上杉能憲

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生誕 元弘3年(1333年
別名 三郎(通称
 
上杉 能憲
時代 南北朝時代
生誕 元弘3年(1333年
死没 天授4年/永和4年4月17日1378年5月14日
別名 三郎(通称
戒名 敬堂道諲敬堂居士
墓所 報恩寺(鎌倉市西御門)
官位 修理亮・左衛門尉・兵部少輔[1]
幕府 室町幕府 関東管領 上野武蔵伊豆守護
主君 足利直義足利基氏足利氏満
氏族 山内上杉氏宅間上杉氏
父母 父:上杉憲顕、養父:上杉重能宅間上杉氏)、母:木戸氏[2]
兄弟 憲将憲賢能憲憲春憲方憲英憲栄岩松直国室、上杉朝房
養兄弟:顕能?、重季上杉重行子)
養子:憲孝(上杉憲方子)
花押 上杉能憲の花押
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上杉 能憲(うえすぎ よしのり)は、南北朝時代武将守護大名山内上杉氏の祖・上杉憲顕の息子で、2代鎌倉公方足利氏満の下で関東管領を務めた。上野国武蔵国伊豆国守護

誕生

元弘3年(1333年)、父・上杉憲顕が28歳の時に生まれる[3]。時期は不明だが、父の従兄弟である上杉重能の養子となる[3]。重能は足利直義の側近として伊豆守護や内談頭人、評定衆という要職を歴任し[4]室町幕府創設期に京都を中心に活躍した人物だった[3]。しかし、重能は足利家の執事であった高師直師泰兄弟との政争に敗れ、貞和5年(1349年)8月の師直のクーデター(御所巻)後に流罪に処され[4]、同年12月20日に配流先の越前国で殺害される[5]

観応の擾乱

能憲は室町幕府初代将軍足利尊氏の弟の直義に仕え、正平5年/観応元年(1350年)の観応の擾乱では直義と共に尊氏・師直に敵対する。

重能が殺害された約1年後の観応元年(1350年)11月12日、能憲は同年11月3日に出された直義の師直・師泰追討命令を受けて、常陸国信太荘(茨城県稲敷郡)において挙兵した[6][注釈 1]。当時の信太荘は上条を重能、下条を尊氏派であった関東管領・高師冬(師直の猶子[8]が支配していた[6]。この能憲の出陣と合わせて、能憲の父でもう1人の関東管領である憲顕が上野へ下向し、師冬包囲網を強めた[8]。危機感を抱いた師冬は[8]、新鎌倉公方足利基氏を奉じて憲顕の討伐に向かうが、直義派の石塔義房に襲撃されて基氏を鎌倉に連れ戻され、甲斐国に没落する[9]。正平6年/観応2年(1351年)正月17日[10]、師冬は甲斐に出陣した能憲の兄・上杉憲将の軍勢により討ち取られた[6]

憲将が甲斐に出陣している間に、能憲は東海道より上洛を試みた[6]。しかし、実際には北陸道を通過して遅延しており[11]、2月9日に上杉重季(重能の実子)が近江坂本で尊氏・師直軍を破り、同日に兄の憲将が東国勢を連れて上洛したよりも数日遅れて、同月15日に上洛したことが『観応二年日次記』にみえる[12]

同年2月17日の打出浜の戦い(兵庫県芦屋市)が直義方の勝利に終わり、尊氏が直義と師直・師泰兄弟の出家を条件に和解する[8]。この時に能憲は、師直ら高氏一族を京都に戻る途中で狙い、仲間の三浦八郎左衛門らと共に摂津国武庫川[13]にて一族ごと殺害し[14]、首を跳ね飛ばして奪い取り、遺体を川に投げ捨てたという。しかし、近年ではこの定説に見直しが図られており、高一族殺害を行った「上杉修理亮」は能憲ではなく、重季のことだと考えられている[15][8]。能憲はこの暗殺で尊氏により流罪に処せられたともいわれるが[16]、師直殺害後の直義・尊氏間での講和成立時には、憲将とともに鎌倉に帰還した[17]

その後、直義は尊氏と再び対立して観応2年(1351年)11月15日に鎌倉に入り[18]、最後の抵抗を試みる[19]。この時に直義は軍勢催促はもちろんのこと、直義を中心とした鎌倉府体制構築の意思の現れとみられる所務沙汰・塔婆料事に関する御行書を4点発給した[19]。このうち、12月2日付の塔婆料事に関する御行書(妙楽寺文書)の宛所が兵部少輔(能憲)となっている[19]。同年12月に能憲は伊豆守護を務め[7]、尊氏と戦うため駿河国由比・蒲浦に出陣した[4]。しかし、この薩埵峠の戦いは尊氏方の勝利に終わり、『太平記』によると父の憲顕は信濃国方面に落ちのびていった[20]

没落と復帰

薩埵峠の戦いの後、直義は翌年の観応3年(1352年)2月26日に鎌倉で死去する[21]。その後の同年閏2月から3月に起きた武蔵野合戦においても直義方は敗北し、憲顕は再び信濃国へ落ちたという[22]。この結果、敗北した上杉一族はかなりの部分で所領を失ったと推測されている[23]。憲顕は関東管領の地位と上野・越後守護の職を、憲将は武蔵国の守護職を失い、能憲も伊豆守護を改替され[7]、能憲が保持していた相模国愛甲荘の地頭職は、正平7年(1352年)正月廿日に松浦秀に与えられている[23]。その後、文和4年(1355年)3月に憲将が越後、同年5月には北信濃で挙兵するも、幕府方に敗れている[24]

しかし、貞治元年(1362年)11月までには、父の憲顕が将軍・足利義詮によって越後守護として幕府に復帰し、さらに翌年の貞治2年(1363年)3月24日に鎌倉公方の足利基氏から関東管領として鎌倉府に招かれることになった[25]。息子である能憲も基氏に仕えたのか、貞治5年(1366年)10月16日、基氏より重能の旧領である[7]武蔵国六浦本郷を還補された[26]。この年の6月26日、兄・憲将が没した[26]。 

貞治6年(1367年)4月26日に基氏が没すると、能憲は入道した(法名道諲)[27]。鎌倉公方は基氏の子の足利氏満が9歳で跡を継いだが、同年12月には幕府の将軍・義詮も没する[28]。憲顕が3代将軍足利義満の家督継承慶賀のため上洛すると、この権力の空白期を狙って武蔵国の支配を確保しようとした河越直重高坂氏重を中心とした武蔵平一揆が、応安元年(1368年)2月5日に河越館埼玉県川越市)にて蜂起した[28]。この乱は6月に上杉朝房により鎮圧されたが、翌7月には南朝方の新田義宗が越後・上野で蜂起する[26]。『喜連川判鑑』によれば、能憲は弟の上杉憲春とともにこれを鎮圧し、義宗を討ったという[26]

関東管領就任

同年9月19日、足利(栃木県足利市)の陣中にいた父・憲顕が63歳で没すると上野守護に任じられ、正式に憲顕の跡継ぎとなり、山内上杉氏家督となった[29]。憲顕が在職していたもう一方の越後守護は、弟の上杉憲栄が継いだ[30]

さらに従弟・上杉朝房と共に関東管領として2代鎌倉公方の氏満を補佐することになる。このとき能憲は36歳[31]。応安2年(1369年)2月17日に義堂周信瑞泉寺還住を慰留したのが能憲の管領初見となる[32]。朝房との関係は悪くなかったが[31]、関東管領の職務は能憲のみが充行・寄進および施行をおこない、室町幕府からの命令も能憲がほぼ一元的に受給するなど[33]、事実上政務のほとんどを担っていた[34]。氏満が幼年でみずから文書発給ができないため[35]所領に関する文書[36]鶴岡八幡宮の摂末社神主職などの補任、円覚寺造営の財源確保に関する施策関係の文書といった、本来ならば公方の氏満が発給するべき案件を関東管領奉書によって代行し[37]、鎌倉府の流通経済政策にかかわる文書発給なども行っていた[38]。朝房は応安3年(1370年)8月4日には辞職を申し出た上で上京し、京都と鎌倉とを往来した[39]。朝房が関東管領として発給した文書は一点しか確認されていない[40]

応安2年(1369年)6月27日までに、能憲が武蔵守護に補任されたことがわかっている[26]守護代は弟の上杉憲方が務めた[26]。同年10月3日、幕府より伊豆守護に補任される[41]。これは平一揆の乱により、前任の伊豆守護だった高坂氏重が失脚したことに加え、能憲がかつて伊豆守護を務めていた重能の養子であったことや、元関東執事・畠山国清も伊豆守護を務めていたことに起因する[41]。これにより能憲は上野・武蔵・伊豆3カ国の守護を兼任したが[31]、上野国の守護職については間もなく憲春へと譲った[42]

またこのころ、鎌倉では円覚寺と建長寺の間で紛争が起きていた[43]。応安3年(1370年)11月に室町幕府が和睦命令を下すも双方の対立は解けず、応安4年(1371年)の鎌倉府による円覚寺の急進派の捕縛、8月の建長寺による幕府への訴状提出と続き、応安5年(1372年)5月には建長寺の僧侶が円覚寺へ放火を企てたことで、一触即発の事態となった[44]。幕府は鎌倉府に徹底究明を命じたが[44]、この紛争解決は能憲が主導したとみられている[45]。応安6年(1373年)7月に建長寺の僧侶が円覚寺塔頭への渡諷経をボイコットした際、住持の人事権を持つ室町幕府が建長寺にゆさぶりをかけ、鎌倉府は中立派の老僧を渡諷経の先導役に起用した。これにより1日遅れで渡諷経が行われ、一触即発の状況は回避された[46]。翌年、円覚寺が火災に見舞われると鎌倉府は再建事業に追われ、両寺の紛争は後退していった[47]

建長寺との紛争の舞台となった円覚寺(鎌倉市山ノ内

応安4年(1371年)10月、鎌倉の西御門(現在の鎌倉市立第二中学校付近[48])に、親交が深かった[49]義堂周信を開山として報恩寺を創建する(現在は廃寺)[29]。報恩寺では応安7年(1374年)9月18日に能憲の父・憲顕の七回忌が営まれており、この時に氏満も入山して座禅を行ったという、氏満の義堂・能憲への信頼が伺える話が伝わる[29]。能憲は氏満が成長するまでの後見も務めており、応安6年(1373年)12月の氏満の判始め、永和元年(1375年)6月の氏満の評定始め(鎌倉公方が鎌倉府の最高議決機関に初めて臨席する儀式)といった儀式も取り仕切っており、能憲は鎌倉府になくてはならない存在だった[45]

鎌倉市西御門にある碑。報恩寺があったことが記されている。
報恩寺の元寺地に建つ鎌倉市立第二中学校。

応安5年(1372年)末、足利義満の判始めの儀のため上洛する[46]。応安6年(1373年)4月5日、幕府より下総国下幸嶋荘・武蔵国八林郷等の替不足分として、伊豆国大見郷・相模国鴨江・平佐古を与えられ、同月7日に鎌倉に戻った[50]。応安7年(1374年)3月、香取社の神官が千葉氏に奪われた社領の返還を求めて鎌倉まで強訴に来た際には、千葉一族の切り崩しに動くなど、その対応を主導した[51]

管領辞職騒動

永和元年(1375年)までに朝房が関東管領の職を辞して京都に去ると、能憲は一人で関東管領の職務を担うようになる[45]。しかし、永和2年(1376年)3月ごろに発病し[29]、家督を弟の上杉憲方に譲った[45]。伊豆国守護職や山内上杉氏の本拠となる相模山内庄といった能憲の所領・所職もこの時に憲方へ譲られた[27]。さらに報恩寺へ田地を寄進し、義堂に道話をするため近くに在留するように頼んだ[52]

同年5月9日、能憲は幼少期から氏満を教え導いてきた[53]義堂を通じ、関東管領の辞職を氏満に願い出たが、氏満は許可しなかった[52]。翌10日に再度義堂が能憲の辞職の意を伝えると氏満は、関東管領の職は京都の幕府の管掌事項であるため、氏満が免職を専決することができないと言い、幕府に言上して処置を待つようにと述べた[52]。13日、義堂が能憲に対して幕府へ辞職の申請をすることを確認し、義堂がこれを正式に氏満に申し出て手続きが整う[52]。辞職が叶うと、その後は体調が幾分か持ち直したようで、人々は関東管領の重責を噂したという[54]

能憲の病気については「領」「領病」と見え、「領」はうなじ・えり等の意味、「霊病」であれば不思議な病気、生霊・死霊が取り付いた病気という意味となる[29]。「頼印大僧正行状絵詞」には3月25日に能憲が発病し、4月8日に頼印に対して管領邸での加持祈禱が依頼され、普賢延命の護摩を修したとある[52]。さらに頼印は再発した病を治すため、6月15日に管領邸で不動愛染を修したという[52]

辞職が叶った能憲だが、同年8月に氏満に請われて再度関東管領に復職することになる[54]。6月から7月にかけて能憲の病気は快方に向かい[55]、8月18日、氏満は義堂を召喚し、能憲の管領職への復帰を命じた[49]。義堂はこれに抗議したものの、能憲がいる管領邸へ向かい、能憲に氏満の命と京都管領からの書状を示したという[52]。翌19日に義堂は再度氏満からの命を受け、管領邸に赴いて能憲に氏満の意向を組むよう説き[52]、同月21日には能憲は管領に復職した[55]

死去と影響

しかし、無理があったのか、翌年の永和3年(1377年)からは憲春が管領の職務を代行するようになる[54]。能憲は事実上隠遁し[56]天授4年/永和4年(1378年)4月17日に死去[55]。享年46。法名、報恩寺道諲敬堂[57]

能憲が死去した時、義堂は熱海湯治に訪れていた。能憲急死の報を受けて急ぎ鎌倉に戻り、能憲の邸宅に入ったところ、能憲の遺体は柔和で美しく生けるが如くだったという[58]。憲方は能憲の喪事を行うため義堂の到着を待っており、喪事は18日以降に報恩寺で営まれた[58]。荼毘の後、遺骨は報恩寺の客殿に安置され、20日に氏満が焼香に訪れた[58]。なお、能憲の葬儀は当初は憲方が取り仕切り、能憲の三十五日忌には能憲の遺命により、次男で能憲の養子となっていた憲孝に法名道敬を称させたが[56]四十九日の法要は憲春が執り行った[59]

能憲は亡くなる6日前の同年4月11日、憲方にあてて再びの譲状をしたためていた[54][49]。それによると能憲は、上野守護職については家督分たるべしとして[49]憲方が相続するように言い残していた[54]。しかし、上野守護職には憲春が在職し続けた[42]。関東管領職と武蔵守護職も憲春が継承したことで[60]、関東管領職と武蔵守護職の兼帯がはじまり、以後慣習化されていくことになる[61]

なお、能憲には子どもがおらず、宅間上杉氏は甥で養子としていた憲孝が継承した。憲孝は康暦3年(1381年)3月2日には憲方の「令子琢磨殿」とみえ、宅間の家号を称している[56]。能憲が重能から継承していた[56]琢磨(宅間)谷の邸宅も憲孝が相続した[62]。宅間谷とは現在の報国寺がある谷間の地名である[63]。また能憲の邸宅は遺命により、報恩寺塔庵となった[64]。憲方は父として憲孝を後見し、宅間家の家産を統括した[65]

報国寺(鎌倉市浄明寺)。この辺りを宅間谷といい、この地域に宅間家は住した。

憲春と憲方は能憲の遺領をめぐって対立したらしく[61]、先述の能憲の法要にも見られるように2人は互いに跡継ぎの地位や主導権を伺い合った[59]。この相続をめぐる兄・憲方との確執や円覚寺再建事業の行き詰まり、氏満の憲春を重用する姿勢が憲方を尊重する義満との間に軋轢を生む中で憲春は進退窮まり、康暦の政変直前の康暦元年(1379年)3月7日、当時から「鬱憤」「狂乱」とささやかれた自害へと繋がっていく[66]

また氏満は能憲が亡くなった永和4年(1378年)以降、自身で宛行や寄進などの文書を発給するようになった[67]。氏満の発給文書の初見は永和4年(1378年)5月26日に、鶴岡八幡宮・保寧寺・長徳寺へ天下安全祈禱を命じたものである[68]。氏満幼少による関東管領の文書発給代行期が終わりを告げ[69]、公方を中心とする鎌倉府の文書発給体系が成立することになる[70]

系譜

  • 『大仁町史 通史編(一)』p.311の「上杉氏略系図」[71]ならびに『関東管領上杉氏』「p.113の「図1:上杉氏略系図」[72]より。
上杉頼重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重顕頼成憲房女子加賀局
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝定重能
宅間上杉氏
憲顕
山内上杉氏
憲藤
犬懸上杉氏
重行重兼
宅間上杉氏
重能重兼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕定
扇谷上杉氏
能憲憲将憲堅能憲憲方憲春憲英憲栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲孝房方憲孝憲定憲重
山浦上杉氏
顕房
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

参考文献

関連項目

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