高重茂
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生没年・名前
生没年は不詳[1]。名前について、重茂を「師茂」と書く系図があるが、『高野山金剛山米院短冊和歌』などに「重茂」と表記されているため「重茂」が正しい[4]。子どもはなく、高一族の庶子家・南氏[6]から南宗継の五男・重教を養子とした[4]。
建武の戦乱期
当初は左衛門尉[4]。兄弟達と共に足利尊氏に仕え、1333年(元弘3年)に尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻したときや、建武2年(1335年)に後醍醐天皇の建武政権から尊氏が離脱した際にも、尊氏と共に鎌倉にいた[7]。
建武2年(1335年)から始まる建武の戦乱では、尊氏につき従い転戦[4]。新田義貞との三河国矢作川の戦いに参加[4]。尊氏が一時京都を占領した際には、細川定禅とともに近江国園城寺の防衛にあたる[4]。建武3年(1336年)正月16日、新田義貞・北畠顕家の連合軍によって攻め破られると、京都に撤退する[8]。京都の尊氏も新田・北畠連合軍に敗れて九州に落ち伸びると、重茂もこれに従った。
同年3月2日、筑前で尊氏が菊池武敏と戦い勝利した多々良浜の戦いに参戦する。『太平記』巻第十六にはこの時のエピソードとして、足利の方が少数にも関わらず、一戦も交えずに降参した菊池軍の松浦・神田を不審に思った尊氏が「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」と高・上杉の諸将に不信感を現した話がある[9]。尊氏は一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と、安禄山の乱や壬申の乱の天武天皇を例に進言し[9]、多くの捕虜を救ったと言われている[7]。亀田俊和はこの話をいかにも作り話くさいと評しつつも、高師直の初登場の場面と同様に、重茂が歴史的知識を豊富に持つ一族として『太平記』で描かれている点に注目している[9]。同年、大和権守となる[4]。

多々良浜の戦いで勝利した後、5月の湊川の戦いを経て、同年6月に足利軍は再度入京する。6月から8月ごろまでにかけて後醍醐軍との間に京都で市街戦が起こるが、重茂はこれにも参加した[9]。『梅松論』には同年8月20日ごろ、宇治にいる後醍醐軍を掃討しようとした足利方の細川氏・河野氏の連合軍が敗北した際に、後醍醐軍がいる阿弥陀ヶ峰(京都市東山区)の篝火を見た重茂が「おほくとも 四十八には よも過じ 阿弥陀が峯に ともすかがりは」と和歌を詠んだ話がある[11]。なお『太平記』では時期は7月上旬、詠んだのは狂歌で、歌の文言も異なっており[11]「多ク共四十八ニハヨモ過シ阿弥陀峯ニ灯ス篝火」となっている[1]。同年(1336年)9月13日、『尊氏以下五首和歌住吉宝前』に出詠する[3]。
武蔵守護
建武3年(1336年)11月に『建武式目』が制定されて室町幕府が発足すると、重茂は延元2年/建武4年(1337年)に武蔵守護に任ぜられ、鎌倉府の足利義詮を補佐した[7]。
建武4年(1337年)12月、利根川と鎌倉で行われた奥州の北畠顕家との戦いでは、それぞれ他の幕府方の諸将と共に顕家を迎え撃ったが、両戦ともに敗れた[12]。重茂は桃井直常・上杉憲顕らとともに義詮を連れて鎌倉を脱出[7]。その後『太平記』巻第十九によると、安房・上総に一度没落した後に鎌倉へ戻り、東海道を京都に向かって攻め上る顕家軍の後を追った[12]。同じく『太平記』巻第十九によると、建武5年(1338年)正月二十八日の青野原の戦い(岐阜県関ケ原)に参戦し、幕府軍の二番手として墨俣川付近で顕家軍の北条時行軍と交戦したが、精鋭300人あまりが討たれ敗北したという[13]。
南朝の重鎮・北畠親房が暦応2年(1339年)に関東に下向し常陸国を中心に活動を始めると、重茂の戦下手を幕府首脳部が認識していたためか、武蔵守護を罷免され上洛した[14]。重茂の代わりとして、義理の甥の高師冬が関東に下向した[14]。武蔵守護職は観応2年(1351年)正月の師冬没落まで高一族の手にあった[15]。同年、『春日社頭公式和歌』に出詠[3]。
暦応・康永期
上洛後の重茂は幕府の行政に携わり、暦応3年(1340年)ごろから引付頭人を務めた。尊氏の天龍寺建立では、暦応4年(1341年)7月13日の天龍寺地曳[注釈 1]に参加し、康永元年(1341年)8月3日の天龍寺立柱の儀[注釈 2]にも兄の師直と共に参加し、足利直義の御剣役を務めた[14]。同年12月5日の天龍寺網引・禄引では尊氏の御剣役を務めた[18]。

興国4年/康永2年(1343年)に駿河守を名乗る[4]。康永3年(1344年)10月には尊氏・直義をはじめとする幕府要人とともに高野山に和歌を奉納し(国宝『高野山金剛三昧院短冊和歌』)[19]、重茂は4番、22番、57番の和歌を詠進した[3]。重茂の4番の和歌は尊氏・直義・光厳上皇に続いて登場する[19]。
同年5月[20]、常陸の南朝軍を倒して関東の平定が終わった師冬が帰京し、これに代わって鎌倉へ下向[1]。上杉憲顕と共に関東執事を務め、再び義詮を補佐することになった[21]。
観応の擾乱期
観応元年(1350年)、直義と師直の対立の激化に伴って関東情勢が不穏になると、重茂は再び師冬と関東執事を交替する形で上洛する[18]。
観応の擾乱での重茂の詳しい動きは、資料がまったく残っておらず[18]、政治的立場を知るに十分な史料に恵まれていない[22]。ただし、兄の師直を始め高氏一族の多くが打出浜の戦いの後に武庫川で殺害された中で、重茂は現場には居合わせなかったのか生き延びた[23]。森茂暁は、重茂が暦応から康永期にかけて幕府の引付頭人を務めていた実務型官僚ゆえに生きのびたものと考えている[22]。また、『房玄法印記』の観応2年2月24日条には、師直・師泰が出家した際に、他の高一族や被官も出家したとあり、重茂もこの時に出家したと考えられている[24]。出家後の重茂は「高階駿河入道」と称した[25]。観応2年(1351年)5月1日までに、西国の足利義詮の下で幕府の引付方が再開されると、幕府の雑務引付の頭人を大高重成と共に務めた[26]。
また、観応3年(1352年)9月頃の幕府の引付頭人の中に、師直に酷似した花押を用いて義詮の袖判下文の施行状を多数発給している「沙弥某」という人物がいる[27]。当時の引付頭人は5人で、石橋和義・宇都宮蓮智・二階堂行諲・大高重成・沙弥某である[24]。亀田俊和は、観応2年5月1日開催の雑務引付の頭人として重茂の名前が挙がっていることと、出家しているという特徴が一致することから、沙弥某と重茂が同一人物だと推定している[27]。沙弥某が他の4人と比べてとびぬけて多くの施行状を発給しているのは、かつて武蔵守護や関東執事として幼少の義詮を鎌倉府で補佐していた重茂に、義詮が恩賞充行袖判下文の施行という重大な権限を委任したためで、かつて執事をつとめていた師直に似た花押はその先例の踏襲であり、沙弥某=重茂の推定が正しければ、この時期に重茂が義詮の事実上の執事を務めていたとみられている[26]。
晩年
正平23年/応安元年(1368年)、初代鎌倉公方・足利基氏が死去した後、上杉憲顕が上洛して不在の隙を狙い、武蔵で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱(平一揆の乱)が起こる。この際に、重茂も三浦貞久(三浦下野入道)とともにこの反乱に加わったという説がある[1]。これは「市河文書」と『諸国古文書抄』収録の「南部右馬助入道軍忠状」および「善波胤久着到状」[注釈 3]の3つの軍忠状にある「高大和入道」を重茂に比定したものである[29]。小国浩寿は、「旧尊氏党」の重臣であった重茂と、基氏の近臣内で「反上杉」という政治姿勢を持っていた貞久という見方を示している[30]。
しかし、この乱に程近い貞治3年(1364年)ごろに作られた和歌集『一万首作者』には、高一族の大高重直(大高重成の子息)に「大和守」との注記があるため、亀田俊和は出家した重直がこの「高大和入道」である可能性が高いとしている[31]。また『一万頸作者』には重茂も入撰しており、法名の「源秀」と記されている[32]。
平一揆に加担した「高大和入道」を大高重直と見る場合、文和2年(1352年)9月頃、尊氏が関東から上洛して義詮・尊氏の東西分割統治が解消される時期以降、重茂は史料上から姿を消しているため、晩年は不明である[33]。
和歌
重茂の和歌は、『金剛三昧院奉納和歌短冊』に3枚(4番・22番・57番)と『尊氏以下五首和歌住吉宝前』、『春日社頭公武和歌』の他、勅撰和歌集の『風雅和歌集』『新後拾遺和歌集』に1首ずつ入撰している[3]。
高野山金剛三昧院奉納和歌短冊 22番
- 「むすひける契の程もあらハれて さもきゝかたき法に逢ひぬる」 重茂[34]
尊氏以下五首和歌住吉宝前 46~50番
- 「ことししも ふた夜くもらぬ 月の名は あきらけき夜を てらすなりけり」
- 「宵のまは さすかにしけき 虫のねの よはるに月の ふくるをそしる」
- 「からころも うつおとふけて なか月の 月のよさむも なをそふけゆく」
- 「思ひいてゝ なをしのへとや うき人の おもかけみする よなよなの月」
- 「やはらくる ひかりにかけや かよふらん こよひの月も 住吉の神」左衛門尉高階重茂[35]
風雅和歌集 雑歌上 1503番
- 「ほさでけふ いく日に成りぬ あま衣 たみのゝ島の五月雨の比」 高階重茂[36]
新後拾遺和歌集 雑歌上 1636番
- 「久方の 月のかつらの もみぢ葉は しぐれぬ時ぞ 色勝りける」 高階重茂[37]