同年8月に小山で戦闘が始まり、翌月の9月中旬に義政は降伏した[53]。
しかし降伏した義政が氏満の下に参上しなかったため、これを不服従と見た氏満は永徳元年(1381年)2月に再び上杉朝宗・木戸法季を大将として義政の討伐命令を下した[53]。憲方は大将ではなかったが、鎌倉を出立した氏満とともに出陣していたとみられている[54]。
全部で第3次まで行われた義政討伐だが、第2次討伐以降、憲方は消極的な姿勢を示している[55]。これを義政征伐を快く思っていなかった室町幕府への配慮とする説は、実際には小山討伐が幕府との交渉の上で行われていたことから現在は否定されており、『頼印僧正行状絵詞』にみえる病が原因とする説がある[55]。鎌倉府は第2次小山義政討伐にあたり、武蔵・上野の中小国人の軍団である白旗一揆を動員し、室町幕府には白旗一揆の動員について事前に了承を得ていた[54]。あらかじめ幕府に伺いを立てることで余計な干渉や軋轢を防ぎつつ、幕府の公認により小山を一層孤立させるためのもので、『鎌倉大草紙』によればこの交渉を主導したのが憲方だといわれている[54]。
同年4月、鎌倉府の軍勢が足利(栃木県足利市)まで進んだところで小山氏とは別に、新田一族が蜂起した。これは憲方の弟の憲英によって鎮圧された[56]。本隊は6月から7月にかけて小山周辺を攻め、義政が籠る小山鷲城を途中戦闘の中断を挟みつつ12月10日に城を攻め落とし、義政は出家して降伏した[57]。小山義政の乱後、憲方が下野国守護職に就いたとの説が佐藤進一から出たが、これを支持していた新川武紀がその説を大きく修正するなどし、現在では乱の後に下野国守護職に就いたのは木戸法季だとみられている[58]。
関東管領の一時辞職・復帰
小山義政の乱の翌年にあたる永徳2年(1382年)正月、憲方は関東管領を辞した[57]。 『喜連川判鑑』や『鎌倉大日記』[35]では、憲方は弘和2年/永徳2年(1382年)1月16日に関東管領を辞し、同年6月27日に復職したとある[33]。小山氏の乱の戦後処理をしている多忙な時期の辞任については、病による辞任とする説と、同年1月17日に幕府から越後国守護に補任された長男の上杉房方の後見を命じられたため、これに専念するためという説がある[59]。
永和4年(1378年)までに越後国守護に在任していた弟・憲栄が28歳の若さで[60]隠遁したため、康暦2年(1380年)4月以前に房方が憲栄の猶子となり[61]、越後国守護に就くことになった[6]。越後国は鎌倉府ではなく、室町幕府の管轄国である[16]。幕府が憲方に房方の後見を命じたのは、越後国内に独立的な勢力を有する国人が多く跋扈しているため守護支配が容易なものではなかったためであった[16]。越後・宅間・山内三家を影響下に置く上杉氏の長老的存在であった憲方の力に幕府は期待しており、実際に憲方が遵行状(幕府からの命令を受けて守護が下位に向けて出す施行状)を発行するなど守護支配にあたった[16]。憲方が関東管領を辞任していた永徳2年(1382年)の時期、憲方は武蔵国守護職も辞任し、この期間の武蔵国は公方氏満の直轄となっていたとみられている[62]。
なお、憲方の永徳2年(1382年)正月から6月の関東管領辞任期に憲方が執務をしていた形跡はみられないが[16]、小要博はこの期間にも憲方が寄進地の沙汰付依頼といった従来の関東管領が行使していた職権と同様の文書を発給していることや、『喜連川判鑑』に複数見られる疑義(憲方が出家し道合と名乗った時期の誤り、『喜連川判鑑』が記す2度目の憲方辞任よりも後の時期に憲方が発給した文書がある、憲孝を憲方の次の関東管領と記すも、その間の2年分の記録等に憲孝が関東管領に補任されていた証左が見られない)から『喜連川判鑑』の年記は信用できず、康暦元年(1379年)4月から憲方が亡くなる前年の明徳4年(1393年)8月までの間、憲方が関東管領に在職し続けていたとしている[63]。
また京都では依然として永徳2年(1382年)の辞職中も憲方が関東管領と認識されていたことが『空華日用工夫略集』の同年正月25日条からわかっている[16]。
小田孝朝の乱まで
憲方が関東管領を辞していたとみられる間に厳しい処分を受けた小山義政と小山若犬丸父子は、同年3月22日に三度目の反乱を起こした。しかし、鎌倉府軍に攻められて4月13日に櫃沢城(栃木県鹿沼市)にて義政は自害し、若犬丸は逃亡した[64]。義満はこれを「神罰」と評したが、氏満への不信感を漏らしており、京都に上っていた義堂周信に都度諫められている[65]。

憲方も氏満と義満の関係には心を砕いており、これが永徳2年(1382年)に京都の醍醐寺の僧が鎌倉・極楽寺に預けた本尊・経典類の返還を求めて訴訟を起こした件の対応に現れている。この訴訟では鎌倉府も幕府も醍醐寺側の訴えを認めて極楽寺に返還命令を下したが、極楽寺はこれを拒否した[65]。6月に憲方が管領に復帰した後、7月に幕府、ひいては義満は鎌倉府にこの件の解決を催促したが、憲方は義満の催促が氏満の意をそぐことを避けるために、受け取った幕命を氏満に取り次がなかったという[65]。同年11月、極楽寺が返還に応じたことでこの問題は解決した[65]。
至徳元年(1384年)から至徳2年(1385年)にかけて、鎌倉府は応安7年(1374年)11月に全焼した円覚寺の再建の造営費用に充てるために、永和2年(1376年)に関東諸国に賦課した棟別銭に重ねて相模・上総・下総・安房・下野、次いで武蔵・甲斐・常陸に棟別銭を課した[66]。憲方も武蔵国守護として至徳2年3月15日に守護代の大石聖顕に武蔵国内の棟別銭の徴収を命じた文書が残る[67]。

至徳2年(1385年)10月25日、憲方の要請により、公方の氏満が常陸国信太荘の古来・矢作・中村の土地を鎌倉山内にある明月院に寄進した[68]。所領寄進にあたって当時は寄進者が鎌倉公方へ申請するケースがあった[69]。明月院は、北条時宗が創建した禅興寺を中興せよとの氏満の命を受けた憲方が、密室守厳を開山に禅興寺の塔頭として建立した山内上杉氏の氏寺である[70]。この寄進が常陸国守護の小田氏への所領削減政策の一つであり、嘉慶元年(1387年)7月に勃発した[71]小田孝朝の乱の導火線になったとみる研究がある[72]。
小田孝朝の乱はのちに憲方の次に関東管領となる犬懸家の上杉朝宗が対応し、嘉慶元年(1387年)7月に小田氏のいる常陸男体城を囲み、嘉慶2年(1388年)5月18日に城を落とした[71]。

嘉慶2年(1388年)6月には憲方は安房国守護を務めたとみられており[73]、四ヶ国の守護を兼帯することとなった[37]。嘉慶2年(1388年)6月、憲方は鶴岡八幡宮の浜大鳥居を再建した[74]。
相続を定める・山内上杉氏の確立
至徳3年(1386年)7月1日、所帯諸職は三男で出家していた長基(のちに憲定に改名)を後嗣と定めてこれに譲与し[37]、子孫がいなければ房方が知行すべきことを言い置く置文を作成する[74][75]。さらに至徳4年(1387年)9月には所領の惣領単独相続制を定めた[75]。能憲が亡くなった際、山内家の所領は憲方と憲春に分けて継承されたが、憲方から憲定への相続ではこれらの所領が一括されて山内上杉氏の家領として相続されることになった[76]。上野・伊豆守護職と能憲時代からの所領、山内家の邸宅、関東管領と武蔵守護職の兼任により康暦元年(1379年)には山内上杉氏は成立していたが、憲方が所領の惣領単独相続制を定めたこの時点で憲方の家系を一個の家ととらえることができるため[37]、山内上杉氏が確立したとみることができる[75]。
憲方は至徳4年時点ではまだ家督継承者の名を明示していなかったが、嘉慶2年(1389年)12月27日、顕房[注釈 5](長基の還俗名で、のちに憲定と改名[79])に譲与し、顕房に子がなかった場合には房方の子孫に顕房の旧領を継承させるように改めて言い置いた[80]。次男の憲孝については至徳元年(1384年)を最後に政治的動向が見られなくなっており[75]、家督を継げない状態になっていたと推測されている[81]。
憲方は越後上杉氏を興した長男の房方を自らのような一族の長老的存在とし[77]、分派した山内・越後上杉氏が互いに補い合い[79]、房方のもとで再び統轄されることを望んだ[77]。結果的には山内上杉氏の知行分が越後上杉氏に流入したり、一元化したりすることはなかったが、山内と越後の両上杉の結合という望みは、三代後に房方の子・上杉憲実が山内上杉氏に入ることで叶えられることになる[82]。
管領辞職・死去
明徳2年(1391年)12月30日、憲方は某所で合戦し、のちに義満に賞された[74]。関係は不明だが同年同月には山名氏による明徳の乱が勃発している[74]。翌年の元中9年/明徳3年(1392年)4月22日、『喜連川判鑑』などによると、憲方は老齢と病身を理由に管領職から退いた[63]。ただし前述のように、その後も引き続き関東管領として在職していたとする説もある[83]。
明徳3年(1392年)9月26日、能憲の養子として宅間上杉氏に入っていた憲孝が、子供がないまま26歳で[74]亡くなる。これにより当主不在の宅間上杉氏は憲方の元に吸収された[79]。明徳4年(1393年)7月16日、幕府から越後国衙内蒲原津・五十嵐保、応永元年(1394年)2月22日には出羽国大泉荘・越後国上田荘を与えられる[84]。
応永元年(1394年)10月24日、病のため死去。享年60。墓所は自身が鎌倉に建立した明月院。法名は明月院天樹道合とされた[85]。後継の憲定はまだ20歳だったため、36歳の鎌倉公方・氏満を支える後継の関東管領には犬懸家の上杉朝宗が就任した[86]。これにより20年ぶりに上杉憲顕直系とは別系統の関東管領が誕生する[85]。武蔵国守護は関東管領と兼任となるため、山内上杉氏は憲方が関東管領・武蔵国守護を務めていた時に守護代である多摩郡の豪族・大石氏を通じて進めていた、武蔵の在地武士の家臣化・領国支配を中断されることになり、武蔵国の主導権を取り戻すべく、犬懸上杉氏の力を排除することを狙うようになる[87]。
憲定は憲方から家督を継承し[88]、翌年の応永2年(1395年)7月24日に伊豆国守護と上野国守護、そして憲方の旧領を足利義満から安堵された[89]。憲定が関東管領となるのは3代鎌倉公方足利満兼の時代で、応永12年(1405年)10月29日の文書が初見である[90]。憲方の官途「右京亮」「安房守」は息子の憲定・上杉憲基(憲定の子)・上杉憲実(憲基の養子)・上杉憲忠(憲実の子)も文書記録史料で名乗っており[91]、山内上杉氏の官途となったことがわかっている[92]。
また憲定は、応永10年(1403年)1月16日に上野国長野郷内西栄村(群馬県箕郷町)の半分と武蔵国馬室郷(埼玉県鴻巣市)の五分の一を明月院に寄進した[93]。これは憲方の菩提を弔うため、馬室郷に大工山妙楽寺という明月院の末寺を建てるためであったという[93]。現在も鴻巣市原馬室に妙楽寺という名の寺が建っているが、こちらは愛宕山地蔵院と号する新義真言宗智山派に属する寺で、大工山妙楽寺との関係は必ずしも明確ではない[93]。ただし、境内の碑には「憲方公の菩提を弔うために、鎌倉建長寺塔頭明月院恵範開山となり延命地蔵尊を本尊と大工山妙楽寺と号し建立され、応永拾弐年五月拾弐日明月院の末寺となる。」と刻まれている。
- 妙楽寺(埼玉県鴻巣市)
- 妙楽寺境内の石碑
墓所
憲方が生前創設した明月院のやぐら内に、伝上杉憲方供養塔と伝わる宝篋印塔が存在する。 また、江ノ島電鉄極楽寺駅付近(鎌倉市極楽寺)に上杉憲方夫妻の墓と伝わる七層塔・五層塔があり国指定史跡となっている。この付近には憲方死去の15年前に憲方の妻によって製作された[94]、逆修塔と伝わる宝篋印塔も存在する。
- 明月院やぐら (伝上杉憲方宝篋印塔・鎌倉市山内)

禅興寺の塔頭で筆頭支院であった明月院は、明治時代に禅興寺が廃寺になったあとも現代に残り、『集古十種』に掲載がある上杉憲方座像も江戸時代までは所有していた[95]。境内にある鎌倉最大ともいわれるやぐらが憲方の墓であると言われており、やぐらの壁面には釈迦如来、多宝如来と思しき像が、基壇上部には十六羅漢とみられる浮き彫りも施されている[96]。
- 国指定史跡 伝上杉憲方墓(西方寺跡七重層塔・鎌倉市極楽寺)

高さ292cmで、相輪頭部の宝珠を欠失している[97]、安山岩製の七層塔[98]。鎌倉に残る唯一そろった層塔で、鎌倉では珍しい関西型の様式をしている。そばにある五層の塔は憲方の妻の墓と伝わるが、明月院の宝篋印塔とともに憲方の墓である確証はなく、これらは伝説の域を出ないという[70]。『管領鎌倉九代記』にある極楽寺にあったという憲方の墓の伝承とは符合するが、この七層塔の年代は憲方没年の応永元年(1394年)よりも古く、それより引き下げることは難しいと言われている[99] 。
- 石造 西方寺址石塔群 伝上杉憲方逆修塔(鎌倉市極楽寺・鎌倉市指定文化財)
極楽寺の支院である西方寺跡(極楽寺切通しの途中を北へ入った山腹)にある宝篋印塔。近くには6基の五輪塔も存在する[100]。高さ139センチメートルの安山岩製で[99]、基壇を欠いているため基礎が直接地上に置かれている[101]。塔身に金剛界四佛の種子を刻んでおり、室町型への過渡期の形をしている[101]。現在は風化が進み判読が厳しいが、昭和10年(1935年)に発表された赤星直忠の調査結果により以下の銘文が刻まれており、その内容から当時管領に就任したばかりの45歳の憲方(房州善閣道合)の逆修塔として、永和5年(1383年)に憲方の妻が造立したことが明らかとなっている[102]。
右志趣者奉為房州/禅閣道合逆修作善/宝筐印石塔一基所/令造立也依此善根/致現世寿命長遠/願主証得菩薩乃至/法界平等利益乃逆修/作善所願如件/永和五年〈巳未〉五月十三日/善女敬白
室町幕府重臣の逆修塔という点で重要な資料だが、一般住居敷地内にある[97]ため、見ることはできない。宝篋印塔のモノクロ写真は『日本石造物辞典』(吉川弘文館)の320頁や『鎌倉の美術』(朝日新聞社)の106頁などで見ることができる[99]。
寺社
憲方が建立した寺は鎌倉の明月院が有名だが、この他にも金沢(横浜市金沢区)に能仁寺、伊豆・河津町に林際寺を建立している。
- 明月院(鎌倉市山ノ内)

もとは関東十刹であった禅興寺の塔頭で、開山を密室守厳、開基を憲方とする[103]。憲方は永徳3年(1383年)12月に明月庵[注釈 6]に対して相模国山ノ内岩瀬郷を寄進しており、これ以前には創建されていたと見られる[104]。寺には足利氏満の花押がある「明月院古地図」が伝わっており[105]、かつては山内上杉氏を檀那と仰いだ寺院であった[106]。

能仁寺は、憲方が金沢(横浜市金沢区)に建長寺47世をつとめた方崖元圭を開山として建立した臨済宗の寺[107]。江戸時代初期には廃寺となり[108]、金沢藩の陣屋となったが[107]、この寺の旧本尊の地蔵菩薩坐像は伊豆・河津町の林際寺に残されている。本尊は像内の書から永徳2年(1382年)に制作が開始されたものであることがわかっており、銘の中の一文に「大檀那房州道合」[109]と書かれている。この「房州道合」とは憲方のことである[107]。

- 国清寺(静岡県伊豆の国市奈古谷)
憲方の父である上杉憲顕が開基の寺で、鎌倉にも創建された[110]。憲方の時に、伊豆の国清寺にある仏殿・本像などがすべて鎌倉の国清寺に移されたが、仏が僧俗の夢枕に立ち、奈古谷の地に戻りたいと訴えたためこれが叶ったという[110]。憲方はその後も国清寺を鎌倉五山に列するべく、再度の移転を計画したが、実際に移転したかは不明である[110]。
伊豆・河津町にある臨済宗建長寺派の古刹で、憲方が開基となった寺[108]。廃寺となった能仁寺の旧本尊を原本尊として所蔵している[107]。林際寺には4代鎌倉公方の足利持氏の寄進状が伝わっており、これは二階堂盛秀(当時の鎌倉府の官僚)が市尾郷内片山彦次郎跡を「関東管領上杉氏所縁」の林際寺に寄進する旨を申請し、持氏がこれを安堵したものである[111]。この寄進は、当時対立関係にあった公方持氏と、関東管領・上杉憲実の和解を願ってのものと推測されている[112]。
開山は若くして京都の東福寺や永源寺などの名刹で住職を務めた松嶺道秀和尚。憲方は道秀に対し鎌倉に出て活躍するように勧誘したが固辞されており、のちに自身の所領である伊豆国内で暮らすのに良いところがあれば選ばないかと勧めたところ、手足が悪くなった道秀は、伊豆には温泉があり湯治ができるため、薪や飲料水の便が良い所であれば居を定めたいと言い、これを聞いた憲方は大いに喜んだという[113]。
道秀は現在の峰温泉での1年間の湯治の後、虎杖山に林際庵を立て、ここを終焉の地と定めた。これを聞いた諸山の僧侶数十五名が人里離れた林際庵に集まったため、予期せぬ食糧不足となり、これを聞いた憲方は領地の寄進を申し出たが、道秀はそれを断り、ただ虎杖山を殺生禁止にしてほしいことを願ったため、憲方はますます道秀を尊敬し、早速法度を定めたという[114]。
系譜
- 父:上杉憲顕 - 関東管領、上野・越後国守護
- 母:木戸氏
- 妻:不明 - 西方寺跡に憲方の逆修塔を建立
- 長男:上杉憲孝(上杉能憲養子) - 宅間上杉氏
- 次男:上杉房方 - 越後上杉氏、越後守護
- 三男:上杉憲定 - 山内上杉氏、関東管領
- 四男:上杉憲重 - 山浦上杉氏
- 女子:明江理通 - 伊豆円成寺の住持
- 女子:不明 - 相模三浦如意寺の住持
| 上杉頼重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 重顕 | 頼成 | 憲房 | 女子 | 加賀局 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 朝定 | 重能 (宅間上杉氏) | 憲顕 (山内上杉氏) | 憲藤 (犬懸上杉氏) | 重行 | 重兼 (宅間上杉氏) | 重能 | 重兼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 顕定 (扇谷上杉氏) | 能憲 | 憲将 | 憲堅 | 能憲 | 憲方 | 憲春 | 憲英 | 憲栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 憲孝 | 房方 (越後上杉氏) | 憲孝 (宅間上杉氏) | 憲定 (山内上杉氏) | 憲重 (山浦上杉氏) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 清方 | 憲実 (山内上杉氏) | 頼方 (山浦上杉氏) | 朝方 | 憲基 | 頼方 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||